瀬織津姫&円空情報館過去ログ (001〜544)



001 円空と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/01/10 (土)

 もう十年以上前になりますが、北海道の各地を歩いていて、ふと円空の案内表示をみつけ、「円空がなぜここに?」という不思議につい引っ張られて、そちらへハンドルを切った覚えがあります。彼が北海道の地で岩窟修行をしたという場所(久遠郡大成町)は、日本海、奥尻海峡と対面する、断崖のような急勾配を登った上にあるのですが、途中まで登って、ここは革靴でくる所ではないなと、挫折してもどってきたということがあります。冬場は北風か吹雪がモロに吹きつけるようなところで、大きな熊鷲がゆったりと空を泳いでいる姿が印象的でした。美濃の円空が、江戸時代の初期に、なぜ、この北の地にまできているのか──。円空との出会いは、こんな他愛もないものでしたが、この旅からもどると、円空についての本をつくる機会が待っていて、妙な縁だなとおもったものでした。
 話は近年に飛びますが、これも縁というべきか、遠野で瀬織津姫という神と最初に出会って、それからこの神を調べはじめることになります。この神の祭祀リストをみますと、たとえば、円空が北の地を歩いた行程に瀬織津姫の祭祀場があります。北海道における瀬織津姫の祭祀時期を確認する必要はあるのですが、直観的には、円空と瀬織津姫はクロスしています。
 美濃における円空の修行地の一つには、瀬織津姫が現在も滝神としてまつられています(美濃市乙狩の滝神社)。円空は瀬織津姫という神を、当初は滝行場の神くらいの認識だったかもしれませんが、ほかの人間よりは身近に感じることができたものとおもいます。
 円空は北の地からもどると、美濃への帰りに鳥海山へも登っていて、この山の神は大物忌神とされるも、やはり瀬織津姫でした(「日高見川=北上川の水神」)。
 円空の足跡地には、彼が意識して歩いていたとみるしかないのですが、どうも瀬織津姫の祭祀(隠祭を含む)が重なってくるようです。
 円空とともに、あるいは円空の視線によって、瀬織津姫に新しく光をあてることもできるのではないか、また、逆に、瀬織津姫という神の視線で、円空という遊行聖の思想や造像行為の意味も新しく照らしだせるのではないかと、そんなことをおもいながら、「特集」を一つ増やすことにしました。
 円空については、わたしは(も)素人同然で、少しずつ関係場所を訪ねながら、あるいは本などに眼を通しながらの道行になるかとおもいます。未知のステージですが、よろしかったら、ご一緒におつきあいください。

(追伸)
 囲炉裏夜話803、柴田晴廣さんの「瀬織津姫神格形成過程の転換」に対して、風琳堂主人の応答・真意が読みたいという「住所不明記」の方のメモのような投稿をいただきました。これは、囲炉裏夜話終了後に寄せられたもので、また条件外の投稿ですので、無視するという対処法もあります。しかし、そういった希望をもっている人が少なくとも一人はいるということは事実のようですので、「囲炉裏夜話番外論議」として書き込みをいたします。
 関心のある方は、HP本体の囲炉裏夜話過去ログのところからご覧ください。

002 ms26423@yahoo.co.jp 酒向道雄 2004/01/11 (日)

「東北伝説」のリニューアルが無事終了しました。超特急の推敲、大変お疲れさまでした。
 製作者としても、何とかご希望に副えたホームページになったかな? と思っております。まだ、微調整をしたいところがありますが、これは後からということにしておきます。
 今回の作業を通じて、我々ホームページ制作に携わっている者は、もう少し「読んでもらう為のホームページ」という意識を持った方がいいのではないかと強く感じました。
 以前の「写植屋」としての目から見ますと、まだまだ物足りないところはありますが、可読性のある画面を作る為のツールは、随分増えてきました。後は、このツールを如何に駆使するか? といったところでしょうか。
 しかし、ホームページ制作の現状は、この「可読性」というところは「無視」されています。これは、多くの発注者・制作者共に意識の外にあります。彼らの意識は、チラチラ、パッパッ、グルグル、ズームイン、ズームアウトといった、動きで人目を惹きつける手法に奔走しています。
 伝える情報の内容にもよりますが、読んでもらいたいもの、見てもらいたいもの、参加してもらいたいもの、ホームページの内容によって技を使い分ける必要があるのでは、と思います。「私のホームページにはこんな技が使ってあります。凄いでしょう!!」といった、技を自慢する為のホームページの時代はもう終わりにしませんか? 特に、企業が発行しているホームページこそ、こういった点に意識を置くべきだと思います。
 情報を、正しく、キチン伝える。これが主目的にならないと、とんでもない被害を被る羽目にもなりかねません。現実に、丸紅主催のインターネットショップで金額表示を一桁間違えて掲載し、大変な損失を出したケースが報道されました。こんなのは、氷山の一角でしかありません。
 プログラミングする上でも、読みやすい画面であれば、事前に間違いをチェックできると思います。「技」というのは、人目につかないところでこそ生きてくるのではないのでしょうか? 特にプロのプログラマーにとっては、肝に命じておきたいものです。

 ところで、今後は「円空」についての特集が始まるとか? 特に円空は、私の地元出身ということで、興味があります。これからの展開が楽しみです。

003 円空と天照皇太神 風琳堂主人 2004/01/11 (日)

 円空(1632〜1695)の造像行為は、寛文三年(1663)の天照皇太神像(+阿賀田大権現)にはじまり(岐阜県美並村・神明神社)、元禄五年(1692)と推定される十一面観音(+善女龍王、善財童子)まで(岐阜県洞戸村・高賀神社)の間の、約三十年間にわたっています。年齢でいうと、三十二歳から六十一歳となります。
 円空の総造像数は約十二万体、そのなかで現存するものは五千体以上とされます(『円空研究』別巻2)。この常識を超えた造像数ですが、元禄三年(1690)の「今上皇帝像」の背面には、誓願の十万体を「造顕」した旨が記されていて、現存分の「数」を考えても、これらの途方もない造像行為には驚かざるをえません(一つ一つほんとうに数えていたのかという疑問もないわけではありませんが、これは不問とします)。
 ともかく、円空は、なぜこれほどの「数」の造像行為を自らに課したのかという問いがまず浮かびます。また、その造像行為の最初が、仏像ではなく、天照皇太神像という神像だったことも興味深いことです。しかも、この像は、女神ではなく男神として彫られていましたから、円空は、伊勢祭祀の秘密部分に気づいていた一人でもあった可能性が高いです。
 円空あるいは修験研究の分野で、ある種「権威」とみなされている五来重氏ですが、彼はかつて、この男神像としての天照皇太神像に対して、次のような感想を述べていました。

■円空の天照皇太神像
 円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがあるが、竜泉寺(名古屋市守山区…引用者)の「天照皇太神」と、背銘墨書もある神像と、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像は男神である。天照大神の本地、雨宝童子(春日部市・観音院…引用者)には女神的表現がみられるが、天照大神を男神としてあらわすのは、祇園祭の鉾人形以外に私は例をしらない。神話では高天原で素戔嗚尊[すさのおのみこと]が攻めのぼったとき、天照大神は髪を御髻[みずら]にまいて弓矢をもち、男装したということはある。しかし神官の姿をしたり、顎鬚[あごひげ]を生やすとは論外である。
 これは円空の造像がかなり恣意独善で、御神体は氏子に見せるものでないから、かなり自由な作り方をしたのではないかとおもう。〔後略〕(五来重『円空佛』淡交社)

 わたしたちは、これまでの瀬織津姫探究において、天照大神はもともと女神ではなく男神であったということは、すでに「常識」の範囲内となっています。五来氏にして、天照大神が男神像として彫られたことを、円空の「恣意独善」と決めつけていて、これは円空研究のその後の盲点を暗示しているのかもしれません。円空は、天照大神を男神像として、少なくとも二体彫っていますから、これは確信的行為とみなすべきでしょう。円空の「天照皇太神像」は、その後の彼の造像行為を考える上でも大きな示唆に富むもので、円空本人からの無言の「贈り物」、メッセージと受け取ることができます。新しい円空像を描くための、とっかかりの話です。
(追伸)
 サコウさん、年末年始返上による、HPのリニューアルをありがとうございました。ネット上のワル(知恵)に対してはわたしは無防備もいいところですので、悪人対策については、これからもよろしくお願いします。

005 龍泉寺 kokoro 2004/01/12 (月)

 お久しぶりです。リニューアル・新掲示板発足おめでとうございます。
 五来重氏> 円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがあるが、竜泉寺(名古屋市守山区…引用者)の「天照皇太神」と、背銘墨書もある神像と、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像は男神である。
 龍泉寺の『龍泉寺御案内記』から、当寺の由緒を引用します。
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 <前略>
 延暦十四年(桓武天皇代、約千百七十年前)僧最澄(伝教大師)が熱田神宮に参籠中に龍神のお告げをうけ、当地におもむき、多々羅池より出現した馬頭観音像(金銅製)を本尊として寺堂を建立、安置されました。
 これが松洞山龍泉寺の名の起りで、以来、名古屋市民の憩いの地として親しまれ、厄除、祈願道場として篤い信仰を集めています。
 僧空海(弘法大師)も熱田神宮に参籠のおり、八剣宮の内三剣を当山の地中に埋納し、熱田神宮の奥の院としたところから、この寺は、伝教・弘法大師の開基ともされます。
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 こうしてみると、龍泉寺は熱田神宮の奥の院ともされるなど、信仰面で、この神社との繋がりが強かったことが伺われます。当寺は円空仏が多数あることで有名ですが、なかでも馬頭観音像が知られています。天照皇大神像は、熱田大明神とともに、この馬頭観音像の脇待として製作されたものです(馬頭観音→137p、天照皇大神→102p、熱田大明神→102p)。
 したがって、この不可解な天照皇大神像は、引用文中にある伝承を初めとした熱田神宮の信仰と関係があるのではないでしょうか。
 熱田神宮の祭神は、ヨリシロとしての草薙剣に憑依した天照大神ということになっています。当寺の天照皇大神像が男神像なのも、本来、アマテラスと別系統だった、剣に憑依する男性太陽神の信仰が伊勢湾沿岸で行われていて(日明命系の太陽信仰?)、そのようなものの残滓であったかもしれません。

 もっとも、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像については、何も説明が付かないですが…(^^ゞ。

006 円空と龍泉寺 風琳堂主人 2004/01/12 (月)

 kokoroさん、おばんです(遠野弁)。『龍泉寺御案内記』の紹介をありがとうございました。
 龍泉寺の創建は延暦十四年(795)、最澄によるものであり、同寺が熱田神宮の「奥の院」とされたのは、空海によるもののようですね。最澄の熱田神宮での「龍神のお告げ」、そして、龍泉寺の本尊「馬頭観音」は、同寺の「多々羅池より出現」と、すべて「水」に関わっていることがよく伝わってきます。駒形神は馬頭観音とも習合しますが、駒形神もやはり「水」に関わりある神であることが想像されて興味深い寺伝です。記述の流れからしますと、この最澄の神託→創建のあと、空海がやってきて、熱田神宮の「八剣宮の内三剣」を龍泉寺の山(松洞山)の「地中に埋納」しているとのことで、平安期初頭、朝廷は、国家仏教の双璧のトップを熱田神宮に遣わしてきたことになります。熱田神を、よほど鎮める必要があったのかもしれません(桓武の東北「征夷」の意向と関係があるか)。
 ここで、龍泉寺に奉納されている円空作の神仏像の解説を読んでみます。
■龍泉寺の円空仏たち
 竜泉寺は荒子観音堂などと尾張四観音といわれているものの一つで、熱田神宮の奥の院とされている。/ここには馬頭観音、天照皇太神、熱田大明神、菩薩立像と千体仏を構成していたとみられる小像が五百数十体ある。
 馬頭観音は背銘に「竜泉寺大慈大悲観音延宝四年丙辰立春大祥吉 日本修行 乞食円空」と墨書し、頭上に馬頭を刻み両手を合掌した堂々たる像である。
 熱田大明神は宝珠を捧げた菩薩形、天照皇太神は男子神像形で一対として作られているのも珍しい。(『円空研究』別巻2、人間の科学社)

 写真を紹介できないのが残念ですが、それでも、「熱田大明神は宝珠を捧げた菩薩形、天照皇太神は男子神像形で一対として作られ」とありますように、円空は、天照皇太神の「一対」神として「熱田大明神」を女性像として彫っています。その柔和な表情は、最晩年の十一面観音の表情と通じるものがあります。円空は、熱田神を天照大神(男神)と関わり深い「女神」と認識していたようです(男神の日神が八剣宮へ遷されたのはいつかという問いが残っていますが)。
 円空が龍泉寺で馬頭観音(+天照皇太神、熱田大明神)を彫ったのは延宝四年(1676)とあり、これは円空の造像行為としては中期にあたります。馬頭観音は頭上に「馬」の顔を乗せていて、こういった異物を冠るというのは、のちの善女龍王像が「龍」を冠ることにも通ずる作風の転機が、この龍泉寺であったのかもしれません。
 円空が、熱田神宮の「奥の院」である龍泉寺に男神像の天照大神像を彫像・奉納していることで思い出されるのは、皇大神宮=内宮の、やはり「奥の院」とされる朝熊山金剛証寺の本尊背後にも、男神の天照大神像がまつられていることです。この男神・天照大神像の作者名は聞きそびれましたが、円空は伊勢・志摩の地を歩いていますので、ひょっとすると、これも円空作かもしれないなとふとおもいました。かつて金剛証寺へうかがったとき、この男神像は「秘神」であり、写真撮影は不可とのことでしたが、この秘神の話だけなら、もう戦後だから公に書いてもよいという約束をいただいたことを思い出しました。金剛証寺には、空海作の雨宝童子像が寺宝としてあり、これは公開されています。

007 円空は一匹オオカミ 風琳堂主人 2004/01/14 (水)

 円空が天照皇太神像を男神像として彫っていたことを、五来重さんは、円空の「恣意独善」とみていましたが、一方、円空の修験者としての「人間」性を想像・透視する点において、かなり深い意味での賛意・共感を表してもいました。これは、「庶民」の信仰史・実態に光を当てようとする、五来民俗学の魅力とも関係していることはいうまでもありません。
 たとえば、こんな円空像が語られます。

■円空の旅と修行
 円空は一匹オオカミのように旅と修行をつづけた。孤独な、厳しい修験者であったればこそあのようなきびしい芸術を生み、その中に庶民のさまざまな表情を表現することができたのである。/じゅうらい、円空の仏像はのびのびと呑気[のんき]に鼻歌でもうたって自由につくったように考えられているが、円空の修行と生活のプロセスを少しでも辿[たど]ってみると、一つの小品にも血と汗と涙がこもっていたことを感ぜずにはおれない。円空仏の魅力はそのような修行者の実感と、しいたげられた庶民の心が背後にひそんでいるからなのである。(五来重『作仏聖─円空と木喰』角川書店)

 五来さんは円空の神像に対してはあまり共感していないようですが、「円空の仏像」いわゆる「円空仏」に対しては、「庶民のさまざまな表情」が表現され、「しいたげられた庶民の心が背後にひそんでいる」と、大いなる共感を隠しません。また、そういった「しいたげられた庶民の心」を救う場所にまで降りていくために、自己を厳しく律し、自身が「仏」と一体化せんとする修験者の「行」のすさまじさも共感的に描き出されていくことになります。
 円空は千数百首の和歌を残していましたが、彼の「歌」については、「放浪の聖は、つねに和歌を霊仏霊社に献じてあるいた」とされます。また、円空たち「放浪の聖」の孤独と歌の関係について、五来さんは、次のように書いてもいました。

■放浪の聖と和歌
 また浮浪者(放浪の聖…引用者)は天涯孤独であって、その孤独にたえなければならない。何物にも拘束されぬ自由は、身をさいなむような孤独感と引換えにえられるものである。ただ一人で山道を越えて辻堂[つじどう]に休んだり、野宿したりするとき、話し相手は自分一人で、その自分との対話が和歌となる。(同前)

 ここには、木枯紋次郎的な、旅する「聖」の姿が語られています。この「一匹オオカミ」の孤独な内面を癒すものとして「和歌」はあったということかとおもいます。慰謝としての「歌」は「自分との対話」ではありますが、しかし、このときの「自分」は仏と一体となった「自分」ということでもありますから、「歌」には神仏への慰謝の意味も二重化されてきます。
 自身を「仏」と同体、あるいは分身体とまで感ずる修験的な自己修行をわたしなどは積んだことがなく、その意味でまったく「軟派」であります。「円空仏」への共感を語る五来さんに対して、しいていえば「円空神」についてどうみるか、あるいは「円空仏」と「神」との関係をどうみるかという、小さな複眼の視点だけが今手中にあるのみです。

008 円空と瀬織津姫と北海道 風琳堂主人 2004/01/16 (金)

 現在、瀬織津姫の名を祭神名として確認できる神社を北海道に探ってみますと、下記の四社があります。

■北海道の瀬織津姫祭祀社
 @ 滝之神社…乙部町【創建:文政三年=1820年】
 A 滝廼神社…厚沢部町【創建:明和九年=安永元年=1772年】
 B 川裾神社…江差町(泊神社境内社) 【創建:享保二年=1717年】
 C 川濯神社…福島町(福島大神宮境内社)【創建:明応元年=1492年】

 @〜Bは渡島半島の日本海側、Cは同半島の津軽海峡側(松前の東隣)に位置しています。
 円空が津軽半島から渡島半島・松前に上陸したのは寛文六年(1666)三月、松前から下北半島へ渡るのは寛文七年夏ごろとされますので、円空の蝦夷地への滞在は、およそ一年半、また、同地での造像数(現在確認されているもの)は44体とされます(堺比呂志『円空仏と北海道』)。
 寛文六年(1666)三月の円空の蝦夷地入りを考えますと、@〜Bは当時存在せず、Cの川濯神社一社が円空との出会いの可能性を示しています。この川濯神社の創建は明応元年=1492年とされ、蝦夷地においては、これはかなりの古社といえます。瀬織津姫がカワスソ神としてまつられるのは、川裾宮の異名をもつ唐崎神社(滋賀県マキノ町)をはじめ、全国で七社確認できますが、そのうち二社が北海道の地にみられます。このカワスソ神という神名のルーツは、御裳乃濯川比女という五十鈴川の川神としての瀬織津姫の異名にまでたどることができます。
 さて、円空と瀬織津姫のクロスですが、彼は、有珠・善光寺の再興および同地での造像のあと、渡島半島の東海岸から南海岸を歩いて松前にもどっていますので、当然福島の地(川濯神社の地)を通っていることになります。しかし、今のところ、福島の川濯神社に「円空仏」が奉納された事実は確認できません。ただ、『円空仏と北海道』は、函館の川濯神社二社(おそらく福島からの分社)が円空仏をご神体としていることを報告しています。これらは秘仏らしく、著者の堺さんも未見とのことですが、このうち函館市根崎町の川濯神社は、創建を寛文四年(1664)と伝えていて、円空の渡道時、たしかに存在していたようです。もっとも、この函館の川濯神社の現在の祭神は、両社とも「木花咲耶姫命」とされています。木花咲耶姫が禊ぎ神=濯ぎ神というのは類例がなく、ここも祭神表示の不自然性を証言している社とはいえそうです。
 円空は内浦神社(砂原町)で、霊山各山神のために六体の奉納仏を彫っていますが、そのなかに「遊楽部御手洗岳権現」(原表記は「ゆうらっぷみたらしのたけこんけん」)があります。御手洗神がどんな神かは明らかで、円空と瀬織津姫のクロス関係は北海道においてもあるようです。そういえば、北海道「最古」の神社が江差町の姥神大神宮です(創建は建保四年=1216年、現祭神:天照大御神、天児屋根命、住吉三柱大神)。ここも、円空の巡行の途上にあります。同社の本来の祭神は、境内社の折居社に折居大神の名でまつられていますが、折居社の旧跡地には「折居の井戸」があります。井の神、姥神、オリイ神ともなりうる神は一神に絞られますが、江差では、ニシン豊漁の祈願神とされます。「神」のように敬われていた折居様(老婆)が海上の岩(瓶子岩)から「水」をまくと、ニシンが群来した、その後、老婆は忽然と姿を消した……(同社縁起)。円空がここを鈍感に通り過ぎたとは、とうていありえないこととおもいます。

009 地神供養としての円空仏 風琳堂主人 2004/01/19 (月)→修正 2004/01/20

 我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ──これは『飛州志』(1729)が記すところの円空の言葉です。この円空の言葉を信じますと、彼は地神(地主神)を供養する誓願を立てて各地に遊行し、造仏したというように読むことができます。北海道の各地霊山への奉納仏作成も、この言葉を実践する初期のものということなのでしょう。
 円空の、この供養誓願の意識が「本気」であったことをうかがわせてくれるのが、元禄三年(1690)の「今上皇帝像」の背銘です。曰く、「今上皇帝 当国万仏 十マ仏作已」です。この像名は「今上皇帝」であり、「当国」において一万体の仏をつくり、ここに十万仏を作りおえたというのが従来の解釈でした。わたしも「十万仏」をつくったのはほんとうかという小さな疑念をもっていましたが、新しい解釈があることを知りましたので、ここに紹介しておきます。

■円空の作仏は全国で一万体か
 当時の今上皇帝は東山天皇であり、当国万仏とは日本で一万体ということになろう。
 従って円空はこの像によって、一万体の作仏を果たしたと書いたのである。十マ仏作已の十マは、万と書かずに片仮名のマにしているのは、マは部とも読めることから十部であり、あらゆるとか全てとか多数の意味になる。従ってこの一行は、あらゆる仏像、すべての仏像を彫り終わったという意味になろう。〔中略〕
(円空の作仏総数は…引用者)背銘にある当国一万体、元禄三年後の造仏を加え、全国で約一万体余とするのが妥当であろう。(美並村編著『円空の原像』惜水社)

 円空が最終的に十二万体か十万体か、あるいは一万体の造仏を行ったかといった、造仏の実数の確定は、彼の造像行為の本質を考えるときにはあまり意味がないのですが、ただ、従来の十万体を越す作仏を行った円空に対する幻想を正そうとする美並村の姿勢は好感がもてます。
 我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ──この円空の言葉を裏づけるかのように、円空自身によって、元禄三年の「今上皇帝像」の背銘に、「わたしは、誓願通りにたしかに(一万体の)作仏をしましたよ」と記されたことがなにごとかなのでしょう。
 わたしが問いたいのは、その作仏の実数ではなく、この円空の言葉が、なぜ「今上皇帝像」の背に記されたのか、ということです。こういった問いを発し、それに応えようとした「円空研究」は、まだ、わたしは寡聞にして読んでいません。「今上皇帝像」つまり天皇像そのものを円空が彫像し、そこに、わざわざ上記の言葉を記した意味はよほどのことではなかったかと考えるわけです。
 このことは、おそらく、円空得度後の最初の造像である天照皇太神像を男神像として彫っていたことと無縁のこととはおもえず、これらに、円空の内奥の「秘心」といったものが表れているようにおもいます。ちなみに、円空が天照皇太神像を男神像として彫ったのは、現在確認されている総計は八体とのことで(前掲書)、その多さに、円空の確信的主張が読み取れます。
 円空は、延宝二年(1674)に伊勢の地、正確にいえば、伊勢神宮から朝熊山金剛証寺へ向かっているとのことで、九体めの天照皇太神の男神像がもしあるとすれば、やはり、金剛証寺の「秘神」とされる天照男神像が、その「候補」として浮上してきます(これは確認要かも、です)。

010 亡魂供養としての円空仏 風琳堂主人 2004/01/21 (水)

 円空が「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ」として、その造像を開始し、またそれを実現したということで、円空の造仏の意図はそれに尽きるかといえば、むろんそんなことはありません。
 各地を実際に遊行するということは、そこに「人」との出会いがありますから、円空と民衆との関係が造仏行為に投影しないわけにいきません。これは、遊行の修験の内々の掟である「木食戒」に「作仏」の一項があり、円空は請われるままに、神体や本尊のない社・堂に安置するために造像をしたでしょうし、ときには、人々の受難の死に直面するなどしたときは、おそらく死者を供養するために「仏」を彫ったこともあったでしょう。
 北海道・渡島半島の西岸海域は、近世のはじめ、日本でもっとも海難事故の多いところで、円空は、そういった海難者の供養のために観音を彫ったと指摘していたのは、五来重さんでした(『円空佛』)。
 不慮の事故による死者の亡魂を鎮め、供養するために、円空は北海道(当時は蝦夷地)で多くの観音像(五来さんは、特に「来迎観音」と命名) を彫ったようです。この北海道様式ともいわれる観音は、岩座の上の蓮華座にすわる座像観音で、正面に鉢(蓮の花の器)を手にしています。この蓮の鉢によって、さまよえる死者の魂をすくいとり、最後には浄土へ運ぶというのが、この観音に込められた「意味」です。
 これは、海難者の鎮魂・供養を第一義とするも、しかし、そこには、家族・身内といった残された者たちの心を癒すという役割もあったはずです。つまり、死者に向かっては供養、生者に向かっては慰謝といった両義性をもっているのが、民衆との関係から彫られた供養仏としての「円空仏」かとおもいます。また、ここに「神」との関係をみるなら、それは、荒れ狂う海神への「供え物」(供犠[くぎ])としての仏といった意味もあったでしょう。
 海難事故は多分に自然の力によるものですが、そういった受難死とは質の異なる、いわば、人為的な理不尽な死もありました。たとえば、キリシタンの殉教死です。

■殉教者の鎮魂・供養としての円空仏
 寛文四(一六六四)年、現在の東別院裏手付近の千本松原で一二月一九日から二二日までにキリシタン一〇七人が処刑されている。
 尾張藩は、寛文五年刑場跡地に清涼庵を建て、貞享三(一六八六)年、栄国寺と改めている。この寺に観音菩薩立像(高さ三二・四cm)が安置されている。寺伝によると、円空がこの寺を訪れ、刑死した殉教者のために、この像を彫ったとのことである。(美並村編著『円空の原像』)

 幕藩体制のもとに、なぜ一方的に処刑される必要があるのか、当時の民衆の痛憤は円空のものでもあったでしょう。理不尽な死を力によって阻止できないとき、残された者は死者を鎮魂し、供養する以外に手立てがなかったわけで、その意味で、円空もまた民衆の一人以上でも以下でもなかったとおもいます。しかし、円空には、そういった民衆の「心」からはみだす部分、あるいは民衆=自己の深層心理に降り立とうとする意識もあったものとおもいます。それが、あの当初の誓願の言葉に表れています。つまり、もうひとつの理不尽な力によって「死」を与えられつづけてきた日本の古き神々(地神)、「ソノ地神ヲ供養スルノミ」という自己認識です。

011 円空の生きた時代 風琳堂主人 2004/01/23 (金)

 円空(1632〜1695)の生きた時代を、その造像行為と関わる宗教史に絞ってみてみますと、そこには恒常的といってもよい、全国的なキリシタン弾圧・処刑がありましたが、そのほかに、特筆すべき事件・出来事を、少なくとも二つ挙げることができます。
 一つは、貞享四年(1687)に、文正元年(1466)から二百年ほど中断していた、大嘗祭(天皇の即位儀礼)が復活したことです。貞享四年は、徳川綱吉が「生類憐みの令」を出した年でもありましたが、幕藩体制の固定化の一方で、「天皇」という象徴権威の存在が幕府公認の下に浮上してきた年でもありました。少し遡りますが、慶安四年(1651)三月には、「江戸市中の子供の伊勢参宮が流行し、20〜25日の間に箱根の関を通った者、1500人余に及ぶ」といった驚くべき記録もあり(『日本文化総合年表』)、伊勢参りの意識が大衆的に顕現化してきたことがうかがえます。
 もう一つの特記すべき事件は、この「伊勢」と「天皇」とも深く関わる「伊雑宮神訴事件」ともいうべき、神宮と伊雑宮との熾烈な抗争があります。ことの発端は、円空が生まれた翌年にあたる寛永十年(1633)にまで遡ります。つまり、鳥羽藩に没収されていた伊雑宮の神領の返還と、長く絶えていた遷宮(社殿造り替え)を幕府に訴えることにはじまりますが、伊雑宮側のこの訴えは、幕府によって無視されることがつづいていました。正保年間(1644〜1647)、伊雑宮の神人[じにん]は自社の古記録・縁起に基づき、「伊雑皇太神宮」を主張、寛文二年(1662)には、さらに、伊勢内外宮に対して、伊雑宮こそが「本宮」といった主張となり、寛文三年(1663)には伊雑宮神人の約五十名が追放処分(島流し)となります。岩田貞雄は「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」という神宮擁護の論文において「神宮史上に於ても未曾有の大事件」と述べていましたが、伊雑宮側が神宮と論争する際に添付した『先代旧事本紀大成経』は偽書として却下され(天和元年=1681年)、伊雑宮側はいったんは敗訴となります。しかし、伊雑宮の神人はあきらめず、なおも伊雑宮本宮論と神領回復を訴えつづけたため(伊雑宮側は、この訴えを「神訴」と呼称)、神人代表の大崎兵大夫がついに暗殺されるという事件まで起こります(天和二年)。
 伊雑宮が主張していた「伊雑宮本宮論」をどうみるかについては『エミシの国の女神』に考察がありますのでくりかえしませんが、上記係争の最中には二度の内宮炎上といった不思議(神火か)も起こり(万治元年=1658年、天和元年=1681年)、この「伊雑宮神訴事件」が、当時の識者、あるいは、心ある庶民の話題となったことは想像にかたくありません。
 これらは、円空が生きた同時代の出来事で、円空が無関心でなかったことは、大嘗祭復活三年後の元禄三年(1690)に、前述の今上皇帝像を造像していることや、延宝二年(1674)に、伊勢神宮から朝熊山金剛証寺、そして伊雑宮の鎮座する志摩へと足を向けていることからもわかります。円空が志摩の地で、神宮との抗争で劣勢に立つ伊雑宮の関係者から、この「事件」の過程・真相をじかに聞く機会があったとしてもまったく不思議ではありませんし、あるいは円空自身、自分の眼と耳で確かめるために伊勢から志摩へと向かったとみることもできましょう。
 伊雑宮側の祭祀意識には、神宮側が建て前としてまつる神とはちがって、自分たちがまつるのは「男神」の天照大神(地神としての日神)という、円空と共有する認識がありました。円空は志摩立神の医王堂で「大般若経」六百巻の修復をしていますが、その巻末に、「イクタビモタエテモタルル法の道九十六オク末世マテモ 歓喜沙門」と墨書しています。何度絶えようとも、弥勒下生の末の世まで「法の道」(正道)を自分は生きるのだ(説くのだ)、といった意でしょうか。ここには少し気負いもみられますが、円空の本然の自覚だけは伝わってきます。

012 閑話休題──遠野の大杉 風琳堂主人 2004/01/23 (金)

 昨夜から遠野は久しぶりに本格的な雪です。日本海側にくらべればまだ小降りでしょうが、それでも、20cm以上は積もっているようです(事務所の部屋からの視認ですので、適当な目算です)。現在も降りつづいていますので、どれほどの積雪になるかはまだわかりません。
 さて、円空の基本像を描く下地の話まではどうやらたどりついたようで、少し息抜きです。千時千一夜がはじまってから、円空研究書を数冊ほど急ぎ読みしてみました。期末テスト前の不勉強学生の気分ですが、円空と日本の古層の神々との関係が、あるいは円空のそういった意識(の変容)が造像そのものに反映しているのではないかというわたしの見通しに言葉を与えている研究は、まだ読む機会がなく、これはもう少し書いてもよさそうかなといったところです。
 現在、東北の円空仏は、青森、秋田、宮城、山形には現存が確認されているようですが、岩手と福島には一体も現存確認の報告がないようです。
 もし、これが事実としますと、大きな話題となることまちがいないのですが、遠野のある寺に、円空仏ではないかといわれている仏像があるとのことです。ただ、遊行聖は円空ばかりでなく、多くの無名の聖たちが全国を歩いていますし、また「作仏」を行ってもいたとのことで、あまり過剰に期待しないほうが健康的かとはおもいますが、それでも気になる伝聞ではあります。円空とよく比較される、同じ遊行聖であった木喰行道は、たしかに早池峰山へ登って納経をしているようです。円空も、全国各地の霊山に登っていますので、早池峰山もその可能性はゼロとはいえず、この「遠野の円空仏」の確認は近い楽しみとしておきます。
 ところで、遠野に瀬織津姫がまつられた伝承は、これまで大同年間(平安時代初期)が最古とされてきたのですが、先日、おもわぬ杉の大木をみつけ、少し再考の余地もあるのかなと、これも「宿題」のような気分です。

■田屋[たや]の大杉(遠野市綾織町山口)
 熊野神社の境内に、この大杉が立っている。目通幹囲7.1m、樹高約30m、樹齢は約1500年と推定される。
 この杉は稀にみる大樹である。しかも、ほとんど損傷されていない。
 所有者宇夫方家の所蔵文書に神武紀元1138年、雄略天皇22年9月16日弟館?[ママ]より移し植えられたという記録が残っている。この老杉には、昔切ろうとしたところがこの木から出血したとか、西南にあたる幹のこぶにかねの地蔵が入っているとの伝説がある。
 現在幹の東側に高さ50cm程の金比羅大権現の石碑が立てかけてあるが、それが長年のうちに幹のくぼみに食い入り、容易に引き抜くことができないようになっている。(『遠野市の指定文化財』遠野市教育委員会、平成8年3月30日発行)

 樹齢「約1500年」が大きく狂わない事実としますと、遠野にヤマトからの「文化」が流入してきた最古の証言をする「大杉」ということになります。
 なお、この杉の現地案内板には、もう一つの伝説が記されています。曰く、ある人、大杉の根元の洞にオシラサマを置きたるに、一夜にして、洞穴の口が閉じたりと云う……。この大杉に化身している神が熊野神としますと、オシラ神を飲み込んだ「伝説」といい、やはり瀬織津姫の匂いがしてきます。そういえば、この大杉のすぐ近くには、清冽な湧き水もみられます。

014 円空仏に関する不思議 風琳堂主人 2004/01/27 (火)→修正 2004/01/27

 五来重さんは「円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがある」として、円空が天照皇太神を男神像として彫っていたことを例に出していましたが、研究諸書を読みますと、「解せないもの」は神像ばかりでなく、仏像にもあることがわかります。
 泰澄が設定した「白山三尊」の中尊は十一面観音でしたが(他の二尊=脇侍仏は、聖観音、阿弥陀如来)、円空はこの十一面観音を終生彫り続けています(現存確認総数は五二体)。全体に柔和な表情をもったものが多いのですが、なかには、憤怒相や呪詛相の十一面観音があるらしく、研究者の首をかしげさせています。

■神光寺の十一面観音
 この頃(寛文十二年頃)〔中略〕関市下有知の神光寺でも(十一面観音を)つくるがここの立像はどうした訳かお顔が憤怒形であるのは珍しい。(佐藤武「円空の十一面観音について」『円空研究』別巻2)

■神教寺の十一面観音
 円空はその後(法隆寺入山後、寛文十一〜十二年頃か)藤堂藩城下町の津にある神教寺を訪れ、十一面観音立像(高さ二三五cm)を彫る。円空仏を微笑仏とか慈悲の仏とみる人は、この像に困惑を感じるであろう。
 西尾一三氏は、これを「呪いと祈りが込められた笑い」とされている。(美並村編著『円空の原像』)

 神教寺の十一面観音は像の写真がなく具体的にわかりませんが、神光寺の十一面観音は、眉間に皺を寄せた吊り目で、たしかに「怒っている」顔つきです。
 研究者諸氏は、延宝七年(1679)の白山神の神託を円空仏変容の画期として取り上げることは共通していますが、つまり、あまり注意していないようなのですが、寛文十二年(1672)という年は、円空にとって造仏姿勢あるいは造像思想が大きく変わる年とわたしはみています。これは、象徴的にいいますと、円空が同年五月、白山の美濃馬場にあたる長滝寺(白山長滝神社)別当寺阿名院へ出向いているということが転機とみることができます。円空は、長滝寺阿名院で十一面観音を彫り、そのあとに、関の神光寺で憤怒相の十一面観音を彫っていると考えられ、それまでの白山本地仏=十一面観音に対する円空の認識になんらかの変異がもたらされたことを表明しているのが、この憤怒相の十一面観音です。
 円空は、長滝寺からの帰途に、美並村半在の八坂神社で牛頭天王像を彫ってもいますが、これを、円空は女神像として彫っています。一般的にいえば、牛頭天王は素盞嗚尊(素佐之男命)であり、男神というのが「常識」ですが、それを、円空はあえて女神像として彫っているわけです。これを、円空の天照男神像に対するように、円空の「恣意独善」(五来重)と切り捨てるのでなく、八坂神=牛頭天王を男神でなく、あえて女神として彫った円空の心意あるいは真意はなにかを考えてみますと、そこには、白山祭祀に象徴される日本の神祇祭祀の「闇」に気づいた一人の作仏聖がいるのではないかというのが、わたしが新たに提出したい円空像です。
 研究者が「不思議」がらないだけですが、意味深遠な神仏像はほかにもあります。

015 円空研究の現在 風琳堂主人 2004/01/29 (木)→修正 2004/01/30

 瀬織津姫とはどういう神かといった問いを最初に立てたときのこととくらべれば、円空については先人の研究諸書がいくつもあり、その点、つまり、基礎調査を白紙に近い状態から始めるのとはちがって、かなりラクをさせてもらっています。
 ただ、これらの「研究」を一冊の「本」(世界)として読もうとしますと、参考にはなりますが、一方でかなりのフラストレーションが堆積してくる実感もぬぐえないことはたしかです。たとえば、「〜は今後の課題である」といったフレーズが連発されるとき、それが研究者の誠意の表現であることは認めますが、やはり「そこが知りたい」といった思いが残ります。
 この「ないものねだり」的な読後感覚は、どうやらわたしだけのものではないようです。

■円空研究の現在
 従来の円空への視点は、白山信仰の問題にしても、修験道の問題にしても、事実の解説、記述に終ってしまっている感が強い。事実はそうなのだが、なに故そうなのか、という理由を円空の心の内部に踏み込み、そうならざるを得なかった心の働きの経緯と、そのことによって生じる彼の心的ドラマ及びその意味性にまでは踏み込んでいない。この点、木喰行道の生きざまについてもいえることである。(牧野和春「円空と木喰──その心的ドラマ」、池田勇次共著『円空と木喰』所収)

 この「なぜ」の問いは大事で、こういった問いを発することなく、したがって、それに応答しようともしない「言葉」の集積が、「研究」の顔をしながら一人歩きしているというのは、なにも円空研究に限られるものではありません。研究とは「事実の解説、記述」に終始するものといった及び腰の姿勢は、たとえば遠野の近いところでいいますと、オシラ神の「研究」などにも顕著にみられます。オシラ神の神体とされる桑の木の「棒」の形態を網羅的に各地から収集し、そこに分類を加えることが「研究」かどうかといった問いを立ててみるとわかりやすいかとおもいます。馬の顔の彫刻の有無とか、貫頭衣かそうでないかといったことは、そこには祭祀過程という時間の経緯は認められても(時間が下れば、祭祀者の生活感覚と知が反映されて「神」を人間的・家族的に扱うようになる)、オシラ神とはなにかという起源や本質を考える上ではあまり参考になりません。あるいは、オシラ神は「なぜ」イタコの守護神となりうるのかなど、「なぜ」はいくつもあります。収集や分類は、たしかに、ないよりあった方がよいのですが、「なぜ」という基本的な問いに真摯に応えようとする「研究」も読みたいものとおもいます。
 円空の神仏像についての「研究」も同じで、円空は「なぜ」こういった神仏像をつくったのか、「なぜ」その背銘に理解不能の像名や言葉を記したのかなど、「なぜ」はいくつもあります。
 ところで、引用の牧野和春さんですが、円空を考える「ここ」で出会うとは奇縁というべきか、うれしい再会でした。といいますのも、牧野さんは『新桜の精神史』や『桜伝奇』の著者でもあります。瀬織津姫(水神)が化身する木が「桜」ではないかという考察をするにあたって、ヒントをたくさんもらった著者でもありました(囲炉裏夜話298「水神の化身としての桜」)。
 牧野円空像は、円空の出自にまつわる闇、心的傷痕(トラウマ)に降り立とうとしたもので、円空のアイデンティティ問題を問うという視点で描かれた新円空論です。円空の心に、なぜ白山信仰はかくも深く受容されたのかという問いだけが、「最後の問い」としてあるようです。

016 地獄三山と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/02/01 (日)→修正 2004/03/07

 日本三大霊場といえば、比叡山、高野山、恐山の三山が挙げられるのですが、「地獄三山」となると、白山、立山、恐山とされるようです(森勇男『霊場恐山物語』)。
 晩年の木喰行道は、達観した好々爺のような「微笑仏」を多くつくるようになるのですが、そのなかで、異色・対極ともいえる「恐怖」仏の代表が「葬頭河婆」という三途川の奪衣婆像です。五来重さんは、「葬頭河婆は十王の支配する冥界と現世の厳粛な境に立って、死と生を止揚する祖霊的存在」と定義しています(『円空と木喰』)。この「葬頭河」を含む多くの異称表記をもつのが恐山の三途川です(ほかに、正津川、精進川、清水川)。『霊場恐山物語』によりますと、「三途川のそばに優婆堂があってここで身を清め、丸太を渡って霊山に参詣していた」とされ、優婆堂=姥堂の存在が立山と共通してあることがわかります(恐山の優婆堂は、現在、正津川河口の津軽海峡に面した大畑町正津川に移転、優婆寺として現存)。
 かつて、恐山への参詣者は優婆堂=姥堂で「身を清め」たとあります。白山の地神、立山の姥尊[うばそん]として瀬織津姫という「禊ぎ」神が認められることを考えますと、恐山の「葬頭河婆」であるウバ尊にも、瀬織津姫の偏向された投影・習合の可能性がみえてきます。
 恐山の開山は円仁(慈覚大師)とされ、これは貞観元年(859)あるいは四年(862)のことと伝えられています。恐山は、その本尊の地蔵信仰で知られるわけですが、これは円仁作とされます。円仁は、この本尊のほかに、自刻像(座像)、小地蔵尊、阿弥陀仏、三途川祖母(奪衣婆)、の四体を造像したことが「恐山本坊円通寺誌」に記されています。立山において、姥尊像の異様な視覚化、造像化をなしたのは最澄でしたが、この最澄の直系の弟子筋にあたる円仁もまた、恐山において「三途川祖母(奪衣婆)」像を彫っているというのは偶然のことではないでしょう。
 最澄、空海、円仁などを輩出した平安期は「国家仏教」の時代で、彼らが各地へ「巡錫[じゅんしゃく]」するというとき、それは朝廷の命(認可)を受けてのことだということを押さえておく必要があります。つまり、化外の地の民心慰撫、あるいは教化をするといった「高僧」の個人的意志に還元されるものではなく、それは「勅命」によっているということです。
 円仁は早池峰山までやってきて、遠野の始閣藤蔵から早池峰山の祭祀主導権を簒奪していることを伝えている藤蔵側の文書もあります。円仁(たち)の「巡錫」は、山々の地神を「仏」に置き換える、もう少し突っ込んでいいますと、朝廷にとって不都合な神々を仏教的に隠蔽し(神仏混淆化し)、ときには、その垂迹神を新たに設定して元神を変質化させるといった高等の詐術がみられ、それが「勅命」が含む真意といってよいかとおもいます。もっとも、明治期の神仏分離(→国家神道の立ち上げ)によって、彼らの国家奉仕の長い労苦は反故にされますが。
 恐山は、宇曽利(山)湖という神秘の湖を中心に、周囲を八峰(鶏頭、地蔵、剣、大尽、小尽、北国、屏風、釜臥の山々)が蓮の花のように囲んでいる地形で、「地獄」はそのまま「極楽」でもあることを象徴しています。恐山八峰の主峰は釜臥山(878.6m)で、これは下北半島一の高度をもった霊山です。釜臥山の神は「嶽大明神」とされ、正確な神の名が曖昧となっていますが、その里宮(の一つ)が現在の大湊兵主神社です。琵琶湖南岸の兵主大社の神は大国主神とされますが、大湊兵主神社は「下居明神の転身したもの」でした(森勇男、同前)。このオリイ神は、北海道の姥神大神宮の元神(表記は折居大神)と同一神とみられます。日本に、三途川の姥神、オリイ神となる(される)神は一神しかなく、「北」の瀬織津姫「隠祭」も根深いようです。
 円空は、恐山に、白山の本地仏である十一面観音を奉納していることも付記しておきます。

017 奪衣婆を拒んだ恐山の優婆尊 風琳堂主人 2004/02/03 (火)

 恐山の宇曽利(山)湖から唯一流出する川が三途川です。この三途川が葬頭河[そうずか]とも呼ばれることについては、「三途川こそ死者を葬う第一の関門である。だから葬頭河ともいわれる」といった説明があります(森勇男『南部霊場恐山由来と伝説』)。
 恐山の葬頭河婆=優婆尊にまつわる逸話を紹介します(森勇男『霊場恐山物語』)。

