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フランス生まれ。 |
ヨーロッパで最も由緒ある大貴族トゥールーズ=ロートレック家の嫡男として生まれ、少年のころ両足の大腿骨を折るという二度の事故のあと、不具の身となったロートレックは、絵画で《欠けた人生》を補おうとした。 1864年に南仏のアルビで生まれ、生家はカルル大帝の時代までさかのぼり、十字軍の騎士も輩出したフランスの名家であった。苦労しらずな恵まれた環境のもと、人生を思いのままに楽しむのに、十分な財力に恵まれていた。しかし、彼には生涯二つの大きなコンプレックスが、彼自身をしめていた。一つは、幼年期の二度の骨折によって上半身は成長するが、下半身は発育不良のままという異常な容姿だった。父、アルフォンス伯と母は実の従兄妹同士であり、家系内での血族結婚が稀ではなかったと書かれていることから、骨と骨の成長に異常をきたす病気のために、発育障害になったことも理解できる。もう一つは、父親アルフォンス伯の存在だった。もともと、変わり者で有名であり、社会的な制約に一切縛られず、乗馬や狩猟といった現実離れしたものにしか興味を持たなかった。スコットランドタータンの肩掛けをまとい、バレエのチュチュを付けて昼食の席に現れるなど、奇妙な服装をして人々を驚かすのが好きだったと伝えられている。ロートレックに対しては、絵を学ぶためのアトリエをパリに探したりと彼なりにいろいろとしていたようだが、実際にはあととりとしての息子の接し方ではなく、不具の身を哀れんでのことだった。時には、息子に対し、敵意にも似た感情を表していたともいわれる。しかし、ロートレックは、明るく、人前では決して愚痴を言わず、極めて背の高い人を好み、自分を冗談の種にしていた。変わり者の父親と息子は、パリのキャバレーでばったり会ったこともあるようだが、一生分かり合うことはなかった。 |
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| ある日、ロートレックはコルモンのアトリエで親しくなったゴッホとゴッホの弟テオとロートレックの子供のころの親友モーリス・ジョワイヤンと再会した。テオはグービル画廊の支配人をしていた。また、彼のあとを受け継いだのが、ジョワイヤンである。後にジョワイヤンは、ロートレックが亡くなった後も彼の作品を管理し、彼の故郷のアルビに美術館を作った。 ロートレックは、その後グービル画廊へ足を向けるようになった。1890年にグービル画廊は、浮世絵と日本の絵本(浮世絵絵本)を展示した。ロートレックはジョワイヤンを手伝って、一緒にこの展示会の準備のために働いた。19世紀末に日本芸術がフランスに紹介されると、印象派の画家たちが夢中になった。ロートレックはゴッホと同じように浮世絵と巡り会い、その魅力に囚われ、熱心に研究したのであった。 |
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| 1891年、27歳のロートレックが「ムーラン・ルージュ」の依頼で、そのポスターを制作することは、彼自身未知の分野に挑むとともに、ポスター界の帝王ジュル・シェレへの挑戦を意味することであった。二年前に「ムーラン・ルージュ」開店披露のポスターをシェレが制作し、大変好評だったからである。ロートレックはシェレに教えられ、ピエール・ボナールにその技法を学んだ石版画と浮世絵研究したものを実現できる機会を迎え、一気に制作した「ムーラン・ルージュ」のポスターは大きな成功を収めた。 翌年から石版画の製作に取り組み、カタログ総数の387点のほとんどを1898年までの7年間に製作している。大量の油彩画を制作しながら、年平均ほぼ50点の石版画に取り組んだということだけでも、ロートレックの石版画にかけた情熱がうかがえる。 1894年9月ジョワイヤンはロンドンで歌麿展を開催した。ロートレックも同行し、再び浮世絵の収集に没頭すると同時に、墨で一連のデッサンを描いた。その一つに「広重の手法による隅田川の風景」がある。この作品は、1972年の「世界の文化と現代芸術展」で盗難にあい、その後発見されていない。 ロートレックが果たした石版画の追求は、20世紀絵画の様々な方向性の前進となる。 ピカソが19歳の時描いた「青い部屋」は、ピカソ自身の部屋を描いたものだが、部屋の奥の壁の中央にロートレックのポスター「メイ・ミルトン」が貼られてあった。 |
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