2006年2月12日「若い日に創造者を覚えよ」伝道者の書11:7-12:7
序−私たちは、人生をどう過ごすかということについて、普段考えないかもしれません。しかし、人生をいかに生きるのかについてしっかり掴んで置かないと、人生は空しく過ぎて生きます。すべてのものを手に入れ、経験し尽くした老ソロモン王は、万感迫る思いで後世の人々に語っています。「あなたの人生はそれでいいのですか。一回だけの人生をそのように生きていいのですか。」と、特に、若い人々に切々と語っています。その答えを聖書から掴むことを願います。これが、神様の御旨です。
T−若い時に最善を尽くして生きよ−
今朝の箇所で勧められていることの一つは、若い時に最善を尽くして生きよ、ということです。11:9を見ると、何だか若い時放蕩して楽しんで生きよと言っているように見えます。しかし、その節の最後まで読むと、再び来ることのない若い時を生きることに対して、忠告があります。つまり、「若い時の機会を逸しないで熱心に生きよ。人生は思うより遥かに短い。」と忠告しています。神学校で宣教学の時、詩篇90篇を暗記させられました。どうして宣教学でこのような箇所を暗記させるのかなと思いましたが、今になってみると、その意義がよく分かります。人生は短い、光陰矢の如しのように言っています。詩篇90:10。ですから、若い時代に人生を浪費しないで、イエス様を信じて最善を尽くして誠実に生きよ、と言うのです。
病気や事故にあって生還した人は、本当に一日一日神様が生きる力を与えて下さったので生きることができるのだ、と悟るそうです。病床で目覚めて、生きていることを感謝して、一日一日を神様の栄光のために生きよう、と決心するそうです。病気や事故でなくても、誰でも年を取ると、そう思うようになります。ですから、若い時代は大事です。若さは機会です。健康や力のある時に最善を尽くして生きよう、という信仰が必要です。
伝道者の書は神様が若い人々に下さった書です。若い人たちに年を取ることと死がどんなものか詩的に見せています。12:2-7。年を取って行くことについて、こんなに美しく表現した詩は無いでしょう。2節。命の光りは薄暗くなり、人生に雲がかかります。3節。家を守る者は震えとは、手や腕が震える、力がなくなることです。力のある男たちは身をかがめとは、足や膝、肩、腰が弱くなり、曲がって来ることです。粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめとは、歯が悪くなって消化できなくなることです。窓からながめている女の目は暗くなるとは、視力が弱って行くことです。
4節。通りのとびらは閉ざされとは、耳がよく聞こえなくなることです。人は鳥の声に起き上がりとは、眠れなくて早起きすることです。臼をひく音も低くなりとは、声が低くなることで、歌を歌う娘たちはみなうなだれるとは、声が震えて弱くなることです。5節。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえるとは、坂道、階段が大変になり、段差のある所を歩くのが怖くなることです。アーモンドの花は咲きとは、その白い花のように白髪になることで、いなごはのろのろ歩きとは、歩行困難をあらわし、老年の衰えをあらわしています。そして、葬式の様子が描かれています。6節も、人が死んで財産、道具が必要なるということを表現しています。
このように詳しく詩的に老化や死を描いて見せている箇所を読んで、私たちの心に生じて来る思いは何でしょうか。「若い時に最善を尽くして生きよう」という思いでしょう。私たちの人生途上起こって来る空しい思い、生きることの困難さは、私たちが「大切な時期を無為に過ごすことのないように」させるものです。どうか、神様が下さった青年期に最善を尽くして美しく生きることを切望します。
U−最善を尽くして生きるために捨てるべき習慣−
そのように生きるために、どのように生きなければならないでしょうか。11:10「心から悲しみを除き、肉体から痛みを取り去れ。」と命じています。青年期だけでなく、私たちが人生を生きて行くに際して、捨てるべき習性です。他の訳を参考にすれば、心配や悩み、悲しみや憂い、苦しみや痛みというものです。私たちの心からそうしたものを引き抜かなければなりません。これは、私たちの人生における毒薬のようなものです。若い人には、心配や憂い、苦しみや悩みが多いです。心配や憂いが毒薬のようであることも知りません。心配し、悩むことは神様の御心ではありません。