■正津川優婆堂の由来
 恐山の三途川はいわゆる俗界と霊界との境と言われ、霊場恐山への玄関口となっている。宇曽利湖の落し口にあり下流は正津川となって太平洋にそそがれている。昔はこの川に橋がなく丸太を並べてあったという。罪の深い人はこれを渡ろうとしても丸太が柳の細い枝のように見えて渡れなかった。三途川のそばに優婆堂があってここで身を清め、丸太を渡って霊山に参詣していたのである。優婆堂の仏像は洪水のため流されて正津川(古くは妾塚、精進川)に三回も流れ下ったので、信者たちが相図り「やはり、この仏像はどうしても山から下りたいのであろう」と、その意を汲んで御堂を建ててここに祀った。それが現在の正津川優婆堂である。

 恐山の三途川は「洪水」を起こすほどの川であったようです。恐山に参詣した菅江真澄は「牧の冬がれ」において、この三途川の流れが急なことをしたためていましたが、ときに激流をなし、洪水を引き起こすといった凶暴な表情をもっているのが三途川なのでしょう。
 円仁作の「三途川祖母(奪衣婆)」像が「優婆堂の仏像」としますと、この仏像は洪水のために「三回」も下流へ流れていったとあり、これはたしかに「どうしても山から下りたいのであろう」と里の信者に思われて不思議はありません。信者たちが、仏像の「その意を汲んで御堂を建て」たという話は、信者の人々の配慮の心が伝わってきて、読む者をほっとさせます。
 恐山の優婆尊が「山から下りたい」という「意」をもっていたとしますと、これは、奪衣婆を演じる(演じさせられる)ことへの拒否の「意」と読めます(別伝では、「奪衣婆さま」は「わしはもう亡者の衣類をはぎとることはきらいじゃ」と告げたとされます…『由来と伝説』)。
 瀬織津姫は大祓祝詞において「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」とされていましたが、この「速川」を三途川とみなしていたのが、中央の祭祀思想である中臣(神宮)思想でした。

■三途川のウバ神としての瀬織津姫
『大祓詞』の最古の注釈書といわれる『中臣祓注抄』では、「速川の瀬」を「三途の川なり」と説明しており、『神宮方書』においては「瀬織津姫は三途川のうばなり」と書かれております。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神であるともいえます。(佐久奈度神社由緒書)

 ここには、瀬織津姫という神が「奪衣婆」とみなされることが簡潔に語られています。瀬織津姫は宗像神の湍津姫=田寸津比売と異称同神でもありました。恐山讃歌の一首「渓深く道をくだれば湍つ瀬にかかる橋あり揺れて渡りぬ」(「恐山」、本山栄一歌集『挽歌』)の「湍つ瀬」は三途川のことで、瀬織津姫は、この「湍つ瀬」の神とみてよいでしょう。優婆尊が「奪衣婆」を拒否する「意」をもっていたとすれば、それは瀬織津姫のものでもあったと想像できます。

018 恐山と中尊寺と円空 風琳堂主人 2004/02/06 (金)

 円空は彫刻に秀でた僧で蝦夷の信頼篤く「今釈迦」と崇められていた──これが、恐山に伝えられる円空像とのことです(森勇男『霊場恐山物語』)。円空が北海道(蝦夷地)の霊場を巡り(太田山→有珠山→恵山)、下北半島・佐井へ渡ったのは寛文七年(1667)のことで、それは海の荒れる冬の前だったようです。下北半島には本州最北の霊場・恐山があり、円空の霊場巡錫・地神供養の意識からすると、下北半島へ渡ることは当然の道筋であったと考えられます。
 現在、佐井の長福寺に円空作の十一面観音が残されています。円空の十一面観音作仏の最初は寛文五年(1665)、美並村木尾の白山神社における白山三尊の中尊としてのそれでしたが、この佐井における作仏は、北海道上ノ国につづく十一面観音とされます。
 佐井には、次のような、意外ともいえる伝承があります。恐山に向かう前のことです。

■三体同一木の円空仏
(佐井の十一面観音は…引用者)恐山、平泉中尊寺と三体同一木から刻んだもので、子安の観音として験をたたえられていることを伝えている。挿絵によれば、それは円空作の仏像である。(熊谷省三・佐賀末次郎「田名部海辺三十三番巡礼札所をさがして」『霊場恐山物語』)

 円空は恐山に十一面観音を奉納しており、これは恐山本堂(地蔵堂)に現存しています。恐山・宇曽利湖周囲の八峰には南部ヒバが密生していますが、ここは山々全体が霊場で、木を伐るわけにはいかなかったのでしょう。円空は佐井で作仏し、それを恐山に奉納したとみられます。
 円空の時代の恐山は、天台宗蓮華寺と曹洞宗円通寺による恐山の祭祀支配・管理権をめぐる確執がありましたが、南部藩の後押しもあって、けっきょくは円通寺の管理下にはいり、これが現在にまでつづいています。天台宗の最高僧である円仁の開山伝承をもつ恐山から、天台宗蓮華寺が敗退したということは、大きな意味があるものとおもいます。なぜなら、これは、円仁(天台宗)に象徴される「国家鎮護」の標榜が恐山から無化されたことを意味しているからです。「(恐山)信仰の担い手は、皇室や貴族や、特定の武家や領主ではなく、かえって、女性を中心とする庶民であることを忘れてはならない」という指摘は重要です(楠正弘『下北の宗教』)。
 南部藩のゆるやかな管理下にあるとはいえ、恐山信仰を支える主体は、中央・地方の政治・宗教権力ではなく「女性を中心とする庶民」であることに、恐山(信仰)の本質も魅力もあります。江戸期、女性救済の全国的メッカとみられていたのが立山・芦峅[あしくら]寺の姥堂(姥尊信仰)でしたが、この姥尊の本地仏が地蔵尊でした。恐山の本尊もまた地蔵尊(伝・円仁作)ですが、賽(西院)の河原には、本尊とは別に地蔵尊と千手観音が人々の親しい信仰対象となっています。本堂=地蔵堂背後の神体山は地蔵山といわれ、同山中腹にはかつて「奥の院」があり、その本尊は不動明王でした(現在は石仏のみ)。ここには、恐山信仰の二重性がかすかにみえかくれしていますが、恐山の地神が不動尊と習合する神であり、女性救済とも深く関わる神としますと、これは女性救済神としての熊野神(那智神)を想起したくなってきます。那智の本地仏も十一面観音であり、円空の恐山奉納仏が十一面観音であることは偶然の一致かどうか──。
 佐井の伝承では、「三体同一木」の残りの一体(おそらくこれも十一面観音)は平泉中尊寺に奉納されている可能性があります。同寺の守護神は白山神であり、白山の本地仏もまた十一面観音ですから、円空には、恐山と白山の地神は同一神という認識があったのかもしれません。

019 オシラ神の権化木 風琳堂主人 2004/02/09 (月)

 遠野の北に隣接するのが川井村で、ここの小国地区の善行院に、天正二年(1574)という、岩手県内最古の記銘をもつオシラ神の木像(一対二体)があります。また、川井村で二番目に古い記銘は元和七年(1621)で、これを所持するのは威徳院とのことです。ちなみに、東北エリアに拡大してみたときはどうかといいますと、これは、青森県八戸の天文五年(1536)というのが最古の記銘として確認されています(川井村教育委員会『川井村のオシラサマ』1971年)。
 オシラ神はもともと家神で、善行院とか威徳院といった修験の家筋にまつられるものは、時代が下る現象とみてよいようです。ただ、わたしがここで注意したいのは、この二つの家筋が、ともに早池峰修験の徒(別当)であるということです。具体的にいいますと、明治期のことですが、善行院は早池峰山神社に、威徳院は早池峰新山神社となり、早池峰大神=瀬織津姫をまつるようになります(もっとも、威徳院は明治三年に還俗して神官となるとき、祭神表示は「須勢理姫命」とされたようでしたが、その後、瀬織津姫にもどしたという経緯があります…『川井村郷土誌』『岩手県神社事務提要』)。
 神体の木像に制作年号を記銘するということ自体、ここには修験者が所有する「知」が投影しているとみることができますが、それにしましても、ここには、早池峰神祭祀とオシラ神祭祀が交差している現象をみることができます(早池峰神=瀬織津姫がオシラ神と習合することについての総合的考察は『エミシの国の女神』を参照ください)。
 恐山といえばイタコの口寄せがセットのようにおもわれますが、恐山の大祭にイタコが集まるようになるのは、大正から昭和にかけてのころからで、それほど古い歴史をもっているわけではありません。イタコの持ち歩く祭具にオシラ神がありますが、「恐山のようなところへ出向く時はオシラ神を持ち出さない」とされます(森勇男『霊場恐山物語』)。これは、イタコの仕事として、口寄せ(仏オロシ)以外に神オロシ(神占)があり、後者において、オシラ神の「力」が利用されるからで、仏=死者の口寄せとは一線を画しているということなのでしょう。
 オシラ神の神体の素材木ですが、前記川井村の調査によりますと、たしかに桑の木が多いのですが、なかには「不明」のものや「桂」という報告もあります。また、イタコが「祭具」として利用するオシラ神は「竹」が多いとのことです(楠正弘『下北の宗教』)。
 オシラ神が養蚕神であるという基本像を反映したのが桑の木による彫像ですが、これは、しかし、あまり固定して考えないほうがよいということを教えてくれる報告もあります。

■オシラ神の権化木
 おしら様はなにのご利益があるかわからないし、どんな服を着せてよいのかわからないが、神様だってきれいな服を着たいと思うのでこのハカマを(にしきのオセンダクと言っていた)着せておく。権化木[ごんげき]は桑の木とも桜の木とも聞いている。どっちの木でもいいと思う。(八戸の巫女・中村キサ、「オシラ神と道祖神の聞書」、岩崎敏夫編『東北民俗資料集(2)』所収)

 オシラ神が桑の木に「権化」するときは養蚕神、桜の木に「権化」するときは水神といった性格が投影されているのかもしれません。修験の神木は「桜」であると指摘していたのは五来重さんでした(『円空佛』)。修験の祖とされる役小角が大峰山の神の化身として金剛蔵王権現を彫った木も桜でしたが、大峰神は「天河弁財天」ともなりうる、熊野の川上神=水神でした。

020 『岩手県神社名鑑』と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/02/12 (木)→修正 2004/02/13

『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会、昭和14年)によりますと、当時、県内の神社は991社あり、これらが「国家神道」全盛時の国家管理下にあった神社数であることがわかります。
 その後、「県内の神社全般を記したもの」はしばらく無い状態がつづき、ようやくに編集・発刊されたものとして、『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁、昭和63年)があります。この『名鑑』によりますと、収録神社数は全859社で、昭和14年から昭和63年にかけて、約130社が記載対象から削除されていることがわかります。この減少数については、たとえば遠野市附馬牛の新山神社(祭神:瀬織津姫)などは現存していますので、必ずしも神社そのものが消滅したからではなく、おそらく神社本庁「所属」神社というのが859社ということかとおもいます。
 伊勢神宮を「本宗」とあおぐのが神社本庁で、その傘下に、各自治体単位で組織されているのが神社庁です。この神社庁(自治体)単位で各地の神社誌が編集・発行されていて、その名称は「○○県神社誌」というのが多いようですが、岩手県の場合は『岩手県神社名鑑』とうたっていて、書名になにがしかの自負が込められていることが伝わってきます。
 さて、『岩手県神社事務提要』→『岩手県神社名鑑』における瀬織津姫祭祀の変遷はどうかといった視点でみてみますと、戦後において、瀬織津姫の祭神表示が消えたのが2社、逆に表示されるようになった神社が1社あることがわかります(瀬織津姫祭祀社の収録は23社→21社)。
 消去されているのは、遠野市上綾織の愛宕神社(瀬織津姫命→軻遇突智命)と安代町の桜松神社(瀬織津姫命→滝津姫命)です。後者の桜松神社ですが、現神官の方は祭神が瀬織津姫であることを認識していますし、岩手日報社の『岩手の伝説を歩く』や、安代町のホームページにおいても(当HPのリンク集を参照)、瀬織津姫の名を再三にわたって紹介していますので、これはとても奇異な祭神表示の変更とみなすことができます。もっとも、岩手県の瀬織津姫消去はまだ「手ぬるい」方かもしれません。瀬織津姫祭祀の消去をかなり陰険に試みている例としては『石川県神社誌』があります(囲炉裏夜話789「伊勢神宮の成立と『力』の話」参照)。
 瀬織津姫が新たに復活登場してきたのは、一関市の瀧神社といいます。ここは、戦前、伊弉册命の一神のみをまつると表示されていたところです。同社の由緒等を読んでみます。

■瀧神社「由緒」
鎮座地 一関市滝沢字下一〇八番地
祭神  伊奘諾尊、伊弉册尊、瀬織津姫命
由緒
 延暦十年(七九一)坂上田村麻呂東夷征伐の折、磐井郡司安倍黒人が田村麻呂に従い追討のため荒滝に来て賊を討ち、住民を安んじた。この時白山大神を桂峯に、熊野大神を延寿原に奉祀した。寛治二年(一〇八八)熊野大神を桂峯に奉遷して熊野・白山二神を合祀した。
 また大同年間(八〇六─八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安し、後この三柱を合せて一村の鎮守とした。(『岩手県神社名鑑』)

 白山大神、熊野大神、祓戸大神の三神祭祀──。類例のない豪華祭祀というべきですが、この由緒通りならば、戦前に瀬織津姫の名を消去する必要はまったくありません。瀧神社のこれら三神は、もともと「異神」であったわけではなく、とても暗示的な「由緒」です。

021 『岩手県神社事務提要』の思想 風琳堂主人 2004/02/14 (土)

 神社ハ国家ノ宗祀ニシテ我カ国体精華ノ根源タルコト敢テ多言ヲ要セサル所ナリ──これは、『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会、昭和14年)の巻頭「例言」の最初の一行です。この『提要』は、大正13年に初版が出されたようですが、その後の「神社ニ関スル法令」の発令の多さに、神職自身がどう対応してよいか判断に迷うということで、必要な法令を「転録」し、周知徹底するために、昭和14年に再編集・発行されたものです。「国民ヲシテ神社崇敬ノ実ヲ挙ケシメン」というのが、初版以来の一貫した主眼とのことです。本書は、神職の内部文書というべき性格をもっていて、原則、一般氏子・国民が眼にすることはありませんでしたが、わが国の「神社」の性格(国家思想を反映する性格をもつ神社)を考える上で貴重な歴史資料です。
 当ホームページにおいて、特集で「瀬織津姫」を取り上げたときから、上記「神社」の性格については折につけふれてきたものです。これは、いきおい「神社」の祭神問題について論及するという傾向をもってきました。一般に、神社のカミサマは時の流行によってコロコロ変わるのだから、祭神の是非を問うことはどんなものかといった訳知り顔の神社サイトの言説を知らないわけではありませんが、これは、渋谷のファッションの推移・変化と同列に祭神問題を矮小化する論であることはいうまでもありません。『提要』を一読してみればわかりますが、たとえば神社を新たに興す、再興するときの申請書記載は「祭神名・神社名・由緒」といった順でうたわれていて、いかに戦前の国家が「祭神」にこだわっていたかは明らかなことなのです。
 この祭神問題に関する当該事項を『提要』にみてみます。

■神社ノ祭神、神社名、社格、明細帳ニ関スルコト
一 祭神ノ増加又ハ変更ニ付テハ地方長官ニ於テ内務大臣ニ経伺ノ上処分セシヲ、今後ハ官国幣社ニ在リテハ地方長官ヲ経由シテ内務大臣ニ具申シ、府県社以下神社ニ在リテハ地方長官ニ於テ詮議セントスルトキハ内務大臣ニ稟請スルコトゝナレリ、但シ北海道ノ県社以下神社ニ付テハ祭神誤謬訂正ノ外、其ノ増加並変更ハ内務大臣ニ経伺ノ上処分セシヲ、総テ長官限リノ処分ニ委ネタリ。(第一條)(「神社ニ関スル改正法規ノ綱要」)

 昭和14年時点の祭神に関する「改正法規」の解釈が述べられている箇所です。引用からは、北海道においては「祭神誤謬訂正」と「増加並変更」の決定権は内務大臣から道庁長官へと移管されたことが読み取れます。しかし、道外においては、「府県社以下神社」といった末端の社にまで「祭神ノ増加又ハ変更ニ付テハ」地方長官から「内務大臣ニ稟請スルコト」と明記されています。この内務大臣の絶対権限の行使範囲は、引用の祭神問題ばかりでなく、「社格ノ変更訂正」や「神社ノ創立」などの諸項においてもみられます。「神社ハ国家ノ宗祀ニシテ我カ国体精華ノ根源タルコト敢テ多言ヲ要セサル所ナリ」という巻頭の言葉はハッタリの言辞ではなく、本気(国家意志)だというのが、「内務大臣」の絶対裁量をうたうことによく表れています。
 敗戦時、この内務大臣の権限は消滅しますが、戦後すぐに、全国各神社の「総意」のかたちで代替・発足するのが神社本庁かとおもいます。氏子自身による自由な祭神表示を禁じたのは明治の神仏分離時点にまで遡りますが、その不自然は内省されることなく、神社(神々)および神職の国家管理がつづき、戦後においても、この「国家神道」に対する内部批判・自己批判を空洞にしたまま、あるいは復古的思惑を秘めたまま、神社祭祀の「現在」はあるといえます。

022 北東北の円空仏 風琳堂主人 2004/02/16 (月)

 寛文七年(1667)、およそ一年半の蝦夷地における修行・巡錫を終え、円空は下北半島・佐井の地へ渡ります。この下北の地は、当時、田名部[たなぶ]と呼ばれていました。これは、南部藩の外地、つまり外南部が田名部に転じたとされるようですが、生活の交流は蝦夷地との間に強く成立していたようです。この関係は江戸期を通じて変わらなかったようで、明治二十四年九月の地元紙(東奥日報)の社説に、下北の地は「青森県の北海道」「文明の化外」などと記されていたことによってもわかります(浪川健治編『下北・渡島と津軽海峡』吉川弘文館)。
 蝦夷地において、円空の造像の主流は坐像観音でしたが、円空が下北・佐井の地で最初に彫像したのは十一面観音立像で、しかも同一木から三体を彫り上げたとされます(一体は佐井・長福寺に、一体は恐山に現存、残る一体は平泉・中尊寺へ奉納された可能性があるも不明)。
 円空は、恐山へ十一面観音を奉納すると同時に、同山の伝・円仁作の千体仏の補修(補造)などをし、美濃への帰路に着くわけですが、ここで興味深いのは、下北における十一面観音三体の造像をはじめ、少なくとも八体の十一面観音を北東北の地に残していることです(下北外では、田舎館村弁天堂、弘前市西福寺、能代市竜泉寺、男鹿市五社堂、雄勝愛宕神社に現存)。
 蝦夷地での巡錫体験のあと、円空の造像意識、つまり地神供養としての奉納仏の意識において、その作仏の中心に十一面観音を置こうとする傾向が生じたことが想像できます。では、円空の意識にこのような変容をもたらした蝦夷地におけるきっかけはなんだったのかという問いが浮かんできます。それを決定的に証明できる文献等はありませんので、これは仮説的な想像としていうしかないのですが、わたしは、円空が終生こだわった白山信仰、その白山の地神信仰が、遠く蝦夷地においてはまだ生きていて、それがアイヌと倭人たち共通の信奉となっているという現実があったのではないかと考えています。こういった「気づき」の視点で、恐山以南の北東北の地の土着的あるいは底辺の信仰をみるとき、白山の地神信仰は蝦夷地のみに生きているわけではないことが、円空には経験的にみえてきたのではないかとも想像しています。
 ここで、青森・秋田と共に北東北を構成する「岩手」における円空仏の現存第一号となるかもしれない可能性を記している、ある神社を紹介しておきます(『岩手県神社名鑑』)。

■榊山稲荷神社
鎮座地 盛岡市北山二丁目一二番一二号
祭神  豊受之大神
由緒
 当神社は、盛岡の街づくりが始まった慶長二年に、榊山稲荷大明神を盛岡の守護神として城内に祀ったことから始まります。藩政時代は、藩主から一般庶民に至るまで篤く信仰され、「もりおか開運神社」と称され崇められてまいりました。/その後、明治維新の改革により廃社となったものを、昭和の初めに先代宮司荒川清次郎氏が、現在の北山の地に再興した…〔中略〕
宝物  本居宣長書「三社託宣」、円空仏(四尺立像)

 榊山稲荷神社の崇敬者は「五万人」とも記されていて、また、これほどの由緒をもつ社が、後に再興されたとはいえ、明治期の初頭になぜ「廃社」とされたのか──、謎は深そうです。
 榊山稲荷神社の円空仏──。この作仏経緯や造像の種類についてはまだ確認していません。

023 最北の不比等伝承 風琳堂主人 2004/02/19 (木)

 白山と早池峰山の開山は同じ日だったのではないか──これは、遠野の郷土史・民俗史の「生き字引」ともいわれる菊池幹さんの指摘で、調べてみるとたしかにその通りなのです。白山は泰澄によって養老元年(717)六月十八日、早池峰山は四角藤蔵によって大同元年(806)六月十八日に「開山」されたとされ、両山とも、現在、その例大祭を(新暦に直していますが)七月十七日を宵宮祭、十八日を本祭としています。白山の地神と早池峰山の神は瀬織津姫という同一神でしたから、開山の日付を同一としていることは、偶然の一致とはみなせないようです。
 早池峰神社の戦前の「由緒」を読みますと、末社(早池峰山鎮護社)が全20社あったとされ、その筆頭社は白山神社と記録されています。また、藤蔵によって早池峰山の祭祀がはじまったあと、円仁がやってきて、彼は遠野郷に自作の七観音(十一面観音七体)をまつったとされます。この七観音の一つに鞍迫観音(福滝寺)があり、同寺廃寺後の管理をつづけた観蔵坊は、明治期の神仏分離時に神社化するも、それは早池峰神社ではなく白山神社として登録します。こんなところにも、早池峰山と白山の「関係」の痕跡をうかがうことができるかもしれません。
 東北(陸奥国)における白山信仰をみますと、「古社」とおもえる伝承をもつものの多くは、判を押したように、坂上田村麻呂の勧請伝承、あるいは田村麻呂の「征夷」に関わる延暦・大同年間という時間を創祀伝承にもっています。『岩手県神社名鑑』に、大同以前の創始伝承をもつ白山関係社を拾ってみますと全11社あり、そのうち7社が田村麻呂と関係づけて自社の創祀をうたっています。その他、日本武尊による勧請伝承をもつ白山神社などもありますが、こういった象徴的な「朝威」とみなしてよい坂上田村麻呂や日本武尊をうたうのではない、独自の創祀伝承をもっている白山神社については、養老年間の勧請伝承をもつ白山神社二社と、和銅二年(709)の勧請伝承をもつ大門[だいもん]神社があります。大門神社の由緒を読んでみます。

■大門神社
鎮座地 西磐井郡花泉町金沢字大門沢七七番地
祭神  大己貴神、雷神、白山姫神
由緒
 和銅二年(七〇九)六月二十四日、藤原義勝公神体山として本山に大己貴神・雷神・白山姫神の三柱を奉祀される。後に養老元年(七一七)閏六月二十四日、藤原淡海公当社を深く崇敬され、一寸八分の尊像を宝物として寄進され、更には天平二年(七三〇)三月吉日、藤原朝臣葛将軍本殿及び大門を造営寄進され、以て現在に至る。(『岩手県神社名鑑』)

 この短い由緒表現のなかに、三つの異なった時間が書かれていますが、興味深いのは、白山の開山(祭祀改竄)がなされた養老元年(717)の同年同月に、「藤原淡海公」つまり藤原不比等が関わっている伝承があることです。不比等は、白山祭祀の改竄を、元正女帝の名で行使した実質的命令者とみてよく、その当事者が、はるばる陸奥国の白山神祭祀社になんらかの関わりを伝えているわけです。さらに天平二年(730)の「藤原朝臣葛将軍」は不比等の三男である藤原宇合とみてよく、不比等父子が、都からはるかに遠地である陸奥の大門神社にまで関わっていることになります。これは、ほかの白山神社とは異質かつリアルな伝承(史実)というべきで、ここには、神社祭祀に深く関与する、おそらく最北の不比等伝承が刻印されているとみられます。

024 仏法を試みん 風琳堂主人 2004/02/22 (日)

 白山神勧請の古伝承をもつ大門神社由緒は「養老元年(七一七)閏六月二十四日、藤原淡海公当社を深く崇敬され、一寸八分の尊像を宝物として寄進」と記していました。藤原淡海公=藤原不比等が「寄進」したのは「尊像」とありますから、これは仏像でしょう。ではどんな仏像かと宮司さんへ問い合わせてみたのですが、これが絶対秘仏とのことで、口外ならずという秘密めいた話になっているようです。ただ、内々に、三十三年ごとの開帳がなされているとのことですから、これは「三十三」ゆかりの観音像であろうことまでは想像できます。
 義江彰夫『神仏習合』(岩波新書)によりますと、神仏混淆の古い例として、霊亀元年(715)、越前国の気比神宮に神宮寺が建立されたことを挙げていましたが、気比神の神仏混淆化の二年後の養老元年(717)に、白山もまた神仏混淆化がなされます。藤原不比等が右大臣という権力の座に就くのが元明女帝時代の和銅元年(708)のことで、各地の地神(特に神宮祭祀を脅かす神々)が中央の命で本格的に「仏」化される始まりを、この不比等時代に重ねることができそうです。
 養老二年(718)に、熊野神(熊野本宮神)が室根山にまつられます。神仏混淆の形成から室根山の「本地仏」を考えますと、熊野本宮の本地仏と同体の阿弥陀如来ならば一応は整合しますが、しかし室根の方は十一面観音とされ、それだけでも、室根山の秘密めいた祭祀を暗示しています。室根神社の祭神については、「明確に記録された古文書は現存していない」とのことで、同社祭神が「伊弉冉命」とされるのは、大正八年の「県社昇格願い」のときとのことです(『室根神社史実録』室根村文化財保護委員会)。十一面観音と習合する熊野神=室根神もまた背後に瀬織津姫を伝えていることについては繰り返しませんが(「熊野神としての瀬織津姫」参照)、この秘密めいた室根山祭祀にはさらに前史がありました。
 室根山の古名は鬼首山と呼ばれていたわけですが、これは、「魔縁のもの」が住む山で、それを討伐したあと、その首を埋めたことから命名された山名でした。この「魔縁のもの」の討伐を命じたのは元明女帝で、これは和銅二年〜三年のこととされます。「魔縁のもの」=鬼神の菩提を弔うために送られてきた仏が、文武天皇「御手づから」制作とされる聖観音という、驚くべき伝承をもっているのが、室根山南麓にある南流神社(当時は南流山観世音寺)です。

■南流山観世音寺の「大極秘の霊仏」
 抑抑この御仏(聖観音…引用者)と申すは、忝[かたじけ]なくも昔、先帝文武天皇、仏法を試みんがために、御手づからこの御仏を造らせ給うなり。あの御時は行基菩薩なれば、文武天皇この菩薩に命じて、開眼いたさせ給う御仏なり。しかる間元明天皇、先陣を賀茂王次四郎実盛に命じて下し給うと今の世迄も語り伝える。昔文武天皇菅[すげ]の荒菰[あらこも]に包み奉り、大慈大悲にこれ極悲(極秘)とて姿をかくさせ奉る。その故に元明天皇の勅錠には、これ大極秘の霊仏なり。この御仏を勧請させ、その折壁と申す村を末代まで氏子として、子孫繁昌万民豊楽具[つぶ]さにその地をこの御仏に守らせ給うべしとの勅錠を、仰せ下し給うなり。忝[かたじけ]なくも又この小四坊(室根山の鬼神…引用者)の首をもともに下し給い、大菩提を弔うべしとの勅錠によって下させ給うなり。(「南流山観世音寺」、『室根神社史実録』所収)

 修験仏徒の知と創作意欲が過度に投影した寺伝です。ここからみえてくるのは、「鎮魂」に名を借りて神が仏に置換されるという一点で、まさに「仏法を試みん」とする実践の姿でしょう。

025 瀬織津姫の古歌発見 風琳堂主人 2004/02/25 (水)→修正 2004/03/30

「鎮座地、祭神の不明確なものなどが多く、その判断に迷い、いちいち神社明細帳と照合するなど苦労を重ねた」──これは『岩手県神社名鑑』の「あとがき」の言葉です。ここでいわれている、祭神等の確認用の原本とみられる「神社明細帳」がいつの時点のものかはわかりませんが、明治期以降に制作されたものであることはまちがいないでしょう。
 神仏混淆の禁止が新政府によってうたわれたのは慶応四年(1868)三月二十八日のことで、同年の九月八日に「明治」と改元したあとの十一月には、全国の主要神社の社格が早々と定められ(神祇官勅祭社の設定)、その勅祭社の筆頭社に伊勢神宮が確定されます。このあと地方の諸社に対して、府県社、郷社、村社、無格社の社格設定がなされていくわけですが、その前過程において、各神社についての(祭神確定を含む)基礎調査がなされます。
 地方諸社の祭神等の決定に関する具体的資料として、「新潟県社祠方」の小池厳藻が書き残した『神社廻見記録』があります(安丸良夫『神々の明治維新』に部分収録)。この「社祠方」なるものが、初期段階の各社の祭神決定に関与していたようです(新潟県の場合は明治三年)。これを「神社改め」ともいいますが、その内容は「村々の神祠を実際に検分して神仏を分離させ、不都合な神体・飾り物などを取りのぞかせ、神名を定めたりするものであった」とされます。
 維新政府の権力を背後にちらつかせながら、各社の神仏分離→祭神決定がなされていく光景が目に浮かぶようですが、こういった政府役人の作成した神社資料を基に、さらに「それらしい」由緒を創作付加して成書化された公認の登記簿が「神社明細帳」かとおもいます。
 青森県八戸市に、御前神社という古社があります。同社は江戸期は「御浜御前」といわれ、ここに伝わる江戸期の由緒書(「東国正鎮守御浜御前」)には、次のような瀬織津姫を讃える「古歌」が記されています(八戸市『八戸の神社寺院由来集』所収)。

■御前神社に伝わる瀬織津姫の古歌
 みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神

 明治四年の「神社調べ」においては瀬織津姫の名は消去されますが、江戸期までは、御前神社の神は「瀬織津の神」という認識があったようです。これは、福島県古殿町の「鎌田家文書」に継ぐ「証言」歌で、瀬織津姫は白旗神(八幡比売大神)でもあることを伝える歌です。また、この御前神に対して、次のような、屈折した賛意を込めた添え書きも収録されています。

■御前神に関する添え書き(原文は漢文)
 根[もと]を元として本心[もとのこころ]に任[まか]す。神、非礼を受け賜[たまは]ず。生を豊穣津島の神国に受け、情を全うす。而して、必ず神に成り賜[たま]へ。上五常五戒、悉く具ふ。

 御前神社のこの江戸期の由緒は、明治期初頭の由緒においてはまったく内容が変わってしまいますが、ここには、御前神=瀬織津姫に対して、「神、非礼を受け賜[たまは]ず」とあり、ひょっとすると、明治期の「神社改め」の直前か同時期に、こういった添え書きが秘密裏に記されたことが考えられます。としますと、ここには、御前神社神官による、自社の祭神および由緒改竄(の強要)に対する痛切な思いを込めた証言がしたためられていたことになります。

026 白幡神としての瀬織津姫 風琳堂主人 2004/02/29 (日)

 八戸において、白旗=白幡神として瀬織津姫の名が伝えられていたことと、おそらく無縁ではないとおもうのですが、実は、遠野にも白幡神社があります。早瀬川の源流部(仙人峠)には十一面観音がまつられていましたが、白幡神社は、この早瀬川から引いた用水の川辺にある小さな社です。一般には、境内に「さすらい地藏」と呼称される力石があることで知られます(現在は河童像もあります)。白幡神とはなにかということで、遠野の白幡神社の由緒をみてみます。

■白幡神社
(遠野市)松崎町白岩字新張に鎮座し、堂社は大正七年(一九一八年)の建築である。もと遠野町一日市の東方にあって、中川原観音はその跡であるという。白幡観音とも称された。祭神は神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれているが、今は単に白幡大明神を祭るとしている。鈴木家の氏神である。
 弘化四年(一八四七年)の三閉伊一揆の際、早瀬川原に集結した一万二千人余りの一揆は、この白幡神社から加茂神社の間に陣したと伝えられるが、この時の図面には熊野権現社ともある。いずれにしても、幕末には既に遠野から現在地に移されたようである。(『遠野市史』第四巻)

 源平の戦いで、平氏は赤旗、源氏は白旗を立て、それぞれ自軍敵軍を識別していたことから、白幡=白旗神は源氏ゆかりの神とされます。白幡神社の祭神として、「神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれている」といった伝承が出てくるのもそういうことなのですが、祭神の候補に神功皇后の名が出てくるのは、これは石清水八幡宮を含む、全国の八幡神社の「本家」である宇佐八幡宮(現祭神:応神天皇、比売大神[宗像三女神]、神功皇后)を想定してのことでしょう。
 白幡=白旗神というのは、いざ調べてみると、これもどうもはっきりと統一的な祭神名が出てこないようで、要するに秘密めいています。ちなみに、『岩手県神社名鑑』は千厩町の白幡神社一社を収録していますが、同社祭神は「伊弉册之命」で「源義経勧請」と書かれています。また、福島県では、「高良玉垂命」だったり、「菊理比盗_」といった名も出てきますし、義経の「首」を葬ったとされる藤沢市の白旗神社は「寒川比古命」とされ、義経の霊を合祀しています(寒川神に瀬織津姫が重なる話は、囲炉裏夜話707「水主神とはなにか」を参照ください)。
 遠野の白幡神社は、かつて(神仏混淆時代)、中川原観音あるいは白幡観音と称されていましたから、白幡神は「観音」と習合する神とみてよさそうです。中川原(白幡)観音は、明治初年、遠野市内の瑞応院(臨済宗)境内に遷されます(現在の観音堂)。同観音は現存していて、塗金されていますが木像の立像で、正確な像種は、十一面観音です。八戸の白幡=白旗神が瀬織津姫であり、また、早池峰山および白山の本地仏が十一面観音であったことを考えますと、遠野の白幡神祭祀における、この神仏混淆の「仏」の選択祭祀は理にかなっています。瑞応院は、境内に早池峰神を土地神としてまつってもいて、ほかの寺院でなく、あえて瑞応院へ白幡観音が遷されまつられたのは、たしかに「縁=ゆかり」を認めてのことだったのかもしれません。
 ところで、義経は、その不遇と悲劇性から「怨霊神」たりえます。藤原権力によって「死」をもたらされた柿本人麻呂、菅原道真の霊が、同じ境遇にある瀬織津姫の祭祀(隠祭)に重なる例を考えますと、この怨霊神の系譜に、新たに義経を加えることもできそうです。白幡神とは、応神や神功皇后をまつる八幡神祭祀の「表」に対して、「裏八幡神」のようにおもえます。

027 八幡大神と白幡旗神 風琳堂主人 2004/03/06 (土)

 みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神──八戸・御前神社に伝わる瀬織津姫の古歌は多くのことを示唆・暗示しています。八幡神と白幡(白旗)神の関係について、では、八戸・御前神社においては、これはどのように現れているのか──。明治期、御浜御前は「三前神社」と社名が変更されますが、この明治の「新しい」由緒を読んでみます。

■三前神社(現在:御前神社)「由緒」(明治四年「神社調」)
一、祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命 (相殿)神功皇后、武内宿祢、八幡宮、大雷神
 底筒男神中筒男神上筒男神三神ハ往古武内宿祢勅命ヲ奉テ東夷平定スルノ時当時階上ノ郷ニ降リ玉ヒ此浦小浜ニ安座シ天下泰平国土安穏ノ大諄辞ヲ海神ノ御前ヘ祈請ス、然ルニ三神浪上ニ出現シ相諾ヒ玉ヒテ天下泰平皇城ヲ守護シ奉ラント誓ヒ給フカ故竹内(武内)更ニ祠ヲ造営シ三神ヲ鎮メ奉リテ三前御前ト仰キ奉リ、常磐ニ堅石ニ万世迄此山ニ[左目崎ト号ス]鎮座(シ)テ皇城ヲ守護シ賜ヒト斎ヒ奉レリ、亦三神小浜ニ[旧跡今ニ存ス]出現有シ故ニ御浜御前ト号ス、亦云三神白涛ニ出現シ玉フ故ニ山名ヲ浪打ト号ス、干時人皇五十代桓武天皇ノ御宇阪上田村丸東夷ヲ平ラクル時此山ニ参籠有リ、社殿ヲ再興シ玉フ、左ノ相殿ニ神功皇后右ノ相殿ニ武内宿祢ヲ勧請シ奉レリ、其後伝教大師一刀三礼ノ彫刻三神ノ神体ヲ安置セシヨリ以後本地垂迹ヲ立両部習合シ浪打山光伏寺ト号ス、亦当社ノ側ニ祠ヲ造営シテ慈覚大師一刀三礼ノ作八幡ノ尊像ヲ安置ス、然ルニ天和三癸亥年洪水ニテ地中ニ埋マリシニ元文三丙辰年三月四日霊夢ニ依テ社ノ側ラノ土ヲ穿テ土中ヨリ八幡ノ神像出現ス、既ニ土中ニ有ルコト五十四年也、再ヒ当社ノ相殿ニ安置セリ、亦当社地ニ旧古ヨリ雷神鎮座ス、元禄年中迄正社有之処破壊シテ当社ノ相殿ニ安置ス、当今ハ凡テ社中ニ七座勧請ス、是レ階上郡正鎮守タリ
一、祭日 毎月四月十五日、大祭ハ三月四日四月十五日也、祭神神功皇后ニ付櫛引村鎮座八幡大神毎年四月十五日当社へ神輿渡有之処近年川向ヒニテ祭式有之(八戸市『八戸の神社寺院由来集』所収)

 武内宿祢、阪上田村丸(坂上田村麻呂)、伝教大師(最澄)、慈覚大師(円仁)と、これだけ忠君の士を並べ、かつ「皇城ヲ守護」といったキーワードを二度も盛り込んでありますから、これでは、たとえ荒唐無稽とわかっても「お上」は文句はいえないといった由緒になっています。なお、同社摂社の項に川口神社があり、祭神は「速秋津比盗_、速秋津比古神、瀬織津比盗_」と、三神化という曖昧化は許したものの、瀬織津姫の名をかろうじて残しています(青森県で戦後現在まで、瀬織津姫を祭神名に残しえたのは、この川口神社と新川神社[八戸市]の二社のみ)。
 祭礼の項の「櫛引村鎮座八幡大神」は現在の櫛引八幡宮ですが、同社の神は「誉田和気尊」つまり応神天皇で、それが御前(三前)神社へ挨拶にやってくる(神輿渡)というのは、同社に応神の母親・神功皇后がまつられているからだという因果説明もなされています。しかし、江戸期の由緒には神功皇后は登場せず、櫛引八幡神は祭礼時、ただ御浜御前のところへ「参向」してくるのみというのが古態でした。宇佐八幡宮の主神は大元神(御許山の神)である比売大神(宗像神)で、そのあとに応神がまつられ、さらにそのあとに神功皇后がまつられたという経緯があり、後発・新手の八幡大神(応神天皇)が、八幡大元神=比売大神である御浜御前=白幡旗神=瀬織津姫のところへ挨拶に出向いてくるというのは、いかにも筋が通っていることでした。

028 聖なる水神としての白旗神 風琳堂主人 2004/03/10 (水)

 奥三河・花祭に、再生儀礼に関わる「白旗塚」なるものがあるそうで、白旗神と白山神もまた交差してくるのかもしれません。この白旗塚の存在から、「各地に地名、塚、神社など、白旗を名乗るものは源氏の白旗に由来するものではなく、白山の再生儀礼に伴うものではないか」と、白旗信仰のはじまりを源氏白旗説とみることに対する疑問を呈していたのは東原那美さんでした(『白山神社と太陽信仰の研究』東村山市教育委員会)。ちなみに、東原さんは同書で、白山神を天御中主神とみなす仮説を展開しています。
 ところで、遠野の歴史・民俗研究の先達に伊能嘉矩(1867─1925)がいます。伊能もまた、白旗神の本質を探ろうとした一人でした。

■白旗神は河伯
 さて白旗といへる信仰対象は果して何物を本地とするのであらうか。由来奥州には古く巨川大河の縦横氾濫を極めし原始の混沌に伴ひて河伯、即ち水の神の信仰が行はれつゝあつたものの如く、彼の河線五十里の延長を有して中奥の谷野を迂余屈曲し剰へ往古一大湖沼をここに形つくりしとさへ伝へらるゝ阿武隈川(復軒雑纂に云「上古は今の福島町の辺阿武隈川の水を湛へて湖沼なりしに後に伊達伊具の郡界なる猿跳を截りて阿武隈の水を落したりし由」)に於ける安福麻河伯神社(延喜式神名帳陸奥亘理郡四座の一)の如きは其唯一の代表で乃ち穿ちて言へば、河伯は其の実伯河で現代夷語にて水の神を指称するワツカ、ウシ、カムイに類推すべき近似の対音かとも考へられ得る。〔中略〕伯河の音は白旗に近いので斯くは文字の転形(伯河→河伯…引用者)を見らるるに至つたものらしい。(伊能嘉矩「過去の遠野」、『遠野の民俗と歴史』所収)

 皇極紀には河伯を「かはのかみ」と訓じている例がありますが、ここには、八幡や白旗に共通しているハタ、ワタの音に対して、アイヌ語の「水」を意味するワッカを原音とする比定がなされているとも読めます。ワタに朝鮮語を読もうとすれば、意味は「海」になるのかもしれませんが、ワタはより原義的には「水」を意味すると理解する伊能アイヌ語説に魅力を感じます。伊能嘉矩は白旗神と八幡神(比売大神)を重ねて考える発想をしていませんけど、白旗神でもある八幡比売大神は、御許[おもと]山の水神でもありました。
 ハタ・ワタを水と解しますと、白旗神は白水神であり、白に聖性をみれば、白旗神は「聖なる水神」と理解することもできます。ここに、白山神をさらに重ねますと、白河・白川といった各地にみられる川名(→地名)も無縁ではないということになりますし、先に引用した、再生儀礼に関わる白旗塚も、これも白水塚となり、つまりは、聖なる水神の塚となります。白山神が禊神としての瀬織津姫を核に秘めていることを考えますと、この神が「再生」に深く関与していることも不思議ではないとなります(中臣神道によって貶められて理解されるとき、瀬織津姫は三途川の姥神ともみなされますが)。
 水滾[たぎ]る川(湍つ瀬・速川)はその水色を「白」と変じます。「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」(大祓祝詞)は、イメージとしては、そのまま「白水神」とみてよいのかもしれません。そういえば、白山の飛騨側の大滝は白水滝であり、その滝川は大白水谷・小白水谷→大白川(庄川支流)でもあります。庄川の古名が雄神川であると歌っていたのは大伴家持でしたが、雄神神社二社の祭神がともに瀬織津姫であること──、これも理にかなった祭祀といえます。

029 遠野の火伏せ神は例外か 風琳堂主人 2004/03/14 (日)

 防火鎮護(火伏せ)の神といえば、まず愛宕神、そして秋葉神の名が浮かんできます。神社神道における祭神は、どちらも、カグツチ(迦具土、軻遇突智など)がメインで、この神はホムスビ(火産霊、火牟須比)やホノイカヅチ(火雷)などとも異称同神といわれます。
 全国の愛宕神(愛宕権現)あるいは秋葉神(秋葉権現)をカグツチという祭神名で統一しようとしたのは、これもおそらく明治の祭祀権力でしたが、そういった大きな潮流のなかで、特異な例外を示したのが遠野・上綾織の愛宕神社でした。同社祭神は、戦後、全国の愛宕神=カグツチにならうように変更されてしまいましたが、戦前までは、「瀬織津姫命」を祭神としていました(昭和14年『岩手県神社事務提要』、昭和63年『岩手県神社名鑑』)。瀬織津姫は基本的に水神ですから、この神を火伏せ神としてまつることは、火神を逆説的に理解してまつるよりもはるかに自然なことでした。遠野の愛宕神社の貴重な由緒記録・伝承を書き写しておきます。

■愛宕神社(適宜句点に変更。綾織村教員会編『綾織村誌』昭和七年六月三十日発行)
 社格 無格社  祭日 旧七月廿四日  氏子 九五
 石階段百余級その中間に鳥居あり。上りつむる処に神楽殿あり。更に上りて本殿あり。南面して松樹の間より綾織平野を望む。祭典には神楽獅子踊等を奉納し参拝者多し。
 本社の創建は明らかならざれども、近村火災多く人家山野共に焼くること多し。ここに至り里人相協りて、寛治年間(一七四七〜一七五三…【注】神武紀元)火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり。
 本社を拝すれば感応最も多し。赤阪家にて家人眠り居りしに夢に愛宕神社の神霊を見たり。驚きて起き上りしに、誰人か放火して既に大事に至らんとす。急ぎて之を焼(消)しとめ霊験のあらたかなるに感じ、本社に石檀を献納せり。〔後略〕

 高所で夜通し火災の発生を「見張る」神を考えますと、アイヌならば、おそらくシマフクロウという善神がふさわしいとなりましょう。そのような絶対的な「信」を置くに値する神として、ここでは「瀬織津姫神」が認められています。
 なお、文中、寛治年間は西暦でいえば1087〜1094年で、平安時代後期にあたります。寛治元年(1087)は「後三年の役」が終わった年で、源義家が奥州にその地歩を喪い、代わって奥州藤原氏の実質的な祖である藤原清衡が実権をにぎる年でもあります。ちなみに、清衡の父・経清は「前九年の役」において斬刑に処せられますが(1062年)、生前の永承年間(1046〜1052)、経清が創建した神社に紫波・白山神社があり、同社麓には経清の母(清衡の祖母)の墓もあります。安倍氏と早池峰神、同氏末裔・奥州藤原氏と白山神は、ことのほか深いつながりがあります。
 愛宕神社の本社は京都・愛宕山にあり、麓には空也滝があります。これは初めて知ったのですが、愛宕山は、大宝元年(701)、役小角と若き泰澄の二人によって「開山」された伝承があるとのことです(HP「賀茂探求」)。役小角と泰澄の前に現れ平伏した「愛宕太郎坊」なる天狗は、全国の天狗の頭領格にあたる大天狗で、これは猿田彦神の化身でしょう。猿田彦神は原初の日神=火神(の仮称)とみてよく、愛宕山には複層する日水神隠しがなされているようにおもえます。大宝元年は、持統の三河行幸あるいは彼女の死の前年にあたり、瀬織津姫隠祭と因縁深い修験者二人が愛宕山で接触していた伝承は、ますます愛宕神祭祀の謎を深めてくるようです。

030 愛宕神社の義経伝説 風琳堂主人 2004/03/16 (火)

 御浜御前を諸人は「龍神之宮」と呼ぶが、ほんとうはそうではない。龍神(八大龍王)は、当社「太神」「海上一切之水君」の「眷属之神」である──これは、白幡旗[しらはた]神=瀬織津姫の歌を伝える御浜御前について、「諸人」の誤解に対して述べられた由緒内の言葉ですが(「東国正鎮守御浜御前」)、御浜御前が鎮座する三崎の一つである「白銀[しろかね]崎」(太城)には「文治年中源九郎義経ノ北ノ方此ノ処ニ住ムトイヘリ」という伝承も収録されています。遠野の白幡神社の祭神は「源義経の白幡」とも伝えられ、また、東磐井郡千厩[せんまや]の白幡神社は義経の勧請伝承をうたっていて、義経と白幡神との深いつながりが、よく伝わってきます。
 義経が創建した伝承をもつ神社は、千厩の白幡神社のほかに、少なくとももう一社あります。遠野市綾織町には愛宕神社が二社あり、一社についてはすでにふれましたが、あと一社は同町新里にあります。この新里の愛宕神社に義経伝承があります。同社は、戦前まで、祭神は「伊邪那美命」の一神でしたが、戦後は「迦具土命、伊邪那美命」とされ、ここにも、国家神道→神社神道と継続する、愛宕神のカグツチ化という祭神統一の事例を確認できます。新里・愛宕神社は阿曽沼氏時代(奥州藤原氏滅亡後)の創建をうたうも、次のような異伝を残しています。

■愛宕神社に伝わる義経伝説
 本村(綾織村)東端字新里にあり、伊邪那美命を祭る。境内は猿ヶ石川に臨める絶壁の上にあり、数百の石段を登りて堂宇あり。境内は幽邃にして、老樹に富み、山腹を流るゝ猿ヶ石川に臨める一面は松と桜を交植し花時の観尤も佳なれども、夏時の緑陰を尋ね、急流岩に激する辺に杖を引く時凉味更に掬すべし。〔中略〕
 本社は文治五年己酉(一八四九…西暦1189)の年源義経の創建に係れり。源義経は平氏滅亡後兄頼朝と不和になり、文治二丙午年、鎌倉を逃れて奥州平泉藤原秀衡に頼る。秀衡死後其後泰衡、頼朝の命を以て義経を殺し其首を鎌倉に送る。文治五年なり。翌年建久元年九月源頼朝は義経を殺さずして偽首を送りし罪にて泰衡を追ふ(注…吾妻鏡は泰衡追討を文治五年と伝える)。
 文治五年検非違使右近衛尉伊予守源九郎判官義経は平泉を落ちて、東磐井より江刺を経、上閉伊遠野より釜石に至り、東海岸を北進して宮古久慈八戸より野辺地に掛り、青森蟹田を通り、竜飛岬より海中を馬上にて、北海道福山に渡れりといふ。
 其通行中上閉伊郡に入りし際、民家の火災に遇へるもの多くあるを憐れみ、義経自身が幼年時代に愛宕山及鞍馬山にて兵法を学びしより、愛宕山の御神号を守本尊とせしなり、亦愛宕の神は鎮火の守護なるが故に、上閉伊郡の処々に愛宕神社を建設し里人に崇信せしめて鎮火祭を執行せしめて、火災消除を祈らしむ。(適宜句点に変更。昭和七年『綾織村誌』)

 義経生存説かつ北行伝説を色濃く反映した創祀伝承です。猿ヶ石川は薬師岳を源流山として南下し(源流部の一つが又一ノ滝)、この愛宕神社のあたりで西に流下すること約60キロ、花巻の地で北上川に合流します。由緒の鎮座地形の描写をみますと、この愛宕神には火防鎮護に加え洪水鎮護の願い(水神への期待)も重なっているようです。義経の「守本尊」つまり守護神が愛宕神であることを是としますと、ここに白幡神(=白山神)を重ねてみたい誘惑にかられます。
 義経と終生同行した弁慶は熊野修験の徒であり、熊野・白山を含む修験の闇のネットワークは、頼朝と敵対関係にはいった義経の奥州入りに、大いに加担しただろうことが想像されます。

031 中臣=藤原思想の亡霊 風琳堂主人 2004/03/20 (土)

 明治期に「三前神社」とされた御浜御前でしたが、戦後は「御前神社」と、社名の変遷がみられます。明治の三前神社(本社)からは本来の祭神は抹消→変更されてしまいましたが、同社由緒においては、「摂社」の名で川口神社が記録されており、そこに瀬織津姫の名をかろうじて残していました。戦後現在、では、この川口神社にはどのような由緒表現がなされているのか。

■川口神社(青森県神社庁『青森県の神社』平成十四年八月一日発行)
鎮座地 八戸市湊町字下条三〇
祭神  速瀬織津比売神、速秋津比古神、速秋津比売神
由緒  当社の鎮座する川口は、かつて馬淵川と新井田川とが合流し太平洋に注ぐ岩石重塁する処であった。当初は地元の漁師たちの崇敬する一小祠であったが、水戸[みなと]の出入口であったが故に航海安全、大漁成就を中心とする信仰の上に、災い汚れを祓う神として別名川口の竜神さまとも呼ばれ尊称されてきた。/社伝によると、創建は万治二年(一六五九)と言われ、寛保三年(一七四三)には、当時の藩主より御屋根柾十五丸寄進があり、川口勇猛善神と称号した旗二流の奉納があったと言うことである。
 流れゆく潮の間にあって罪や穢れを祓い清める水戸[みなと]の神でもある主祭神の他に、海の幸を生み育てる大綿津見神及び食物の神である豊受比売神の二座をも合祀している。〔後略〕

 川口神社の「創建は万治二年(一六五九)」とされるも、三前=御前神社との「摂社」関係の表示が消去されていることがわかります。瀬織津姫と御前神社(御浜御前)は一切関係ナシとする意向とみることもできますが、しかし、明治五年の「神社調」の際の由緒ばかりでなく、江戸期の由緒においても、この分社関係はすでに明記されていました。曰く、「近年川口に禿倉[ほこら]を立るより以来[このかた]、川口へは鰯を供して本社へは供さないことはまちがっている」です(「東国正鎮守御浜御前」、現代文に書き換えた)。ここには、本社・御浜御前よりも川口の祠の方に崇敬の比重が移ってしまって、それを本社側が嘆いている様子も伝わってきますが、ともかく、この「川口」に立てられた「禿倉[ほこら]」こそ、のちの川口神社でしょう。
 川口神社の神は「災い汚れを祓う神」、「流れゆく潮の間にあって罪や穢れを祓い清める水戸[みなと]の神」とされますが、大祓祝詞=中臣祓に沿っていいますと、後者の表現は「速秋津比売神」に該当します。川口神社の原神というべき瀬織津姫が「災い汚れを祓う神」と祓神化されたのは天智八年(669)まで遡りますが、速秋津比売神などはあとに付加された神でした。
 本社・御前神社の戦後現在の由緒は、明治期のそれを基本的に踏襲するもので、同社由緒は、祭神変更した住吉三神の説明を、「当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきた。さらに古事記・日本書紀の記するところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓[みそぎ]をされた時に海中より生まれなさった故事から、身の汚れ心の汚れを祓清める神としても信仰されてきた」と表現しています。記紀は、この住吉三神出現の前に「禍(枉)津日神」、つまり瀬織津姫の異称同神とされる神名を記していましたので、祭神変更に際して、「同系」の住吉三神を選択した内部理由も透けてみえてきます。川口神社の由緒からは、瀬織津姫を「祓神」に限定しようとする祭祀意図、これは中臣=藤原思想の亡霊といってよいのですが、その執拗な継続の姿もよくみえてきます。

032 伊豆山神社の不思議 風琳堂主人 2004/03/22 (月)

 八戸・遠野・室根といった北東北の伝承においては、白幡神、愛宕神、伊豆神、熊野神に共通して瀬織津姫の名を伝えています。こういった記紀記載の神々に準じない神の表示は、全国的にみれば少数の例外ですが、だからといって捨象してよいかといえば、むろん逆だとわたしは考えています。アマテラスの祖型神でもある瀬織津姫は、中央の皇祖神構想にとっては、最大禁忌神とならざるをえません。そのタブー性が、全国の神々の祭祀に強い歪みを強制して現在にまできています。八戸の御浜御前=御前神社に伝わる瀬織津姫讃歌や、この「神、非礼を受け賜[たまは]ず。生を豊穣津島の神国に受け、情を全うす。而して、必ず神に成り賜[たま]へ」という切望の言葉は、柳原白蓮の滝神讃歌「神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ」(住田町・天の岩戸滝)と呼応しています。ちなみに、「天の岩戸滝」は気仙川の源流部で、流域には、瀬織津姫を(熊野神として)まつる神社が少なくとも六社あります。
 ところで、愛宕神=カグツチの異名(の一つ)である火牟須比命は、遠野・伊豆神社(祭神:瀬織津姫命)の本社である熱海・伊豆山神社の主祭神でもあります。伊豆山神社は(も)、その祭祀上、いくつも不透明な事項があります。たとえば、火伏せ神として主神=火牟須比命がまつられているかとおもえば、境内摂社には同じく「防火鎮火の神」として雷電神がまつられているといったことを挙げることができます。伊豆山神社には火伏せ神が二神同居しているというのは奇妙なことで、こういった素朴な疑問がまず浮かんできます。しかも、由緒によれば、雷電神は「火牟須比命荒魂」と表示されていて、では、火牟須比命は「和魂」なのかとなりますが、しかし、火伏せ神の荒魂・和魂と説明されて「なるほど」と納得する人はいないでしょう。
 伊豆山神社は、江戸期まで、伊豆(山)権現、走湯権現といって、要するに神仏混淆の典型的な表示をしてきました。では伊豆(山)権現=走湯権現の「本地仏」はなにかといいますと、これは役小角、空海の伝承に遡っても、共通して「千手観音」と伝えています。十一面観音は聖観音の変化観音ですが、千手観音は十一面観音のさらなる変化観音で、十一面千手観音と正確に呼んでいる場合もありますが、一般には「十一面」を略して呼ぶこともよくあります。
 走湯権現の「走湯」については、これは読んで字のごとくで、まさに「走り湯」という湯水の動態を表した言葉です。伊豆国風土記逸文の「走湯[はしりゆ]」の記載を写しておきます。

■燐光を放つ走湯
 普通尋常の出湯[いでゆ]ではない。昼のあいだに二度、山岸の岩屋の中に火焔がさかんに起こって温泉を出し、燐光がひどく烈しい。沸く湯をぬるくして、樋をもって浴槽に入れる。身を浸せば諸病はことごとくなおる。(吉野裕訳)

 わたしもこの「岩屋」の洞窟の中に入ってみたことがありますが、その地熱と蒸気で、噴出口の写真はついに撮れませんでした。その昔、この走り湯は「滝」となって熱海の海に落下していたそうで、走湯神は滝神でもあります。「伊豆山略縁起」には、「山中の洞穴より湧出する霊泉は、もろもろの病を癒し、二六時中十方の善悪正邪を裁断し、これを神様の根源として祀ったもの」で、それが天忍穂耳尊だという祭神説が記されていますが(太田君男『熱海物語』)、天忍穂耳尊が湯(水)神だというのは疑問です。「善悪正邪を裁断」する神、しかも「滝神」であり、さらに「十一面千手観音」と習合するという三条件を満たす神は、自ずと絞られてきます。

034 雷電神は伊豆山の地主神 風琳堂主人 2004/03/24 (水)→修正 2004/05【033は欠番】

 駿河の国の伊豆の埼を割いて伊豆の国と名づけた。日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂[あらみたま]を祭る──これは、伊豆国風土記逸文の記載ですが、この「日金嶽」は「走湯山縁起」などが記す日金山で、つまり伊豆山を象徴する峰といってよく、現在の十国峠にあたります。伊豆国の誕生は、天武九年(680)七月のことで(扶桑略記)、天武時代あるいは風土記時代に「瓊瓊杵尊の荒神魂」がまつられたというのが、成書文献上においてですが、最古の伊豆山の祭神伝承です。ちなみに天武九年は、その後、国家鎮護の根本経典となる「金光明経」が、初めて宮中や諸寺で説かれ、神宮祭祀とは別に、仏教による護国思想が本格稼動をはじめた年でもあります。
 それにしましても、天孫=瓊瓊杵尊ではなく、その「荒神魂[あらみたま]」とわざわざ表記されることもまた不透明の事項といってよく、これを明快に説明している伊豆山側の文献はないようです。自然の暴威と恩恵を神の荒魂と和魂の表象とみなす一般論が成るのは後世のことで、文献に、荒神魂=荒魂の表記を探りますと、日本書紀の神功皇后条にみえる「天照大神荒魂」が最古のものでしょう。天照大神荒魂は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という長い異名も記されていましたが、記紀の記述によれば、この神は自然の暴威を表したものではなく、神功皇后の旦那である仲哀天皇を、その不信心(不信神)から祟り殺した神とされます。この祟り神としての天照大神荒魂をまつるのが皇大神宮第一別宮・荒祭宮です。ちなみに、この荒祭宮の敷地に現在の内宮がつくられます。神宮側の文献(倭姫命世記)は、荒祭宮の神を皇太神荒宮魂(=天照大神荒魂)とし、その異名神として、瀬織津比盗_もしくは八十枉津日神と記しています。
 大祓祝詞(六月・十二月の晦大祓)の国津罪の一つに「高津神乃災」がありますが、これは「雷神その他の悪神による災害」とされます(虎尾俊哉『延喜式』吉川弘文館)。この解釈を是としますと、雷神は悪神とみなされていることになります。そういえば、菅原道真の「怨霊」も雷神の姿となって「祟り神」として顕現しました。「雷神」を畏怖する感覚は、古代にはかなりリアルなものであったのかもしれません(関係当事者に近ければ、よりリアルであったでしょう)。
 八戸の御前神社(明治期は三前神社)の由緒に、「当社地ニ旧古ヨリ雷神鎮座ス」と記されていた祭神「大雷神」は、なぜか戦後の由緒からは削除されていましたが、この大雷神を御浜御前=瀬織津姫の異称とみる可能性もあるのではないか──。こう考えるのは、祟り神(御霊神)→悪神と連鎖する雷神の性格によっています。
 伊豆山神社・摂社の雷電神社は、中世には「光の宮」「雷の宮」と呼ばれていました。太田君男『熱海物語』(国書刊行会)に興味深い記述があります。

■伊豆山の地主神は雷電神
 延喜式神名帳に記されている、伊豆国田方郡二十四座中の小一座「火牟須比命神社」をもって伊豆山神社にあてる説は、現在境内の入口にある雷電神社が地主神であって、後世に伊豆山権現の勢威が発達するにつれて、その影はうすれていったと考えられます。

 風土記時代(奈良時代)には瓊瓊杵尊荒神魂であったのが、延喜時代(平安時代)には火牟須比命と、祭神が変遷しています。「雷電社縁起」によりますと、この火牟須比命の「女体を祀った」のが雷電神という珍解釈もなされていたようです(太田君男、前掲書)。しかし、雷電神が地主神であり、かつ「女」神であるという伊豆山側の理解は注意しておいてよいかとおもいます。

035 走湯神と雷電神 風琳堂主人 2004/03/26 (金)

 伊豆の国 山の南に いづる湯の 速きは神の 験[しるし]なりけり(源実朝)

「伊豆山略縁起」が記していた、走り湯を「神様の根源」とみなす認識と共有する歌意といってよいでしょう。実朝が伊豆の「走湯神」の名を識知していたかどうかは断定できませんが、彼は、足しげく伊豆山権現(走湯権現)に参詣した将軍でした。これは、父の頼朝によってはじめられた「二所詣」(箱根権現と伊豆山権現への参詣)を踏襲したものですが、実朝はその短い生涯において、八回も伊豆山へ通っています(ちなみに、頼朝は四回、妻の政子は二回)。
 ところで、伊豆山の地主神として雷電神の名が挙げられていました。では、走湯神と、この雷電神はいったいどういう関係にあるのか、あるいはまったく関係がないのか、そこのところが後世の人間にとっては不明な事項でもあります。
 伊豆山神社の由緒を考えるときの根本史料に「走湯山縁起」(平安末期か)があります。同縁起の巻第四は「走湯山雷電縁起」で、ここには「熊野走湯山」という言葉とともに「雷電金剛童子は、南山熊野王子、東明走湯儲君なり」と記されています。一般には、熊野信仰の影響のもとに、この縁起が書かれていると理解されているようですが、それはその通りでしょうが、走湯神が熊野神と無縁でない神とみる理解があってこその縁起でしょう。ここに記されている「東明」は、伊豆山の「別当」である走湯山東明寺密厳院(真言宗)と関連があり、つまるところ、伊豆山は真言宗によって神仏混淆化がなされました。縁起の巻第三や『伊呂波字類抄』(平安末期)は、この神仏混淆に関わった当事者の名を弘法大師(空海)の門弟「竹生賢安」なる修験者としています(わたしは空海とみています)。『伊呂波字類抄』の賢安伝承によりますと、承和三年(836)、賢安の夢に「霊異人」が現れ、「我れはここの地主『走湯権現』と号するなり。汝ここに留り我れを祀り修行せよ」と告げたといいます。賢安はそこで、「長さ七尺四寸の千手観音像の本尊を伊豆山の社に祀り、走湯権現を顕現した」とされます(太田君男『熱海物語』)。
 走湯権現の「本地」として千手観音を最初に感得したのは、伊豆山三仙人の一人・金地仙人とされ、そのあとに役小角がつづき、次に空海が同じく感得して千手観音像を彫ったとされます。賢安は四人めの千手観音の感得者ということになりますが、ここで注意しておきたいのは、走湯権現が「我れはここ(伊豆山)の地主」と賢安に告げていることでしょうか。
 雷電神も伊豆山の地主神であり、走湯神もまた地主神であるという不思議なことになってきました。しかし、先に引用した「雷電金剛童子は…走湯儲君」といった記述からも雷電神と走湯神は無縁ではないようです。また、伊豆山神社に伝わる沙弥覚如の「敬白祈願事」なる文書には、「右走湯権現雷電神霊者、円通大士之垂迹、応化分身之和光也」と、走湯神と雷電神は同神である認識が書かれています(太田君男、前掲書)。
 ちなみに雷電神社(当初は雷殿)が創建されたのは、文徳天皇の時代(850〜858)とされ(『真本曽我物語』)、役小角や空海の伝承をもつ走湯神祭祀よりも時代は下ることになります。走湯神とは別に雷神(後世に雷電神となる)をまつる必要、あるいはその理由を縁起は記すことをしていません。ここで、なぜ走湯神とは別立てで雷神をまつったのかを考えてみますと、これは想像的仮説となりますが、それはおそらく、走湯神が走湯権現というように、神仏混淆化(祭祀改竄)がなされたことと関わっているようにおもえます。それを不承知とした走湯神の「祟り」(地震、疫病など)を感じたとき、新たに雷神祭祀(鎮魂)の必然性を生じさせたのかもしれません。

037 役小角と伊豆山(走湯山) 風琳堂主人 2004/03/31 (水)【36は欠番】

 役小角が「妖言」の罪で伊豆島(大島)に流罪となるのは文武三年(699)のことでしたが、小角の伊豆での行動をみますと、流罪人とはおもえないような自由なふるまいです。小角と走湯[はしりゆ]の由来伝承について、太田君男さんは、次のように描写しています。

■役小角と走湯
 文武天皇三年(六九九)五月、朝廷の疑を受けて、伊豆の大島に流されてしまった役の行者は、日中はおとなしくしていても、夜になると、かならず島を抜け出し、海上を飛鳥の早さで渉って、富士山へ登っていました。
 ある日、役の行者は海上から伊豆山の峯をながめると、五彩の瑞雲(めでたい雲)がたなびいており、かの山はまさしく霊山聖地にちがいない、ひとつ出向いて霊湯(走湯温泉)にはいろうと、ひそかに伊豆山の磯辺にわたってくると、波の底から金色八葉の蓮華の菩薩や天仙がとりまき、千手千眼の尊像が現れて波間に金の経文が浮かんでいました。経文には無垢霊湯、大慈(大悲の誤植か…引用者)心水、沐浴罪滅、六根清浄(霊湯にはいれば、もろもろの罪も消えるの意)とあり、役の行者はこの経文に感嘆して、伊豆山権現を崇尊して源泉(走湯温泉)の近くに、草堂を営み参籠(おこもり)したと伝えられています。ここからは走るが如きお湯が湧き出し海に注いでいたので、いつしか走湯と呼ばれるようになりました。(太田君男『熱海物語』)

 走湯は「金の経文」つまり「無垢霊湯、大慈(大悲)心水、沐浴罪滅、六根清浄」を体現する温泉とのことで、この霊湯神を仏化したものが「千手千眼の尊像」(十一面千手千眼観音)のようです。十一面千手(千眼)観音は熊野那智の補陀洛山寺や竹生島宝厳寺の本尊でもあり、ともに瀬織津姫と縁深い地にまつられる観音です。瀬織津姫は日吉大社においては「走井祓殿」の主神とされ、いわゆる「走井」(速川)の神とみなされています。これは、「速川の瀬に坐す」祓神として瀬織津姫を封じた大祓祝詞の影響下にあるものですが、瀬織津姫は、まさに「沐浴(禊)罪滅、六根清浄」を司る神とみなされていました。この「罪滅」に関わる神としての瀬織津姫讃歌(神歌)が、椿大神社(鈴鹿市)に伝えられています。曰く、「罪咎[つみとが]や御幣[おんべ]の川に祓ふらむ瀬織津姫の神のみいつに」です。ただし、これも、「祓戸大神」と限定した上での瀬織津姫の神威に対する讃歌です。
 伊豆の小角伝承においては(も)、現在、瀬織津姫の名を、文献(文書)上に直接確認することはできませんけど、周辺の状況証拠(?)は、走湯神が瀬織津姫であろうことを示唆して余りあります。「伊豆山略縁起」における「善悪正邪を裁断」する神を考えましても、「糺の弁天さん」の親称をもってまつられる神として瀬織津姫の名を確認できますし(京都・下鴨神社の井上社=御手洗社)、ここに、古事記・允恭記の「盟神探湯[くがたち]」を司る神が八十禍津日神(瀬織津姫の異称)であることをさらに添えることもできます(詳しくは「瀬織津姫神名考」に記載)。
 伊豆国風土記(逸文)は、「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」と不可思議な祭神名を伝えていました。現在の伊豆山神社の祭神は「伊豆山神(火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命)」とされます。日金嶽は、万葉集においては「伊豆の高嶺」と歌われます。伊豆山(走湯山)という単独の山名はなく、日金嶽(日金山→十国峠)や本宮山、岩戸山などを含む総称が伊豆山で、これは、熊野や白山などと同じとみてよく、「霊山聖地」への尊称として、この総称名はあります。

039 元明女帝と伊豆山(走湯山) 風琳堂主人 2004/04/03 (土)【38は欠番】

 伊豆における役小角の伝承を記していたのは「走湯山縁起」の巻第二でしたが、同巻には、走湯神が伊豆に愛想を尽かした話も収録されていて興味深いです。太田君男さんの要約の言葉を借りますと、「元明天皇の御代には『神化縁已盡』きて、称徳天皇の御代には弓削道鏡の事件の起きたのに及んで、霊神(走湯神…引用者)は我が国に住むをいさぎよしとせず、本居たる高麗国などに移られた」というものです。このあと、霊神のいなくなったために、走湯の霊湯は枯れ干してしまったが、「地主白道明神の秘計」によって霊神がふたたび帰ってくると、湯はまた湧き出したとされます(『熱海物語』国書刊行会)。
 霊神の本国が「高麗国」というのは、本地垂迹(仏縁の発想)による仮の異国名でしょう。また、ここには、第三の地主神「白道明神」の名が出てきて、伊豆山祭祀の複雑さを伝えてもいます。しかし、この巻第二の伝承において、より貴重な証言記録があるとすれば、奈良期の女帝二人の時代に、霊神=走湯神が、伊豆山(祭祀)に「嫌気」がさしたと伝えていることです。
 称徳(←孝謙)は尼天皇で、それまでの中臣=藤原思想による神祇祭祀の改竄を無化するほど、仏教による護国を考えた女帝でした。彼女のこの施策は、その父の聖武(彼も出家する)の仏教による護国思想を継承、徹底しようとしたもので、たしかに「神」が「我が国に住むをいさぎよしとせず」と感じたとしても無理からぬ時代趨勢であったといえます。
 では、もう一人の元明女帝の時代に「神化縁已盡」きたという縁起の言葉をどう読むかですが、ここには、「なぜ神化の縁がすでに尽きたと走湯神はおもったのか」という肝心な理由が記されておらず、これは想像するしかありません。わたしは、ここに、持統女帝の意向を継承した元明という、瀬織津姫祭祀改竄の常習犯のような女帝の名が出てきたことに、この縁起の価値、真骨頂の一つを読むものです。
 元明は天智の娘で、天皇位に就くのは慶雲四年(707)、彼女の太上天皇時代までを含めますと(721年に逝去)、十四年にわたって、右大臣=藤原不比等、神祇伯=中臣意美麻呂らとともに、マツリゴトのトップに君臨した女帝でした。この元明時代に古事記(712年)、日本書紀(720)が成書化されます。また、古事記成立翌年にあたる和銅六年(713)には、風土記撰進の命が出されます。日本書紀記載の神々と整合しない祭祀をつづける神社、いいかえれば、新たに立ち上げられた神宮祭祀(皇祖神祭祀)に抵触する神々をまつる有力社に対して、祭神変更(祭祀改竄)の要求・介入が組織的に行われはじめたというのが元明時代です。
 白山における神仏混淆を方法とする祭祀改竄(717年)に象徴されますが、「地神」として同神をまつっていた可能性が濃厚である伊豆山が、その祭祀を無疵でありつづけたということは考えにくいです。このことを端的に表すのが、伊豆国風土記(逸文)「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」という言葉です。「祭る」というのは、それまでの神に代えて「新たに祭る」ということで、これは明らかに、伊豆山祭祀に朝廷の力が行使されたことを表すものです。
 ところで、役小角の伊豆への流罪は、韓国連広足の「讒言」によるもので、小角はつまりは冤罪→無罪であったと続日本紀は記しています。小角は伊豆配流から解放されると(大宝元年=701年)、すぐに、若き泰澄(勅命による白山の開山=改竄者)とともに愛宕山の「開山」をしています。愛宕山は伊豆山とちがって火山でもないのに、その後、伊豆山の火牟須比と異名同神とされるカグツチという火の神がまつられることになるのは偶然のことかどうか。小角の伊豆配流時代、持統は太上天皇として健在でした。ここからは、ミステリアスな話になりそうです。

040 役小角の最期のメッセージ 風琳堂主人 2004/04/05 (月)

 本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり──これは、役小角の「ご遺偈」とされる、いわば辞世の言葉です(役行者の生涯、HP「三井寺」)。小角の死は、伊豆の配流から解放された大宝元年(701)とされるのが通説です。わたしは、小角がいつ亡くなったかということよりも、小角の思想といったものが、この辞世の言葉によく表れているような気がして、少しおもうところを書いておきたいとおもいます。
 伊豆への配流時代、小角の「夜間修行」の場は、富士山のほかに、東は江ノ島にまで足を伸ばしていたようです。裸弁天(妙音弁財天)で著名な江島神社は、現在、宗像三女神をまつっています。社伝では、同島の龍窟(富士の人穴に通じている伝承をもつ)において、小角は天女の姿を感得したとされます(社宝に小角の自刻像や空海作の弁財天像があります)。この天女とはいうまでもなく弁才天女です。日本三弁天といいますと、竹生島、厳島、江ノ島のそれといわれます。この三弁天に天川(天河弁財天)を加えてもよいのですが、これらすべてに共通して小角の強い関わりが伝えられています。小角にとって、弁才天はよほどの存在だったようです。
 小角の修行場であり終焉の地でもある、箕面大滝で知られる滝安寺(かつての箕面寺)においても、小角自身、弁才天像や不動明王像などを刻んでいます。小角の「ご遺偈」における、「本覚円融の月」の「方便応化の影」とは、おそらく水の神・川の神である弁才天を指しています。つまり、円満無比の神徳をもつ月神は「方便応化」(仮)の姿=弁才天となって、「東海(日本)の水(河川湖沼海辺)にあり」というのが、小角の最期のメッセージだったようにおもえます。
 同じ神仏混淆を先駆的になした役小角と泰澄を比較してみて気づくのは、小角は、泰澄とちがって、垂迹神を述べていないということがあります。つまり、小角は、そこの霊山霊地の地神(水神)を弁才天や十一面観音に置き換えている(感得している)のみで、その垂迹神はこうだというように、元の地神を朝廷の意向に沿って変更するといったことをしていないようです。
 伊豆・走湯において、小角は走湯神を「(十一面)千手観音」として感得した一人でしたが、では、小角にとって千手観音とはどんな仏だったのか──。奈良県御所市茅原は小角の生誕の地といわれ、ここに、小角の開基をうたう茅原山吉祥草寺があります。同寺の本尊は「五大力尊」という不思議な尊像ですが、同寺の守護神として小角が勧請したのが熊野権現、また、ここにも弁才天の社を建てています。吉祥草寺には、小角の母堂・白専女[しらとうめ]の「本地」として千手観音がまつられています。小角にとって、千手観音は、母親とも習合する仏だとみますと、これは、おそらく道教的な大地母神のイメージも重なっているとみてよいでしょう。
 日本の神まつりの基層には、この道教的な地母神=姫神信仰が横たわっているようです。立山の地神を内包する姥尊信仰にも、この地母神の投影がみられます。白山、早池峰山、あるいは熊野那智と、十一面観音と習合する水神(=瀬織津姫)もまた、この地母神の性格を継承しています。ある小角伝曰く、小角の最期は、母親を鉄鉢に乗せ、唐の国・崑崙山へ渡ったと──。崑崙山こそ、道教における水神かつ山神の最高神である西王母の住まうところでした。
 小角は、天武・持統の律令国家構想の暗部をになう、つまり、各地の地神を仏教的に伏せる、新たな祭祀思想の知恵袋で、つまるところ、瀬織津姫隠祭の初期の状況を熟知していた印象が、わたしにはあります。第二期は、不比等・元明の時代で、ここから執拗な「地母神」隠しがはじまります。ちなみに、小角の伊豆配流のきっかけとなる「讒言者」を、韓国連広足ではなく、不比等、泰澄らだとする異伝もあるようです(役行者顛末秘蔵記、HP「役行者ファン倶楽部」)。

043 走湯山縁起「深秘の巻」 風琳堂主人 2004/04/21 (水)→修正 2004/23【41・42は欠番】

 梁塵秘抄は、「聖の住所」の南は「熊野の那智 新宮」とし、さらに「四方の霊験所」として「伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相[なりあい]、土佐の室戸、讃岐の志度」を列ねていました。「丹後の成相」とは「元伊勢」籠神社の背後の山で(同社神宮寺であった成相寺がある)、これらの霊験所の筆頭に記されたのが「伊豆の走湯」でした。
「亦名[またのな]天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる」──これは、籠神社奥宮の神・豊受大神についての神社側の説明です(HP「籠神社」)。豊受大神はいうまでもなく伊勢・外宮の神でもありますが、豊受大神の多くの神徳のなかで、特に「水の徳顕著」というのは、神宮側の文献「豊受皇太神御鎮座本紀」(神道五部書の一書)が記すところであり、「倉稲魂命」については、これは摂津国風土記(逸文)いうところの「稲倉山」の神(豊宇可乃売神)からきた同神解釈でしょう。
 天御中主神・国常立尊は、記紀において、造化の初源神とされていましたが、香取神宮第一摂社・側高神社の由緒書においては、自社の祭神を「天神(造化三神)天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神」とするも、そのあとに「古来祭神は“言わず語らずの神”」、「造化三神を隠[かく]り身[み]の神という」と注記してもいました(「側高神社由緒」)。また、同由緒書「古くより信仰の例証」の項には、側高明神は水神で瀬織津姫神、鹿島神宮第一摂社・息栖明神は風神で伊吹戸主神とする、「日暮家の氏神社」の対関係の神々もさりげなく紹介されています。
 天御中主神・国常立尊といった造化神は「隠[かく]り身[み]の神」、つまり仮称神であるという側高神社の勇気ある主張は、「元伊勢」籠神社の祭神説明にも通ずるものでしょう。
 伊豆山神社に伝わる由緒書「走湯山縁起」は五巻本で、その「巻第五」は「深秘の巻」とされます。同巻の「深秘」部分を要約しますと、日金山(伊豆山)から芦ノ湖(箱根)にかけて、その地下には赤白二竜が相交わり横たわっていて、頭部分は日金山、尾は芦ノ湖にある。湯泉が湧く所は、この竜の両眼と二耳、そして鼻穴口中である。そもそもこの竜は、この国の「未発」の前に海中に現れたもので、この竜が「顕迹」したのが国常立尊である、となりましょうか。
 巻第五の「深秘」の要点は二つで、一つは箱根権現と伊豆(山)権現の地神は同神であるということ、もう一つは、走湯神の異称・仮称は、これも国常立尊という造化神であるということです。ここに造化神を「隠り身の神」とする側高神社の認識や籠神社の説明を重ねますと、走湯神は豊受大神とも異称同神である可能性もみえてきます(豊受大神もまだ「隠り身」の神)。箱根権現の「本地」の神は九頭竜神であり、これは白山神や戸隠神の異称神でもあります(九頭竜神は、戸隠山から能生白山神社にかけて横たわってもいます)。そういえば、熊野信仰の「奥之宮」玉置神社の主神も国常立尊でした(玉置山はかつて牟婁岳と呼ばれていました。養老二年=718年に、熊野神[=瀬織津姫]がまつられた岩手の室根山の山名の元がこの牟婁岳でしょう)。
 伊勢、伊豆、箱根、戸隠、白山、熊野、丹後(籠神社)等には、まさに仮称の神々が語られてきているといえますが、伊勢、元伊勢を除くと、そこに共通してみえてくるのが、伊豆権現、箱根権現……といった「権現」(本地垂迹)の思想、つまり神仏習合の姿です。初期の神仏習合に対して独特の解釈をしなおしたのが平安密教で、その実践的先行者として空海がいます(「密教是天下鎮護之基、人法興複(福か)之妙術也」…「走湯山縁起」脱文、太田君男『熱海物語』)。同脱文によれば、「東寺大和尚」空海が伊豆山へやってきたのは、淳和十年(832)とされます。

044 空海と伊豆山(走湯山) 風琳堂主人 2004/04/29 (木)

『熱海物語』によりますと、伊豆山には、『走湯山縁起』五巻本とは別に『古縁起六軸』という六巻本の由緒書があったようですが、現在、その所在はなぜか不明とのことです(五巻分が『走湯山縁起』に該当か)。古縁起の第六巻は「走湯山秘決」の付題があり、「相承秘伝、山主之外不許他見」と記されていたそうで、この「不許他見」の巻をいつか眼にしたいものです。
 ところで、役小角は伊豆山において走湯神=千手観音を「感得」した伝承がありますが、その後、空海は同地において、二所権現(走湯権現と箱根権現)の「本地仏」として千手観音を「勧請」していました。京都・醍醐寺三宝院文書に「密厳院別当職記録」があり、そこには、次のように書かれています。

■結界された走湯の「秘穴」
 走湯権現は千手観音の示現、二所権現の垂迹也。弘法大師練行之昔、まのあたり権現の御神体を拝見し給ふ間、すなわち秘穴に観(勧)請し奉て、其所を結界せらる。今御在所と号する是也。大師、練行の由来に依て、寺僧大略東寺の真言を習学す。(『熱海物語』所収)

 空海(弘法大師)は伊豆山の走湯の「秘穴」に「千手観音」を勧請し、そこを「結界」したという記録です。また、「走湯権現は千手観音の示現、二所権現の垂迹也」とありますから、これは、『走湯山縁起』巻第五(深秘の巻)が記していたように、空海もまた、走湯神と箱根神を同神とみなしていたことを表しています。
 引用文中に二度出てくる「練行」という言葉のみを読みますと、空海は厳しい修行を走湯山=伊豆山の地で積んだ印象を受けます。しかし、「練行」はたしかにあったでしょうが、はたして、空海の伊豆行はそれのみを目的としていたのか──。朝廷(嵯峨上皇、右大臣・藤原冬嗣)は、空海に対して、最澄が亡くなった弘仁十三年(822)、「空海に国家鎮護のための息災増益の法を行わせる」(類聚三代格)、また翌年には「東寺を空海に賜う」(帝王編年記)とされ(『日本文化総合年表』)、空海への朝廷の期待は格別でした。彼が伊豆山へやってきた目的・意図について、『伊豆山記』は「密厳院別当職記録」とはちがって、次のように記録しています。

■勅使としての空海
 文武天皇の御宇役小角、当社の神徳を慕ひ、大島より当山(走湯山=伊豆山)に渡り、終身神明に仕え奉り、嵯峨天皇(上皇…引用者)の御宇僧空海を勅使として、当山に参向せしめ玉ひ、社則法令を定めしことあり。(『静岡県田方郡誌』所収)

 空海が「勅使」としてやってきて、その権威において「社則法令」を定めたという証言は貴重です。始閣(元姓は鈴木)藤蔵が、瀬織津姫を伊豆から遠野へ遷しまつるのは大同元年(806)と伝えられます。この時間は、空海が伊豆へやってきた嵯峨天皇→上皇時代(809〜842)の「前」にあたることは偶然ではないでしょう。空海や最澄などの国家仏教徒は、自身の修行的情熱だけで行動していたわけではなく、朝廷の命(勅命)によって各地を歩いていた(その地の地神を仏教的に置き換える=伏せる)ことが考えられ(神仏混淆)、これは、たとえば、斉衡時代(854〜858)、早池峰山(瀬織津姫)祭祀に深く干渉してきた円仁(最澄高弟で天台宗座主となる)にもいえます。

045 感銘深く拝読させていただきました かぐら川 2004/05/02 (日)

はじめまして。
『エミシの国の女神 早池峰―遠野郷の母神=瀬織津姫の物語』、感銘深く拝読させていただきました。
 その感想?を、菊池さんへの手紙というかたちで拙web日記(4/20と5/2)に書かせていただきました。うまくご紹介できたか心もとないのですが、意に添わぬ点、ありましたらご寛恕ください。
 この風琳堂のHPに、「白山神から立山・姥尊へ──姥堂・雄山神社・白山比盗_社・円空」という別項が掲載されていることも、今、知ったのですが、新川命の件は、あらためて書かせていただければと思います。
 とりあえず、チャレンジングなご本のお礼まで。
 これを機に、いろいろご教示いただければと思います。

 なお、誤植と思われる個所、いずれメールにてお知らせしたいと思います。

■歴史から消された女神の実像(HP「めぐり逢うことばたち」)

菊池展明様へ

『エミシの国の女神 早池峰―遠野郷の母神=瀬織津姫の物語』、感銘深く拝読させていただきました。
「瀬織津姫」の名を知ったのは、昨年末。富山県氷見市の山間部にある式内論社の一つ「速川神社」の御祭神としてでした。美しい神名ながら、古事記・日本書紀には登場しない不思議な女神との出逢いでした。それが菊地さんの本との出逢いにもつながったのです。

 東北岩手県の霊峰・早池峰に祀られている神ならば、縄文人の信仰を今に残す地方固有の神のはず(「縄文のみちのく=反大和政権」!)と勝手な古代ロマンを先読みしていた私には、驚くべき事実がまず指摘してあったのです。
 瀬織津姫は、土俗の地方神でないばかりか、無名にもかかわらず伊勢神宮内宮の別宮・荒祭宮に「天照大神」の荒御魂として祀られた格の高い神であるというのです。
 しかしそれだけではありません。祝詞に「祓いの神」、伝承に「滝の神」としてわずかに名を残す「瀬織津姫の実像」を尋ねる菊地さんの旅の前には意外な事実が、次々と現れ、読み進むうちに、私もどんでん返しを何度もくらうことになりました。

 瀬織津姫は、天武・持統体制によって大和政権的中央から追放され、記紀神話からも放逐され、祝詞のなかに封印されてしまったはずという――、日本書紀をていねいに読み解き、伊勢・三河のフィールドワークのなかで提示される――推論は、説得的でたいへん魅力的なものでした。
 そこには、皇祖神・天照大神の誕生の秘されたいきさつが語られていたのです。

 こうして用意周到に消されたはずの神でしたが、この“小さな、しかし偉大な神”は、異郷の地・東北に受け継がれ、蚕神・農業神オシラサマ、オクナイサマとなり、“大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり”という語り口で知られる(「遠野物語」)早池峰の神ともなって蘇生するのです。
 その裏に瀬織津姫を封印するという挙に出た持統女帝の内面のドラマが、「大昔」に女神を迎えた遠野の人びとへの共感と、織り重ねられつつ・・・。

―――上に紹介したのは私の興味に沿って拾い出した本書の骨子ですが、こんな理解でよかったでしょうか?。
 しかし、興味深く豊富な論点がまだまだたくさんあるのです。「どうして瀬織津姫が封印されねばならなかったか」という真のドラマをまだ紹介してないのです。その点は、いずれ紹介させていただく機会があるかと思います。

〔追記〕「おび」にも紹介されている主な論点は、次の通りです。
 アマテラスの誕生と祖型の神々/持統女帝の伊勢・三河行幸の謎/日本書紀の編集・創作思想/伊勢神宮の成立と伊雑宮の真の神々/オシラサマとザシキワラシの原像/東北と三河の古代史の一断面と連続面/国家の名のもとに歴史から消されてきた女神の実像……。

 神楽川という不思議な川を追っかけているうちに古代民俗学?の周辺もうろうろ歩き始めた私ですが、遠野・早池峰に始まり、異郷の古代――そこは著者のある意味固有のふるさとなのかも知れませんが――にワープし、遠野・早池峰に回帰する菊地さんの旅や、そこにさりげなく提示された知見からは、“越ノ国の神”についても、さまざまな想像に駆りたてられました。
 そんなことも、また書いてみたいと思います。

 有り難うございました。

※『エミシの国の女神 早池峰―遠野郷の母神=瀬織津姫の物語』(菊池展明/風淋社/2000.10)