聖書は何と言っているでしょう。マタイ625-33。心配する習性を戒めています。家庭の問題、学校の進路、人間関係、就職、結婚等の問題に関する心配や憂いで悶々とし、眠れない夜を過ごす人も多いです。心配や憂い自体が悪いわけではないのですが、罪を膨らませるイースト菌の働きをするのです。心配や憂いが、問題を起こしたり、人に困らせたり、自分自身を傷付けたりしてしまうからです。若い時には罪の誘惑が多くあります。心の赴くまま、肉体の欲のまま生きてしまうからです。これが、肉体から来る痛みとなります。不品行や放蕩に及び、肉体も心も傷付けてしまいます。憂いや空しさから逃れるために、そうしてしまうのです。
どうすれば、心配や悩みを止めることができるのでしょうか。心配するな、悩むなと言っても、なくなりません。それよりも、ビジョンを持つことです。心配する人を詳しく見ると、ビジョンがありません。ビジョンを抱くと、心配が消えて行きます。ビジョンに向かって進む時、若い心と体が充実して用いられます。クラーク博士も、「少年よ大志を抱け」と、全国から集まった青年たちに、ビジョンを抱くように勧めました。心配の反対はビジョンです。私たちにとって、ビジョンほど大きな財産はありません。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」箴言29:18。御言葉によって、神様からビジョンをいただいて下さい。
難しい時に特に必要なものは、ビジョンです。私たちクリスチャンには、すべての人をイエス様の弟子とするビジョン、地の果てまで福音を伝えるビジョンが与えられています。マタイ28:19,使徒1:8。家族や友人に、教会や地域において福音を伝え、救われた人を弟子とするビジョンを持っています。このビジョンに生きて行く時、私たちは大きく用いられ、祝福された人生を歩んでいく者となるのです。
ヘブル語で、若いという言葉の語源は「暁、夜明け」です。青年期はまさに夜明けの時期です。若い時に何かをしないでいることは、夜が明けてもずっと眠っているようなものです。ですから、若い時にぶらぶらして遊んでいる人ほど気の毒な人はいません。ビジョンを抱いて、若い時に最善を尽くして生きる者となることを願います。
V−創造者を覚えて生きよ−
ですから、何と言っても、ビジョンを与えて下さる神様を覚えて生きなければなりません。年老いて空しく後悔するのでなく、若い時に神様を覚えて生きるのです。12:1。神様が人生において様々なことを与えて下さいます。ですから、神様を自分の人生の霊的基礎とするのです。人は、人生の基盤を自分の考えや思い、自分の知恵や力に置いています。それでは、罪に翻弄された空しい、ビジョンの無い、惨めな人生となってしまいます。自分の知恵や力を尽くして何もかも手に入れ、何でもやってみたソロモンは、すべては空しかったと経験したからこそ、空しさの中からこの書を書き残したのです。救われたクリスチャンでも、自分の考えや思い、知恵や力を基礎として空しく力無く生きている人々が多いのです。人生の基盤、基準を神様に換えて下さい。「あなたの若い日に創造者を覚えよ。」
若い時に神様を自分の人生の霊的基盤とするには、どうしたらいいでしょう。若い時に御言葉の通り養育されることです。御言葉が自分の人生の基礎となり、神様の御旨に適って生きて行くことができます。それが、どんなに意義のある大切なことか、どんなに恵みであることか、今日悟ってください。
二千年間国もなかったユダヤ人は、世界各地で逞しく生き続けられただけでなく、世界の中で影響力を持つ人々を輩出して来ました。現代も、ユダヤ人は世界人口の03%もいないのに、何とノーベル賞の20%を占めています。それは、彼らが小さい時から、聖書で教育されて来たからです。彼らは聖書の主題一つについて継続して考えるようにされ、聞くようにさせられ、答えるようにさせられました。12歳になる前に、旧約聖書全体の重要な問題に直面するのです。この伝道者の書を6,7歳に黙想するのです。
「あなたの若い日に、わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚えよ。」という御言葉を7歳で記憶する人がいるのですが、私たちは20歳で記憶するのでしょうか。それでも素晴らしいでしょう。それとも、40歳、50歳で記憶しようとしますか。もう青年ではありません。
この世は不確実であり、すべては移ろい、空しさに満ちています。しかし、創造主であり、イエス様を通して私たちを救って下さった恵みの神様は生きておられます。与えられた機会を生かし、最善を尽くして生きることを勧めます。この神様に出会った者は、幸いです。人生のどんな時でも、造り主なる神様を覚えて生きることができる、どんなにか素晴らしく、確かなことか、実感し、伝えたいのです。たとえ年齢は若くても、生きる意味を見失えば、12:3以下のような老人の若者もいるでしょう。しかし、この信仰に生きて行けば、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」となります。Uコリント4:16,Uテモテ4:7。