046 瀬織津姫は不思議な女神 風琳堂主人 2004/05/04 (火)→修正 2004/06/25

 かぐら川さん、はじめまして。
 瀬織津姫の本をお読みいただき、お礼申し上げます。また、HP「めぐり逢うことばたち」での本の感想とご紹介をありがとうございました。以下は、些少の「返信」です。
 かぐら川さんの瀬織津姫との出会いは、氷見市の速川神社でのことのようですね(わたしは遠野の伊豆神社)。瀬織津姫は、たしかに「美しい神名ながら、古事記・日本書紀には登場しない不思議な女神」で、わたしも初めてこの神の名を知ったときには同じおもいでした。
 瀬織津姫の本名(?)は記紀に一箇所も書かれていませんけど(異称としては天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、八十禍津日神などの名で記載)、しかしながら、境内社や合祀などを含めますと、全国に400社以上(その多くが水神・滝神)、瀬織津姫の名を伝えています。また、これは唯一の例ですが、延喜式における明神大社という別格社にまつられているのが、郡山市の宇奈己呂和気神社です。記紀にその名が登場しない神がこのようにまつられている──、これらの事実をみただけでも、この神をおろそかに考えることはむずしかろうとおもいます。
 本の出版以降に、瀬織津姫について新たに判明してきた祭祀事実・祭祀考などは、この千時千一夜の前の掲示板「囲炉裏夜話」で集中的に語られてきています(あまりに量が膨大で、自分の分さえまだ整理がついていない状態です)。
 新川命あるいは新川姫命については、「白山神から立山・姥尊へ」でふれた以上の考えはわたしには今はなく、かぐら川さんの新しい考察を読めればうれしくおもいます。
 この、まだほとんどの人に知られていない女神の探究は、考える下地、あるいは調べる方法がようやくできつつあるかといったところです。寺社や地域の伝承資料などは、ときに歴史の生き証人で、おもわぬところで瀬織津姫の歌や民話を「発見」したりすることもあります。
 話がいささかとびますが、昨今、イラクでの人質から解放された生還者への非難・批判が跋扈している日本の現状をみますと、根深いところで、瀬織津姫を封じてきたこの国の歴史観・国家観とリンクしていることが考えられてきます。現在、最大の右翼団体となりつつある日本会議(神社本庁統理が顧問、同総長が副会長)に賛同する国会議員懇談会の会長・麻生太郎が真っ先に、この個人(生還者)非難の発言をしていました。また、神社本庁の政治団体である神道政治連盟に賛同する国会議員懇談会には、総理大臣をはじめ、各大臣・副大臣、自民党員のほとんどが会員あるいは関係者となっています。日本にとってイラク問題とは、背後に、この右翼問題、つまり、天皇制国家思想の問題を隠しています。瀬織津姫が日本の祭祀史において封じられてきたのは、この神社本庁が「本宗」と仰ぐ伊勢神宮の皇祖神祭祀の作為性をもっとも証言できる神だからというしかありません。しかし、この封印と変名の祭祀は、少しずつ解かれつつあることも一方の事実です。瀬織津姫は「水神」として、わたしたちの過去の生活に深く根づいた神でしたから、この神の歴史的消去は不可能だろうというのが、わたしの見方です。
 かぐら川さん、新川命・新川姫命のほかにも「越ノ国の神」の話も歓迎です。あの翡翠の女神や能登島の女神なども謎解きしたいものとおもってきましたが、まだ手つかず状態です。
(追伸)
 この掲示板の読者には『エミシの国の女神』の読者の方が多いとおもいますので、誤植の指摘については、ここに公開で指摘していただいてもかまいません。一冊分パーフェクトな校正は、ほんとうにむずかしいです。

047 伊豆神(走湯神)と熊野信仰 風琳堂主人 2004/05/07 (金)

 宇奈明神二柱の神(高皇産霊[たかみむすび]神・神皇産霊[かみむすび]神)は、天之御中主[あめのみなかぬし]神とともに造化の三神として崇敬されている神様で、全てのものをむすび、むすばせ給う、万物生成霊威の神様です──これは、安達太良山(福島県)を神体山とする安達太良神社の自社祭神についての説明です(「安達太良神社略記」)。また、同略記には、「宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神」とも書かれています。文中「造化の三神」は、古事記が最初に記す神々であり(天之御中主神、高皇産巣日神、神皇産巣日神)、日本書紀は、この造化神(初源の大自然神)の筆頭神を国常立尊としています(国常立尊は伊豆神=走湯神の「深秘」の呼称)。
 宇奈明神=宇奈己呂和気産霊二神ということで、ここで想起されるのが、その名も宇奈己呂和気神社の存在です(郡山市)。同社は延喜式における明神大社で、祭神は瀬織津比売命(相殿は誉田別命)とされます(詳細は囲炉裏夜話740「宇奈己呂和気神とはなにか」に記載)。安達太良神社と同じように造化神をまつるのが香取神宮第一摂社・側高神社で、同社には、造化三神を「隠り身の神」として、側高明神=瀬織津姫の名が伝えられています。安達太良神社と側高神社の二社は、瀬織津姫が造化神に名を変えてまつられている事例といってよいでしょう。
 大同元年(806)、伊豆から瀬織津姫(伊豆権現)を遠野にまつったのが、現在の伊豆神社(早池峰神社元社)です。同神と、その勧請者である始閣藤蔵の関係について、『遠野市史』は、「伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神」であり、また、藤蔵の家は「江戸時代末期に始閣を名乗るが、当初は熊野別当にゆかりの鈴木姓であった」と記しています。養老二年(718)、瀬織津姫を熊野神として陸奥国・室根山へ奉祭してやってくる責任者の一人が穂積氏(紀伊国名草藤原の県主鈴木左衛門尉穂積重義)で、鈴木氏は、この穂積氏の枝氏族、つまり同族ですから、藤蔵のルーツは、伊豆の前は熊野にあるとみてよさそうです。
 なお、伊豆の熊野信仰について、「関東に於ける熊野の中本山は、箱根と伊豆とであります。これは、熊野の本宮と那智との地形に似て居るからです。妙宝山は日金山に当り、熊野の地は、足柄下郡(箱根…引用者)にあてはまる」と述べていたのは折口信夫でした(「東北文学と民俗学との交渉」、『折口信夫全集』第十六巻)。『遠野市史』によれば、伊豆山が関東での修験の拠点となるのは、奈良時代にまで遡るとのことです。熊野も温泉地ですが、瀬織津姫は那智の滝神でもあります。その那智(妙法[宝]山)が伊豆(日金山)にあてはまる、つまり、熊野本宮は箱根、那智は伊豆に対応しているとする折口の指摘は貴重です。ただし、伊豆側の文献が記すように、箱根も伊豆も、その地神は同神であり、これは、熊野本宮と那智についてもいえるようです。
 那智の「滝」に対応する伊豆のそれは、おそらく走湯の滝が該当するのでしょう。瀬織津姫は遠野において、早池峰神であると同時に、早池峰山周辺では又一ノ滝(「一ノ滝」は那智大滝の異称)や清滝(白滝)などのいくつかに確認できる滝神でもあります。
 遠野・伊豆神社の「本社」である熱海・伊豆山神社は、現在、瀬織津姫の名を消去して、「伊豆山神(火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命)」を主神としています。同社祭神のホムスビという神名ですが、これは、安達太良神社の「略記」の表現「全てのものをむすび、むすばせ給う、万物生成霊威の神様」を参考にしますと、この「むすび」の根源神としての神徳を根拠とする神名のようです。そういえば、熊野那智大社の異称は「結宮」でした。同社は、熊野速玉大社(熊野新宮、本地仏は薬師如来)と対関係にありますが、那智大社の現在の主神表示(仮称)である熊野夫須美大神(本地仏は千手観音)は、熊野牟須美(結)大神から転じたものでした。

048 伊豆山神話と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/05/14 (金)

 伊豆山神社には木像の「男女(夫婦)神像」が伝えられています(室町期の作)。もし「結」に究極のイメージがあるとしますと、それは神々の婚姻をいうのかもしれません。また、ムスビ(ヒ)は、高皇産霊[たかみむすび]神・神皇産霊[かみむすび]神といった造化神の名にみられるように「産霊」としますと、「霊=神を産む」ことがムスビの第二義かとおもわれます。
 伊豆山における「結」の神話に、日精、月精の物語があります(『走湯山縁起』巻第五「深秘の巻」)。話を要約します──。
 昔、孝昭天皇の時代、その皇女の初木姫が初島に漂着し、対岸の伊豆山の海岸に湯煙(走湯の湯煙)をみてそこへ渡ると、伊豆山彦という一人の若者と出会う。初木姫は、伊豆山の中腹に登ると、木(大杉)の中に住む二人の子どもをみつけた。初木姫は男の子を日精と名づけ、女の子を月精と名づけて育て、二人が大きくなると、彼らを夫婦にした。伊豆山権現の氏人の祖は、この日精、月精という二人の男女で、これを「結び神」として崇敬した──。
 この神話には、日精と月精の対関係が中心に語られていますが、しかし、話の流れとしてはどこか不自然に感じられます。それは、初木姫が伊豆山彦と出会った、その両者の関係が少しも語られることなく、日精と月精の発見→子育てへと話が飛躍しているからです。つまり、日精と月精は、初木姫と伊豆山彦による子神(産霊)ではないのかという小さな疑問があります。
 ところで、この神話について、『走湯山縁起』巻第五には、走湯権現の神託(「権現或云」)として「一を以て万を察せよ」とも書かれていて、もしこの神話になにごとかを「察」しようとするなら、この不自然なストーリー展開を考えてみることと関係があるのかもしれません。
『熱海物語』によりますと、別伝において、火牟須比命は「またの名を伊豆山彦命」と表記されます。また、初島東明寺(本尊:烈光如来)の由来では、初木姫は「走湯権現の乳母」とされます。伊豆山神話において、初木姫が「乳母」を演じる対象神は日精、月精であり、としますと、伊豆山彦=火牟須比命は「走湯権現(伊豆権現)」に非ずということになります。
 伊豆山神社の現祭神は「伊豆山神(火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命)」で、この「伊豆山神」は神話の伊豆山彦(=火牟須比命)に該当し、「結び神」とされる日精と月精は、記紀神話に付会して伊邪那岐命、伊邪那美命とされるも、ここには初木姫の名はありません。伊豆山彦(=火牟須比命)と対(結)の関係にある初木姫とはなにかという問いが生じてきます。
 伊勢において、瀬織津姫は荒祭神=天照大神荒御魂とされ、男神としての天照大神とは対(結)の関係にありました。「深秘」の后神が「荒魂」と表記される例を伊豆山にあてはめますと、「火牟須比命荒魂」は雷電神のことでしたから、初木姫は雷電神という水神の仮称である可能性も匂ってきます。初木姫は現在、初島の初木神社の主祭神とされ、同社近くには「島内唯一の自然湧水」があるとのことです。初木姫も水神と習合している可能性があります。
 初木神社の祭礼日は七月十七、十八日(白山および早池峰山も同祭日)で、初島神に奉納されるのが「鹿島踊り」、また「伊豆山神社のお祭りの日が雨なら初島のお祭りも雨になる」と、両社の縁由の強さがうかがえます。鹿島神宮奥宮の神は、ここも「武甕槌神荒御魂」などと表記されます。しかし、同宮「跡宮」は「本社ヨリ南ニ当リ荒祭宮トテ有リ、大曲津命ヲ祭ル」と伝えられています(『新鹿島神宮誌』)。荒祭宮は皇大神宮(内宮)第一別宮の名であり、大曲津命(=大禍津日神)は瀬織津姫の貶称です。鹿島踊りというのは、本来は鹿島神に奉納される踊りでしょう。初木姫の背後の初島神は、まさに「深秘」の鹿島神でもあると考えられます。

049 伊豆山にまつられた白山神 風琳堂主人 2004/05/17 (月)

 熱海は全国有数の温泉地の一つですが、おもえば、水は火があって初めて「湯」となります。日精は火を、そして月精は水を司る神としますと、これは人の「生」に密着した初源神で、伊豆山神話が日精、月精を「結び神」とみなしていたのも「なるほど」とおもわれます。
 元伊勢・籠神社は、「水の徳顕著」な神として、造化神の天御中主神・国常立尊と豊受大神は同神であると述べていました。この「水」の神徳を重視するなら、天御中主は「天水中主」からきた表記とみておかしくありません。これは、水を司る大元神ということかとおもいます。水主神といってもよい「天水中主」で想いだされるのは、古事記には記されるも、書紀の編纂においては消去される大年神(海を光[てら]してやってきた神=太陽神、内宮別宮・伊雑宮の元神)と対(結)の関係にある天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]という天上の水姫です。古事記は、天知迦流美豆比売と大年神との間には、奥津日子神、奥津比売命という子神があるとも記していました。この子神は「竈神」とされますから、これは、水神と火(日)神の婚姻(結)によって、もっとも身近な火神が誕生=分神=産霊したということになります。
 伊豆山祭祀の改竄の兆候は、伊豆国風土記(逸文)にみてとることができます(「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」)。元明女帝によって風土記撰上の命が出されたのは和銅六年(713)のことでしたが、各地の風土記が朝廷承認の元に成書化されるにはかなりの時間の幅があったことは、出雲国風土記が成立したのが天平五年(733)であったことからもわかります。伊豆国風土記の成書時間を確定するのは困難ですが、和銅六年(713)から天平五年(733)頃の間とみてよいのではないかとおもいます。各地で風土記が編纂されている同時期に、白山神=河上大権現は、泰澄に「国中の水を守護す」と神託したとされます(『白山妙理大権現縁起』)。この「水」の守護神が伊豆山にまつられるのが、出雲国風土記が成立した天平五年(733)のことでした。

■白山社縁起──伊豆山神社の末社で祭神は菊理媛命、『走湯山縁起』によると、天平五年(七三三)六月東国に疫病流行のさい、白山の神威によるほかはないとの神託があり、夏期の炎天の日に、松岳隅岩蔵谷に白雪が積ること三尺余り、これを嘗めれば病気が平癒したと伝えている。伊豆山神社裏山北方五〇〇bの高所に、巨巌の重なり立つ霊域に広さ四b四方の社殿が鎮座し、付近は森林におおわれ神秘の念をおこさせている。(太田君男『熱海物語』)

 天平五年(733)の「疫病流行のさい、白山の神威によるほかはない」という「神託」があったというのは、考えてみれば不思議な話です。わたしたちは、伊豆神(走湯神)と白山の地神が異神ではないことをすでに知っています。このような「神託」をする、せざるをえない神は、おそらく伊豆神(走湯神)ではない、新しい伊豆の神であることが考えられます。
 風土記時代、伊豆山に、元の神に代わってまつられたのが「瓊瓊杵尊の荒神魂」でした。天孫・瓊瓊杵尊がここに登場してくることでいえば、勅命を受けた泰澄による白山祭祀改竄における、白山の地神(別山神)である「滝[たきつ]速河神」もまた瓊瓊杵尊と表記されていたことも想起されます(『白山大鏡』)。こういった新しい作為神では、「疫病流行」を鎮めるために、真夏に「白雪」を降らせるといった水神ならではの「奇跡」は、とうてい不可能であったということなのでしょう。ちなみに、神社境内の案内板では、白山神は「火牟須比命奇魂」と表示されていて、白山神がもともと伊豆山と無縁ではない神であることを伝えています。

050 梅原猛「神は二度死んだ」について 風琳堂主人 2004/05/20 (木)

 梅原猛さんが、この千時千一夜の探究テーマとも関わる話を新聞に寄稿しているのが眼にとまりました。題して「神は二度死んだ」──。

■神は二度死んだ
 近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。近代日本が最初にとった宗教政策、廃仏毀釈が一度目の神殺しであった。〔中略〕
 そこで殺されたのは仏ばかりではない。神もまた殺されたのである。外来の仏と土着の神を共存させたのは主として修験道であるが、この修験道が廃仏毀釈によって禁止され、何万といた修験者が職を失った。この従来の日本を支配した神仏を完全に否定することは、近代日本をつくるために必要欠くべからざることと思われたからである。福沢諭吉のような啓蒙思想家などもこの神々の殺害を手助けしていたことは否定できない。
 そして明治政府はこのように伝統的な神仏をすべて殺した後にただ一種の神々のみを残し、その神々への強い信仰を強要した。それは天皇という現人神と、アマテラスオオミカミをはじめとする現人神のご祖先に対する信仰であった。〔中略〕
 この敗戦(太平洋戦争・第二次世界大戦における日本の敗戦)によって新しい神道(国家神道…引用者)も否定された。現人神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ。(反時代的密語、『朝日新聞』2004.5.18)

 一度目に「死んだ」のは明治初頭の「廃仏毀釈」(神仏分離)のときで、それは「土着の神」、そして、二度目に「死んだ」のは、1945年の敗戦時のときの「天皇という現人神」(天皇の人間宣言による)というのが、梅原さんの「神は二度死んだ」という認識です。
 梅原さんは引用において、三種類の神を挙げていました。そのうちの第一の神(土着の神)と第二の神(現人神)は「死んだ」とするも、しかし、第三の神というべき「アマテラスオオミカミ」(神宮神=皇祖神)の思想については、「現人神」と同様に「死んだ」とはいえないのが、神社本庁(神道政治連盟という右翼政治団体を裏面にもつ)を頂点とする神社世界の「現在」です。
 明治初頭の「神殺し」は、「土着の神」に対してなされたものですが、ここで「神殺し」の対象となった神は、たんに「土着の神」という一般神ではありませんでした。正確にいえば、「アマテラスオオミカミをはじめとする現人神のご祖先」の祭祀に抵触する「土着の神」こそが「神殺し」の直接の対象となった神でした。その筆頭神こそが、この千時千一夜で取り上げている、伊勢および各地の「土着の神」(水神・滝神)である瀬織津姫という神です。
 梅原さんは、政治家や官僚が「道徳」を失い「恥ずべき犯罪」を行い、学者や芸術家は、この「道徳の崩壊」の時勢に「何らの批判も行わず、唯々諾々とその時代の流れの中に身を任せている」としています。また、この「道徳の崩壊」に対して、「小泉八雲が口をきわめて礼讃した日本人の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならない」と結んでいます。しかし、「取り戻」すのは「日本人の道徳」というよりも、「殺害」が戦後現在にまで延々と継続されている「第一の神」=瀬織津姫という神の復権(神権)でしょう。まさに、この「神、非礼を受け賜[たまは]ず」です(八戸市・御前神社)。あるいは、「神代より隠しおきけむ滝つ瀬(瀬織津姫)の世にあらはるるときこそ来つれ」です(柳原白蓮)。

051 日本の「神殺し」の歴史 風琳堂主人 2004/05/24 (月)

 人に人権(基本的人権・生存権)が保障されているならば、神にも神権(基本的神権・生存権)が認められる必要があります。なぜなら、記紀神話に登場しない「神」であっても、それは人の「心」が投影した存在(人の「心」がつくりだした存在)であり、ときには、神には人の「心」そのものである性格があるからです。したがって、神権とは「心権」でもあると考えます。
 日本は人権も心権もあまり尊重しない国柄であることは、イラクからの生還者への「自己責任」論に名を借りたバッシングを、与党・右翼政治家が真っ先になすといったことに象徴的にみることができます(これに対して無批判・鈍感なマスコミも同罪です)。生還者の一人、高遠菜穂子さんのホームページの掲示板には暴力的なバッシングの書込みがつづき、同掲示板は閉鎖されたとのことです。彼女に、イラクでの「死」の恐怖に、さらにたたみかけるように「心」を病ませる「日本」という国は、国際社会を生きる資格を根本的に欠如させています。
 梅原猛さんは、政治家や官僚が「道徳」を失っていると述べていましたが、彼らがもし失っているものがあるとすれば、それは「道徳」というよりも「人権」「心権」に対する真摯な意識でしょう。これは、国民の「人権」よりも「皇権」を優先させようとする歴史的無意識が根底にあるからだといいかえてよいかもしれません。梅原さんは、「道徳の崩壊」に対して「第一の神の殺害以前の日本人の道徳」を取り戻す必要があるといった内実のない道徳主義の言説を述べる前に、日本という国がもっている、「人権」を軽んじ、かつ「心」を病ませて恥じない国家観・歴史観をまず指摘すべきではなかったかとわたしはおもいます。
 梅原さんの認識の曖昧性は、実は日本の「神殺し」に対する曖昧な理解や、すぐれた分析の中に唐突に表れる「天皇」への敬語表現の混在にみることができます。
 彼は「神は二度死んだ」において、明治政府は「廃仏毀釈」によって「伝統的な神仏をすべて殺した」という認識を示していましたが、これはいかにも梅原さんらしい情動的な断定です。廃仏毀釈は、正確にいえば、神仏分離令の大衆的結果(神仏習合時代に不遇であった神道世界の主導によるもの)であり、明治政府が直接意図したものではありません。また、「殺」された側の神でもある瀬織津姫に限るならば、ほんとうは「死んだ」という過去形によって括られる神でもありません。瀬織津姫に対する「神殺し」の策動は、明治初頭の神祇策で終わっていないこと、つまり、昭和期はいうまでもなく、戦後現代にまで継続していること(囲炉裏夜話789「伊勢神宮の成立と『力』の話」ほか参照)は、瀬織津姫の「生存」を逆によく告げています。
 なお、瀬織津姫への「神殺し」の策動の始まりは、伊豆山神社の祭祀が象徴していますが、古代にまで遡ります。これは、伊勢神宮の成立(皇祖神の創造)と連動するように成書化された日本書紀という「国史」の成立時点(720年)を、本格的な開始の「時」とみてよいのですが、あるいは、その前の古事記の創作において、すでに「神殺し」(神名変更)は認められますので、壬申の乱(672年)以降の天武・持統時代にまで、その淵源を遡らせるべきかもしれません。
 このように、およそ1300年前から、瀬織津姫という神に対する「神殺し」はつづいていて、それが神仏習合の長い時代(この間、仏の名において神が「凍結保存」される)を経て、明治初頭、「神仏分離」の名のもとに、それまで「仏」の背後に隠されていた神(皇祖神祭祀にとって不都合な神)の洗い出しが徹底してなされ、そこでまた「神殺し」(これも正確にいえば、記紀に準じた神名にほとんどが変更される、いわば「神神習合」)が復活(復古)し、これはその後もつづいているというのが、おそらく日本の神祇策(神殺し)の「正確」な経緯・歴史です。

052 走湯権現(伊豆権現)のメッセージ 風琳堂主人 2004/06/03 (木)

 八幡大菩薩走湯大権現──これは、鎌倉時代に走湯権現に奉納された太刀に刻まれた銘文の言葉です(太田君男『熱海物語』)。この太刀の奉納者には、八幡神と走湯神が結びつく発想があったとは興味深いことです。源義家は「八幡太郎義家」といった別称をもっていたことにみられるように、八幡神は源氏の氏神で、鎌倉時代の頼朝や実朝の「二所詣」に象徴されますが、彼らが走湯神(伊豆神)を特別に信奉していたことはよく知られるところです。しかし、八幡神が走湯神(伊豆神)と結びついて「八幡大菩薩走湯大権現」と表現されていることには、神社祭祀のある種「常識」からすると、つまり、たとえば伊豆山神社の祭神表示に八幡神の名は出てきませんから、これは少なからず「びっくり」してよいという気がします。
 わたしたちは、八幡神の大元神である比売大神および走湯神が瀬織津姫の異称であることをすでに知っています。太刀の奉納者も、鎌倉時代、こういった認識をもっていたことが想像されます。走湯神(伊豆神)には、熊野神、鹿島神、白山神が集積するように「習合」していることが考えられ、ここに、八幡神(比売大神=宗像神)を新たに加えてよいのかもしれません。伊豆には、錚々たる「全国区」の神々が習合→集合していることになります。
 これらの神々の大元神(女神)がそれぞれ異神ではないことを考えますと、『走湯山縁起』巻第五(深秘の巻)における走湯権現の神託(「権現或云」)とされる「一を以て万を察せよ」という言葉は、つまりは「一神を以て万神を察せよ」という意だったということかもしれません。
 この「一神」に該当する神の名を静かに伝えつづけてきたのが、遠野の伊豆神社でした。東北の山深い遠野という村里の小さな神社(伊豆権現→伊豆神社)や早池峰神社の瀬織津姫祭祀が、明治期の全国的な「神殺し」の猛威からまぬがれたことの意味は、ことのほか大きいといわざるをえません。記紀思想に基づく日本祭祀の既成観は、根本的に見直される必要があります。
 伊豆山彦=火牟須比命と初木姫(→初島神=鹿島神)が対(結)の関係にあることや、伊豆山神社に男女(夫婦)神像が伝えられてきたことなどを考えますと、伊豆山彦=火牟須比命は、伊勢における瀬織津姫と対(結)の関係にある男系太陽神を背後に秘めている可能性も浮上してきます。伊豆国風土記(逸文)いうところの「日金嶽」の「日金」は「日ヶ峰」からきた名称とみますと、ここには日神祭祀もあったとみられそうです。
『先代旧事本紀』「国造本紀」の伊豆国造の項には、「神功皇后の御代に、物部連の祖、天?桙[あめのぬぼこ]命の八世の孫・若建命を以て、国造に定賜ふ。難波朝の御世に、駿河国に隷[つ]く。飛鳥朝の御世に分置[わけおく]こと故如[もとのごと]し」とあります。また、この伊豆国の親国というべき駿河国の国造の「片堅石」は「物部連の祖、大新川命の児」とされます。大新川命は同書注記によりますと「饒速日命七世孫」とされますので、物部氏の祖神とされるニギハヤヒという太陽霊(太陽神)の祭祀が、駿河・伊豆国においてもなされていた可能性があります。これは現在、強い可能性の話以上ではありませんが、微証がないわけではありません。それは、同じく物部氏を国造とする遠淡海国(遠江国)の津毛利神社の存在です。同社は、元明時代、藤原不比等によって住吉神に祭神変更がなされてしまいましたが、飛鳥時代はニギハヤヒをまつり、また明治初頭までは瀬織津姫をまつっていました(囲炉裏夜話754「藤原思想と瀬織津姫」)。津毛利は津守で、津守氏は難波ほか各地で、湊(船)の管理を専任とする氏族だったようです。住吉三神は記紀の影響下に三神化を強制された神名ですが、その前は「墨江大神」という一神でした。荒祭神=瀬織津姫の異称が「津守大明神」であったことも添えておきます。

054 住吉神と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/06/08 (火)→修正 2004/06/15【053は欠番】

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天道日女命を妃[みめ]と為[し]て天上[あめ]に天香語山命を誕生[あれ]ます──これは、『先代旧事本紀』が記すニギハヤヒの神統譜の一節です。ニギハヤヒと「天上」における対(結)関係にある「天道日女命」は、これ以上に神格・神徳等が説明されることなく、これもまた謎に包まれた女神だといえます。ニギハヤヒと天道日女命との産霊神(子神)とされる天香語山命は別名・高倉下[たかくらじ]命で、神武紀が記すこともあって、熊野の地神とされます。『本紀』もまた天香語山命の説明として、「此命は御祖天孫尊(ニギハヤヒ)に随て紀伊国熊野邑に坐す」と記しています(高倉下命は、熊野新宮奥宮・神倉神社の神)。
『先代旧事本紀』巻末の大野七三氏の解説によりますと、天香語山命=高倉下命の「神裔氏族」として「有名」なのは尾張氏、熊野連であるが、ほかには、多治比連、津守連、海部直、丹羽[たには](丹波)国造、但馬国造など多くの支族があるとされます。
 津守氏が神主家として奉祭する神社は摂津国の住吉神社です。同社の主神は現在、俗に住吉三神とされますが、正確には四神がまつられています。つまり、第一本宮(底筒男命)、第二本宮(中筒男命)、第三本宮(表筒男命)、そして第四本宮(姫神宮、神功皇后=息長足姫命)です。
 底筒男命、中筒男命、表筒男命は、記紀がともに記す、イザナギがイザナミの黄泉国から帰還して禊ぎをおこなったときの誕生神とされる神です。古事記によれば、このイザナギの禊ぎによる誕生神の筆頭に記されていたのは、八十禍津日神、大禍津日神、神直毘神、大直毘神という「祓戸四神」と、そして伊豆能売[いづのめ]という「伊豆の女神」でした(八十禍津日神が荒祭神=天照大神荒魂=瀬織津姫の異称であると述べていたのは、神宮側の文献『倭姫命世記』)。
 飛鳥時代(天武・持統時代)にはニギハヤヒを、明治初頭までは瀬織津姫をまつっていた遠江国の津毛利神社へ、養老時代(元明時代)、藤原不比等が「勅命」を仮装して、ニギハヤヒを住吉三神に祭神変更したことが大いに暗示していますが、津毛利神社と同神をまつっていたとおもわれる住吉神社も、これと遠くない(前の)時期に祭祀改竄(神殺し)がなされたとみられます。
 住吉神社の現在の社殿構成をみますと、第一本宮から第四本宮が一列横並びではなく、第一本宮から第三本宮のグループと第四本宮が並立するように、二つの社殿域から成っているという特徴があります。この社殿配置は、あるいは、もともとは二つの社殿・神が並祭されていた名残りなのかもしれません。ニギハヤヒの三神化(住吉神化)を促したものは、いうまでもなく記紀の創作的記述で、この記紀の表現に準じて社殿までが三殿化された可能性もあります。
 しかし、『住吉大社神代記』によれば、津守氏が奉祭するのは第四本宮=姫神宮のみで、第一本宮から第三本宮までは奉祭の対象となっていません。これは何を語るかですが、考えられることは、姫神宮の「姫神」こそが津守氏の奉祭神であること、そして、第一から第三宮の住吉三神は、記紀の神代記と神功皇后の新羅遠征譚に付会して新たに(朝廷の命によって)まつられた神で、『神代記』の記述者はそれを暗に否定しているということでしょうか。
『神代記』の「本縁起」が定められたのは大宝二年(702)で、その後も奈良朝末期にかけて改定がなされているようですが、大宝二年という年が持統女帝最晩年の年であることは偶然とはおもえません。津守氏が奉祭していた「姫神」は天道日女命であり、また、瀬織津姫が「津守大明神」と呼ばれていたことを考えますと、天道日女命も瀬織津姫との「習合」神とみてよいのかもしれません。瀬織津姫の古歌を伝える八戸市の御浜御前(御前神社)が、明治期に住吉三神に祭神変更されたこと──、これも、それなりの類縁の神ゆえの表示だったのでしょう。

055 広田神=瀬織津姫へ通う住吉神 風琳堂主人 2004/06/14 (月)→修正 2004/06/15

 瀬織津姫を、その異名・天照大神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)という祭神名でまつるのが広田神社ですが、同社祭礼時の「神宴歌[カミアソビノウタ]」は興味深い内容です。

■広田神社の神宴歌──或記に曰はく、住吉大神と広田大神と交親[ムツミ]を成したまふ。故[カレ]、御風俗[ミクニブリ]の和歌[コタヘウタ]ありて灼熱[イヤチコ]なり。「墨江伊賀田浮渡末世住吉夫古[スミノエニイカダウカベテワタリマセスミノエガセコ]」是、即ち広田社の御祭の時の神宴歌[カミアソビノウタ]なり。(『住吉大社神代記』、田中卓訓訳)

「墨江伊賀田浮渡末世住吉夫古」──これは、「墨江に筏を浮かべて渡っていらっしゃい、わが住吉の夫よ」といった意かとおもいます。住吉大神と広田大神は「交親[ムツミ]」の関係にあるとは、なかなか艶っぽい話です。住吉神社の第四本宮=姫神宮の祭神が神功皇后と決められたとき、つまり、広田神=瀬織津姫が住吉神社からいなくなったとき、住吉神は対岸の広田神へ「通う」ことをはじめたのかもしれません。
 宇佐八幡=宇佐神宮は、奈良期までは「八幡大神」と「比(比売)神」の二神がまつられていましたが(続日本紀、天平勝宝元年十二月二十七日の記述)、同社祭神に「第三之殿」として神功皇后が付加されたのは弘仁十四年(823)のことでした。『住吉大社神代記』が最終的に成書化されるのは、延暦八年(789)とされます(同書、奥書)。桓武─嵯峨時代は、延暦二十三年(804)の『皇太神宮儀式帳』の作成・上表に象徴されるように、日本の神祇祭祀(神殺し)がまたはじまる第三の時代かとおもいます。延暦八年(789)の時点に、あるいは住吉神社の「姫神」が神功皇后と決められたのかもしれません。ただし、神功皇后は記紀が記すように、本来、神をまつる側の者であって、自身が「神」としてまつられるというのは、やはり不自然なことです。特に、この女帝がまつられるその前に、すでに神まつりが存在する場合、そこには作為的な元神隠し(神殺し)の意図が働いているものとみてほぼまちがいありません。
 明治期、瀬織津姫の名を消し、代わって住吉三神とともに神功皇后をまつったのが八戸市の御前神社(御浜御前)でした。これは、住吉神社の祭神構成と一緒であり、つまり、御浜御前=瀬織津姫の住吉神化であり、住吉「姫神」とはなにかを逆に暗示する結果を招いています。
 ところで、広田神は「八幡同体」と記していたのは『諸社禁忌』でしたが、この伝承と瀬織津姫の古歌を伝える御前神社の存在を重ねますと、広田神=天照大神荒魂=八幡比売神=瀬織津姫=御浜御前となり、既成の祭祀常識では理解を超える神の等号式が浮かんできます。
 また、『宇佐託宣集』には「即夜住吉大明神現形為夫婦」、つまり、住吉神と八幡(比売)神は「夫婦」関係にあるといった伝承も収録されています(田中卓「住吉大社神代記の研究」)。広田神=八幡比売神と住吉神の対(結)関係を伝えるこれらの諸伝は、日本の長きにわたる「神殺し」のほころびを暗示して余りあるというべきでしょう。ここで、瀬織津姫と男系太陽神が対(結)関係を構成していた伊勢神宮の祖型祭祀を想起しますと、住吉神は、伊勢の消された男系太陽神と「同体」ともみられます。この太陽神の正確な名を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と伝えているのが『先代旧事本紀』(と津毛利神社)で、としますと、ニギハヤヒの天上の妃神である「天道日女命」が伊勢に降り立ったときの名が「天疎向津媛命」ということかもしれません。ちなみに、正妃を「むかひめ」と訓じているのも『先代旧事本紀』(大野七三訳)です。

057 質問 高西 2004/06/29 (火)

 どーも、はじめまて高西といいます。
 瀬織津姫に関して質問があります。
 瀬織津姫とはよく祀られている神なのですか。古事記には出て来ず、大祓詞に出てくる神ですよね。
 私の母親の故郷の神社には祀ってありますが、瀬織津姫は海の神でしょう。しかし母親の故郷は山奥です。
 どうして山奥の村人が瀬織津姫という海の神を祀ったのだと思いますか。

058 山神・海神・水神 風琳堂主人 2004/07/02 (金)

 高西さん、はじめまして。ちょうど移動中で、レスが遅くなりすみません。
 ご質問のその一「瀬織津姫とはよく祀られている神なのですか」については、境内社や合祀などを含めますと、現在、全国で四百社以上に瀬織津姫祭祀が確認されています。
 ご質問のその二「どうして山奥の村人が瀬織津姫という海の神を祀った」のかについて。瀬織津姫は高西さんのお母さんの故郷の「山奥」にもまつられているとのことですが、これは、海神というよりは水神という性格でまつられているのではないでしょうか。
 瀬織津姫は宗像神でもありますから、たしかに海神の要素ももっています。これは、八戸市の御前神社に伝わる「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」という歌にもよく表れていますし、岡山県和気郡佐伯町の御崎神社の主祭神として瀬織津姫の名を確認することもできます。
 瀬織津姫は遠野の早池峰山の山神でもありますが、この山は三陸の海の民にとっては絶対的な目印の山でもありますし、山里の民にとっては、水を恵む神というとらえかたをしています。後者は農耕と関わっていることはいうまでもありません。この早池峰神の性格(海神・山神・水神)は、そのまま白山神の性格でもあります。
 これは一般論、つまり政治的な意図による祭祀以前の話ですが、列島の内部に人が定着する道筋はそのまま川筋でもあったことが考えられます。人は海から川を遡行するようにして生活地を発見したというのが、たぶん古代人の内陸への動きであったようにおもいます。したがって、神は生活の条件によって、その性格を適合させて変化するとみてよいようです。
 特に、瀬織津姫(宗像神でいえば湍津姫)については、滝神(川上神)=川神という性格要素を強くもっていますので、この神は川の遡源地の山の神ともなります。瀬織津姫を大祓神としてまつる佐久奈度神社においてさえ、瀬織津姫は「川に宿る大自然神」でもあるというもう一つの理解を示していて、これもよく肯けるところです。
 ほかの瀬織津姫祭祀の具体例をみても、たとえば「山奥」の小さな集落で唯一水が湧き出すところの、いわば水源神という性格でこの神を大事にしているところもあり、おそらく、ここでは海神の性格は人々の記憶から消えていることが考えられます。そういった山間の地で瀬織津姫をまつる人々にとっては、そこでの生活の必然性が優先するはずで、この神のルーツや全体像に知的関心を拡げる必要はなくて当然とおもいます。
 わたしがここで少し「腹立たしい」とおもうのは、こういったささやかな祭祀に対してさえ、否定的な力を当然のごとくに行使してきた(しつづける)祭祀権力の存在です。ここでは繰り返しませんが、この祭祀権力が何を守ろうとしているかははっきりしています。しかし、このことで蒙っている「心=神」の負荷・負担は測りしれないものがあります。

(追伸)
 東北流にいいますと「出稼ぎ」ということになりますが、年契約の編集の仕事があって、7月2日(今日)から、名古屋がしばらくの本拠地となります。この名古屋地方には美濃を中心に円空の関係地がたくさんありますので、時間と相談しながらフィールドワークをしてみるつもりです。

059 瀬織津姫のことではないけれど 一如 2004/07/06 (火)

 こんばんは、初めまして「一如」と申します。わけあって、遠野の戦乱の歴史と宗教の歴史を調べているうちに、宮洞様のHPからお宅様にたどり着き、春に「エミシの国の女神」を取り寄せたものです。思っている事を沢山書くことが出来ればいいのですが何せ筆不精なので質問だけです。私たちが特に知りたいのは、遠野七観音の縁起です。そして、それが伊豆権現、妙泉寺等とも無関係でないのもわかりました。遠く征夷の頃に思いをはせると胸が詰まるものがあります。蝦夷の国が大和朝廷に侵略されていく時、神々と十一面様はどのように桓武天皇につかいものにされたのでしょうか。貴HPにて、遠野七観音のところが制作中になったままなので気になって仕方がありません。途中でも何かわかることがありましたら教えてください。

060 十一面観音と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/07/08 (木) CN.7582

 一如さん、はじめまして。まず、瀬織津姫の本をお読みいただきお礼申し上げます。
「遠野の戦乱の歴史と宗教の歴史」をお調べになっているとのこと──、これは伝承を総合して想像するしかないのですが、遠野における、対中央との「戦乱」の幕開けについては、現在の綾織町・寒風山にある出羽神社(羽黒岩=蝦夷岩)があるところに陣どった「岩武」というエミシの頭領と坂上田村麻呂の戦いが伝えられています。一般的にいっても、戦乱後に宗教(仏教)は征服地の民心教化につかわれる傾向にありますから、斉衡時代(854〜858)、早池峰山祭祀に円仁がからんでくる「前」の戦乱の伝承がここにはあるといえます。
 田村麻呂が建立したのが音羽滝で知られる京都・清水寺で、ここの本尊も十一面(千手)観音とされます。また、田村麻呂は自身の髷に十一面観音を忍ばせていた伝承がよく物語っていますが、彼の必勝祈願仏こそ十一面観音であったとみてよさそうです。
 十一面観音は後世、「現世利益」の仏とみなされることになりますが、中央側の祭祀意識にとっては、この田村麻呂と十一面観音の信仰関係が象徴するように、軍神ならぬ「軍仏」といった意味合いが強かったとおもいます。このことは、早池峰山と同じく「本地仏」を十一面観音とする白山側の文献にもみてとることができます。つまり、白山は「本地十一面観世音。七星の中の破軍星是なり」という文言・認識です(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)。「破軍」とは「敵軍(エミシ軍)を破る」という意でしょうから、十一面観音に「軍仏」的性格を認めるのは、田村麻呂時代よりもかなり前からはじまっているようです。
 十一面観音に、このように「強い力」を認める、頼むという発想は、ではどこから導きだされたのかを問うてみますと、ここに、この観音と習合する神とはなにかという問いが自ずと生じてきます。十一面観音を「本地仏」とする早池峰山および白山の地神(の一神)は天照大神荒魂の異称をもつ瀬織津姫という神です。ただ、早池峰山は瀬織津姫の名を現在にまで伝えていますが、白山については、養老元年(717)の時点で泰澄あるいは勅命によって瀬織津姫の名は消去され長い時間が過ぎてきました。おそらく、瀬織津姫という神の存在を知らない人にとっては、白山本宮・白山比盗_社の言い分である、つまり、白山の女神は菊理媛とかイザナミであるとおもっているにちがいありません。わたしたちは現在、白山の新たな文献の発見・刊行(上村俊邦編『白山信仰史料集』岩田書院)によって、白山神とはなにかを再考できる場所にいます。
 遠野の宗教史、あるいはそのはじまりは、この白山地神と同神をまつる早池峰信仰に集約・象徴されるものとおもいます。遠野七観音の創祀については、「慈覚大師(円仁)一木七体の十一面観音を手自彫刻して遠野七ヶ村え安置したまふ」(遠野古事記)と伝えられるものの、円仁(あるいはその徒弟)がなにもない(既成祭祀のない)ところに十一面観音のお堂をいきなり七つ建てたのかどうかという疑問をわたしはもっています。いいかえれば、早池峰神が里の七社にすでにまつられていたところを十一面観音に置き換えたという「前史」があるのではないかとみています。しかし、遠野七観音のお堂は長く放置されていて、再興がなるのは江戸期にまで下るというのが現実で、この長い放置期間は、お堂の前の祭祀を証言してくれる伝承を拾い出すことを困難にさせています。ただ、半焼けではあるものの遠野郷最古(平安期)の十一面観音をもつ鞍迫観音は明治期に白山神社を名乗り、また山谷観音には白山塚の存在があり、遠野七観音と白山信仰の関係の強さを伝えているのみです。ちなみに、白山には下七社という眷属社の存在がみられ、遠野七観音の「七」との関連も考えられるかなと想像しているところです(遠野七観音考が中断しているのは、この白山下七社とはなにかがうまく解けていないからです)。

061 現代の円空=どろ亀さん 言蛇 2004/07/11 (日)

「織女し 船乗りすらし 真澄鏡 清き月夜に 雲立ち渡る(万葉集3922)」

 こんばんわ、ごぶさたしています言蛇です。
 ここのところ暑い日々がつづき遠野地ビールのズモナビールの味が恋しくてまいりました。今年の気候は妙な感じですが、早池峰山のハヤチネウスユキソウの咲き具合はいかがでしょうか?自分は今、長野市に引越して県の農業研修に勤しんでいます。

 さて、遅ればせながらHPのリニューアルお疲れ様でした。瀬織津姫に並べての円空の展開、自分は仏教は門外漢なので興味深く拝読させていただいています。コメントNO.8「円空と瀬織津姫と北海道」で瀬織津姫を円空つながりで北海道を繋げていられますが円空の時代、北海道はアイヌ民族の土地で瀬織津姫を置くにはなんとなく違和感を覚えてしまいます。風琳堂主人はともかく、論の展開によってはアイヌの神々に瀬織津姫が受けた迫害を転化(*1)することにならないかと不安を覚えます。それで瀬織津姫とアイヌを結ぶものとして 岩手県出身の故 高橋延清先生(*2)が浮かんだんですが御存じでしょうか?残念ながら故人となってしまいましたが、富良野の東大演習林はきちんとした会計を伴う現在進行形の事業です。日本とアイヌ文化との婚姻を現代にきちんと執り行う確かなプレゼントにふさわしいと思いますので機会があれば訪ずれてみることをお勧めします。

 それと自分が長野に引っ越してふと思ったんですが、犀川と千曲川の合流地点に立つ善光寺、寺が立つ前に神社が祀られていたということはあるんでしょうか?今までは寺参りをする楽しみがなかったので心当たりが在れば示唆を頂けると幸いです。善光寺は男女同権・世俗女性も拒まないそうで、お釈迦様のことを考えると妙な雰囲気です。

(*1)現代のイスラエルを見ればわかるとおり、強い迫害を受けた集団は迫害の転化をしがちです。
   北海道神宮の大国主、自分にはなんとなく堕天使に見えます(笑
(*2)(http://www.ule.co.jp/kiki0205.htm)

共生型社会への思想と技術(29)
―どろ亀さん―

福留脩文
写真:平成5年、大分県大山町の森を駆け足で上るどろ亀さん。前から二人目
 昭和46年に「林分施業法」という図書が出版されている。今日的な概念の「持続可能な森林経営」が、出版以前の約30年にわたり実践され、その考え方と実際の技術が解説されている。その改訂版が昨年、初版本と同額の定価で発行された。著者、どろ亀さんご自身が、その普及を願ってのことである。その理念のところを抜粋してみる。
 「超長期にわたる地球環境管理の視点に立つならば、手つかずのままに森林を放置しておくのは好ましくない。森林が極相に達すると、炭酸ガスを固定する量と分解する量がほぼ等しくなり、森林の炭酸ガス固定機能がなくなるからである」
 「地球環境にとって好ましい森林の管理とは、森林の現存量をできるだけ大きく保ちながら、年間の成長量を高レベルで持続させることである」
 「森林は炭酸ガスを固定する循環資源であることに着目すると、最も適切な森林の取り扱い方法は、森林が系として最大の成長量を実現できうるようにし、系を壊さずに維持し、固定された炭酸ガスを木材として取り出し続けることである」
 「森林の持続的経営とは、以上の視点に加え、生物の多様性の維持が確保されたものと考えている」
 これを世に出され、本年一月三十日、森林研究の世界的権威、「どろ亀さん」こと東京大学名誉教授で、元東京大学農学部北海道演習林長の高橋延清先生は亡くなられた。この折りに改めて、先生の書き残された書物や、制作された映画の記録ビデオなどを拝見した。やはりこれまでのご業績や後進へのご示唆には、現場で培われた哲学と実際の技術論が盛り込まれており、いまさらながら胸が熱くなる思いがする。
 大分県の大山町で、人工林を自然に返していく事業に携わり、その記念シンポジウムが行われた際、C・W・ニコルさん、どろ亀さんとともに私も壇上にいた。その座談会に先立って、どろ亀さんは森づくりについて記念講演をされ、一役を終えられて大好きな日本酒をお召しになっていた。座談会の途中でも、チビリチビリやっておられた。やがて会場から質問を受ける時間になり、どろ亀さんの記念講演の内容に対する質問が出た。
 「高橋先生のおっしゃる“明るい森”とは、具体的にはどういう状態のことでしょう」
 ご返事がない。私の横でどろ亀さん、眠っておられる。
 「先生、ご質問ですよ。“明るい森”とはどういう森ですかって」
 「うん。“明るい森”ね、“暗くない森”ということさ」
 私の仲介に間髪を入れずのご回答だったが、状態を察した会場は大爆笑と拍手の渦に巻き込まれた。暗い森とは手入れのされてない人工林もそうであろうが、うっそうとした天然林も指しておられたはずである。平成11年に出版された「樹海」という本の中で、それも紹介されている。
 「東京大学の北海道演習林、総面積は約二万三千ヘクタール。この樹海は人間が少し手を加えていることによって、森が持つ活力、生産力を最高水準に維持している世界最高の天然林だ」
 実はどろ亀さん、この林分施業法にたどり着くまで、「頭が変になるほど」森の中を歩きまわったという。
 「そしてどろ亀さんは、ようやく気がついたんだ、森が教えてくれていることにね。よく見ると、森林は完全にバランスが取れた状態に向かっていたんだ。人間の時間感覚では止まっているように見えるものが、実はゆっくりと、しかもダイナミックに、針葉樹と広葉樹が混じり合った針広混交林へとね。これを極盛相の森というんだが、自然のなかでここまでなるには三百年も五百年もかかる」
 「さぁ、そこで人間が少しばかり手をかして、その移り変わりを速めてやるんだ。そして極盛相直前の状態を保つようにする。こうなったら、森はいつも元気だ。自然災害や病虫害にも強く、生息するあらゆる生き物たちと共生できる豊かな森としてね」
 「森林には環境保全の面と、木材を生産するという経済面がある。この二つは対立すると思っている人が多くて、自然保護派のなかには『絶対に木を伐るな』という人がいるけれども、そうじゃあない」
 「林分という単位でよく観察して、極盛相へと誘導する施業をすると、常に木材を生産しつつ立派な環境保全林としての役目も担える森になる。こういう森にするための伐り方をすると、伐れば伐るほど良くなっていくんだ」
 それをまとめられたのが冒頭に紹介した「林分施業法」で、現場で実際に施業するための理論をシンプルな六原則で示されている。私は森林生態系や森林施業のことは門外漢であり、ここで専門的な分野を引用し解説することはできない。あとは多くの人たちに、これらの図書が紐解かれることを願うばかりである。森林だけでなく、自然に対する見方も示唆されるところが大きい。
 実は私事になるが、この15年ほど近自然工法の理論と実践を学ぶに当り、「河相論」を昭和26年に著された安芸皎一先生の、“河川技術者としての心構え”を説かれた書物の一節が、いつも自然や技術に対する自分の立場を教えてくれていた。それは以下のような内容である。
 「我々が河川を静的に考えている間は、これを正しく理解することは困難である。河川の真の姿は、河川がいかに生育しつつあるか、という成長の過程を正確に把握することによって初めてこれを認識できる」
 人の教えは、亡くなられてからじっと効いてくる。

062 善光寺と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/07/15 (木)

 遠野の昔語りのはじまりの常套句「昔あったずもな」に由来する、遠野の「ズモナビール」を言蛇さんがご存じとは、なかなかの「遠野通」のようですね。ちなみに、この遠野の地ビールの製造元は上閉伊酒造という蔵元で、ここの社長さんは(先年亡くなりましたが)、早池峰神=瀬織津姫を敬愛していたようです。このことは、同蔵元の地酒に「清瀧姫」とか「不動瀧」といった酒名があることからもよく伝わってきます(瀬織津姫は土淵町琴畑の清滝神社=白滝神社の祭神ですし、附馬牛の荒川不動滝などの滝神でもあります)。
 先にも書きましたが、出張編集で今遠野にいなくて、ハヤチネウスユキソウの咲き具合にはとんとお答えすることができません。ここのところの名古屋の暑さは尋常ではなく、遠野の高原的さわやかさをおもいますと、それだけでも遠野に軍配をあげたくなります。
 どろ亀さんこと高橋延清さんにつきましてはよく存じ上げていないのですが、ご紹介のHPをみますと、なかなかユニークな森林論を早くから展開されていた方のようですね。わたしは自然を愛してはいますが、自然回帰派でも自然保護派でもなく、また単純に縄文幻想ももっていませんので、たとえば、広葉樹林と針葉樹林のバランスをよしとする高橋さんの「極盛相の森」という考えには共感します。おそらく、高橋さんの森の思想の魅力は、この「バランス」を考え抜いてきた上にあるもので、いわば、一方の価値観が一方を駆逐する考えから自由であることを骨子としているようです。現代ふうにいえば、排他ではなく共生といういいかたをしてよいのかもしれません。言蛇さんは、この共生を「日本とアイヌ文化の婚姻」という表現をされたのだろうと理解しています。
 ところで、「円空の時代、北海道はアイヌ民族の土地」というのは原則その通りなのですが、北海道に倭人が最初に渡ったのはいつかを考えますと、斉明時代という七世紀にまで遡る可能性もあるのかもしれません。これは日本書紀の記述を信じればということですが、もう少し時代を下らせてみても、たとえば、鎌倉時代のこととして、次のような記録があります。

■鎌倉幕府による流罪刑
(建保四年六月)十四日、丙申、去る比、佐々木左衛門尉広綱の使者、相具して参上する所の東寺の凶賊已下、強盗海賊の類五十余人の事、今日沙汰有りて、奥州に遣はさる可きの由、仰下さると云々、是夷嶋[えぞがしま]に放たんが為に、去る四月廿八日広綱に給はる、広綱一条河原に於て、廷尉の手より之を請取ると云々、(『吾妻鏡』龍粛訳注、岩波文庫)

 これは三代将軍・実朝の時代のことで、「夷嶋[えぞがしま]」へ流罪となった「五十余人」は、どうも単純な強盗・夜盗の類ではなかったようです。また、千時千一夜でもふれてきた、北海道最古の創建とされる姥神大神宮(折居社)がまつられたのも建保四年(1216)とされます。この流罪記事と姥神=折居神祭祀のはじまりの時間の一致は偶然ではないのかもしれません。
 ところで、善光寺の前になんらかの祭祀があった可能性はあるものとわたしはおもっています。善光寺で興味深いことがあります。それは、納櫃祭で知られる桜ヶ池を神体とする池宮神社(主祭神:瀬織津姫)との関わりです。この桜ヶ池の底が諏訪湖に通じている話も意味深いのですが、実は、この池の底は、善光寺の井戸にも通じているとのことです。言蛇さんは長野に転居されたそうで、詳しいことがわかりましたらぜひ報告してください。楽しみにしています。

063 善光寺と建御名方 言蛇 2004/07/28 (水)

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも (『古今和歌集』巻九)」

こんばんわ、例年になく暑い日がつづいていますが名古屋ではいかがお過ごしでしょうか?
瀬織津姫様は、遠野で現代に受け入れられている様子をうかがい安心いたしました。
このページにおいては九頭竜川・白装束集団のような騒ぎはないと胸を撫で下ろしています。

どろ亀さんの業績につきましては、林業以外の分野にどうやって経済的影響を及ぼしていくかどうかが今後の課題と考えています。東北を巡った感じですと、やはり漆細工が現在でも世界の食卓にアピールできる品質があり瀬織津姫の文化に位置付ける価値があります。風琳堂主人の論ですと瀬織津姫様自身は水の神ですので、意味内容的に五十猛命(*1)や手置帆負命(*1)との縁組をなにかしら考えれば家族が増えて幸いかと思います。

姥神につきましては長野にも姥捨説話があるので親近感を覚えます。ただ津守神社等で主人が指摘されるように、瀬織津姫自身が藤原氏より受けている言葉の摺り替え・語呂合わせ(*2)による隠蔽を今後おこらないよう防ぐには、山形出身の北海道探検家・最上徳内師が残したような事蹟の方が有用かと思います。

さて、善光寺周辺に関しましては敷地内の北東隅にお稲荷様が祭られているのを確認しました。自分でしたら南蛮渡来が確定している豊川稲荷ではなく、大氣津比賣(*1)か保食神を蘇生(*3)させたいと願っています。瀬織津姫は隠されている女神ですが、大氣津姫は殺されている女神なので仕事としたら実にやりがいのあると思いました。
それと、地形的に一番目に付いたのは善光寺北東にある城山公園。ここは善光寺平を見渡すのに丁度いい丘山になっており建御名方富命彦神別神社が建てられています。善光寺平の神奈備山としては申し分ないのですが手入れの方は良いとはいえない佇まいです。神社の神木は銀杏なのですが本来対となっているはずの銀杏が現在1本しかありませんでした(涙。今年は御柱祭ということで諏訪の御柱祭を見物したのですが自然と人との婚姻儀礼としては疑問符を感じる点(*4)もあり、瀬織津姫による橋渡しがなければ建御名方富命彦神別神社に活気を与えるのは難しいとも感じました。
最後に、仏教の罠は仏教で返すのが早いと思い浮かんだのが善光寺の対にあたる別所温泉・北向観音でしょうか。位置的に、建御名方富命彦神別神社と生島足島神社の対存在を隠しているようで実に興味深いのです。生島足島神社と瀬織津姫に関連があればまた一つ面白い系譜が想像できそうで今後の調査が楽しみです。
それでは、いずれまた御挨拶に伺います。

(*1)(http://www.kamnavi.net/)
(*2)言葉遊びの例・・・「建保四年」=「憲法死ね」(苦笑)
            現日本国憲法において、世界史的価値があるのは憲法第九条なので
            言蛇は第九条維持派です(場所を漫画雑誌・その他仮想人物に変え
            たとしても。)
(*3)現実には死んだものの黄泉返りはナンセンスなので、大氣津比賣と同じ概念をもつ存在
   を子として出産して再び人間に殺されない様にすれば大丈夫でしょう。
   「議会制民主主義」の観念を日本神話生物として表現するなら大氣津比賣が最右翼かも。
(*4)諏訪大社上社と下社の間に御柱の交換がなく実は交流回路がない(離婚状態)。現在、諏
   訪湖の水質が長野県内ワースト1であることは並記した方がいいかもしれません。

064 千曲川・梓川の水神 風琳堂主人 2004/08/01 (日)

 我が心なぐさめかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて(『古今和歌集』878)──棄老伝説と「田毎の月」で知られる姨捨山こと冠着[かむりき]山(1252m)は、善光寺平の南に聳える霊山ですが、この山を神体山・水分山とするのが武水別神社かとおもいます(更埴市→千曲市)。

■千曲川の洪水鎮護の神
 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊饒と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。(武水別神社案内パンフ)

 武水別神社(八幡宮)は千曲川のまさに川縁にある神社なのですが、同社案内の「御由緒」の項には、「社伝」として、武水別大神は「人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四〜一五六)の御代に御鎮斎と伝えられ」とあり、これをそのとおりに受けますと、伊勢神宮の歴史(1300年ほど)がいかに新しいかという思いがしてきます。神宮祭祀よりもはるか以前に、この武水別大神なる千曲川の川神祭祀があるという神社側の主張はとても興味深いものがあります。そして、さらに興味深いのは、この武水別神社の「分家」として笹焼神社があるということです(同社氏子談)。本社側である武水別神社は、この笹焼神社を「分社」とは認めていないのですが、延宝八年(1680)の「信州河中島更級郡八幡宮覚帳」には、「神主支配」の一社として、「郡村佐々屋岐明神」の名が記されています(『更埴市史』第二巻)。この笹焼神社の祭神もまた瀬織津姫です。
 善光寺がある長野市は、武水別大神が司る千曲川に犀川と、戸隠連峰に源を発する裾花川が合流する、まさに「川合」の要衝の地に位置しています。千曲川は、長野県から新潟県に入ると信濃川と川名を変えますが、犀川も上流(の一つ)は、穂高岳と乗鞍岳に源をもつ梓川という川名に変わります。この梓川の水神(川神)をまつるのが、松本市の神林神社です。同社の案内を境内の表示板から書き写しておきます。

■神林の総鎮守・神林神社
 祭神(三座) 誉田別尊(八幡大神)、建御名方命(諏訪明神)、瀬織津姫命(梓水[あずさかわ]神)
 縁起によれば、承安三年(平安末期、一一七三)地頭平野刑部がこの地に鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりといわれ、その後諏訪明神を合祀し、さらに神林堰の開鑿によって梓川の水を引き、神林の地が豊かな穀倉地帯となったことを感謝して梓水神を併せ祀ったという。〔後略〕

 瀬織津姫は「梓水[あずさかわ]神」と明記されています。同社拝殿の祭神説明には、右から「建御名方神(諏訪明神) 郷土開拓の祖神、瀬織津姫神(梓明神) 穀倉開発の水神、誉田別神(八幡大神) 郷土鎮守の神」と記され、瀬織津姫が中心に置かれています。
 梓川の川縁には、この神林神社と同じく、瀬織津姫と建御名方富神の二神をまつる岩岡神社もあります(梓川村)。また、岩岡神社の奥宮は燧[ひうち]岩神社(岩明神)といって、これも瀬織津姫とされ、この「奥宮」は梓川の川中の岩場にまつられていました(『梓川村誌』)。これも、梓川の洪水鎮護・守護を祈っての祭祀とみてよさそうです。『安曇村誌』によりますと、「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」とあり、としますと、梓水神=瀬織津姫は乗鞍岳の神でもあるということになります。科野→信濃の国の「水」を司る神の姿が少しみえてきました。

065 梓水神社 言蛇 2004/08/09 (月)

「萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清きウ恋まさらくに(万葉集2232)」

 こんばんわ、花火祭りの季節でもあり休日は穂高町の花火大会を楽しんできました。女子十二楽房のリズムに合わせた打ち上げは壮麗で、山間の花火は人だかりという点で穏やかに楽しむことができます。

 乗鞍岳にはスキーによく出かける都合、大野川中学校の側にたつ祭神表記のない梓水神社がとても気になっていました。この神社の神紋は諏訪梶であり男神の方は建御名方富神で間違いないだろうと推察していたのですが、先日は神林神社と岩岡神社を確認しまして乗鞍の梓水神社の祭神のもう一つは瀬織津姫かと合点できました。もっとも乗鞍岳から松本方面に流れているのは実際には前川・大野川であり、梓川自体は穂高神社奥宮の先にある槍ヶ岳となっております。乗鞍岳の神=梓水神と表記するのはいささか難があり新たな水分の必要性があるでしょう。この梓水神社はちょっと寂れた感じであり、真新しく目立つのは神勤榊葉棒持命の碑です。これは先代の梓水神社宮司が祭られているもので、今の梓水神社は祖先祭祀のみの神社と映り今後の存続に不安を感じる状態です(汗)。ここで棄老伝説を絡めての連想ですが、葬儀は仏教まかせとせずに神道流の先祖祭祀・葬儀を打ち立てることで神社は寺の檀家制度を伐り崩していける可能性をほのかに見出しています。もっとも先祖祭祀には子孫継承が必要であり、新たな水分けも含めてきちんとした婚姻による関係発展が必要となるのは言うまでもありません。

 さて、武水別神社の社伝を受け止めますと時代は弥生時代にあたり、神社の近くには稲荷山の伊勢宮遺跡があり日本海側から弥生人が稲作文化を伝えた痕跡があります。ここから下流に下りますと松代北東にある松原遺跡が縄文時代から続く大集落跡を残しています。善光寺周辺では善光寺北西で発掘された箱清水遺跡が赤い土器で特徴のある弥生文化を花開かせました。この箱清水弥生文化、近くは篠ノ井遺跡群、南は松本市の弘法山古墳、北は中野市・高遠山古墳と犀川・千曲川一帯へと拡がりを見せています。この川辺には犀川と裾花川の合流地点があり、そこには獅子舞神楽で賑いを見せている犀川神社が鎮座しており祭神は大山咋神です。
 武水別神社を上流に遡ると生島足島神社のある上田平(*1)が開けますが、ここでも千曲川の氾濫は祭祀の対象であり、現在もっぱら安産・子授けに神徳のある水天宮を祭ることが多いようです。
 (*1)(http://edu.umic.jp/zukan/sitemap.htm)

066 梓川と乗鞍神 風琳堂主人 2004/08/14 (土)

 大野川の梓水神社の先代宮司の名が「神勤榊葉棒持命」というのは、いかにもという命名で少しほほえましいです。といいますのも、梓水神=瀬織津姫の異名の一つが「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」、つまり、榊に憑りつく神の意の名があるからです。この榊神に「神勤」するという意が、その宮司名によく表れています。
 ところで、現代の地図帳表記をもとにしますと、梓川の本流は、穂高連峰(あるいは槍ヶ岳、常念岳)に源を発しています。乗鞍岳から流出する川は、前川・大野川で、これは地図上では梓川の支流ということになります。梓川の本流が、当初は大野川であった可能性にふれているのが『安曇村誌』で(「梓川の原初的な名称は、乗鞍岳の東麓の大野を流れる川、すなわち大野川であったのではないか」)、わたしもその可能性はあるとみています。この本流の川名が源流部で変更になる例としては、世界一の急流と教科書にも掲載される立山の常願寺川があります。大正期まで瀬織津姫を滝神としていた日本一の大滝、称名滝のある川は、現在、称名川という名で常願寺川の支流と表示されていますが、前は称名川のほうが常願寺川でした。同じことは長滝(阿弥陀ヶ滝)を源流滝としてもつ長良川にもいえそうですが、これらの川名変更は梓川にも該当する可能性があります(現在の梓川は上高地の大正池から明神池へと遡ります。ここにまつられる穂高神も司水神で、では穂高神と梓水神は異水神かどうかという問いもあります)。
 大野川(安曇村)にある梓水神社について、『安曇村誌』の記述を引用しておきます。

■雨乞い神としての梓水神
(大野川の梓水神社の)社地からは乗鞍岳が遥拝でき、古くから遥拝の鳥居が立っている。社地内に大池があり、池中に乗鞍権現が祀られている。当池では旱魃のときに雨乞い祭りがおこなわれ、里村では神水を貰いに来ている。この池の水をかきまわすと一天俄かにかき曇って乗鞍岳から風雨を伴ってあらしが起きると言われている。

 梓水神社と乗鞍岳が、現在の地図表記(川名表記)を超えた強いつながりがあることがよく伝わってきます。また、同社の「大池」については、村誌は、次のような伝説も収録しています。

■諏訪湖との関連伝承をもつ梓水神(『乗鞍の歴史と民俗』による)
 大池の周囲は、自然のままで何となく神々しい感じを起こさせる。池中に一つの小島があって乗鞍権現と弁財天(元来は学芸神、蛇が使い、財宝の神)が祭られている。この池の十数尋[ひろ]の深さのところに竜神が住んでおられた。あるとき一匹の年とった熊がどうしたことかこの池にきて溺死した。竜神はこの穢れを怒った。すると一天にわかに暗くなって池のまわりから紫雲が湧き出して、あれよあれよといううちに乗鞍岳の権現池に行ってしまった。竜の頭は乗鞍権現池にあって、胴はこの大池に、尾は諏訪湖にのびていると言われている。

 乗鞍岳は東(信濃側)に大野川(梓川)を、西(飛騨側)に飛騨川を分水する、これも典型的な水分山ですが、山頂部の祭祀をみますと、西向きに乗鞍本宮奥宮が鎮座し、それと背中合わせにして、東向きに朝日神社(朝日権現社)が鎮座しています。乗鞍本宮の祭神は、五十猛大神、天照大神、大山津見大神、於加美大神の四柱とされますが、五十猛大神はあとから合祀されたもので、主祭神は天照大神と於加美大神とみてよさそうです。一方の朝日神社については、伝承を総合しますと、朝日神=梓水神=瀬織津姫ということになります。なお、山頂部の北の峰は禁足地として、乗鞍本宮奥宮とは別にさらに「奥院」があり、少しわかりにくい祭祀を演じているのが飛騨側なのですが、ともかく、アマテル神と瀬織津姫が山頂で同居していることは象徴的な祭祀だというべきでしょう。梓水神社の大池の小島にまつられる「乗鞍権現と弁財天」の弁財天(古代インドの川神)には、宗像神でもある瀬織津姫が習合していることが考えられます。梓水神社や乗鞍岳山頂の祭祀の現実(瀬織津姫隠祭の事実)を考えますと、あらためて、松本市の神林神社が梓水神を瀬織津姫と伝えていることに敬意を表したくおもいます。

067 梓水神社の衰落 風琳堂主人 2004/08/19 (木)

『三代実録』貞観九年(867)三月十一日の条に、梓水神は正六位上から従五位下に位階を進められた記録があります(『南安曇郡誌』第二巻上)。平安期、梓水神は、朝廷が認知するほどの神であったことがわかります。
 大野川の梓水神社については、『安曇村誌』によれば、乗鞍岳の遥拝社的な存在だったようですが、同社祭神については、健御名方命一座で(『南安曇郡誌』第三巻下)、神林神社が明記するところの梓水神=瀬織津姫の名はなく、なんとも不思議な話といえます。この不思議は、「創立年代由緒等不詳」と郡誌が記すことと呼応していますが、しかし同郡誌は、梓水神社は「明治元年以前は諏訪神社と称した」と記録しています。神林神社の梓水神創祀は江戸期のことですから、江戸時代までは、梓水神=瀬織津姫の認識が一般にあったことが考えられます。さらにいえば、瀬織津姫は梓水神社=諏訪神社の消えた女神でもあったと考えられます。丹波篠山の民話が瀬織津姫を諏訪神としていることや、中世の諏訪縁起が、この諏訪の女神は春日姫、つまり春日四神のうちの比淘蜷_でもあると示唆していたことも想起されるところです。
 梓川が犀川と名を変える豊科町の犀川の近くには、なぜか春日神社がまつられています。『南安曇郡誌』は、同社祭神を、「天児屋根命、経津主命、武甕槌命、瀬織津姫命」とし、「大同四年大和国奈良より勧請したと伝承されている」と、貴重な証言を収録しています。
 瀬織津姫が梓水神であることにもう少しこだわってみます。安曇地方で、この梓水神をまつっていたと伝承される、あるいは考えられる神社は、必ずしも梓水神社という社名ではないことを記録しているのも『南安曇郡誌』です。同郡誌には、「この外(梓川村の野々宮神社のほか)梓水神を祀ったと考えられる神社には、北条の大宮熱田社、上野中村の鞠子神社等のあることを付言して今後の研究問題としておこう」とあり、わたしたちは、この「今後の研究問題」に現在ふれているということになりそうです。
 これら梓水神をまつるはずの三社の祭神については、鞠子神社は確認できませんが、野々宮神社は「倭姫命、伊弉册命、誉田別尊」、大宮熱田神社は「天照大神、日本武尊、草薙劔(ほか六柱)」とされます。梓水神の代わりに、伊勢における天照大神祭祀の最初期の巫女かつ皇女とされる「倭姫命」の名が安曇地方に唐突に現れてくるというのもわかりやすい奇妙さですが、ここでより興味深いのは、大宮熱田神社の本社である尾張の熱田神宮が荒魂神=瀬織津姫を陰でまつりつづけていることでしょうか(本殿=天照大神に向かって左隣りに並んでいる社殿)。
 おもえば、池宮神社(静岡県浜岡町)の祭神は瀬織津姫(配祀神は健御名方命)で、その神体池である桜ヶ池の底は諏訪湖に通じている伝承をもっていました。「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」と記していたのは『安曇村誌』でしたが、同村誌は、梓水神社の「大池」に住む竜神の「頭は乗鞍権現池にあって、胴はこの大池に、尾は諏訪湖にのびている」と、これも諏訪湖との共通神の祭祀を示唆しています。これらの伝承に、丹波民話や諏訪縁起の話を重ねますと、諏訪大社下社の神=八坂刀売命がどんな神を背後に秘しているかは明らかかとおもいます。
 梓水神社から瀬織津姫の名が消去されたのは、おそらく、明治初頭の神仏分離のときなのでしょう。このことを無念とおもわない神官は、よほどの鈍感かモグリというべきです。この無念さを伝えるのが八戸市の御前神社でしたが、大野川の梓水神社にもそれはいえるのかもしれません。同社の新しい石碑に刻まれた先代宮司の名が「神勤榊葉棒[捧]持命」というのは、自らが奉仕する(奉仕してきた)神(榊神=瀬織津姫)を正当に祭祀表示できないものの、せめてもの祭神暗示かと想像すべきで、「ほほえましい命名」などとは失礼な話だとなります。

(訂正)
 昭文社のデジタル地図帳によりますと、乗鞍本宮奥宮ではなく乗鞍本宮本殿、奥院のある峰は大日岳とあり、この峰は乗鞍本宮本殿のある剣ヶ峰の北ではなく南に位置しています。大日岳は乗鞍岳の最高峰のようです(3014m)。また、朝日神社に対応する峰として、大日岳のすぐ北に朝日岳もあります(2975m)。乗鞍岳は、同名の山があるわけではなく、これも白山同様「総称」といえます。水神祭祀とともに、日神祭祀もみられるのは、乗鞍岳も例外ではないのでしょう。

068 梓川村大宮熱田神社 言蛇 2004/08/20 (金)

「榊葉に かくる鏡をかがみにて 人もこころをみがけとそ思ふ (明治天皇御製)」

 こんばんは、先日18日は明科町で行われた薪能「犀龍小太郎」を見て参りました。薪能という簡素な舞台ながら、川の流れや湖がひらける様を感じ役者の舞いの妙幻さに心を打たれました。明科薪能はすでに14回を数え、今後の発展に期待を寄せられます。

 さて、薪能の都合に合わせて大宮熱田神社に参拝をしたのですがちょっと興味深いので引用します。「当神社は、安曇地方開発の大昔に梓川の水の恩恵を受ける里の守護神として、松本平を眼下に一望できる眺望絶景、山紫水明の本神山山頂に奉斎された梓水大神を祭神として創建された古いお社であります。」とあり、祭神の表記は順に「梓水大神・熱田大神・天照大神・八幡大神」です。梓水大神以外はあとから合祀されたものであり梓水大神を公然と祭っている点が梓水神社とは好対照をなしています。

> 梓水神社から瀬織津姫の名が消去されたのは、おそらく、明治初頭の神仏分離のときなの>でしょう。このことを無念とおもわない神官は、よほどの鈍感かモグリというべきです。
 この書き込み冒頭の歌は大宮熱田神社の石塔にあった明治天皇の歌です。この大宮熱田神社はこの他にも明治天皇の和歌が刻まれており、明治天皇の胸中を忍ぶには良い神社です。明治維新の神仏分離は君主制の側面が強い力ずくのものであり、南方熊楠翁が指摘しているように神道祭祀の本質を損なうものであったのは否めません。ですが現代においては戦後民主主義体制において各人が自ら思うことを明示公言でき、堂々と瀬織津姫祭祀ができるので実に幸せな世になったと思います。

●弁財天
 梓水神社において弁財天の習合についてのべられていますが、弁財天の習合については熱田神宮との関わりにおいて千曲川の水天宮祭祀におもしろい可能性があります。水天宮は社紋を椿とし安徳天皇と建礼門院を子授け/水難除/渡航安全の神様として祭るものです。発祥はいうまでもなく源平合戦の時代で、熱田神宮との関わりで考えると壇の浦における草薙の剣の問題がここに浮上してくるのです。草薙の剣本体は熱田神宮に祭られるものですが、この剣は今もって武力の象徴でもあり憲法9条をかかげる現代日本にはそぐわない(*3)ものです。ですが熱田祭祀にかえて「源義経・安徳天皇・建礼門院・草薙の剣」を祭祀すれば出産・憲法9条の強力な守神となるだけでなく源平両氏の慰霊を和解させる祭祀になるのではないでしょうか?後白河天皇との関わりもあり正式に祭られない義経ですが、封建制が解けた現在なら瀬織津姫自身公的でないことを逆手にとり義経を後白河天皇から救済できます。
#来年はNHK大河ドラマ「義経」が控えていますね

●穂高神と梓水神
 いま私自身が遥拝するのは穂高神ですが、司水神として梓水神と同神としてしまうには違和感を感じ親子関係で捉えた方が自然と思います(*1)。松本平や岐阜側から望めばわかると思いますが、乗鞍岳は普通に眺められる位置にあるのに対して穂高・槍ガ岳は人里からはまず伺えない位置にあり、縄文の頃にはそれこそ乗鞍岳に登らない人には意識できない信仰対象ではなかったかと推察しています。瀬織津姫祭祀で考えるのなら、乗鞍岳信仰を北面から治める祭祀として穂高神を捉えてくれれば幸いです。
 実のところ、自分の瀬織津姫への関心は雁歌さん(*2)に端を発しており自分の考えている漫画の舞台に瀬織津姫を冠して雁歌さんを招ければ十分と考えていました。梓水神と瀬織津姫の関係が見え始めたことでことで根拠的裏付けを得られたので自分の動機は概ね幸せな気分に満たされました(赤面♪)

●乗鞍岳祭祀について
 乗鞍岳については飛騨側からの考証も必要かと思います。自分はまだ村誌をめくるまでは余裕がなく風琳堂御主人にお手数をお掛けすることとなりますが、よろしければ乗鞍岳の大丹生池と丹生川村の名前の由来をお聞かせ頂けるでしょうか?
「神奈備にようこそ(*4)」というHPは御存じと思いますが、丹生都姫伝承という魅力的な土地神を紹介されています。次の瀬織津姫本を作るには構想を含めまだいろいろ課題があると推察していますが、それまでの間を埋めるものとして、手頃な丹生都姫の本を作る端緒になれば幸いと思いここに記させていただきます。

●RE:)鎌倉幕府による流罪刑
>北海道最古の創建とされる姥神大神宮(折居社)がまつられたのも建保四年(1216)とされす。>>この流罪記事と姥神=折居神祭祀のはじまりの時間の一致は偶然ではないのかもしれません。
 私が瀬織津姫の娘神として捉えたハヤチネウスユソウですが、北海道の大平山にあるオオヒラウスユキソウがこの変種ともいわれており、瀬織津姫は北海道アイヌの民と倭人の掛け橋となりうると思っています。ここで重要なのはアイヌの人にきちんと受け入れられる祭であるかどうかが大切なところと思います。オオヒラウスユキソウは北海道自生種ですかアイヌの民は快く受け入れてくれるでしょうが、折居神祭祀は現実にはどうだったのでしょうか?
 自分が北海道に流罪になったとしたら記録が確かな最上徳内師に習ってアイヌの生活習俗に従った上に婚姻関係を結び、アイヌ祭祀と瀬織津姫祭祀を習合させます。その上で北海道の草木等自然の観察記録を行い人間と自然のより良い調和点を探究することでしょう。もし記事の流罪人達がアイヌ生活文化を無視してそれまでの習慣を改めず婚姻もしなかったとしたら、遠からず栄養失調等により衰弱死して折居神祭祀は途絶えるのではないかと思いますが風琳堂御主人はどうお考えでしょうか?
 現代においてもアイヌ文化の復興については後継者の問題を抱えており、文化継承も含めてアイヌ流の婚姻祭祀を現実化した方がいいと自分は考えます。

(*1)先日、穂高神社のhpを確認したのですが、この神社では結婚のみならず葬儀も取り扱っており子供の誕生から生涯の終わりまでを神道で一本化できています。
(*2)http://www1.odn.ne.jp/kariga/
(*3)興味深いことにアメリカ政府が日本に対して不快を感じるのは憲法9条絡みです。
  アメリカにいやがらせするのであれば武力よりは憲法9条でしょう。
(*4)http://www.kamnavi.net/

069 安曇野の伝説 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

 梓水神と穂高神を「親子関係で捉えた方が自然」という感覚はわからないわけではありません。これは、薪能「犀龍小太郎」にみられる安曇野の伝説とも関わっています。

■安曇野の伝説──日光泉小太郎
 大昔、この安曇野一帯が漫々と水を湛えた湖であった頃、この湖に犀龍と云う者が住んでおりました。この犀龍と東高梨の池に住む白龍王との間に男の子が生まれましたので、日光泉小太郎と名づけました。/母の犀龍は自分の姿を恥じて水底深く隠れ住んでおりましたが、小太郎は母をたずねさがし熊倉下田の奥の尾入沢と云う処で初めて母に逢うことが出来ました。/この時犀龍は「私は諏訪大明神の化身である、これからお前と力を合せて、この湖の水を落し陸地にして人が住めるように致しましょう」と語って山清路の大岩をつき破り更に水内橋下の岩山を開いて安曇、筑摩両郡にわたる平野を作りあげ、それ以来この川を犀川とよぶようになったと伝えられています。/又、小太郎の父白龍王は海津見神であり、小太郎は穂高見命の化身といわれ、治山治水の功績を称えております。(穂高神社境内石碑)

 白龍王と犀龍の間に生まれたのが日光泉小太郎とのことです。犀龍は「諏訪大明神の化身」と明かされてもいます。白龍王については、「海津見神」であるとして、安曇族との関連が語られていますが、この伝説を江戸期まで遡りますと、「白龍王ノ曰ク我ハ日輪ノ精霊即チ大日如来ノ化身ナリ」と、日神の素性もみえてきます(『信府統記』享保九年=1724年)。母神・犀龍が諏訪神であるというのは、これは諏訪大社下社の神を表していますが、しかし、同書の割注では、犀龍は「武南方富之命」と記していて、江戸期においてさえ、少し混乱もみられます。もう少し異同を拾っておきますと、『信府統記』は、犀川の由来としてではなく、千曲川の由来として、この伝説を記していますし、小太郎については、穂高神社の石碑が記すような「穂高見命の化身」という表現ではなく、「八峯瀬権現ノ再誕ナリ」としています。ともかく、白龍王=日神、犀龍=諏訪神=水神の間に誕生した小太郎ゆえに、その姓が「日光泉」などと記されているのでしょう(これは『信府統記』も同)。
 梓水神=諏訪神=犀龍としますと、穂高神社の伝説がいうところの「穂高見命の化身」としての日光泉小太郎=穂高神とは母子(親子)関係にあるとはたしかにいえます。ただ、わたしが、穂高神と梓水神が異神かどうかとおもうのは、『信府統記』が、穂高神の勧請について、次のように記しているからです。つまり、「白雉四年穂高大明神ヲ伊勢国ヨリ勧請ス此神ハ天津彦々火瓊瓊杵尊ノ垂迹ナリ」という記述です。「天津彦々火瓊瓊杵尊」というのは、白山においても、また伊豆においても、その地神を言い換えるときの定番的な祭神名ですから除外してみますと、穂高神は、伊勢国からやってきた神というのが江戸時代の伝承骨子ということになります。伊勢国の「治山治水」の神をニニギとみるには無理がありましょう。
 ここで、諏訪神=梓水神=犀龍の伝承をもつ犀川ということで浮かぶのは、白山山系の北から流出する川にも犀川があることです。この金沢の犀川の洪水鎮護を祈ってまつられたのが瀬織津姫神社です(金沢市別所)。犀龍の名称について付言しておきますと、男神・天照大神と南面並祭されるとき、西の社殿にまつられるのが女神・瀬織津姫で、これは、雛祭りの神座の古式にも通ずるものです。犀龍は西龍(神)からやってきた名称かというのがわたしの仮説です。

070 大宮熱田神と憲法9条の話 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

『南安曇郡誌』は『長野県神社百年誌』や町村誌を元にして、大宮熱田神社の祭神は「天照大神、日本武尊、草薙劔、須佐之男命、宮簀比売命、建稲種命、応神天皇、神功皇后、三柱比古命」と記しています。ところが、当の大宮熱田神社の祭神主張は「梓水大神・熱田大神・天照大神・八幡大神」とのことで、筆頭祭神を「梓水大神」としていることが大きな特徴です。また、神社側のこの祭神主張をみますと、熱田大神と天照大神は異神であるという表示にも読めて、興味深いものがあります。これを神社側の恣意的な表示とみるわけにいかないなとおもえるのは、江戸時代初期に、同じことを彫像で主張していた作仏聖・円空がいるからです。円空は熱田神宮の「奥の院」とされる龍泉寺において、天照皇太神を男神像、熱田大明神を女神像として一対形式で彫っていました(詳しくは、千時千一夜5、6を参照ください)。
 大宮熱田神社が、「安曇地方開発の大昔に梓川の水の恩恵を受ける里の守護神として、松本平を眼下に一望できる眺望絶景、山紫水明の本神山山頂に奉斎された梓水大神を祭神として創建された」という由緒は信じてよかろうとおもいます。神林神社のように、梓水大神=瀬織津姫と明記してもよさそうなものですが、熱田神の通説的理解を超える祭神表示は好感がもてます。
 元禄時代は「あつた大明神」(『上野組社寺書上帳』)、享保時代は「大宮明神」(『信府統記』)、安政時代は「大宮熱田大明神」(『村村明細調書上帳』)と祭神紹介をしているのが『南安曇郡誌』です。大宮熱田神社は、江戸期を通して、熱田神をまつるという記録をもっていますが、不思議なことに、「梓水大神」を記録上に確認することはできないようです。同郡誌は「明治初年の書上」として、「文治五年(1189)に西牧兵庫頭滋野宗玄なるものが初めて熱田社を勧請した」という記録も載せています。この明治期の記録と現在の大宮熱田神社の主張を総合しますと、平安末期に、梓水大神に熱田神がかぶったあと、一般には熱田神が表立ってまつられてきたということになります。戦後現在、大宮熱田神社は、自社の伝承に基づいて、熱田神の背後に隠れていた梓水大神を筆頭祭神として表示することが可能となったという理解もできます。
 このことを含む一般論をもって、「戦後民主主義体制において各人が自ら思うことを明示公言でき、堂々と瀬織津姫祭祀ができるので実に幸せな世になった」と言い切るには尚早かとわたしはおもっています。これは、神社世界の外部にはある程度いえることですが、「戦後民主主義体制」の空白地帯、あるいは腐食の力学がなお働いているのが神社本庁が主導する神社神道(←国家神道)の世界です。憲法9条および前文の交戦権放棄の思想は、未来的にみて世界思想・普遍思想となりうるもので、日本が世界に誇りうる、おそらく唯一の思想でしょう。日本は、湾岸戦争時に、これを世界に宣言すべきでしたが、為政者にその意識が絶無のため、なしくずしに今回のイラク戦争へのアメリカ追随を肯定する動きに表れました。戦後日本の後悔の一つがこれですが、もう一つを挙げるなら、1945年の時点で、日本は天皇制をやはりきちんと清算すべきでした。日本の戦後思想史において、未来に悔いを残すものとして、わたしはこの二つを挙げたくおもいます。日本の民主主義はいつでも変質する可能性を秘めていることを忘れてはならないというのが、わたしの「戦後民主主義体制」へのスタンスです。憲法9条をもってアメリカに「いやがらせ」をするといった「利用」の発想は、結果、この9条の世界思想への可能性を貶めることになりかねません。ほんとうに考えておかなければいけないのは、アメリカとの癒着関係が絶たれたときに、なお、日本は自立して(天皇制に依拠することなく)、アメリカを越えて世界とフレンドリーな関係をどう構築できるかということではないでしょうか。わたしは憲法9条の存在価値をそのようにみています。

071 乗鞍神と円空 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

 乗鞍岳の祭祀について考えるには「飛騨側からの考証も必要」というのはそのとおりだとおもいます。今回は、梓水神と瀬織津姫が等号で結ばれる伝承をもつ神林神社(松本市)の紹介から、乗鞍岳にふれることになりましたが、飛騨側についてはまだほとんど手つかずの状態です。
 ただ、乗鞍岳の飛騨側、特に小八賀川沿いには、伊太祁曽神社が集中してまつられる特色があり、これはどういうことかなとはおもっていました。仁徳紀に記される両面宿儺がたてこもったと伝えられる両面窟から、両面宿儺を「開山」とする千光寺までの約10キロの間に、地図上で確認できるだけでも伊太祁曽神社が四社あります。ここが丹生川村であること、そして、この小八賀川の源流部が大丹生池で、乗鞍連峰の北峰(の一つ)として大丹生岳もあります。
 丹生都姫については、わたしは基本的には丹生川の川神・川上神・水神とみています。これは、たとえば、梓川の川神が梓水神と呼ばれることとよく似ています。梓水神が、仮にですが、「梓姫」と呼ばれて地域に親称されていたとしてもまったくおかしくないのと同じだろうとみています。飛騨の丹生川村の「名前の由来」については、これも特に調べたことがありませんけど、源流部の山名・池名や村名をみますと、かつて、小八賀川を丹生川と呼称していた可能性はあるのではないかとおもっています。
 ところで、乗鞍岳の大丹生池の水神は丹生都姫であってもよいわけですが、ここの水神は、なぜか「乗鞍の神」です。円空と千光寺、円空と大丹生池の伝承を紹介しておきます。

■乗鞍神と円空
 当寺(千光寺)は乗鞍岳をはじめ、御嶽山・穂高岳などの眺望がきわめてよく、裏山の袈裟山には法華経・袈裟・千手観音などが埋葬されていたと伝えられている。乗鞍岳を正面に遠望する袈裟山は、古代の乗鞍岳の祭場の一つであったことが知られる。
 当寺には、美濃の円空法師の手になる多くの仏像が所蔵されている。彼は貞享年代(一六八四〜八)に当寺に来住して仏像を彫ったと伝えられる。彼は乗鞍岳に登頂した際、大丹生池に妖怪がいてこの池へ一人で行くと命をとられるといううわさを聞いて、千躰仏を作って池に沈めて池の霊(乗鞍の神)を祭ったと言われている。千光寺は古来乗鞍岳の山岳道場であったことが知られる。(『安曇村誌』第二巻)

 大丹生池の「霊」が乗鞍神としますと、これは、「妖怪」にまで落ちぶれた梓水神を想像したくなってきます。円空の作仏の基本精神は「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ」(『飛州志』)というように「地神供養」にあります。円空は、大丹生池の霊神を乗鞍岳の地神とみていたことが考えられます。円空が日本の神まつりの闇に気づいた作仏聖という仮定がまちがっていないならば、彼は、白山の地神と乗鞍岳の地神=梓水神が異神ではないことを認識していたことも考えられます。このことを伝えているのが、千光寺のすぐ北にある荒城川神社(主祭神は菊理姫命、五十猛神)でしょうか。円空はここに、観音像と神像の二体を奉納していましたが、観音像の背面には「天照皇太神 本地聖観音」、神像には「生身攘大神」と、きわめつけの謎書きを残しています(『円空の原像』惜水社)。「攘」ははらう、盗むという意味で、これを「譲」の誤字としても、いずれにしても意味深長な背銘です。聖観音が白山の地神(別山神)の本地仏であることを想像しないと、この円空のメッセージは理解できないようです。

072 「筋目の通った比売大神」とはなにか 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

「江差の姥神様──、それをアマテル神、比売大神、弁天と置き換えてもいい」、「折居明神という奇妙な神名を推理すれば、高御座を上御一人(天皇)に譲り(実は奪われ)、その下[しも]に降り居ます神ということになる。それが姥神という名のアマテル神であった」──これらは沢史生さんの姥神=折居神についての指摘、あるいは「推理」です(『闇の日本史』彩流社)。
 北海道の地で、アイヌの民に折居神がどのように受容されたかは断定できませんけど、円空が同地でこもった太田山の神は、アイヌが信奉していた記録があります(太田神社の現祭神は猿田彦神)。アイヌが信奉する神は水火神、日月神とのことで(『円空仏と北海道』)、としますと、猿田彦(仮称ですが)という原初の日神が受容されたように、その神名を明記するアイヌ側の文献がないだけで、原初の水神もアイヌの民は受け容れたことはじゅうぶんに考えられます。
 ところで、『闇の日本史』という本は「闇の日本祭祀」を考えるにあたって、ヒントがたくさんちりばめられている好著です。このことを大いに認めた上で、一つだけ混乱の認識があることを指摘しますと、引用にみられるように、比売大神とアマテル神、あるいは姥神=折居明神を同一の「女神」と見立てていることです。折居明神がその神座を譲った(実は奪われた)のは「上御一人(天皇)」というよりも、アマテル神が変じたところの皇祖神=アマテラスかとおもいます。アマテル神→アマテラス神の変貌は、同一の漢字表記(天照大神)の内部で巧妙に行われたもので、アマテル神はもともとは「男神」でした。その対神として比売大神はあります。
 沢さんにおいてさえ、王権のこの皇祖神創作の詐術にはまっていることは、たとえば、瀬織津姫に関する、次のような魅力ある紹介にも表れています。

■瀬織津姫は貴船神かつ産鉄神か
〔前略〕姫島をはじめ、その対岸となる宇佐・国東・中津の一帯が、往昔の一大産鉄地であったものと思われる。
 また宇佐市に隣接する中津市には、宇佐八幡の本宮といわれる薦[こも]神社があるが、なによりも奇異なのは、この小さな地方都市界隈に、二十を超える貴船神社が祀られていることだ。
 貴船神は瀬織津媛[せおりつひめ]などともいわれ、京・鞍馬山に接する貴船神社が高名であるが、その意は「貴いホト神」であり、その正体はミズハノメという水霊[みずち]、つまり女河童ということになり、比売大神の眷属神なのである。
 中津の地名は古いものではない。中洲の性格を帯びるところから、この地名が冠せられたものと考えられるが、その中津川(山国川の分流)河口に近い闇無浜[くらなしはま]では、近年まで豊富な砂鉄が採取されたという。タタラの火が夜空を焦がしたゆえの、闇無浜だったのかもしれない。(『闇の日本史』)

 沢さんは同書で、「今日的には本家本元の宇佐八幡の大神や宗像大神にしても、ひょっとしてそれ以上に、筋目の通った比売大神が、いたかもしれないという想像は成立する」と、比売大神に対する空無な「見通し」を述べてもいます。しかし、巻末では、「比売大神、つまりアマテル神であったはずである」とくりかえしてもいます。これらの誤認は、瀬織津姫を「比売大神の眷属神」とみなしたところに理由があります。比売大神が瀬織津姫を隠した抽象神名であることについては、ここでは繰り返しません。天照大神を男神像として彫っていた円空の造像行為が、どれほど大きな示唆を与えてくれているかをあらためておもうものです。
 なお、引用文中、「貴船神は瀬織津媛[せおりつひめ]などともいわれ」とあり(別の箇所では、「貴船神はミズハノメであり、瀬織津媛、大禍津日神でもある」とも書かれる)、わたしも貴船神=瀬織津姫の可能性は100パーセントに近いものとはおもっていますが、その出典をぜひ知りたいところです。また、瀬織津姫は産鉄神でもあることがここからうかがえます。遠野において、始閣藤蔵は、早池峰神=瀬織津姫を産金の守護神としてまつったのでしたが、これは、水神→山神が鉱産神ともなることをよく表したもので、瀬織津姫が産鉄神とみられても不思議はありません。ちなみに、中津市の闇無浜神社には、瀬織津姫は宗像神(の湍津姫)としてまつられてもいます。
 最後に、『闇の日本史』は、宗像神に関する貴重な資料紹介をしていますので、ここに引用しておきます。

■宗像三女神は元は一神
 一般に弁天様の名で知られるオキツシマヒメ(オクツシマヒメ、イチキシマヒメ、イツクシマヒメとも)、タキツヒメ、タギリヒメは、宗像大神として祀られる三女神であるが、宗像大社の『鎮座伝記』は「三女神一神」と元来が一人の比売神であることを認めている。

 記紀が創作・記載するところの宗像三女神像を、当の本家が否定している記録があることは重要です(宗像三女神考については、囲炉裏夜話754「藤原思想と瀬織津姫」を参照ください)。

073 桜神としての諏訪神 風琳堂主人 2004/09/08 (水)

 長野市泉平というところに、素桜神社という桜神をまつる小さな社があります。同社境内には、樹齢およそ1200年といわれる桜の古木があり、名づけて神代桜とも素桜ともいわれ、人々からとても親しまれています。この桜(神)についての民話を紹介します。

■泉平の神代桜
 むかし むかし。長野の町に一人の俳諧師が住んでいました。とてものどかな春の日のことです。俳諧師は「水内郡の泉平村の大桜の花が、今を盛りと咲いているそうだ。わたしたちも花見に行こうではないか」と、二人のお供をつれて湯福神社の所の道を通って、ひとしお沢を登って、泉平にやってきました。途中に、伊都美神社というおやしろがありました。一行はそこでひと休みしました。緑の風がとてもおいしく、みやしろのうしろには幾重にも松やかえでの枝が重なり、心がひきしまる思いがしました。
 その神社の境内からは、きれいな水がこんこんとわき出ていました。「この美しい森といい、きれいな水といい、何かいわれがあるにちがいない」と思って村の人に聞いてみますと「この水は、遠い昔神桜が諏訪湖の水をここにうつしてくださった。だから、どんな日照りの日でもかれることなく、また、どんなに雨が降ってもにごることなくこの里をうるおしているのです。人々はここにお宮をまつり、伊都美の神とあがめているのです」ということや、「こんこんと泉がわく里だから泉平村というのだ」とも話してくれました。村人はとても親切で、泉平の桜のある場所にも案内してくれました。
 桜はちょうど満開でした。一行は桜の根元に腰をおろし、桜を見上げながら、俳句をつくったり酒盛りをしました。
 いいにおいが風とともにやってきました。花びらがちらちらと舞い、さかずきの中にもこぼれました。一行は夢見るようなここちでした。いつしか、桜の根をまくらに眠ってしまいました。
 どのくらいたったでしょう。俳諧師がはっと目をさますと、美しいお姫様が、多勢の腰元のつづみやことの音にあわせて桜の枝をかざして舞をまっていました。 その神々しい姿に、思わずはっと地面にひれふしておりますと、お姫様は「わらわはこの花の精なるぞ」といわれ、この桜にまつわる物語をなされました。
「この桜がスサノオノミコトが植えられた日本の桜で、一番素になる桜だから、素桜[モトハナザクラ、 スザクラ]とも、神代桜[ジンダイザクラ]ともいわれている」など、話され、舞いながらしだいにおぼろになり、桜の下に消えて行きました。
 俳諧師が、あわててその姿をさがしますと、桜の根元に小さなほこらがありました。そのなかに入って行かれたようです。ほこらには「八坂刀売の命」と言う、神様のお名前がきざんで納められていました。この桜の御体は、八坂刀売の命だったのです。俳諧師は、お供の二人を起こしてこの話をし、あらためて桜を伏し拝みました。そして、矢立てをとりだし、たんざくに俳句[ウタ]を書きつけ、桜の枝に結びつけました。

 神代より 今に久しき この桜 大和心に 咲きにおいぬるかな

 おりから、朝日が登り始めました。神代桜は、その朝日の中に美しく映えて、今を盛りと、咲き匂っていました。(HP「芋井中学校24時──民話スペシャル」)

 俳諧師が最後に、俳諧(俳句)ではなく和歌を詠んでいるという不思議から、この民話は(も)、ありきたりの民話ではない「読み」を要求しているのかもしれません。
 文中の「伊都美神社」とは現在の泉平神社かとおもいますが、同社の境内からは「きれいな水」が湧き出していて、「この水は、遠い昔神桜が諏訪湖の水をここにうつしてくださった」と村人は語ります。引用の民話では「神桜」と書かれていますが、同民話の英語版では「the God of Cherry Blossoms」とありますから、神桜は桜の神、桜神の意でつかわれています。
 桜は水神が化身した木とみられることについては、これまでにも折々にふれてきています(囲炉裏夜話298「水神の化身としての桜」ほか)。泉平の民話では「スサノオノミコトが植えられた日本の桜」とあるのみですが、境内の案内板には、「この木は、その昔素戔嗚尊がこの地で休んだとき、持参した桜の杖を池辺に挿したものが根づいて成長したものと伝えられ」とあり、「池辺」、つまり、「水」と桜は、ここでも縁深い関係にあることをよく伝えています。また、それゆえに、「桜の根元」の「小さなほこら」(現在の素桜神社)には、諏訪湖の湖水神(下社の神)とされる八坂刀売という女神(水神)の名が刻まれていたのでしょう。
 民話の狂言まわし役として「俳諧師」が登場していることをみますと、この民話の創作が江戸期の前に遡るものではないこともわかります。これは、諏訪神(諏訪湖の水神)の名が、江戸期において、すでに八坂刀売命として民衆的に定着していたことを表してもいます。
 俳諧師が素桜=神代桜へ向かうにあたって、まず「湯福神社の所の道を通って」とあります。ここを「通って」次に向かうのが「伊都美神社」(現在の泉平神社)です。伊都美神社=泉平神社の現祭神は健御名方命、同社ゆかりの素桜神社の祭神は八坂刀売命と、諏訪の上下社の祭神が絵に描いたように配置されていることがわかります。また、最初に登場してくる湯福神社ですが、ここは善光寺の西に隣接する立地にあり、「善光寺三鎮守」の一社とされます(他の二社は、武井神社[主神:健御名方命]と妻科神社[主神:八坂刀売命])。湯福神社の祭神は、同じ諏訪神でも、ここだけ「健御名方命荒御魂」とされます。「荒御魂」という表示は、背後に「深秘」の神を隠祭していることがほとんどといってよく、ここも例外ではないのかもしれません。といいますのも、湯福神社の分社に、その名も「桜神社」があるからです(長野市桜新町)。
 それにしましても、桜とスサノオが関係づけられている話は異例中の異例です。信濃国において、スサノオは、諏訪の水神=桜神を招来した大元神だというのが民話が語ることでもあります。記紀の創作(アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」という擬制的な婚姻)によって、宗像三女神の父神とされた素戔嗚尊でしたが、この破綻神話の一方の主役であるスサノオゆかりの桜が「日本の桜で、一番素になる桜」、つまり「素桜」と命名されているわけです。アマテラスは、その核にアマテル神という男神を秘していることを考えますと、擬制的婚姻関係にあるスサノオもまた、その核に謎の女神を秘していることが想像されます。わたしは密かに、天照大神の「荒御魂」が瀬織津姫であるなら、瀬織津姫の「荒御魂」はスサノオ(修験世界では不動明王)ではないかという仮説をもっています。スサノオが核に秘している謎の女神をそのようにみています。この両神の核心=核神部分を互いに明かさないことで、日の本「神の国」は弥栄(→八坂)、つまり、とみに栄えるはずだというのが、記紀創作者がアマテラスとスサノオ両神に課した「誓約」の中身なのでしょう。ところで、瀬織津姫は伊勢の桜神でもありました。たとえば「若桜」は「わかさ」とも読むように、桜は「さ」の読みをもっています。としますと、スサノオは「素桜王」とも書けることを教えてくれているのが、この泉平の民話です。

074 諏訪湖の花 言蛇 2004/09/13 (月)

「雁がねの 来鳴かむ日まで 見つつあらむ この萩原に 雨な降りそね(万葉集2097)」

こんばんわ、秋桜や蕎麦の花が咲くなか、昨日は西三才神社の秋祭りを楽しんできました。
神楽ばやしが町内をまわり祝い花火や仕掛花火、獅子舞をみることができ、小振りながらも横須賀より古式ゆかしい風情が伝わっていて土地柄を感じさせてくれました。神社の神紋は三つ巴ながら神楽ばやしには加茂神社の名前が掲げられており、新興住宅地内神社の今様を考えさせてくれます。

◆神代桜
和歌付の民話の紹介、綺麗な話でよかったです。ただ、アマテラスとスサノオの擬似結婚話については、瀬織津姫絡みで近親婚を容認すると受け取る人もでそうなのですが風淋堂主人はどうお考えでしょうか(*1)? その後に高天原で起きたことを考えると、むしろ瀬織津姫はちゃんと表に出て止める側に回るべきかとも思います。
善光寺の脇にある城山神社(公園)の桜も市内の名所として有名です。この神社の神木は現在銀杏なのですが、秋らしい縁結びの方法として秋田県の銀杏山神社がありますので紹介させていただきます。

銀杏山神社は、大和朝廷時代(658年)阿部比羅夫が蝦夷征伐に遠征して来た際に勝利祈願の為に建立したものといわれ、大和朝廷時代に植えられたと伝えられている三本の銀杏の巨木があります。三本のうちの一本は「もとめ木」といわれ、枝もとから気根が乳状に下がり、その先端から樹液が滴るので、お乳の少ない女性が願いを書いた紙を結びつけ、白い布で作った袋をかけるとお乳がでると信じられています。他の二本(男銀杏と女銀杏)は、枝状に結びついているところから「連理の銀杏」と名付けられています。この二本の銀杏の周りを息を止めて8の字に3周すると願いがかなえられるとの事。
近くには恋文神社もありますので求婚祈願には丁度よさそうです。関東ですと江ノ島の弁財天にやはり「結びの銀杏」というものがあり、こちらでは普通に絵馬を捧げます。やはりプロポーズは隠さず堂々とした方が気持ちがいいのでしょう♪
(*1)自分が異名同神に反対なのは、経済活動としてネズミ講やマルチ商法に繋がるおそれがあるからです。
    ここの掲示板では瀬織津姫が主役ですが、神様の名前を変えて異名同神説の展開を容認すれば・・・
    マルチの問題点(http://www.heavy-moon.jpn.org/actok/ml_idx.html)

◆八坂刀売命の花=アサザ
諏訪湖の水質が良くないことは以前おしらせしましたが 水質汚染の元である下水処理施設はほぼ100パーセントに近く今後の段階では生態系ぐるみの改善が図られいます。水質改善においてはヨシに代表される水草が着目されており、諏訪湖水質改善のバロメータにアサザの花が上がっています。八坂刀売命は諏訪湖の女神ということもあり、今後の仕事柄、桜よりはアサザの方が似合うかと個人的には思います。
諏訪湖に流れこむ水の改善については、大己貴命が国づくりのおり事代主命と健御名方命を従えて寄ったことに起源を持つ上伊那郡の矢彦神社に注目しています。ここには塩尻側の小野神社と合わせて針広混合林が自然に広がっており、北海道の東大演習林の応用が期待できるのです。
諏訪信仰においては諏訪神社上社(諏訪湖周辺)と下社(八ヶ岳山麓)の間に生活圏の違いに基づく確執が今でもありますが、伊那谷にあるバイオマス(*2)の研究を森林資源の地域研究に格上げすれば上社と下社の生活圏統合に一役立てます。
(*2)http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/2914/BioMassHP.html

◆安曇野の伝説
薪能が行われる龍門淵公園は、古文書には「龍宮淵」として龍神様がまつられ、祭り用の除地田があったとのことでその由来を引用します。
「龍神宮の由来
此処龍門渕はかって犀川の本流を本流をさえぎる岩が突出して大渦を巻くなど水の流れが激しく大変な難所であった。この岩の上に犀川の水霊、龍神「くらおかみのみこと」を祀り川の荒れるのを鎮め、あるいは日照りの時に雨乞いをするなどの祭祀をしたらしく上段からは古墳時代の土器などが出土している。龍神伝説や貸椀伝説も残り、松本城主水野氏は村々巡回の折には必ず参拝をしている。また、雨乞い祭りも度々行われ特に享保時代には河出の村中の僧を頼み二夜三日の祈祷をした記録が残っている。天保三年犀川通船が開船されてから、多くの人々は必ず通船の無事をここで祈って通ったという。」
風淋堂主人の記事と合わせますと、松本平における水神はむしろ雨乞い
#この湖沼伝説についてですが、明科町には北村遺跡という縄文時代の遺跡が出土しており北村遺跡の時代であれば安曇湖(仮定)の水位は、遺跡より下なのは確実と追記しておきます。

◆アイヌ文化側からの和人文化受容について
アイヌ文化における祭祀はチャシとよばれるアイヌの山城とそれにまつわる伝承に萌芽が伺えるようです。
「アイヌ考古学(著:宇田川 洋/出版:教育社)」からの引用ですが、このシャチに伝わる伝承数と種類を上げますと、
   闘争伝承 =57 (対和人:6、 対アイヌ:49、 対オロッコ:2)
   見張伝承 = 6 (プンキ:5、オトイパ:1)
   聖地伝承 =14 (チノミシリ:3、カムイミンタル:2、ヌサ場:9)
   談判伝承 = 5 (チャランケ:5)
   人文神伝承=19 (ポイヤウンペ:1、オキクルミ:2、ポンオキクルミ:3、コロポックル:5、サマイクル:4、オロンコ:2、義経:4)

この中で和人文化といえるのは義経伝承で、これはオキクルミ伝承の置き換えです。過去における和人文化の受容については少なくともこの位が目安になると思います。これ以外でアイヌが受容したといえる外来文化は、アイヌ玉といわれるトンボ玉があげられます。玉自体は江戸・オランダ・清・インド・ロシアからの招来品なのですが、首飾りの通し方に独自性を認められアイヌ玉と呼ばれるようになりました。もしガラス製法をアイヌに伝えればアイヌ独自の発展が見込める分野といえそうです。円空仏の場合ですと、仏像というものがあるのでアイヌが実際に仏像を作る事跡があればアイヌに受容されたと言えると思います。
#もっとも現代においては仏像ではなく瀬織津姫の像を作ったほうが誤解は少ないですし、その前にアイヌの文化英雄(男女)を確立する必要があります・・・・。

◆乗鞍神と丹生
瀬織津姫主体のページにて丹生都姫に時間を割いていただきどうもありがとうございます。
乗鞍岳と丹生都姫のかかわりについては、質問にしました名前の由来が確認してから取り掛かろうと自分では考えています。
長野からでも岐阜・高山は遠いので、これは致し方ないと納得しています。むしろ、リゾート地化している乗鞍高原で時代に背を向けているような気配がある梓水神社の方が気にかかるところで、これは直接に宮司さんに話を伺ってみたいところです。

(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)

075 「エミシの国の女神」二冊目のイメージ 言蛇 2004/09/20 (月)

「思はぬを 思ふと言はば大野なる 御笠の杜の 神し知らさむ(万葉集564)」

自分なりにイメージしている次の瀬織津姫の本のイメージですが、まず次の本に目を通して下さると幸いです。いずれも実在する技術と発掘品と地域伝承がうまく融合している好著です。
「海を渡ったモンゴロイド(著:後藤 明/出版:講談社)」
「縄文人はるかなる旅の謎(著:前田良一/出版:毎日新聞社)」
自分がイメージしているのは、これの現代日本地方版と考えてもらって結構です。風琳堂主人の瀬織津姫ですと、現代の早池峰山と北上川の土地神としてのイメージに特化したものがニ冊目に相応しいと考えています。もっとも上述の本のようなものにするには、実際に県庁・市役所・商工会議所の会報で郷土史のコーナ(*1)を少なくとも2、3年は担当しないと生きた本にならず「エミシの国の女神」ともだいぶ勝手が異なります。実は自分が希望を述べた丹生都姫のイメージも紀伊半島に特化した土地神のイメージでして、ネット上で地元の神社動向を伝えている分、瀬織津姫のニ冊目よりはまとめるのが早いと考えて話を降らしていただいています。
(*1)現在の岩手県知事は「がんばらない宣言」をしたユニークな方で追い風は吹いていると思うのですが・・・。

◆夫婦樹♪
神代桜で夫婦樹にふれましたが、確か遠野の早池峰神社にはイチイの夫婦樹があったと記憶しています。銀杏山神社にお願いして、このイチイで縁結びの儀をするのもいいですし、あるいは桜、あるいは銀杏をニ本植えるのもいいですね〜。泉平の神代桜はエドヒガンザクラなのですが、早池峰神社(=瀬織津姫)の桜はエドヒガンザクラと固定してしまってよろしいでしょうか???
桜といえば一般の人はコノハナサクヤ姫をイメージすると思うのですが、瀬織津姫にはエドヒガンザクラ、コノハナサクヤ姫にはソメイヨシノを充てれば誰でも区別を付けられるようになり混乱を避けられます。瀬織津梓水神については今思案中です。

#泉平の神代桜の近くには国見のイチイという樹があり、春には花を、秋には実をならして地元には親しまれています。長野ではこの桜とイチイが夫婦なのかも。

◆産鉄神について
産鉄神については、瀬織津姫ではなくどちらかというと金山彦命と金山比売命が担当する方が話がすっきりすると思います。名古屋からですと岐阜の南宮大社が調べやすいですが、個人的に瀬織津姫絡みでかたるのはお勧めできないのが正直なところです。金属関連の話しは神奈備様のhp(*2)に色々な方の投稿が死屍累々と重なっていますので一応参照を願います。産鉄神がうまく纏まらない失敗の原因は、現代の鋼業製品との現実的な繋がりが全く無い形で話が進んでいることと、多様な現代の鋼業製品を語るには金山彦命だけでは神様が足りないことだと自分では判断しています(*3)。もし産鉄神を語るのであれば、実際に製造業に携わっている技術者の方を交えることで神と物を正しく結び付けることができるでしょう。名古屋ですと具体的にはトヨタ自動車関連が自分だと浮かんできてしまいますね(汗)。現代の日本製造業は資源も含めると海外の人に依存しているのが現実ですから、国外の宗教の現実と神道を向き合わせて交流・結婚をさせていく上で有益な話ができる筈です。
(*2)(http://www.kamnavi.net/)
(*3)東北ですと南部鉄器が手頃にまとまりそうですね、これなら台所を狙えそうです♪

(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)

076 その後に高天原で起きたこと 風琳堂主人 2004/09/19 (日)

「アマテラスとスサノオの擬似結婚話については、瀬織津姫絡みで近親婚を容認すると受け取る人もでそう」──そんなアホな、あるいは幼稚な発想をする人は、この千時千一夜の読者にはまずいますまい。
「その後に高天原で起きたことを考えると、むしろ瀬織津姫はちゃんと表に出て止める側に回るべきかとも思います」──瀬織津姫の立場からすれば、そんな義務は元よりありませんから「わたしの知ったことではありません」でチョン(済み)のような妄想話なのですが、しかし面白い(面白くない)もので、同じ発想をしたかもしれない古代人がいたようです。中臣氏です。
 アマテラスとスサノオの擬制的婚姻=誓約における宗像三女神等の子神産みのあと、記紀はスサノオの乱暴狼藉を描いています。古事記を要約しますと、スサノオは「その後」おごりたかぶって、アマテラスの神田の畔を壊し、溝を埋め、食事殿に屎[くそ]をする、さらに、アマテラスの機殿には逆剥ぎにした馬の皮を放り込むといった狼藉をします。これらは、アマテラスの石屋戸隠れの原因譚として描かれるものです。スサノオのこの狼藉(罪)についてですが、これは神聖な田や機殿を犯してはならないという古代農耕的な「罪」であるという理解が通説化していますが、ここは、アマテラスそのものに対する反逆の罪というようにも読めるわけです。ともかく、高天原においてスサノオがしたことの数々を含む「罪」をそのまま記していたのが、瀬織津姫を中心神としてつくられた大祓祝詞(六月晦大祓)でした。

■大祓祝詞に描かれる「天つ罪」
 国中に、成り出でむ天の益人等が過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪事は、天つ罪と、畔[あ]放ち・溝埋み・樋[ひ]放ち・頻蒔[しきま]き・串刺し・生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸[くそへ]、許多[ここだく]の罪を天つ罪と法[の]り別けて、国つ罪と、生膚断ち・死膚断ち・白人・こくみ・おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜[けもの]犯せる罪・昆[は]ふ虫の災・高つ鳥の災・畜[けもの]仆[たふ]し・蠱物[まじもの]する罪、許多[ここだく]の罪出でむ。かく出でば、天つ宮事もちて、大中臣、天つ金木を本[もと]うち切り末うち断ちて、千座[ちくら]の置座[おきくら]に置き足[たら]はして、天つ菅麻[すがそ]を本苅り断ち末苅り切りて、八針に取り辟きて、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。(武田祐吉訳)

 スサノオのやったことは、「畔[あ]放ち・溝埋み」および「生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸[くそへ]」といった「天つ罪」に該当し、これはたしかに「許多の罪」(たくさんの罪)で、かなりの重罪ということになります。これらの罪を洗い出したあと、まとめて祓う役どころの神として最初に登場させられているのが、「高山・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比唐ニいふ神」です。したがって、瀬織津姫は「ちゃんと表に出て止める側に回」っているとはいえるのですが、元より、これは瀬織津姫の本意ではなかろうとおもいます。天つ罪の最初を演じる(演じさせられている)のがスサノオであり、天つ罪(と国つ罪)を最初に祓う神として瀬織津姫が登場させられていることは注意しておいてよいかとおもいます。
 なお、引用にみられるように、「おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪」は国つ罪とされ、これは「近親婚」の「罪」に該当しますから、瀬織津姫を祓神として設定した中臣氏の思惑の範囲内のことになります。
 スサノオが、以上の「天つ罪」によって「高天原」から追放されるとき、たとえば書紀の一書(第三)は、「素戔嗚尊には、沢山の捧げ物をお供えする罰を負わせた。手足の爪を抜いて、罪のあがないもさせた。天児屋命は、その祓いの祝詞をよまれた」と書いています(宇治谷孟訳)。大祓祝詞においては「大中臣」、スサノオの高天原の「罪」の神話においては「天児屋命」(中臣の祖神)と、中臣思想の思惑が一貫していることがわかります。囲炉裏夜話から千時千一夜にかけて、この中臣思想に対しては、ノンの視点を崩してきていないつもりです。
 記紀神話によれば、スサノオの神裔として、国津神の代表として大国主神がいますが、この神の異名は大国主神を含めて、古事記は五つ、日本書紀は七つと記しています。瀬織津姫については、この神の異名同神を列挙・展開したいわけではなく、正確には、瀬織津姫を隠祭するときに使用される本社筋の神々と、その秘祭の祭祀構造(中臣思想)を明かすことが主眼です。スサノオはその筆頭といってもよい難攻の神かもしれません。
『エミシの国の女神』の次にもし本が出るとするなら、それはおそらく、この中臣思想=「闇の日本祭祀」の全貌を明かす一助となる本であることを構想します。したがって、岩手に「特化した土地神のイメージ」で瀬織津姫を語ることはありませんし、ましてや、「実際に県庁・市役所・商工会議所の会報で郷土史のコーナを少なくとも2、3年は担当」する気はわたしにはまったくありません(岩手県知事の増田さんの「追い風」も不要です)。
 ありもしない仮定話、つまり、その他の蛇足の言についてはコメントを控えますが、一つだけ言わせてもらいますと、神奈備さんのところの産鉄神についての話で、「色々な方の投稿が死屍累々と重なっています」といった表現は撤回したほうがよろしいかとおもいます。多くの投稿があれば玉石混交の内容になることはあっても、「死屍累々」は失礼な話です。「産鉄神がうまく纏まらない失敗の原因は、現代の鋼業製品との現実的な繋がりが全く無い形で話が進んでいることと、多様な現代の鋼業製品を語るには金山彦命だけでは神様が足りないことだと自分では判断しています」──どう「判断」するも自由です。「産鉄神がうまく纏まらない」とすれば、それは、産鉄神が後代の派生神・分派神で、人の生命に関わる火神とか水神といった根源神からしますと(これらの神の系譜こそが記紀創作者によって曖昧にされています)、生活の複雑化・高度化にともなう派生神であるということが考えられます。また、アマテラスを神々のヒエラルキーの頂きとみなす神統譜・神話づくりの思想が背景にあるゆえに、そういった技術神・職神にまつわる話が豊かに、かつ強固に構築・伝承されてこなかったからともいえましょう。トヨタ自動車の名が出ましたが、同社の前身である豊田織機の創業者である豊田佐吉翁が信奉していた一例が、豊川[とよがわ]河口の水神社(主祭神:瀬織津姫)でした。瀬織津姫は水神かつ養蚕神・織姫神でもありますから、この佐吉翁の「心」とは問答してみたい気はしています。トヨタ自動車の現社員はともかく、経営者レベルは、この佐吉翁が信奉した神を知っておいてソンはなかろうに、とはおもわないわけではありませんが、それを部外からおせっかいに物申す感覚はわたしにはありません。「東北ですと南部鉄器が手頃にまとまりそうですね、これなら台所を狙えそうです♪」──丹生都姫についても、漆細工についてもそうですが、「南部鉄器が手頃にまとま」るとはとてもおもえません。また、消費税(アップ)じゃあるまいし、台所を狙ってどうする?といったところでしょうか。
 言蛇さんの発想は、「瀬織津姫の文化」(千時千一夜63「善光寺と建御名方」)がすでに成立していると錯覚したところから派生しているようにみえます。瀬織津姫が当然のように語られている世界(たとえば千時千一夜の世界)は、全体からいえば、小さな針の穴のような場所にすぎません。瀬織津姫という神をきちんと(大祓神=祓戸大神の位相ではなく)認識できているのは、まだほんの一握りの人たちだろうとおもっています。

077 消えたスサノオと瀬織津姫 風琳堂主人 2004/09/23 (木)

「瀬織津比当スは大祓詞に現われる代表的な清め祓いの神で諸々の罪穢を祓い、開運厄除けの御神徳極めて高い」──これは、現在の桜ヶ池・池宮神社(静岡県浜岡町佐倉)の社頭案内の表記です。瀬織津姫をあくまで祓神として表示する意向がよく表れています。このことは、同社の相殿神である事代主命と建御名方命の神徳説明にもみてとることができます。曰く、「事代主命・建御名方命は共に大国主命の御子神で、事代主命は通称エビス様と称せられ商売繁盛、福の神として、建御名方命は武勇の神又、農、耕、水の守護神として崇められている」──池宮神社は「水の守護神」を、瀬織津姫ではなく、建御名方命だと主張しています。
 池宮神社の「教化部長」という肩書き・立場で書かれた『桜ヶ池 池宮神社考』という本があります(中村福司著、昭和五十三年九月二十日、桜ヶ池池宮神社々務所発行)。同書は、瀬織津姫が「急瀬におられる水の精霊とすると桜ヶ池の祭神として全く相応しい御祭神である」と、至極まっとうに瀬織津姫を「桜ヶ池の祭神」(水神)として評しています。
 著者の中村福司さんはすでに退職していて(現在は大江八幡宮宮司とのこと)、この本は絶版、復刊の予定はないというのが現・池宮神社宮司の談です。『桜ヶ池 池宮神社考』という本をわたしが評価するのは、たとえば、次のような言葉を読むことができるからです。

■神明に奉仕する者=宗教家の任務
 特に最近は考古学的・民族学的に日本古代史の研究が進み、皇国史観的な上代史が古墳等の発掘又は韓国史家による朝鮮古代史の解明により、随所に疑問点が指摘されているので神明に奉仕する者と雖も、史実の裏付けのない神社誌を書くわけに行かない。私は信仰と史実とは別個なものであるが正確な史実に基ずけば一層信仰を深めるものと信じている。
 神は信ずるもの、心の中に存在するものであって、宗教家は大衆に神の存在を説き、教化育成し悪事・病気災害等を最小限にくい止め、もし不幸にしてそのような事態が起っても宗教心によって培われた、心の素早い転換によってそれらの精神的ショックをおさえ立直ることの出来る状態に復するのが任務である。

『桜ヶ池 池宮神社考』は、池宮神社の古記録が武田・徳川の戦い(天正年間)によって焼失して現存しないことを証言しているのですが、それでも江戸期の棟札や江戸期の池宮神社にふれた古文献等を収録していて、池宮神社を考えるにあたって、これ以上の資料集はないといえる価値をもっています。
 わたしが同書を通読して興味深いとおもったことの一つは、主祭神の瀬織津姫や配祀神二神に関する江戸期の文献や棟札が「ない」ことです。もう少し突っ込んでいいますと、池宮神社と呼称されるのは明治期のことで、それまでは、同社は「池宮天王社」だったということです(「当社ハ従来池宮天王社ト称セシヲ明治元年十二月許可ヲ得テ池宮神社ト改称ス」…昭和二十一年三月二十八日付の「申請調書」)。○○天王社といえば、津島天王社(現在は津島神社)を筆頭に、その祭神はスサノオとなることが通り相場なのですが、池宮神社に限っては、主祭神をスサノオではなく瀬織津姫としたという特異なことになります。著者の中村さんも同じ疑問を書いていました。曰く、「天王社と云うからには当然前記『和漢三才図絵[会]』にあるように御祭神を、牛頭天王─素戔嗚命が主祭神又は相殿主祭神にならなければおかしいのである。しかし明治以後の由緒にその御祭神名がないのはなぜか」──これは、もっともな疑問です。
 中村さんは、明治元年の神仏分離の際の太政官布告の一項に「中古以来神祇を某観音・某菩薩・牛頭天王など仏語をもって称したものを廃止させ…」を引用し、「御祭神の牛頭天王を政府の布告を考慮して取はずした事が充分考えられる」と見解を述べています。著者は、瀬織津姫を「水の精霊」とするも、祓神の規定を前提としていて、いいかえれば、この神が皇祖神=アマテラスと真っ向から抵触する神であるという認識がなく、したがって、明治期に自社の祭神名として瀬織津姫の名を掲げることの多大な困難には視線が届いていないようです。
『桜ヶ池 池宮神社考』は明治期(明治二十四年)の神社明細帳も収録しています。ここには、境内社七社の一社として「桜之宮」の存在が記されていますが、その内容は「祭神不詳 阿闍梨皇円ト云伝フ」、また「久寿二年秋七月皇円此池ニ来リ誓シ事アリ叡山ニ帰リ仙化セリ。是ヨリ此霊ヲ池ノ主神トシテ祭レルト云」とあります(境内社七社には、伊雑皇大神宮[祭神:天照皇大神]もある)。中村さんは、この表示を読んで、「境内社桜之宮を祭神不詳としながらも、云伝えとして皇円阿闍梨の桜ヶ池入定により池の主神としたことは、時の権力に対して宮司佐倉信武の勇断の一端がうかがえる」と、当時の宮司・佐倉信武の「勇断」を讃えています。しかし、佐倉信武のほんとうの「勇断」は、明治期に池宮天王社が池宮神社に改称されるとき、牛頭天王→スサノオではなく、瀬織津姫を祭神表示したことにこそあるとわたしはおもいます。
 ここで、池宮神社境内社「桜之宮」についていいますと、同社が「祭神不詳」とされたのは、神宮が「桜宮」という異称をもっていたこと(当HP「五十鈴川の桜神」)と関係があると考えられます。瀬織津姫は、おそらく、江戸期を通して池宮天王社の境内社(奥宮)「桜之宮」の祭神だったのでしょう。明治期、桜之宮の祭神を瀬織津姫と表示することは、同神が伊勢神宮の神であることを証言するにも等しいわけで、これこそが忌避される必要があったとおもわれます。天王社であった池宮神社の祭神をスサノオではなく瀬織津姫と主張した理由は、同社の鎮座地が小笠郡佐倉村(明治期)であることに端的に表れていますが、佐倉神=桜神(桜ヶ池の神)として、神社内部に瀬織津姫の名が深く自明のこととして伝えられてきたゆえと考えられます。
 牛頭天王=スサノオが瀬織津姫と同居する例としては、横浜市神奈川区入江にある一之宮神社があります。同社は永禄四年(1561)に武蔵国一宮である氷川神社から勧請したとされます。また、同社案内板には、祭神を素盞嗚尊、事代主命、保食命、面足惶根命、水速廼売命、「外の神様」などと表示していますが、瀬織津姫がここにまつられています。宮司の談では、ここの氏子は漁民が多く、氏子の古老が信奉する神は瀬織津姫と事代主とのことです。ならば、きちんと瀬織津姫も祭神表示したらどうかといいましたら、知っている人が知っていればそれでいいというふざけた返答でした。ただ、もう一つ貴重な証言があったのは、瀬織津姫は武蔵国一宮・氷川神社にまつられていた神とのことです。氷川神社は、男宮の氷川神社(現主祭神:須佐之男命)と女宮の氷川女体神社(現主祭神:奇稲田姫命)、および簸王子社(中山神社)の三社から構成されているようですが、現在、ここに瀬織津姫の名を確認することはできません。
 横浜一之宮神社にとって、信奉対象神が瀬織津姫と事代主で、筆頭祭神のスサノオがまったく影がうすいということで想起されるのは、富山県高岡市の速川神社です。速川神社は、明治期に国常立尊、天照大御神、建御名方命が名目上の祭神とされましたが、氏子の人たちにとっては、現在でも、祭神表示から消された瀬織津姫が「自分たちの神様」だと強く認識・信奉しています。高岡市・速川神社でさらに興味深いのは、池宮神社祭神でもある瀬織津姫と建御名方(お諏訪さん)を「夫婦神」と言い伝えていることでしょうか。
 諏訪神祭祀への国家的干渉のはじまりは持統時代にまで遡りますが、『桜ヶ池 池宮神社考』は、桜ヶ池が諏訪湖(および善光寺の阿闍梨池)に通底している伝承も載せています。

078 再録◆諏訪縁起と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/09/25 (土)

 諏訪神の鎮座・本地譚として「諏訪縁起の事」があります。これは、室町期にまとめられたとされる『神道集』(現在一般に読めるのはその抄録。東洋文庫)に収録されているものですが、これを読んでも、諏訪神(下社の神)が瀬織津姫であることがよく伝わってきます。
「諏訪縁起の事」は、その始まりの箇所で、「東山道の筆頭は近江の国、その甲賀郡の地から荒人神が現われた。神の名を諏訪大明神という。この神出現の由来をくわしく調べてみよう」(貴志正造訳)と書かれていて、一瞬読む者を「え?」というおもいにさせます。諏訪大明神=建御名方神は、古事記によれば出雲の神で、八重事代主神の国譲り承諾→入水後、天孫への国譲りを最終的に認めた神とされ、最後は「科野国之州羽海」(信濃国の諏訪湖)に蟄居したと描かれていました。「諏訪縁起の事」は諏訪神の出現地を、古事記神話を敢然と無視して、近江国としているわけですから、これは興味をかりたてられます。
 諏訪縁起の話は『神道集』のなかでも特に長くて全文を引用できません。内容を要約していいますと、「甲賀郡の地頭をしている甲賀権守諏胤[こうがごんのかみよりたね]」の「三人の息子」の末子「甲賀三郎」と奈良の春日権守の孫娘「春日姫」の「夫婦の道」が話の基調にあり、両者が諏訪で「神」となる筋立てとなっています。この鎮座過程には、春日姫と生き別れた甲賀三郎による、異界=地底の国々を抜ける人生波乱の物語が大半を構成しているといってよいのですが、この物語の作者がスゴイのは、その虚構創作の想像性もさりながら、話の後半において、三郎と再会してからの春日姫について、その性格を、次のように描写していることです。

■春日姫の性格
 その後(三郎と再会後)、春日姫は、
「気にそまぬ土地にいて、いやな甲賀次郎(三郎の兄。この次郎のために、三郎と春日姫は生き別れとされた)の身の果てを見聞きするさえ憂鬱です。さあ、いっしょによその国へ移りましょう」
と、天[あめ]の早船[はやふね]を用意して、中国の南方にある平城国へ渡り、その国で早那起梨の天子にお目にかかって、神道の法を授けられた。「高天ヵ原に神とどまり、神々の末孫神ろぎ神ろみの命をもって」と受けて虚空を飛べる身となった。また「国内の荒ぶる神たちを神払えに払う」と受けて、悪魔・外道たちを他へ退ける神通力を会得した。また「科戸[しなと]の風の天の八重雲を吹き払うごとく」と受けて、いながらにして三千世界を見通す徳を得た。「焼鎌の利鎌[とがま]をもって生い茂った木の根もとを打ち払うごとく」と受けて、一切世間の有情非情が心の内に思うことを空でさとれる徳を得た。「大津のほとりにいる大船の舳[へさき]の綱を解き放し、艫[とも]の綱を解き放して、大海の底に押し放すごとく」と受けて、賞罰覿面[てきめん]に有効な、衆生を育てる徳を得た。

 ここには、五つの「〜と受けて」とありますが、これらの「〜」部分は正確に中臣祓=大祓祝詞(=六月晦大祓)の文言から引用されています。「諏訪縁起の事」の作者は、春日姫を、大祓祝詞の女神であることを明確に認識しているといえます。しかも、祝詞の基本性格である大祓の主旨──「天皇[すめら]が朝廷[みかど]に仕へまつる官官[つかさつかさ]の人等[ひとども]を始めて、天の下四方[よも]には、今日より始めて罪といふ罪はあらじ」という、つまり朝廷=国家による大祓の思想(中臣思想)をみごとに無化して、あるいは逆転させて、「虚空を飛べる身」、「悪魔・外道たちを他へ退ける神通力」、「いながらにして三千世界を見通す徳」、「一切世間の有情非情が心の内に思うことを空でさとれる徳」、「賞罰覿面[てきめん]に有効な、衆生を育てる徳」を、春日姫が新しく身につけた「神道の法」だといっています。
 こういった描写にみられる春日姫が大祓神=瀬織津姫の比喩であることはもう明らかで、それがわざわざ「春日」姫と命名されているわけです。縁起の作者は、春日四神の謎の比売神=春日姫が、暗に大祓の女神と同神であることをもここで明かしていると読むしかありません(『南安曇郡誌』が、豊科町の春日神社は「天児屋根命、経津主命、武甕槌命、瀬織津姫命」をまつり、「大同四年大和国奈良より勧請…」と記録していたことも想起されます)。
 甲賀次郎の横恋慕に嫌気がさして日本から「よその国」へ行った春日姫たちでしたが、甲賀氏の氏神「兵主大明神」によって、「どうか本国へお帰りになって、衆生守護の神におなり下さい」と懇願され、ついに本国=日本へ帰ってくることになります。
 春日姫たちの諏訪への鎮座部分を引用します。

■春日姫から諏訪「下の宮」の神へ
 夫婦二人は車(天の早車)に乗り、兵主大明神の使者とともに信濃の国蓼科の嶽に到着した。梅田、広田、大原、松尾、平野などの大明神たちも集まり、後につき従われた。信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕
 また春日姫は、下の宮として現われた。維摩姫(三郎の異界における妻神)もこの国に渡って来て、神と現われたが、春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょうと宮地をえらんで社を建てた。今の世に浅間大明神というのがこれである。

 春日姫と甲賀三郎の「夫婦の約束」は、「天上では比翼の鳥、地上では連理の枝、それらの深い愛情よりもなおまさるかと思われる」と作者は記していましたから、三郎が異界の「維摩姫」と「夫婦の約束」をしたことは一見道義に反するようにみえます。しかし、「春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い」とあるように、春日姫と維摩姫は、生死・明暗の世界を象徴する、つまり合わせ鏡のような同神であるということなのでしょう。その維摩姫が「浅間大明神」となる、つまり富士山の神となるわけで、この縁起が描き出した神まつりの真相譚は途方もない認識によって語られていることがわかります。
 なお、神仏習合=本地垂迹の思想によって語られる諏訪神については、「甲賀三郎方は上の宮に現われた。本地は普賢菩薩である。春日姫は下の宮に現われた。本地は千手観音である」とされます。春日姫の「本地仏」が(十一面)千手観音であることもいたくうなずけます。
 諏訪神のこの鎮座・本地譚は、両神が「地頭」の子というように、時間感覚からすると鎌倉時代を舞台にしていますけど、諏訪神鎮座が鎌倉期でないことは明白ですから、この縁起の作者のモティーフは時代探究にあるのではないとみるべきでしょう。

 春日姫(=春日四神の比売神)=大祓神(祓戸大神)=諏訪神(諏訪下社の神)=浅間大明神(富士山神)=(十一面)千手観音

 こういった異称同神(仏)の等式を無理なく想像させてくれる「諏訪縁起の事」の作者は、「闇の日本祭祀」を相当に深く認識していたとおもわれます。諏訪の男神の問題は残りますが、この中世の謎の作者に、あらためて敬意を表します。(初出:囲炉裏夜話498を一部修正)

079 再読◆丹波民話の瀬織津姫 風琳堂主人 2004/09/29 (水)

「諏訪縁起の事」を読み込んでみますと、瀬織津姫を諏訪下社の元神とみることを強く示唆していますし、また、富山県高岡市の速川神社に伝わる、瀬織津姫と建御名方が「夫婦神」という伝承が、ここだけの荒唐無稽な話ではないこともよくわかります。
 瀬織津姫と建御名方の両神が祭神となっている神社をひろいだしてみますと、湯次神社(滋賀県東浅井郡浅井町)、神林神社(松本市)、岩岡神社(長野県南安曇郡梓川村)、そして、諏訪湖(および善光寺の阿闍梨池)との通底伝承をもつ桜ヶ池・池宮神社(静岡県小笠郡浜岡町佐倉)などがあります。特に、桜ヶ池・池宮神社においては、「佐倉」という地名から、瀬織津姫が桜神でもあることが伝わってきますし、実際、「桜ヶ池は昔も今も桜の名所で池の附近の原生林にも山桜が多い」とのことです(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』)。ここに、民話「泉平の神代桜」における、桜神(諏訪下社の神)の話を重ねてみることもできます。
 民話(が秘めている力)は、ときに記紀神話(に基づく神社祭祀)の嘘と虚を照らしだしてくれます。「諏訪縁起の事」を頭において、丹波篠山の民話を再読してみます。

■与惣九郎の見た大蛇
 むかし、丹波の古佐の与惣九郎という人が、信濃の国の諏訪神社へお参りして、その分霊(建御名方命の妹)をいただき帰ってきました。
 今の渡瀬橋のあたりまで来たときのことです。それまでずっと後ろについて来た一人の女の子が急に立ち止まったかと思うと、身を踊らせて下の篠山川へ飛び込みました。
 驚いた与惣九郎の目には、もう女の子の姿はなく、見るも恐ろしい大蛇となって、
「わしは、諏訪神社の神霊じゃ。あそこに見える山は、七尾七谷と見受ける。眺めも良いので、わしはいついつまでも、あの山に鎮まりたい。」
 声とともに姿は消えてしまいました。
 与惣九郎は、さっそくお告げのとおり、岡屋の富の山を開き、清めてそこにいただいて来た分霊をおまつりしました。
 その時です。天地がにわかにゆれ動き激しい雷雨がとどろくと共に、大きな蛇体が富の山の七尾七谷をとりまき、雲つくような桧の根っこの穴から、大蛇の頭半分が出ている姿が見えました。
「わしは、子どもが好きじゃ。安産させよう。」
という、おごそかな声が聞こえたので、与惣九郎は、はっとわれにかえると、空はすっかり晴れわたり、なんともいえぬ神々しさが、山いっぱいにみちみちていました。
 それから、誰いうとなく、諏訪さんのご神体は蛇体であるといわれ、そのために諏訪神社は長い間(1903年まで)社殿を作らず、桧の古株にしめなわをかけて、これをご神体としておがんでいました。(篠山市HP)

 諏訪神社の分霊(建御名方命の妹)→女の子→大蛇という変身譚が描かれています。この大蛇は子どもが好きで、安産の守護神でもあるようです。「諏訪さんのご神体は蛇体」というのは諏訪湖の古伝承でもありますし、「雲つくような桧」が大蛇の住み家で、その「桧の古株にしめなわをかけて、これをご神体」として信奉したという記述は、神が宿る高木を立てて神迎えする御柱祭の意図をも暗示しています。
 女の子(建御名方命の妹)は「身を踊らせて下の篠山川へ飛び込」んだあと、大蛇に身を変えます。篠山川の大蛇が諏訪下社の神であることを考えますと、次の民話は、さながら、その後日譚のようにも読めます。瀬織津姫が、その名で登場する、現在確認できる唯一の民話です。

■丹波の人取り川
 むかし、篠山川には橋もなく、少し長雨が続いて水が出ると、流されたり、溺死する人が不思議に多いので「丹波の人取り川」といって、旅人や土地の人々が恐れていました。
 中でも、大山の一の瀬や岡屋の渡り瀬を越す旅人は、ここを非常に恐れ、無事に渡ったときは、必ず国許へそのことを知らすほどでした。
「この川には、きっと主神が住んでいるにちがいない」と思った氷上郡のある商人が何とかこの難を救おうと、大願を起こし、生駒山の歓喜天を信仰して一心にお祈りをしていましたら、十年目のある夜、夢に一匹の大蛇が現れていいました。
「わしは、篠山川に住んでいる主神である。おまえの信心の功徳によって、心を改め、今から天上して自天竜となろう。別れにのぞんで身の上を話そう。わしは、はじめ畑の三岳に棲んでいたが、そこに役行者がまつられたので、のがれて、藤岡の東窟寺の岩屋へ移ったところが、またもや、十一面観世音がまつられたので、仕方なく次は八幡渕に棲み、東古佐の戎が渕、川北の孫兵衛が渕から、野間の弁天が渕などを住みかと定め、悪神となって、多くの人身御供を取ってきたが、今からは瀬織津比売となり、水難者が一人も出ないようにしよう。雨乞いの願いもきこう。これから、十年間にこれらの渕が埋没するであろう。」と言って姿を消しました。
 不思議にも五年目に一番深かった八幡渕が河原となりました。また、水死者もでなくなり、雨乞いの祈祷をすると、大雨が降ったと言います。今も一の瀬や渡り瀬には「川越安全」としるした石碑が残っています。(篠山市HP)

 篠山川の大蛇は、神仏習合によって「神」をつづけられなくなって心が荒れてしまったのでしょう。しかし、その「悪神」となってしまった「心を改め」て、「瀬織津比売」という神に変身したとされます。ここでの瀬織津姫はまさに善神で、水難防護の神、雨乞いの神という性格が新たに付加されています。
 ところで、丹波篠山のこの二つの民話に共通して出てくる言葉(地名)に「岡屋」があります。岡屋は「諏訪縁起の事」にもみえていました(春日姫と甲賀三郎は、「信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕また春日姫は、下の宮として現われた」)。「岡屋の里」とは、おそらく現在の岡谷市にあたり、同市は諏訪「下の宮」がある下諏訪町の西隣に位置しています。岡谷市は、諏訪湖から唯一流出する天竜川の出水口を抱えるまちでもあります。
「与惣九郎の見た大蛇」では、大蛇(諏訪神社の神霊)を「岡屋の富の山」(現在の権現山[262m])にまつったとあり、「丹波の人取り川」では「岡屋の渡り瀬」は、渡河のもっとも難儀な場所として書かれていました。女の子(諏訪の神霊)が篠山川に飛び込んだところは「今の渡瀬橋のあたり」とあり、この渡瀬橋のあるところが現在の篠山市東岡屋です。篠山市の地名「岡屋」は、民話とともに、諏訪湖にそのルーツをたどることができるようです。
 この「岡屋の渡り瀬」(渡瀬橋)のすぐ上流部で篠山川に流れ込むのが藤岡川なのですが、この川の源流山が、「丹波の人取り川」において、大蛇が最初に「棲んでいた」とされる「畑の三岳」、つまり現在の三嶽山(793m)です。大蛇は「畑の三岳」から「藤岡の東窟寺の岩屋」へ、そして篠山川の各渕へというように、藤岡川を下って自分の住み処を求めたようです。この藤岡川と、同じく三嶽山から流れくる黒岡川の川合の地には「佐倉」の地名もあります。「岡屋」という地名は全国的にみても少なく(篠山市を含めて三例)、たとえば広島県甲奴郡上下町にも岡屋があり、ここにも佐倉地名があります。また、滋賀県蒲生郡竜王町岡屋でいいますと、ここは日野川流域にあたりますが、竜王町で日野川に流れ込む川が佐久良川で、同川上流部は瀬織津姫ゆかりの桜谷です(瀬織津姫は桜谷明神)。瀬織津姫は、この桜谷地区(現在の日野町安部居・佐久良・中之郷など)では賀川神社および長寸神社(ここは天照荒魂神の名ですが)にまつられています。竜王町岡屋の北の綾戸地区には、式内社・長寸神社を自社と主張する苗村神社もありますが、綾戸も瀬織津姫ゆかりの地名とおもわれます。ともかく、全国に三例しかない「岡屋」地名のいずれにも、近くに佐倉=佐久良=桜地名がみられるというのは偶然とはいえないでしょう。桜ヶ池・池宮神社の鎮座地も佐倉であること──桜神・桜谷明神の瀬織津姫像が匂い立ってくるようです。
 岡山県に「吉念寺の醍醐桜」(地元の人は「竜王」と親称)という老巨桜(推定樹齢七百年)があります(真庭郡落合町別所)。同木の樹下の祠は吉水神社と呼ばれ、そこには、集落の飲み水とされる泉が湧きだしています(牧野和春『桜伝奇』工作舎)。この泉の水は関川(→備中川→旭川)の一沢をつくっているとおもわれますが、落合町別所地区の関川には、源流部から順に、下諏訪神社、上諏訪神社とまつられていて、これも理由のないことではないといえそうです。下諏訪神を桜神と伝える「泉平の神代桜」もそうですが、丹波民話二話を含めて、民話の秘めたる底力を感じます。

080 瀬織津姫は誰のために? 言蛇 2004/10/05 (火)

こんばんわ、先週は穂高神社の御舟祭りを楽しんでまいりました。諏訪太鼓の流れを汲む穂高太鼓に豊科青龍太鼓、若人の生演奏は景気よくいまだに耳に残ります。御舟のテーマは恒例の源平物語に信濃遍都・白虎隊と昔語りの上手さをしのばせるもので、横須賀出身の自分にとっては「戦艦三笠と戦艦ミズーリ」で日本の近・現代を伝えられるのではと夢見てしまいそうです。

◆瀬織津姫二冊目のイメージ
さて、瀬織津姫二冊目のイメージを公開してくださりありがとうございます。土地神のイメージで書くつもりがないとのことで実に残念です。自分は風琳堂主人の本の下記のようなところに惹かれているので引用させていただきます。

「エミシの国の女神」あとがきにかえて
「本書の読者で、遠野の外の人には、身近なところにこの滝=水の女神をみつける楽しみをもってもらえたらとおもうし、もし遠野郷へやってくる機会があるなら、ぜひ早池峰の山と渓谷へ出向いて、この滝の女神と対面して欲しいとおもう。また、遠野あるいは早池峰郷に住むびとには、わたしたちはすばらしい女神をいただいていることを誇りとし、早池峰を中心とする山々をこれまで以上に愛しつづけていっていただければと願っている。」

風琳堂主人二冊目のイメージを伺っていると、主人の瀬織津姫はどの神様の為に働こうとしているのかどうも自分には伝わってきませんので、瀬織津姫はどの神様の為に働いているのかお教え下さい。自分の捉えている瀬織津梓水神や犀龍は、第一に松本平の食物神の為に働いていると捉えています。先日、秋映という新しいリンゴを食べてみたのですが歯ごたえがちゃんとあっておいしかったですよ♪

>言蛇さんの発想は、「瀬織津姫の文化」(千時千一夜?63「善光寺と建御名方」)がすでに成立していると錯覚したところから派生しているようにみえます。
錯角の点については大丈夫です。穂高岳や早地峰薄雪草に諏訪湖のアサザ、弥彦神社の混合林等、自分の根拠はあくまで現実に指差せるものを基本にしています。桜ヶ池が諏訪湖・善光寺の阿闍梨池に通底しているというような、現実にはありえない話しにのめり込むようなことはしないつもりです。木の話も基本は植林の問題なのですが、これにイザナミとイザナギの天御柱を見立てているものです。

>、神奈備さんのところの産鉄神についての話で、「色々な方の投稿が死屍累々と重なっています」といった表現は撤回したほうがよろしいかとおもいます。
神奈備様の掲示板に目をむけていただきありがとうございます、いずれは書き込みに来られれば幸いです☆ 神奈備様の掲示板には自分自身も投稿に伺っていますので、Rieruさんの「星屑」をもって謝辞に変えさせていただきます(謝。

◆浦賀の叶神社
>「その後に高天原で起きたことを考えると、むしろ瀬織津姫はちゃんと表に出て止める側に回るべきかとも思います」──瀬織津姫の立場からすれば、そんな義務は元よりありませんから「わたしの知ったことではありません」
風琳堂主人はそうおっしゃいますが、それは「よくないことについて見て見ぬふりをする」という点で良くないことだと思います。最近の出来事ですと三菱自動車のリコール問題や雪印の例をみれば明らかでしょう。

牛頭天王=スサノオが瀬織津姫 と同居する例とは違いますが、横須賀市浦賀の東叶神社に牛頭天王が西叶神社に向かい合っています。東西叶神社の祭神は応神天皇ですので西叶神社たずねれば、瀬織津姫の名前があがるかもしれません。浦賀ドックで軍艦をつくっていた以上、牛頭天王の祭祀は合点が行くのですが、町の方向性を変えつつある現在の浦賀には役不足な感があります。スサノオを語る時、風琳堂主人は「アマテラスとスサノオの誓い」を選びましたが、私でしたら「スサノオと櫛稲田姫の歌垣」をもってきます。アマテラスに会う前に櫛稲田姫の誓いをさせれば、「アマテラスとスサノオの誓い」の場面もかなり変化させることができます。

(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)

081 最後の質問としてお応えします 風琳堂主人 2004/10/10 (日)

「瀬織津姫はどの神様の為に働いているのか」──これは千時千一夜の感覚からすると「変」の部類に属する質問です。ただし、「瀬織津姫は誰のために?」という問いならば、「瀬織津姫は、瀬織津姫を必要としている人のために存在している」とはいえるかもしれません。もっとも、中臣思想からすれば、瀬織津姫は「皇孫の為に祓戸大神として働いている」となりましょうが、これこそが、さらに輪をかけた「変」な思想です。

「桜ヶ池が諏訪湖・善光寺の阿闍梨池に通底しているというような、現実にはありえない話しにのめり込むようなことはしないつもり」──わたしも「のめり込む」気はありませんけど、この通底話が伝えられる背景、つまり、歴史的・信仰的な理由についてはふれておく価値はあるとおもっています。「現実にはありえない話」を全否定すると、文学や民話(が内包する真や美)なども否定の対象として呼び込んでしまい、まことに窮屈・退屈な世界になります。

「(神奈備掲示板に)いずれは書き込みに来られれば幸いです☆」──こういうお誘いは掲示板の主宰者がいうならばわかりますが、「投稿に(招かれもしないのに)伺って」いるのかもしれない、一恣意的な投稿者が主宰者をさしおいていう言葉ではありません。これも「変」です。

「よくないことについて見て見ぬふりをする」「三菱自動車のリコール問題や雪印の例をみれば明らか」──瀬織津姫は、神社世界の「欠陥」祭祀問題や「偽装」祭祀問題の被害当事神ですから、これらの「よくないこと」に対して「見て見ぬふり」をしているのはほんとうはだれかと問うべきでしょう。雪印は×ですが、三菱などは反省して出直そうとしていて、まだかわいいものです。

大蛇退治→「スサノオと櫛稲田姫の歌垣」は印象深い話ですが、高天原から追放されたあとの出雲行の神話のはじまりの「又食物を大気津比売神に乞ひき」云々の「又」について、倉野憲司さんは岩波版『古事記 祝詞』の語注で、「物語の接続が「又」では唐突である。これは神話を不用意に接合させたための不手際である」と、とても鋭い「注」を記しています。古事記の作者は、この「不手際」の神話で、スサノオに、クシナダ姫の父親(アシナヅチ)に向かって「吾は天照大御神の伊呂勢[いろせ]なり」と自己紹介させています。「伊呂勢[いろせ]」は「同腹の兄弟」というのが『古事記 祝詞』の語注です。この自己紹介のあと、クシナダ姫のピンチを大蛇から救い、クサナギの大刀を手にいれ、それをアマテラスに献上し、スサノオとクシナダ姫のハッピーな「妻籠み」の歌がつづきます。この神話部分の特徴は、スサノオがアマテラスの「弟」であることを念押しし、その上で、多くの(名義不詳の)国津神の生成を描いて、最後に大国主神をスサノオの末裔神とみなすことに主眼があるようです。大国主神が国土を拓いたとしても、お前はアマテラスの弟の末裔で、それを天孫に譲るのは当然のことであるという、のちに国譲りを迫るときの天孫族の自己正当化の意図を伏線にした神話です。「妻籠み」の歌はもともと海民の歌垣歌をアレンジ(盗作)したものでしょうが、それをスサノオ自身の歌のように仕立てたことで、古事記の作者(たち)は、スサノオが最大の「祟り神」となることを封じたとも読めます。しかし、こういった古事記のスサノオのイメージとはちがって、追放→流浪→根国のスサノオと大祓祝詞の「根の国・底の国に坐す」ハヤサスラヒメを同神とみる説もあります。大祓の神は、最初は「瀬織津比盗_」一神でしたが、大宝律令制定の頃に、おそらく三女神一男神という構成になったのでしょう。三女神の残りのハヤアキツヒメについては、内宮の別宮・滝原宮並宮の神とみなす神宮側の文献もあり、いずれにしても、神宮祭祀が闇の要[かなめ]にあり、その上に古事記→日本書紀の創作記述があります。

(追伸)──言蛇さんへ
あなたの書き込み・質問に、読む(書く)に耐えるようにお応えできるのは、今回が最後と心得ください(以後、なにか質問があるようでしたらメールにしてください)。
これまでの投稿を再読してみましたが、例外といってよい、「変」ではない質問が一つありました。それは、あなたが千時千一夜に最初に書き込んだなかにある「犀川と千曲川の合流地点に立つ善光寺、寺が立つ前に神社が祀られていたということはあるんでしょうか?」です。この問いは、おそらく、複数の読者が共感・共有できるもので、今も光っています。ありがとう。

082 祓戸大神という石碑 風琳堂主人 2004/10/13 (水)

 大祓祝詞(中臣祓)は天智八年(669)、近江朝ののちの右大臣・中臣金連によって創作されたと伝えるのが滋賀県大津市の佐久奈度神社です。中臣金が祝詞の実作者であるとしても、当時の内臣、つまり天智の側近中の側近であった中臣(→藤原)鎌足がこの創作を指示、あるいは深く関与していたことは当然のこととわたしは考えています。この祝詞が創作された年に、奇しくもというべきですが、鎌足は自宅への落雷により亡くなり、中大兄(天智)と鎌足のコンビは終焉をむかえます。鎌足の死を代償のようにして誕生したのが大祓祝詞といってよいかもしれません。古代、落雷による災禍は「神の祟り」とおもわれたはずで、この鎌足の死も例外ではなかったと想像されます。時代は水面下で、壬申の乱への助走をはじめることになります。
 日本書紀は、この祝詞創作の翌年(天智九年)三月九日、「山御井の傍に、諸神の座を敷きて、幣帛[みてぐら]を班[わか]つ。中臣金連、祝詞を宣る」と記していて、大祓祝詞は当初、朝廷に仕える人間たちに向けてというよりも、「山御井の傍」に集合させられた(畿内の天津国津)神々に宣りわたされたようです。要するに、神々よ、暴れずに鎮まっていてくれということかとおもいますが、書紀はつづけて、四月三十日のこととして、法隆寺の謎の焼失を記しています(「夜半之後[あかつき]に、法隆寺に災[ひつ]けり。一屋[ひとつのいへ]も余ること無し。大雨[ひさめ]降り雷[いかづち]震[な]る」…大野晋訓読)。雷は「神鳴り」でもあります。
 この因縁めいた大祓祝詞創作の伝承をもつ佐久奈度神社(本社)を含む同名社には、以下の社があります(鎮座地表示については、最近の町村合併による変更に対しては確認・更新をしていません。以下、他リストも同です)。

■瀬織津姫を佐久奈度神とする神社(◆は本社)
○佐久奈殿神社               新潟県新津市大字金津1460
◆佐久奈度神社               滋賀県大津市大石中町56
○佐久奈度神社【馬見岡錦向神社・境内社】  滋賀県蒲生郡日野町村井705
○佐久奈止神社               長崎県西彼杵郡西海町水浦郷字村中679-1

 以上のほか、瀬織津姫を祓神として登録している神社、いわゆる祓戸社といった社名でまつるものも、現在判明しているものという条件がつきますが、以下にリストアップします。

■瀬織津姫を主神とする祓戸社
○禊祓殿神社【天照御祖神社・境内社】    岩手県釜石市唐丹町字片岸50
○波羅比門神社               埼玉県大里郡寄居町西ノ入728
●祓戸神社【三峯神社・境内社】       埼玉県秩父郡大滝村三峯298-1
○祓戸神社【八幡神社・境内社】       東京都国分寺市西元町
○祓戸社【神明宮・境内社】         東京都杉並区阿佐谷北1-25-5
○祓戸神社【八幡神社・境内社】       東京都杉並区上荻4-19-2
○祓戸神社【玉川神社・境内社】       東京都世田谷区等々力3-27-7
○祓戸神社【天祖神社・境内社】       東京都世田谷区中町3-18-1
○祓戸神社【土支田八幡宮・境内社】     東京都練馬区土支田4-28-1
○祓戸神社【稲荷神社・境内社】       東京都府中市若松町
●祓戸神社【三嶋大社・境内社】       静岡県三島市大宮町2-1-5
○祓戸社【青海神社・境内社】        新潟県加茂市大字加茂字宮山229
○祓戸社【鳴海八幡宮・境内社】       愛知県名古屋市緑区鳴海町字前之輪23
●走井祓殿【日吉大社・境内社】       滋賀県大津市坂本5-1-1
○祓戸社【篠村八幡宮・境内社】       京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1
○祓戸社【大原野神社・境内社】       京都府京都市西京区大原野南春日町1152
○祓戸神社【垂水神社・境内社】       大阪府吹田市垂水町1-24-6
○祓戸社【国玉神社・境内社】        大阪府泉南郡岬町深日921
○祓戸神社【墨坂神社・境内社】       奈良県宇陀郡榛原町萩原703
●祓戸社【広瀬神社・境内社】        奈良県北葛城郡河合町川合99
●祓戸神社【大神神社・境内社】       奈良県櫻井市三輪
○祓戸神社【飛鳥坐神社・境内社】      奈良県高市郡明日香村飛鳥708
●祓戸神社【春日大社・境内社】       奈良県奈良市春日野町160
○祓殿社【登弥神社・境内社】        奈良県奈良市石木町648-1
○祓戸神社【鴨都波神社[下鴨神社]・境内社】 奈良県御所市三室
○御祓殿【八幡神社・境内社】        和歌山県伊都郡高野口町名倉1370
○祓戸神社【西岩代八幡神社・境内社】    和歌山県日高郡南部町西岩代523
○祓戸神社【刺田比古神社・境内社】     和歌山県和歌山市片岡町2-9
○祓戸神社【熊野神社・境内社】       兵庫県神戸市北区長尾町上津谷字春日谷96
○祓戸神社【伊尼神社・境内社】       兵庫県氷上郡氷上町字新郷1747
●祓社【出雲大社・境内社】         島根県簸川郡大社町杵築東195
○祓戸社【金刀比羅宮・境内社】       島根県簸川郡斐川町大字直江町1066-1
●祓戸神社【金刀比羅宮・境内社】      香川県仲多度郡琴平町892-1
●祓方神社【宗像大社・境内社】       福岡県宗像郡玄海町大字田島2331
○祓戸神社                 鹿児島県国分市府中町14-17

 明治維新を長州藩とともに主導した雄藩の一つが薩摩藩でした。この薩摩国の鹿児島県国分市府中町の祓戸神社(リスト中、二社の独立社のうちの一社)は、明治の前までは大隈国総社かつ一ノ宮と伝えられる「守公神宮守君神宮」が社名変更されたもので、このことが端的に語っていますが、これらのリストには、明治期に祓戸社にされた、つまり本殿祭祀から境内社へと降格祭祀(瀬織津姫の祓神化)がなされたものが多く含まれていることが考えられます。
 なお、このリストには、大正期まで瀬織津姫をまつっていた富山県中新川郡立山の祓戸社(芦峅寺・雄山神社境内社)と、同じく立山の祓度社は含んでいません。これらは、昭和期に消滅させられたようです(詳しくは、本HP「白山神から立山・姥尊へ」に記載)。ともかく、「祓」を社名にもつ瀬織津姫祭祀社は全国で合計35社ということになります。全35社中、東京都7社、奈良県7社と、両都県で、全体のちょうど四割を占めています。祓戸社の分布が、現代と古代の「首都」に突出してみられることは大きな特徴です。
 リスト中、●印を付したのは、その本社が全国に分社をもっている、いわゆる本家筋・本社筋の社(古社)であることを示しています。境内社に瀬織津姫を祓神としてまつる「本社筋」の社を、以下に抽出・整理してみます。

■瀬織津姫を境内社に祓神としてまつる本社系神社
@ 三峯神社【境内社・祓戸神社】     埼玉県秩父郡大滝村三峯298-1
A 三嶋大社【境内社・祓戸神社】     静岡県三島市大宮町2-1-5
B 日吉大社【境内社・走井祓殿】     滋賀県大津市坂本5-1-1
C 広瀬神社【境内社・祓戸社】      奈良県北葛城郡河合町川合99
D 大神神社【境内社・祓戸神社】     奈良県櫻井市三輪
E 春日大社【境内社・祓戸神社】     奈良県奈良市春日野町160
F 出雲大社【境内社・祓社】       島根県簸川郡大社町杵築東195
G 金刀比羅宮【境内社・祓戸神社】    香川県仲多度郡琴平町892-1
H 宗像大社【境内社・祓方神社】     福岡県宗像郡玄海町大字田島2331

 広瀬神社(C)は、厳密には全国に多くの分社をもつ神社ではありませんが、大和盆地の主要河川を集約する地にある要の水神社で、諏訪と善光寺にふれるときにも欠かせない神社ですので、ここに入れました。なお、瀬織津姫をまつる御手洗社(=井上社=唐崎神社)を境内社(摂社)にもつ下鴨=賀茂御祖神社を、ここに番外として追加してもよいでしょう。同社の元社といってもよい葛城の下鴨神社=鴨都波神社にも、境内社・祓戸神社に瀬織津姫がまつられています。
 広瀬神社、春日大社、宗像大社では、瀬織津姫は元々の主神でしたが、時期は異なるものの、広瀬神社では大忌神→荒祭神→祓神化、ほかは比売神→祓神化という降格祭祀がなされました。このことは他の本社系神社にも該当する可能性がとても高いものといえます。皇大神宮第一別宮とされる荒祭宮の「宮地」に同居するかたちで、現在の神宮祭祀が成立するのは七世紀後半(壬申の乱以降)のことで、このことによる他社への影響ははかりしれないものがありました。この神宮祭祀を規範とする祭祀改竄の全国化を、さらに草の根を洗うようにして徹底化しようとしたのが明治国家で、これは、日本の神々への国家的犯罪といっても過言ではありません。瀬織津姫が大祓神であることを自明の前提とする思想(中臣思想)は、天皇制律令国家の建国思想を裏面から支えるとともに、一連の祭祀改竄を隠匿しつづける構造になっています。
 瀬織津姫を祭神からはずすか、変更するか、もしくは、祭神名として掲げるならば、その神格を「祓神」として自己規定するように各社に迫ったのが明治期の祭祀権力でした。桜ヶ池・池宮天王社が、明治期、池宮天王社→池宮神社と改称するとき、自社祭神を牛頭天王→スサノオではなく「瀬織津比盗_」と表示したことは特筆すべきものとおもいます。明治期初頭の、仏ばかりでなく、神がこうむった改竄の歴史を伝えている神社は、わたしたちが知らない、あるいは未調査なだけで、全国に、まだいくつもあるものとおもいます。
 この明治期の神々への国家的犯罪は、1945年に清算されたわけではなく、戦後現在の神社世界に、自明のごとくに持ち越されてきています。このことは、たとえば石碑に「平成二年、今上陛下の御大典を奉祝して、〔中略〕『祓戸大神』碑を建立する」(愛知県日進市本郷町・白山宮)と刻まれた文言によく表れています。こういった祓戸大神の石碑建立の例は、琵琶湖の大嶋神社・奥津嶋神社(近江八幡市)にもみられます。瀬織津姫の名を消して「祓戸大神」と固定することで、その社ばかりでなく、神宮(皇祖神)祭祀も安定する、これが「今上陛下」の安泰にもつながっているのだという石碑建立の意図が透けてみえます。しかし一方に、祭神名から瀬織津姫の名が消去されたものの、今もって瀬織津姫を自分たちの「神」と信奉しつづける速川神社(富山県高岡市)の氏子衆の例もあります。この速川神社の氏子衆の「心」を、日本の神まつりの総裁的立場にあり、「国民の心のよりどころ」を自認する「今上陛下」はどう感じどう考えるのか、機会があればぜひ「生」の言葉を聴きたい、読みたいものです。

083 桜ヶ池の神と阿闍梨皇円 風琳堂主人 2004/10/16 (土)

 中村福司さんは『桜ヶ池 池宮神社考』において、桜ヶ池とその神について、次のように書いています。

■桜ヶ池は神のいますきれいな池
 敏達天皇時代にない御神名がここで出現(由緒の「敏達天皇ノ御宇十三年甲辰六月、瀬織津比盗_出現、国司此ノ由ヲ奏問ス」を指す)とあるは後世の人の表現であろうが、これは桜ヶ池附近の住民が水の尊さを如実に感じ、身心を祓い清めることにより大祓詞にある「多岐津早川の瀬に坐す瀬織津比盗_」とある水の精霊瀬織津比盗_を御祭神として、桜ヶ池を神のいますきれいな池として神格化したものと思われる。これは愛知県矢作川流域に川の出水に濫を防ぐ守護神として瀬織津姫神を御祭神とする天白神社数社を祀ったことと同意義ではなかろうか。

 中村さんは瀬織津姫という神名が「大祓詞」とともに誕生したとみているらしく、それが「敏達天皇時代にない御神名がここで出現とあるは後世の人の表現であろう」という言葉になっています。大祓祝詞(の初期創作)がなされるのは天智八年(669)のことですが、瀬織津姫祭祀社の鎮座伝承をみてみますと、たとえば、京都府宇治市の橋姫神社は孝徳時代の大化二年(646)に宇治川上流の桜谷から瀬織津姫を勧請したとしていますし、もっとさかのぼりますと、敏達の前の欽明時代(540〜573)の鎮座を伝える宇奈己呂和気神社(福島県郡山市)や長瀬神社(新潟県加茂市)の例もあります。瀬織津姫という神名がいつできたのかが現在も謎なのですが、大祓祝詞の誕生と同時につくられた神名ではない可能性もあるようです。ここで一つだけはっきりいえることは、古事記(712)や日本書紀(720)よりも古い時間帯に成立するのが大祓祝詞ですので、少なくとも、記紀で創作された神々の前に、瀬織津姫という神(名)はあるということでしょうか。
 中村さんは、「水の精霊」瀬織津姫を桜ヶ池の神としてまつることと、「愛知県矢作川流域に川の出水に濫を防ぐ守護神として瀬織津姫神を御祭神とする天白神社数社を祀ったことと同意義ではなかろうか」とも書いています。天白神としての瀬織津姫ということでいいますと、矢作川においては、たしかに洪水鎮護の神というまつられかたが主流ですが、上流部(賀茂氏のエリア)へいきますと、麻栽培の守護神といった性格も加わってきますし、また、天白神には養蚕神の性格もあることが太田亮さんによって指摘されています(天白神と養蚕神=オシラ神についての話は『エミシの国の女神』を参照ください)。
 桜ヶ池の神格化と矢作川の洪水鎮護としての祭祀は「同意義」といえるものなのかどうかについては、わたしは少しちがうような気もしますが、ここで天白神としての瀬織津姫が指摘されていることは、これはこれで、諏訪湖との関係が新たにみえてきて興味深いことです。
 諏訪湖から唯一流出するのが天竜川なのですが、この川の流域には天白神社が多くまつられています。現在は、伊那市大字富県の天白神社一社が瀬織津姫を祭神名として残しているのみですが、天竜川も矢作川と同じく、天白神によって守護される川であることは、たとえば、天竜峡の川中を少し遡ったところの大岩を「天白岩」といったり、岡谷市川岸の天竜川にかかる橋の名が「天白橋」と命名されていることからもよく伝わってきます。また、天竜川の古名をみても、奈良時代は「麁玉川」、平安時代は「広瀬川」、鎌倉時代は「天の中川」、そして室町時代になって現在の呼称である天竜川となります(後藤総一郎『神のかよい路』)。「麁玉[あらたま]川」については、瀬織津姫は天照大神荒魂の異称があること、「広瀬川」については、瀬織津姫は広瀬大忌神であったこと、「天の中川」については、伊那の天白神社の瀬織津姫は七夕神でもあるというように、川名の時代的変遷をみても、瀬織津姫の影が色濃く投影されていることがわかります。後藤さんは同書で、天竜川流域の古層の神として、この天白神とミサグチ神を挙げています。ミサグチ神は諏訪の古層の神、基層の神とされますが、ミサグチ神とはなにかについてはうまく明かされることがなくてきた神です。ただ、ミサグチ神の「姿は、時として蛇体であり、雷神・水神であり、剣として具現される」とあり(鈴鹿千代乃「建御名方神の王国」、諏訪大社監修『お諏訪さま』所収)、この謎の諏訪の基層神が雷神・水神・剣神であるとしますと、瀬織津姫という水神も諏訪の元神(少なくとも下諏訪神)であった可能性がとても高いですので、このミサグチ神と瀬織津姫を無縁の神とみなさないことを考えてみるべきかもしれません。
 ところで、桜ヶ池の「主神」について、明治期の由緒は、池宮神社の筆頭境内社である桜之宮の伝承として、「祭神不詳 阿闍梨皇円ト云伝フ」、また「久寿二年秋七月皇円此池ニ来リ誓シ事アリ叡山ニ帰リ仙化セリ。是ヨリ此霊ヲ池ノ主神トシテ祭レルト云」としていました。阿闍梨皇円(阿闍梨[あじゃり]は「密教の法を修め、加持祈祷の術者として霊験を有する人に与えられる称号」…中村福司)については、諏訪湖というよりも善光寺との関係でふれる必要がありますが、桜之宮(桜ヶ池)の神としての皇円の「霊」に対して、中村さんは次のように記すとともに、皇円以前の桜ヶ池の「主神」についての伝説も紹介しています。

■桜ヶ池の主神「桜の前」
 桜ヶ池には皇円阿闍梨の竜神入定伝説以前においても竜神の棲む聖池として、種々の伝説が伝えられていたが皇円阿闍梨入定以来、以前のものは影をひそめていった。
 笛吹く武士の伝説──往時遠江国笠原の荘、桜ヶ池の主に桜の前という美姫があって、ある武士が一夜横笛の美音でその姫を池中から呼び出し、草枕の仮寝で深い契りを結んだ説話もある。(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』)

 伝説上の桜ヶ池の主神は「桜の前という美姫」とのことで、ここには、桜神としての瀬織津姫が投影しているとみてよさそうです。
 ところが、興味深いことに、桜ヶ池は、この「桜の前」を「国司藤原某」の愛妾という設定で、別伝説を伝えてもいます。

■桜の前物語
 一條天皇御宇(九七〇年前)国司藤原某入国の時、京より桜の前という美姫を供したり。或る時、今の女池(現在の桜ヶ池…引用者)の辺りで従者と共に宴を張りたるに、宴酣の頃俄然池水動揺し、洪波岸にせまりて姫を池中に引き入れ、遂にその所在を失いたり。
 国守大いに怒り、柴薪を積み数万の鉄石を焼爛し池中に投入す。池水沸騰し時に忽然として異体異形の怪物地上に現われ、形牡牛の如く額に白角を戴き見るもの驚愕す。忽ち南方に走り駒を害したり。この地を「駒取」と称す。
 また東方に走り見えつ隠れつ忍びて通いたる池を「忍沢」と謂ふ。それよりまた東に走り、再び元の道に戻りて其の所在をくらませりと。
 今、此の地を牛が通りたる故「牛返」と謂ふ。

 桜ヶ池はかつては男池と女池とあり、男池は干上がって、現在の桜ヶ池は女池らしいのですが、「桜の前物語」においては、「形牡牛の如く額に白角を戴」いた「異体異形の怪物」が池の主神として描写されています。この「異体異形の怪物」は、池宮天王社→池宮神社の祭神としてまつられておかしくなかった牛頭天王=スサノオのイメージを連想させるにじゅうぶんでしょう。もう少しうがった読み方をすれば、スサノオは藤原氏(国司藤原某)から、瀬織津姫(桜の前)を桜ヶ池に強奪した話とも読めます。
 なぜこういったうがった読み方が可能かといいますと、この物語の時代が「一條天皇御宇」とあるからです。一条天皇というのは、同天皇の摂政となる藤原兼家の謀略によって天皇位からわずか二年弱で脱落させられた花山天皇のあとに立った藤原氏の傀儡天皇です。花山は藤原氏の底知れない謀略に気づき、またそのことで天皇位を放逐された(出家させられた)のでしたが、しかし花山は、那智・青岸渡寺で詠んだ歌=御詠歌「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」でよく知られるように、また、平野神社の異様な桜植樹にみられるように、熊野那智の滝神かつ桜神を知っていた可能性があります。花山は、西国三十三観音巡礼にみられるように、その後の生涯を瀬織津姫の鎮魂に心砕いた天皇であったともいえます。
 わずかな期間ですが、一条天皇の内大臣→関白として仕えたのが藤原道兼で、その四世孫が阿闍梨皇円とされます。道兼は関白就任の一月後に若死にしていて(995年、35歳)、その後は、藤原氏の絶頂期を象徴する道長の時代が一条天皇とともにつづきます。皇円も藤原一族の知謀知略から脱落=出家したことにおいて、皇円と花山は一脈通ずるものがあったとも考えられます。桜ヶ池の領地の所有者には諸伝がありますが、そのうちの一つに「時の領守花山院家」とあるのも(桜ヶ池の「奥の院」とされる浄土宗応声教院文書「遠州桜ヶ池由来演説」)、これも偶然のことではないとみられます。桜ヶ池が花山院の所領地だとしますと、花山は瀬織津姫という神を藤原氏から隔離・保護するようにまつっていたということも考えられてきて興味深いものがあります。皇円が、その死後、京からはずいぶんと遠い遠州の桜ヶ池をなぜわざわざ択んで入定し、その身を大蛇・竜神に変じたかを考えますと、皇円の桜ヶ池の神に対するおもいには、花山のおもいも二重化されていたという気がしてきます。「龍神(八大龍王)は、当社「太神」「海上一切之水君」の「眷属之神」である」と、江戸期まで瀬織津姫をまつっていた御前神社(八戸市)のかつての由緒の言葉も想起されてきます。
 中村さんは桜ヶ池の神と皇円を重ねてみるという発想はしていませんが、皇円の桜ヶ池入定という、いわゆる弥勒信仰については、「己の霊は永遠に遠州桜ヶ池に竜神として留まり衆生済度をなす」と、皇円の衆生済度への「心」を読み取っています。時代は下りますが、円空が長良川河畔をその入定の地と定めたというのは、長良川の川神=白山神とともに弥勒出現の「時」までもう一つの生を「生きる」という意志と祈念の表れと理解できます。弥勒菩薩とは、釈迦の死後、五十六億七千万年後に出現するとされる究極の衆生済度仏で、皇円においても、桜ヶ池に「入定」することは、五十六億七千万年の間、桜ヶ池の神とともに「生きる」ということと同義と理解できます。「五十六億七千万年」は、個々の人間の生涯の時間感覚からすれば、たしかに「永遠」という時間といってよく、入定者の祈りの心、衆生済度への究極の仏心の比喩として弥勒菩薩はあります。桜ヶ池の神とともに弥勒の出現を待つという皇円のこのおもいは、大蛇・竜体となって、遠州桜ヶ池からは、これもはるか北にあるといっていい(諏訪湖の先にある)信州善光寺(の阿闍梨池)へと飛ぶことにもなります。なぜ善光寺か、という問いが当然のごとくに浮かんできます。

088 善光寺阿弥陀如来の歌 風琳堂主人 2004/10/27 (水)

 伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ──これは、勅撰和歌集『玉葉集』(1312)に収められている歌で、その詞書に「善光寺阿弥陀如来の御歌」とあるとのことです(長野市教育会『善光寺小誌』昭和五年)。
 清濁の対比において、善光寺如来が「伊勢」と反面的に関係する仏であることがよく伝わってくる歌です。善光寺如来=「我」は濁世にあって、衆生を救わんといった歌意かとおもいます。善光寺阿弥陀如来は絶対秘仏とのことで、衆生が拝めるように前立仏(本尊のコピー)がつくられていますが、寛文時代に、この前立仏にちなんだ「新仏御詠歌」もつくられ、そこには、玉葉集の歌を本歌取りした、「五十鈴川きよき流れはさもあらばあれ我は濁れる水に宿らん」が収められています(善光寺史研究会『善光寺史研究』大正十一年)。「伊勢の海の清き渚」を「五十鈴川きよき流れ」といいかえ、善光寺如来が宿る「濁れる水」を伊勢の五十鈴川の清き流れに対比させています。五十鈴川の清き流れに沿ってまつられているのが伊勢神宮で、そこに宿る神=皇祖神は、あくまで「清き渚」「きよき流れ」、つまり清浄なる空間にいる、しかし「我は濁れる水に宿らむ」というわけです。まさに「さもあらばあれ」ですが、この皇祖神の強引な成立と同時に神宮の地で荒祭神=天照大神荒魂と、元の神名を消去されたのが瀬織津姫という水神かつ桜神でしたから、「水に宿」る仏である善光寺阿弥陀如来が、その核に秘めている神も自ずと透視されてくるといえます。
 善光寺の年中行事をみてみますと、「盂蘭盆[うらぼん]六月祓」という盆の行事があって、寺にしては奇妙な行事をしていることがわかります。『善光寺小誌』は、同行事を「六月三十一日[三十日]夜参詣通夜夥し(焼餅道者と云ふ)。妻戸鼓鐘打ち礼堂百万遍念仏数珠廻し行ふ。旧事記三宝記等に六月祓とす。翌日大施餓鬼会行ふ」と記していて、善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり、瀬織津姫がいます。
「桜神としての諏訪神」でもふれましたが、善光寺の三鎮守として、湯福神社、武井神社、妻科神社の三社があります(『善光寺小誌』は「如来鎮守の三社大明神」と記す)。いずれも諏訪神をまつる社ですが、このうち、桜神社を分社にもつ、また、タケミナカタの「荒御魂」をまつる湯福神社は、「往時は諏訪大明神と云ひて下社春宮(八坂刀売神或は秋宮)と称し」とされ(『小誌』)、諏訪下社の神(八坂刀売神)はタケミナカタの「荒御魂」でもあることになります。
 湯福神社の宮司談によりますと、「荒御魂」は湯福神社がまつり、「和御魂」は武井神社がまつるとのことです。武井神社の祭神名もなかなかのひねりがきいていて、現主祭神は健御名方神とするも、その配祀神(相殿神)の名が、なんと「前八坂刀売神」とされます。八坂刀売神の「前」の神とはなにかとおもうのはわたしだけではないでしょう。
『善光寺小誌』は、「如来鎮守の三社大明神」を含む、善光寺七社を挙げています。ほかの四社は加茂神社、木留神社、三輪神社、左喜焼神社とのことです。『小誌』は、最後の左喜焼神社について、「又柳原神社俗に笹焼[ささやき]明神とも云ふ。祭神諏訪神少彦名神なり。中御所村にて駅(長野駅)の西方四町に在り。此社にて正月注連飾を焼く。左喜は道祖の塞神[さへかみ]なり」と説明しています。左喜焼神社=柳原神社は、「俗に」とありますが「笹焼明神」の異名をもっているという記録は貴重です。千曲市(前の更埴市大字八幡)に鎮座する笹焼神社の神は瀬織津姫で、ここも笹焼明神(延宝八年[1680]の記録では「佐々屋岐明神」)の異名をもっています。千曲市の笹焼神社は武水別神社の「分家」ともされます(同社氏子談)。
『善光寺小誌』が著された昭和五年(1930)の時点で、左喜焼神社=柳原神社では笹焼明神=瀬織津姫の名はすでに消去され、「諏訪神少彦名神」と表示されていたわけですが、「少彦名神」という固有神を記すも、一方は「諏訪神」と抽象神的な表示になっている不自然さはやはり目立ちます(このことに気づいたのか、戦後現在の祭神表示は、健御名方命・少彦名命と、ともに固有神名で表示)。いずれにしても、笹焼明神が諏訪神であることにはちがいなく、消えた瀬織津姫が諏訪神でもあることを強く示唆している『善光寺小誌』の記録は価値があります。
 善光寺にとって、諏訪神は「地主神」とみなされていました。このことは、「一遍上人が文永時代の絵巻物を見るも山門の左右に諏訪社と熊野社を祀り最近には仁王門の東西に諏訪社を地主神として、熊野社を守護神として祭りたるは現に土地の故老の皆能く知る所なり」という『善光寺史研究』の言葉からよく伝わってきます。善光寺「如来鎮守の三社大明神」が、すべて諏訪神であることも、諏訪神が地主神であるゆえに「鎮守」として配されたとみてよいでしょう。
 ところで、善光寺は元禄時代に焼失していて、その後、現在地に再建されるわけですが、かつての本堂があったところは本善堂と呼ばれています。この本善堂の「堂守」は大本願二十一院の一つである本覚院とされ(戦後は大勧進の管轄)、この本覚院の前に阿闍梨池があります。『善光寺史研究』は「此堂(本善堂)の後園に阿闍梨井あり皇円阿闍梨の蛇身になり給ひてこゝまでまうでられし時すめりし池の跡なり」と芋井三宝記の記述を紹介していますし、『善光寺小誌』は「阿闍梨池 元善町本覚院前に在り。阿闍梨皇円参詣の縁にて、後遠江桜池に蛇身往生し、毎年正月十八日より二十五日迄此池に来現し、其間水多く生でしと。今其跡甚だ幽かなり」と記しています。阿闍梨池はかつては広大な池で、そこは善光寺本堂の「後園」という位置にありました。つまり、かつての善光寺は、阿闍梨池の前に立地していたわけで、これは、善光寺本尊を拝むということは、背後の阿闍梨池を拝むということでもありました。もっとも、かつての善光寺本堂は「東面」していましたから(瀬織津姫もしばしば「東面」して(日に対面するように)まつられる)、「後園」の池は本堂の西に位置していたことになり、したがって、善光寺本尊を拝むことは、背後の阿闍梨池を拝むばかりでなく、その先の西方浄土をも拝むという構図になっていたようです。ともかく、皇円は、この浄土の匂いのする池へ大蛇・竜体となって現れたのでした。阿弥陀如来が「我は濁れる水に宿らむ」と比喩的に語った「水」を湛えるのが、この阿闍梨池(かつての池名は不明)といってよいかもしれません。
 本覚院発行の「善光寺大阿闍梨池縁由」(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』所収)から、阿闍梨大蛇の出現場面を写してみます。

■善光寺大阿闍梨池縁由
 而して建久九戌丑年正月十八日の夜当出[山]電[雷?]光霹靂降雪飛散し暴風樹木を裂くが如くなりしかば、宿直の僧侶は如何なることにやと恐れ謹しみ居たりしに、清香馥郁たる薫りと共に大蛇顕はれ金堂を廻ること七回、頭首を内陣の礼盤に乗せ如来を拝し須曳にして西門にある沼に入る。是即ち当院阿闍梨池の原由なり。
 其の後各宗の高僧何れも此池に参詣せざるはなし。就中正治元己未年法然上人当山に参拝せられ数日留錫の節三七日の間此池の辺りに檀を築き報恩の為に読経念仏追福の供養を行い、建歴[暦]元年の春親鸞上人当山に秀[参]籠ありて百日滞留の際、毎日此の阿闍梨池に詣で読経供養し、尚諸人を集め説法ありたり。
 而して古来より毎年正月十八日より十七日間を阿闍梨の縁日なりとして当山に法会供養をなす慣例なり。然るに歳月の久しきに沼涸れて陸となり今僅かに尋常普遍の井となりて存し遠州桜ヶ池に通ずといへり。又正月十八日より同じく二十五日まで当山暴風飛雪の大荒しあるを号て肥後の阿闍梨荒しといひ伝へり。蓋し偶然の事に非るべし。

 建久九戌丑年(1198)正月十八日、突如として大蛇は善光寺に出現したようです。しかも、大蛇は「清香馥郁たる薫りと共に」出現したとあり、これは一見大蛇には不釣合いな表現ですが、桜ヶ池の主神が「桜の前」であったことをおもえば、「清香馥郁たる薫り」を桜ヶ池の神の形容とみてはじめて不自然ではない表現かと納得できます。つまり、阿闍梨皇円=大蛇は、桜ヶ池の神である瀬織津姫「と共に」、この善光寺に現れたというように読めます。
 善光寺の創建時期等については、「本寺草創の事多く史伝に見えず、本尊は秘仏にして知るに由なく、正確なる歴史的考査は望んで得べからず」(『善光寺小誌』)というのが実際のところのようです。また、「善光寺に関する記事の最も古く現はれたるは平安時代皇円阿闍梨の著作に係る扶桑略記」とのことです(『善光寺史研究』)。ちなみに、皇円は扶桑略記に、「善光寺縁起云」として、欽明天皇十三年に「百済国阿弥陀三尊浮浪来着」、これはわが国の「仏像之最初」で、推古天皇十年に「仏之託宣」によって「信乃国水内郡」にまつるといった、いささか荒唐無稽な縁起譚を収録しています。皇円が扶桑略記を完成させるのは1094〜1107年ころかとされますので、平安期の末には、ともかく善光寺縁起なるものが存在していたことは事実のようです。もっとも、『善光寺史研究』も『善光寺小誌』も、こういった善光寺縁起を善光寺史としては否定していて、善光寺境内や市内から出土する「古瓦」が天平以後のものであり、したがって、善光寺の草創は「天平の末頃にや」と推定しています。
 古瓦というのはたしかに物的証拠といってよく、戦前までは、善光寺草創は天平時代末期説が有力だったようです。ところが、戦後になって、「善光寺瓦は白鳳時代の瓦」という説が有力視されてきて、善光寺草創も天平時代から遡って白鳳時代とみる可能性が肯定されてきます。
 白鳳時代というのは天武・持統の時代であり、まさにこの時代に瀬織津姫は受難の大波をかぶることになります。日本書紀は、持統天皇五年(691)八月二十三日のことととして、「使者を遣して竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」と記録しています。これは異例の勅祭というべきで、しかも、なぜ唐突に畿内からははるかに遠い「信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」なのか──。天武・持統によってまつられる竜田風神は広瀬大忌神とセットでした。しかし、この持統の異例の勅祭には、竜田風神とは記すも広瀬大忌神は記されず、それと代替するように「信濃の須波・水内等の神」が登場しています。つまり、竜田風神とセットの神として、これらの信濃の神はあるのではないかともみられます。ここに、善光寺阿弥陀如来の歌「伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ」を重ねてみますと、白鳳時代に、善光寺地方(水内郡)でなにがおこったのかという新たな問いが生まれてきます。また、善光寺を中心にみるなら、水内神とはなにか、という問いも生じてきます。
 宮澤和穂さんは、『天武・持統天皇と信濃の古代史』(国書刊行会)で、この水内神について、次のように考察を述べています。

■水内神の消滅と変容
 持統天皇から勅祭された「水内神」は、後に官社と同列に扱われても不思議ではない。その「水内神」が『延喜式』のみならず、以後の歴史にまったく姿を現さないことは、「水内神」が一時的に衰退したということだけでなく、勅祭直後の早い段階で衰退したまま消滅、もしくは他の信仰に変容しながら吸収され、「水内神」としての本来の姿は失われたままであった可能性が高いといえる。

 宮澤さんは、同書で、水内神は戸隠神であったという仮説を展開していきますが、水内神は「他の信仰に変容しながら吸収」されたのではないかというように、引用の考察はとても鋭いところにふれています。著者はまた、次のように書いてもいました。

■善光寺と水内神の盛衰
 水内神が持統天皇から奉祭されたのは七世紀末の白鳳時代であり、十世紀前半に成立した『延喜式』には記載がみられない。善光寺瓦が白鳳時代のものであるとすれば、両者の盛衰がまったく同一の動きのごとくに共通し、大変興味深い点である。

 宮澤さんは、ここまで書いておいて、善光寺の「前」に水内神の祭祀があった可能性を追究することを放棄しています。岩波版『日本書紀』の語注は、水内神を、延喜式内社の「健御名方富命彦神別神社(明神大)」のこととするも、「もと長野市の善光寺の位置にあった…」と書いています(HP「信州考古学探検隊」によれば、「水内神社は本来善光寺本堂の脇にあった」)。消えた水内神を健御名方富命彦神別神社の神とみなすには無理がありますが、水内神が「善光寺の位置」にまつられていたことは重要なこととおもいます。
 持統が「信濃の須波・水内等の神を祭らし」めた持統五年八月二十三日の直前(八月十三日)には、「十八の氏〔大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・阿曇〕に詔して、其の祖等の墓記を上進[たてまつ]らしむ」とも記されています。これはいうまでもなく、日本書紀の創作・編纂のための神話と系譜資料の収集(あるいは没収)を意味していましょう。また、持統五年という年は、持統にとって、自身が天皇霊を身につける大儀式である大嘗祭が十一月に行われる画期の年でもあります。さらにいえば、前年の持統四年は持統が天皇に即位した年で、これと連動するように、神宮の第一回遷宮が行われました。つまり、持統の天皇即位→神宮祭祀の立ち上げ→書紀の創作、自身の天皇霊憑依といった一連の過程における水内神・須波神等の勅祭なのでした。
 神宮祭祀の立ち上げ後、持統は神宮外の各地の要所の瀬織津姫祭祀の消去あるいは変容に奔走することになりますが、水内神(および須波神)もその対象神であったということなのでしょう。いいかえれば、信濃国には、北に水内神、南に須波神「等」が、持統にとってその存在を黙認・容認できないほどに頑としてまつられていたということなのでしょう。
  水内郡家跡に比定されている県町遺跡の存在から、「善光寺周辺が古代より水内郡の中心地であった可能性は極めて高い」とされます(宮澤和穂・前掲書)。としますと、善光寺は「水内郡の中心地」に位置していることになります。その善光寺にとって、地主神=鎮守神は諏訪神という認識でした。水内神は水内郡の神という意で、須波神=諏訪神と異神であるとみなす根拠はまったくありません。水内はミノチと訓じますが、実は、天竜川の水源の一滴がつくる井(池)を「ミノチノ池」と呼んでいたのが諏訪神社上社本宮(境内の現・天流水舎)です(『信府統記』)。ミノチは、漢字で書けば、もともと「水主」か「水霊」に該当することばかとおもいます。
 善光寺阿弥陀如来の歌は、背後に神宮祭祀の成立という根本問題があること、またそれゆえにというべきでしょうが、善光寺が神仏混淆の最初期の寺としてあることを告げているようです。阿闍梨皇円もまた、善光寺が神仏混淆の最重要な寺であることをよくわかっていたのでしょう、それが、桜ヶ池の神とともに、善光寺にわざわざやってきた(大蛇となって現れ、如来を七廻りして拝んだあと、後背の神池に身を沈めた)理由かとおもいます。皇円にとって、たとえば善光寺池あるいは水内池と呼ばれていたかもしれないこの池は、第二の桜ヶ池であったのかもしれません。

092 水内神から下諏訪神へ 風琳堂主人 2004/11/03 (水)

諏訪祭祀を考えるときの最古の文献として、諏訪(小坂)円忠による『諏訪大明神画詞[えことば]』があります。同書は延文元年(1356)の成書(縁起三巻、祭巻七巻の計十巻本。のちに縁起二巻が追加される)とされ、室町時代初期にあたります。ちなみに「諏訪縁起の事」を含む『神道集』が成るのは文和・延文年間(1352〜1360)で、両書はほぼ同時期に成っていますが、私見では、「諏訪縁起の事」は『諏訪大明神画詞』がふれなかったこと(たとえば下諏訪神=春日姫が大祓神とみなされる神でもあること)を意図して書き表したというようにも読め、『諏訪大明神画詞』よりも少しあとの成書かとみています。ともかく、「諏訪縁起の事」が諏訪祭祀の外部者の手になるものに対して、『諏訪大明神画詞』は、諏訪大祝家の傍流とはいえ、「上社神宮寺の執行職」を務めていた諏訪円忠によって書かれたことで、これは諏訪祭祀を内部から(上社内部から)語ったものという特徴があります。
諏訪円忠は、『諏訪大明神画詞』の始まりを、次のように記しています。

■神降の由来その義遠し
夫れ日本信州に一の霊詞[祠]あり。諏方大明神是なり。神降の由来その義遠し。竊に国史の所説を見るに旧事本記に云う。〔中略…古事記記載の出雲の国譲り譚と、武甕槌神と建御名方神の力比べによる敗退の話が入る〕科野ノ国州羽ノ海に至る時、建御名方ノ神申さく、我此の国を除いて他処に行かじ云々。これ則ち垂迹の本縁なり。(今井廣亀訓訳『諏訪大明神画詞』下諏訪町博物館発行。今井氏訓訳に、引用者が句読点を付した。以下同)。

諏訪円忠にとって「国史」が「旧事本記」とみなされていることがわかります。これだけを読みますと、古事記を「旧事本記」と記していたのかともみえますが、円忠は別の箇所で「用明天皇御宇、聖徳太子蘇我馬子大臣に仰せて、今の先代旧事本記十巻を撰せらる。第三ノ巻には、専ら当社明神の本縁分明なり」とも記していて、ここで「国史」とされる「旧事本記」は「先代旧事本記」のことです。
ときの室町将軍・足利尊氏に重用された諏訪円忠でしたが、彼が、建御名方神の諏訪湖への蟄居の話の出典を「先代旧事本記」とし、古事記を明記していないことを想像しますと、古事記の存在を円忠は知らなかったことが考えられます。いいかえれば、諏訪円忠の当時、古事記は一般に読めるようには流布されていなかったということかとおもいます。
円忠は、「神降の由来その義遠し」、また、「神代の事は幽?にして図絵も及ばず」とするも、「当社明神の化現は人皇十五代神功皇后元年〔辛巳〕の事なり」として、神功皇后の「三韓征伐」への協力神としての諏方神の出現譚を、次のように記しています。

■神功皇后と諏方神
天照大神の詔勅によって諏方・住吉二神守護の為に参ずと答え給う。皇后大いに喜び、すなわち錦座を両神に与え、雪膳を花船にそなへ、雲帆[うんぱん]に幣帛をささげ、帰敬二心なし。その中にまた妖艶の媚たるあり、高知尾豊姫と号す。螻羽[けらは]一箭の上に座しながら鳳綸を書きて竜宮ヘ遣わす。海主大きに驚きて、勅命に応じて満干の両珠をささぐ。御願成就の瑞相厳重の由、君臣ともに欣悦す。

 日本書紀は、神功皇后への協力神は住吉神(「表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神」)としていましたので、ここに諏方神および高知尾豊姫が追加されているのは、『諏訪大明神画詞』独自の縁起といえます。円忠はほかの箇所でも、諏方神の「本朝擁護の神徳、異賊降伏の霊威」を再三にわたって主張していて、その根源譚が、この引用部分です。
 なお、「諏方・住吉二神」の登場のあと、「その中に」なかば唐突に登場してくる高知尾豊姫ですが、ここでは、神功の新羅攻略譚の要となる宝珠(満干の両珠)を「海主」に提供させる役として描かれています。宮坂喜十『諏訪大神の信仰』(下諏訪町博物館)の伝承紹介によれば、「八坂刀売命は高知尾豊姫とも申し、伊勢国多気郡麻績[をみ]の豪族天八坂彦命の御子孫」とされます。こういった系譜伝承は、神を「人」に近づけてみよう、あるいは、接続させてみようとするものですが、八坂刀売命=高知尾豊姫が伊勢(の麻績)にそのルーツをもっていることは暗示的とはいえます(八坂刀売=下諏訪神は養蚕・機織神ともされます…宮坂喜十・前掲書)。
 ところで、白鳳時代、水内[みのち]神が善光寺仏へと吸収・変容されていったことを考えますと、持統によって水内神とともに異例の勅祭の対象となった「須波神」も、おそらくなんらかの変容をこうむったことが考えられます。諏訪円忠は、持統と諏訪社祭礼について、次のように記しています。

■当社祭礼の始め
持統天皇五年八月一日、勅使を発遣して、信州須波・水内神等を祭る由、日本記第三十巻に載せたり。是れ則ち当社祭礼の始めなるをや。今に至るまで当日をば月朔神事の最要とす。

持統の「信州須波・水内神等」の勅祭の日付ですが、わたしの手元の日本書紀は持統五年八月二十三日となっていて、円忠がみている「日本記」は「持統天皇五年八月一日」で、異本があったのかもしれません。
ともかく、諏訪円忠が「持統天皇五年八月一日」を「是れ則ち当社祭礼の始めなるをや」と推測し、また、「今に至るまで当日をば月朔神事の最要とす」と記していることを重視しますと、諏訪社にとって「八月一日」は、もっとも重要(最要)な神事の日ということになります。
宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』(郷土出版社)収録の「諏訪大社祭事表」によりますと、「八月一日」を大祭式(最重要な神事)としているのは、諏訪上社ではなく下社であることがわかります。「八月一日」は上社に祭礼はなく、下社のみが「例大祭」と記しています。
持統と須波神=諏訪神祭祀との関係を伝えているのが諏訪二社のうち諏訪下社に絞られるとしますと、やはり下諏訪神とはなにかという問いが生じてきます。善光寺阿弥陀如来および水内神の背後の神として、瀬織津姫という水神が想定されることを考えますと、諏訪下社にも瀬織津姫祭祀の痕跡が認められなければなりません。この想定は、諏訪下社(春宮)の横を流れる砥川(江戸時代は戸川)の中州にまつられる浮島社にみてとることができます。
 浮島社では、六月三十日に大祓、夏越の神事がおこなわれています。昭和四十六年(1971)六月吉日の日付をもつ、諏訪大社宮司・三輪磐根の碑文(「神橋架橋碑」の一文)を紹介します。

■浮島は由緒極めて深き神域
浮島社は祭神祓戸大神を祭り砥川の清流に囲まるる是の浮島に鎮座する諏訪大社の境外末社なり。古来諏訪大社夏越神事を執行する由緒極めて深き神域なり。山川の景観を誇るこの浮島は往古より砥川の増水にも流失の災なく、ために諏訪下社七不思議の一としてあげられ、賽者絶ゆることなき境域なり。而して是の神域に通ずる神橋は改修以来…〔後略〕(碑文に適宜句読点を付した)

浮島は「古来諏訪大社夏越神事を執行する由緒極めて深き神域なり」とされます。また、「浮島は往古より砥川の増水にも流失の災なく」とされ、それが「諏訪下社七不思議の一」と数えられているようです。浮島社の神は「祓戸大神」とのことで、瀬織津姫の名は伏せていますが、これを祓戸大神四神とみる必要はないでしょう。
 戦前の話ですが、宮坂喜十は『下諏訪の史話』(私家版)で、「橋をわたってそこ(浮島)へ行くと、千古の老杉がうっそうとして昼なお暗く、流れは急流の早瀬で、誰しも物さびしく、ぞっとする」と書いています。また、「上古は、この辺まで一面の湖水であって、一つの小さな島の遺跡であるとも言われ、今なおその勝れた景色をたたえて、真夏には文人墨客の散策するのを見受ける」とも書いています。浮島の神は島神でもあったようです。
ちなみに、砥川はかつては戸川と書き、これは、祓戸大神のいます川、祓戸大神によって守護される川ということで、おそらく(祓)戸川→砥川となったものかとおもいます。諏訪上社のほうは、天竜川の水源を自社境内の「天ノ霊水」(『信府統記』)と主張していますが、下社のほうは、この砥川の源流部の一つであり、御射山[みさやま]神事(諏訪神の山送り神事とみられる)がおこなわれる、霧ヶ峰高原西北にある八島湿原(鎌池、七嶋八嶋)から流れだす川の観音沢あたりを「天龍河源」とみていたようです(「旧御射山図」に「天龍河源此川入湖水」と記される。矢崎孟伯『諏訪大社』銀河書房、所収)。諏訪上下社の神宮寺は、空海が「勅願」によって創建したとされます。諏訪下社神宮寺の「奥之院」は旧御射山にあり、同院の主尊は十一面観音でしたから(宮坂喜十『下諏訪の史話』)、このことが「観音沢」の川名に表れてもいます。
持統が関与した諏訪下社には、彼女がもっとも消去したかった神宮の元神である瀬織津姫が、祓戸大神の名にされるも、現在にまで存在しているのは注目すべきことです。
 大祓が宮中儀式として本格的に採用されたのは「天武二年六月晦日」のこととされます(「年中行事秘抄」…宮坂光昭・前掲書)。瀬織津姫を、神宮の元神ではなく、あくまで大祓神=祓戸大神とみなす意向は、天武四年(675)四月十日にはじまる広瀬大忌神と竜田風神のセット祭祀、しかも異様ともいえる、その後の天武・持統による連続祭祀(四月と七月の定例的な勅祭)に表れることになります(「異様」は、「広瀬水神」ではなく「広瀬大忌神」と表記されつづけることにもいえます。広瀬大忌神の詳細については『エミシの国の女神』を参照ください)。ちなみに、この連続祭祀ですが、途中、朱鳥元年(686)九月九日の天武の死による天皇空位の四年ほどは中断されるも、持統四年(690)一月一日に持統が天皇に正式に即位すると再開され(同年四月三日)、彼女が文武に天皇位を譲位する持統十一年(697)八月一日の直前の七月十二日までの七年間は、乱れることなく、定例的に記録されつづけます。持統あとの文武時代にはまったく記録されませんので、広瀬大忌神と竜田風神のセット祭祀は、天武・持統二天皇による、延べ二十二年間にわたる固有・独自の勅祭とみられます。
「使者を遣して竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」──水内神が善光寺阿弥陀如来へと「変容」(神仏混淆化)したとき、須波神=下諏訪神は、その主神の座からおろされ、こちらは「祓戸大神」へと「変容」された可能性が高いといえます。この可能性を是としますと、諏訪下社は、瀬織津姫の祓神化という降格祭祀が最古になされた社だということになります。もっとも、善光寺の年中行事に「盂蘭盆六月祓」があることをおもえば、これは、水内神の祓神化の名残りとみられますので、「信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」は「信濃の須波・水内等の神を祓神として祭らしむ」というのが真意だったのかもしれません。

097 南方刀美神という諏訪神 風琳堂主人 2004/11/17 (水)

 善光寺阿弥陀如来の「奥之院」は水内神社の「奥社」でもあり、そこには駒形神=諏訪神がまつられているとのことです。

■善光寺仏によって水内神は湮滅せり
 長野市の上松には駒形嶽駒弓神社という社があり、村人の口碑によればこの社は、「昔、水内神社の祝詞殿より裏、正北方の森々たる樹木立の中にあって奥社であったが後世仏教盛んなるに及んで善光寺仏によって水内神は湮滅せり」といい、しかし「現在でも善光寺へ参詣の砌、如来の奥之院なりしとて当社へ参詣する者絶えず、如来堂裏、年越宮に飾る所の注連を本社境内に持ち来り、旧暦二月一日を以て焼き捨てるの例あり」と。この神社は、字駒形嶽にあり、祭神に建御名方富命、彦神別神、相殿に保食命を祀るとしている。尚注連を交番に焼く十五防[坊]は往昔水内神社の神官であったともいう。いわば駒形神社は仏教以前からの社であったというのであろう。(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』1980年発行、岡谷書店、現在絶版)

 駒形嶽駒弓神社ゆかりの「村人の口碑」、しかも、とても貴重な「口碑」の紹介がなされています。桜ヶ池について中村福司さんが『桜ヶ池 池宮神社考』を著したように、諏訪(信濃)においては、小口伊乙さんが『土俗より見た信濃小社考』を著しています。その土地の外にいてはなかなか出会えない口碑・伝承や考察が、宝箱のように詰まった一書です。
 水内神社の「奥社」かつ善光寺如来の「奥之院」とされる駒形嶽駒弓神社の神が「建御名方富命」=諏訪神であること、また、諏訪神は駒形神でもあるという指摘はよくうなずけるものです(『善光寺小誌』は、駒形嶽駒弓神=駒形神は八幡神であるとの伝承も記しています)。
 小口さんも同書でふれていますが、駒形神社の「本家」は、かつての陸中国一ノ宮とされる駒形神社(岩手県水沢市)です。岩手の駒形神社は戦前まで「国幣小社」という社格にもかかわらず「祭神不詳」とされていました。この陸奥国の「不詳」の神が、善光寺阿弥陀如来の「奥之院」の神でもあるという不思議については、少なくとも千時千一夜においては不思議の話ではありません。善光寺阿弥陀如来の「秘神」が駒形神でもあるとしますと、ここからも瀬織津姫祭祀の残照を読み取ることができます(駒形神考については、囲炉裏夜話423/424「駒形神社の秘神」を参照ください)。
 信濃国においては、駒形神は「建御名方富命」という諏訪神とされます。この「建御名方富命」については、小口伊乙さんによって、次のような鋭い問題(再考)提起がなされています。

■南方刀美神と建御名方命
 諏訪大社の祭神は『延喜式神名帳』に記載されている限りでは南方刀美神であり、南方刀美神社である。建御名方命を祭神とするというのは今の風である。いつから祭神が変わったかは誰も問うところではないらしい。(『土俗より見た信濃小社考』)

 南方刀美神が建御名方命と同神であることを漠然と認めている「今の風」に一石を投ずる、再考を促す一文です。建御名方命(神)を諏訪神とみなすというのは古事記記載によるものですが、善光寺阿弥陀如来の「奥之院」の神は「建御名方富命」と、「富」の一字が挿入されていて、建御名方命(神)と建御名方富命は異神である可能性があります。
 小口さんの考察を読んでみます。

■建御名方富命彦神別という混淆神
『古事記』に記されている建御雷之男神に追われて須羽の海に逃れたとする建御名方神と諏訪の南方刀美神とは同一神であるとはいえない。建[たけ]は男性神をあらわし、刀美は女性神をあらわす古いことばであるからであるが、長野市城山に祀られる建御名方富命彦別は、南方刀美神と建御名方神との混淆の上になる神で、建も男性をあらわし、彦も貴族名門の男子の称名であり、別は君長を意味し、一種の姓に用いられもしたから御名方富命の神名を修飾したものであるとしないわけにはいかないのである。何故そうなのか、おそらく建御名方神の信仰が強大になった時点での古語の意味を踏みにじった神官あたりの創作神であったのであろう。

「長野市城山に祀られる建御名方富命彦別」は建御名方富命彦神別神社のことですが、これは中世に衰滅していたものを、明治期に善光寺の東に創建(再建)したものです。この長たらしい神(社)名は延喜時代にまで遡りますので(延喜式神名帳に「建御名方富命彦神別神社(名神大)」と記される)、平安期には、あるいは平安期の前に、すでに「古語の意味を踏みにじった神官」がいたということになります。

 小口さんは、重ねるように、さらに「注意」を促しています。

■南方刀美神は女性神
『延喜式』は信濃の国では、諏方の郡をあげているが諏方神社ではなく、南方刀美神社となっている。『和名抄』は諏方郡と、小県郡の諏方の郷をあげている。
 ここで、注意しておきたいことは、『延喜式神名帳』の宮中、京中の神々は別として畿内以下各地の神社は九十九パーセントとはいえないが殆んどの神社が、社名、祭神名、地名が同じだということ、つまり社名も神名もその土地名であらわしているということである。信濃でいえば、延喜式内神社四十八座のうち社名と神名[地名の誤記]の異るものは三社、うち二社は諏訪社関係で他の一社は埴科の玉夜[依]比売神と申す女性神であったと思う。も一つ注意してほしいのは『延喜式』に登載の南方刀美神社の祭神南方刀美神は女性神であることである。

 信濃国における、神名を社名とする神社「三社」は、南方刀美神社、建御名方富命彦神別神社、玉依比売命神社とされます。ただし、厳密には、氷鉋斗売神社(更級郡)や生嶋足嶋神社(小県郡)などもありますので「三社」とはいえませんけど、地名ではなく神名を社名とする神社が少ないことはたしかに事実のようです。それはともかく、第二の注意点である「南方刀美神社の祭神南方刀美神は女性神であること」は傾聴に値します。小口さんの論考の展開を読んでみます。

■南方刀美神は宗像神
 諏訪の南方刀美の神は女神であることをいったがこの解明をしておかねばならない。南方刀美の刀美は何を意味するかである。もち論、神名にある何々富でもある。『古事記』や『日本書紀』には刀美のあて字は見当らない。鳥美[とみ]、登美[とみ]、跡見[とみ]は地名としては見えている。とみは美称だと説く人もある。刀売[とめ]は凡て女性神の名であった。刀自[とじ]は現在でも女性に呼びかけることばである。刀禰[とね]は男性に対して使われた女性のことでもあった。刀美[み]は刀売[め]の転音である。南方刀女[みなかたとめ]神は南方刀美[みなかたとみ]とも称された。女[め]が美[み]に転音したものとする。がこのことより宗像[むなかた]の転音南方[みなかた]であり宗像の神が女神であることから、南方刀美神が女性神であるといった方が誤解が少ないことになるかも知れない。

 小口伊乙さんは、「南方刀美」の転音の考察から、須波神=諏訪神=南方刀美神は宗像(女)神であるという結論に達したようです。小口さんは、「建御名方命の建御名方は、宗像、南方のあて字違いに建を附した神名であることは間違いなく、この神は信濃へは移入された神の名であることも間違いないのである。また宗像、南方神は女神であることも明らかである」とくりかえしてもいます。小口さんの、南方刀美神と宗像神の同神説にはわたしも同意します。
 八幡比売大神は宗像神でもありますが、この比売大神を瀬織津姫と記していた福島県古殿町の「他見堅無用」の鎌田家文書も想起されるところです(「駒形神社の秘神」)。では、小口さんは瀬織津姫をどうみていたかはやはり気になるところなのですが、瀬織津姫という神が宗像神でもあることは、小口さんの想像外の事項だったようです。このことは、たとえば、天白神の考察において、「天白社の、祭神の稲倉魂[うかのみたま]命=稲倉魂は米の霊の意味を神格化した神であるし、天棚機比売は七夕の神であり、瀬織津姫は瀬下[お]り津姫で、速川の瀬に坐すという神で穢[けが]れを流し災厄を除く神であろう」と、瀬織津姫は大祓神であるという既成観が語られていることからもいえます。瀬織津姫という神に特別に探査の照明をあてるというのは、ここ数年のことで、既成の学者諸氏はいうにおよばずという状況ですから、こういった状況を考えますと、小口さんが南方刀美神は宗像神であると指摘していたことは特筆すべき鋭い考察だったといえます。

099 高遠・藤沢郷の反骨祭祀 風琳堂主人 2004/11/29 (月)

 小口伊乙さんは、自身の体験談として、「天白様詣り」は、「養蚕の吉凶をみてもらうのが目あてであった」と記しています(『土俗より見た信濃小社考』)。天白神は多様な性格をもつ神ですが、ここでは養蚕神だったようです。小口さんはまた、次のように書いてもいます。

■天白神は五穀豊穣を司る神
 上伊[那]美篶の天伯社については、祭日は九月七日(『伊那市神社誌』は、祭日を七月六、七日と記す)、その例祭には村の人々は願望成就のため、大人は破れ笠をかぶり、破れた着物を着て太鼓を打ってうたう。「さいよりこより、菜[さい]がなくては糠味噌」と、子ども達は七夕のなよ竹をもってこれを打つこと三度、しばらくして社司が指揮して、神輿は三峯[みぶ]川を越えて富県の片倉に鎮座する天伯社へ渡御する。七夕には、三粒でも雨が降ると信じられていたからこれは破れ笠、破れみのならぬ、つずれ着物での天野川渡御即ち、彦星と棚機姫星の年一度の出合いをあらわしたものか、とに角星祭りの行事であろう。この日人々は棚機姫を祭るため、絹、木綿の別なく竹に巻いて、神前に供えたと伝えている。
 美篶の天伯社の祭事が棚機姫を祀ったとしていることは、星祭りを意味し、天候の順調と五穀の豊饒を祈ったものであろう。

 天白神の祭祀が、「絹、木綿の別なく竹に巻いて、神前に供えた」とあり、ここには養蚕神→織姫的性格がみられ、それが「棚機姫」という祭神名によく表れてもいます。しかし、伊那・美篶[みすず]の天伯社においては、養蚕神というよりも、「五穀豊穣」を祈願する神とする小口さんの見解が妥当かとおもいます。
 ところで、この美篶の天伯社の神輿は、三峯[みぶ]川を渡って対岸の「富県の片倉に鎮座する天伯社」へ渡御するとのことで、この富県[とみがた]の片倉天伯社の神が瀬織津姫です。
 上伊那地方は「外県」「外諏訪」とも呼ばれ、諏訪上社にとって最重要な祭祀(廻神=湛[たたえ]神事)の三県[あがた]の一つにあたります(ほかの二つは、茅野方面の「内県」、下諏訪方面の「大県」)。諏訪祭祀の圏内において、瀬織津姫を天白神として唯一まつるのが片倉天伯社です。同社の1968年時点の所在地表示は、伊那市富県桜井字靭木[うつぼぎ]三八八五番地で(『伊那市神社誌』昭和四十三年)、所在地名にある「桜井」から、桜神、水神としての瀬織津姫像も匂ってきます。このことは、同『神社誌』が、片倉天伯社の社叢について、「杉桧等の大木が二〇〜三〇本あり。その中に周囲九尺もある桜の巨木が一本ある」と紹介していることによく表れています。字名の靭木[うつぼぎ]は「神霊の宿る木」の意で、桜の巨木(靭木)に宿る神霊が天白神=瀬織津姫でもあるとみてよさそうです。瀬織津姫はここでも桜神です。
 片倉天伯社は鎌倉時代(文暦元年[1234]七月十八日)の創建とされますが、『伊那市神社誌』は、「もと藤沢片倉から流れ来て、三峯川畔の平岩(花崗岩の大きな岩塊)の上に鎮まった。それで片倉天伯という」と、同社縁起あるいは口碑を紹介しています。では、元の鎮座地である「藤沢片倉」とはどこかといいますと、ここは、三峯川の支流・藤沢川の上流部にあたり(三峯川は天竜川の支流)、諏訪上社が神体山と仰ぐ守屋山(1650m)の地(南麓)の高遠町藤沢字片倉で、正確には、藤沢片倉の「薬師堂」の地にまつられていたとのことです(高遠町・守屋源一さん談)。守屋さんによると、天白神=瀬織津姫は藤沢片倉の地から「流れ」去ったのではなく、現在も薬師堂の裏にまつっているとのことです。村史等の公的な記録には一切みられませんので、同地の瀬織津姫祭祀の継続には瞠目すべきものがあります。
 藤沢地区はかつての藤沢村で、諏訪祭祀のことばでいえば「藤沢七郷」と呼ばれる地にあたります。『上伊那郡町村誌』は、「本村の古時不詳。東鑑に曰、文治年間藤沢郷と云、其昔時より、諏訪上下の社領たり。其後年暦不詳、片倉、御堂垣外、水上、荒町、北原、臺外数村の称あり。元禄年間に松倉の一村を起す」と記しています。「昔時より、諏訪上下の社領」とされる藤沢郷片倉(薬師堂)の地に、天白神=瀬織津姫がまつられていた(いる)ことは、諏訪祭祀を考える上で、重要な道標といえます。
 諏訪の先住の祭祀氏族に洩矢氏がいますが、同氏直系の末裔である守矢早苗氏は、自家にも薬師堂(大同年間の創祀)があるとして、つづけて、次のように記しています。

■洩矢神の本地は薬師如来
 薬師堂建立の意味は「古記に当家遠祖洩矢神の本地は薬師如来なりと言い、故に古来諏訪上社瑞籬内へも安置し、且つ屋敷内へも祀りしものなり」ということです。(『神長官守矢史料館のしおり』)

 諏訪上社(建御名方神)の「本地」は普賢菩薩とされますが、諏訪の地神(の一神)である洩矢神(男神)の本地は薬師如来とのことです。諏訪下社(八坂刀売神)の本地は千手観音であり、同社神宮寺の旧御射山の「奥之院」は十一面観音でしたから、神仏混淆による十一面観音と薬師如来の祭祀は、遠野郷のかつての早池峰山祭祀と一緒ということになります。早池峰山祭祀から薬師如来が消えたように、諏訪においては、洩矢神=薬師如来は公然と語られることがなくてきたのかもしれません。「諏訪上下の社領」とされる藤沢郷の薬師堂と、「諏訪上社瑞籬内へも安置」された薬師堂が無縁であるとはいえないでしょう。
 ところで、藤沢片倉の地には、物部守屋大連をまつる守屋神社も鎮座しています。物部守屋大連は、守屋山山頂にもまつられ、守屋山も藤沢郷も物部氏ゆかりの地といえます。

■守屋神社「由緒」
〔前略…日本書紀崇峻天皇二年条の物部守屋の敗亡記の引用がはいる〕
 如是日本書紀ニアレバ当昔大連子息等遙ニ遁来テ信濃国伊那郡藤沢ニ蟄居シテ世間ノ人不交許多ノ星霜ヲ経テ連々子孫蕃息シテ大連ノ霊ヲ拝シ祭リテ氏神トシ、家モ数戸ニ分レテモ当昔ヲ思恋シテ家名ニ守屋ヲ唱ヒ来リシナラン氏神守屋神社辺ヲ字古屋敷記タルハ往昔大連子息ヨリ数代当所ニ住セシ屋敷跡ナリトゾ亦其傍ニ字五輪原トテ古墳アリ抑最初守屋氏来住シヨリ千二百八十余年ノ今世ニ至テハ末孫七十三戸ニ相成只可惜事ハ寛永年間ニ村方焼失ノ砌古書重器等皆灰燼致セシト申伝ヘリ、社宮司小社同所ニアリ〔東西五間南北四間〕面積二十坪祭神国造大己貴神祭日二月十六日御輿並母衣花傘美々敷祭ナリ(『藤沢村史』昭和十七年)

 宝治元年(1247)の『大祝信重解状』には、「古くこの地(諏訪の地)は守屋大臣の所領なり」と記されているそうで(『藤森栄一全集』第14巻)、諏訪祭祀の基層部には物部氏の存在をみる必要がありそうです。しかし、諏訪の先住祭祀族の洩矢=守矢氏は、その系図の祖神を洩矢神とするも、物部守屋も、ましてやニギハヤヒ(天照国照彦天火明奇玉饒速日命)の名も記していませんので、諏訪祭祀の中枢にいけばいくほど、物部氏の末裔であることは秘されてきているようです。「外諏訪」の入口にあたる高遠・藤沢郷においては、そういった諏訪祭祀の中枢の発想に暗に「否」を主張しているのが、この守屋神社の由緒とも読めます。
 藤沢郷は諏訪上下社の社領地でしたから、「藤沢総鎮守」は諏訪神社としてもよさそうなものですが、なぜか、貴船神社が「藤沢総鎮守」とされています。『藤沢村史』は、貴船神社について「本村ノ南荒町ニアリ〔東西五十一間南北四十六間〕面積二百三十四坪祭神高霊龍神勧請年月不詳祭日八月一日ナリシカ明治九年改テ九月十八日トス/御輿並騎馬行列母衣花傘祭礼ナリ」と記しています。「八月一日」が諏訪祭祀にとって特別な日であることはくりかえしませんが、より興味深いことは、守屋神社と「同所ニアリ」とされる「社宮司小社」の祭礼もまた「御輿並母衣花傘美々敷祭ナリ」と記されていたことです。貴船神社の祭礼から「騎馬行列」を除くと、社宮司社と貴船神社は同じ祭礼を行っていることになります。
 社宮司神は、一般にミサクチ→ミシャグチ→シャグ(ウ)ジと変遷するようです。この諏訪の基層神の漢字表記法ですが、『年内神事次第旧記』は「御左口神」(これがミサクチと読まれた)、『諏訪大明神画詞』は「御作神」で、これら室町期の表記をみますと、いわゆるミサク神という農作神です。この諏訪の先住神の祭礼と同じ祭礼を貴船神社が行っていることは、一見意外かもしれませんが、貴船神とミサク神は同神である可能性を示していることになります。
 ちなみに、「藤沢」の地名由来ですが、これは、貴船神社が「此地南岸臨水有大樹繁茂覆神殿大藤」、つまり、同社が「水」(沢)に面してあり、また同社の神木が「大藤」であることからきています(「藤沢魂秘録」、『藤沢村史』収録)。
 高遠・藤沢郷の反骨祭祀の例をもうひとつ挙げておきます。高遠町に、戦前まで「県社」の社格をもっていた鉾持[ほこじ]神社があります。これも「藤沢魂秘録」が記すところですが、同社の勧請伝承は「信濃国伊那郡鉾持三社大権現者昔鎌倉建長寺開祖大学禅師勧請筥根走湯三島之三神合為一所以祀之者也筥根祭地神四代彦火火出見尊走湯祭地神三代瓊杵速日尊三島祭人皇七代孝霊天皇」と書かれています。筥根=箱根神、走湯神、三島神をまとめてまつるのが鉾持神社なのですが、三神のうち走湯神を「地神三代瓊杵速日尊」、三島神を「人皇七代孝霊天皇」と記しているのが大きな特徴です。特に走湯神=伊豆神についてですが、伊豆国風土記逸文は「駿河の国の伊豆の埼を割いて伊豆の国と名づけた。日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂[あらみたま]を祭る」と記していました。この風土記逸文の記述を根拠として、伊豆神社の祭神を瓊瓊杵尊とするところが多いのですが、高遠においては、この伊豆の男神を「瓊杵速日尊」、つまりニギハヤヒと、物部氏の祖神である太陽神を伊豆・走湯神(の男神)と記していたわけで、これはまさに「魂秘録」の標題をそのまま表したような内容といってよいでしょう。鉾持神社の戦後現在の祭神は、「天津彦瓊瓊杵尊、天津彦火々出見尊、大山祇命」とされ(『高遠町誌』)、彦火火出見尊はそのままですが、孝霊天皇(三島神)は大山祇命に、瓊杵速日尊(走湯神)は瓊瓊杵尊に変更されています。伊豆山神の謎の男神はニギハヤヒの可能性があることについては、千時千一夜052「走湯権現(伊豆権現)のメッセージ」でふれてきましたが、おもわぬところから、これを傍証する記録が出てきました。天竜川河口には、飛鳥時代はニギハヤヒをまつり、また明治初頭までは瀬織津姫をまつっていた津毛利神社があることも想起されるところです。
 天白神はそのルーツを伊勢にもっていましたが、信濃国の天白神、ミサク神研究者である今井野菊氏の報告によりますと、ミサク神(ミサクチ神)も諏訪の固有神ではないことがわかります(同神をまつるのは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、岐阜県116社とされますが、三重県には140社が確認されるとのことです…清川理一郎『諏訪神社 謎の古代史』彩流社)。三重県=伊勢の地にミサク神の祭祀があることは、天白神と同根の神であることを示唆しています。諏訪のミサク(チ)神に、神宮の元神である伊雑[いさわ/いぞう]神の名が散見されることが、それを端的に表しています(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』)。

101 諏訪祭祀と天白神 風琳堂主人 2004/12/09 (木) [17495]

 守屋山は「水霊のしずまります神の山」、「山頂からは諏訪の平が一望できるばかりでなく、北は辰野方面から、南は美和谷の彼方まで見渡すことができ、守屋山は、内県・小県を含めた全域の中心に位置している」──こう記しているのは、廻神(湛[たたえ])神事の「内県」にあたる現在の茅野市の市史です。
 また、『茅野市史』は、守屋山の水霊信仰と諏訪上社(本宮)の関係を、次のように記しています。

■天竜川の水源「お天水」
 守屋山の水霊の信仰は、山麓の上社本宮境内にあるお天水の信仰となって現在に至っている。このお天水の現象は、諏訪の七不思議の一つに数えられ、一年中いかなる晴天の日でも、御宝殿[ごほうでん]のかや屋根の上に一滴の水が落ちるとも、また水滴は毎日御宝殿の下にある天流水舎の井戸に落ちるともいわれている。
 雨乞いのときは、この井戸の水を青竹の筒に入れて持参し、それぞれの地で祈願をこめれば、雨が降るといわれ、諏訪地方はもちろんのこと、遠く県外からもお天水をもらいに来ている。また、このお天水の水は、天竜川の水源でもあるといわれ、守屋山の水霊の神の信仰が如実にあらわれている。(『茅野市史』上巻)

 諏訪上社の神体山である守屋山は、山頂に物部守屋をまつるも、ここには、天竜川の水源神=水霊神が鎮座しているようです。上社本宮における水霊信仰の基点の山が守屋山であることは、同社片(脇)拝殿から守屋山を拝む直線上に「硯石」という神体石があることと関連しています。この硯石は、「上部表面が凹形をしていて、いつも水をたたえているので硯石と呼ばれ、諏訪明神が降臨される霊石」とのことです(『茅野市史』)。『諏訪大明神画詞』は、この硯石のあるところを「上壇」「尊神ノ御在所」と記していて、上社本宮の最重要な神体石とみられます。天竜川の水源である「お天水」が守屋山の水霊神がもたらすものという信仰が、守屋山→硯石→天流水舎(の井戸)と連なっていることがわかります。
 この上社の水霊信仰のラインを重視しますと、「→」の延長上、つまり、天流水舎のすぐ下にある清祓[きよはらい]池も含めて考える必要がありそうです。なぜなら、同池は、「諏訪湖の水源」とも伝えられているからです(矢崎孟伯『諏訪大社』銀河書房)。天竜川下流域(遠州)からの視点でいいますと、天竜川の水源は諏訪湖です。その諏訪湖の水源が清祓池とされ、この池が天流水舎の直下にあることは意味ある配置だと考えられます。守屋山→硯石→天流水舎(の井戸)→清祓池という水霊信仰のラインは、観念上のことではありますが、諏訪湖に注いで天竜川を流出させていることになります。
 清祓池という池名が端的に語っていますが、ここは「池の中の宮島に茅の輪をつくり、それをくぐって罪を祓い清めた」とあるように(矢崎孟伯、前掲書)、清祓池の池神は大祓神(とされた水霊神)です。その名をあからさまに表示しないのは、諏訪下社で六月祓の神事が行われる浮島(社)の祓戸大神と同じですが、ここに瀬織津姫を「読む」ことができます。守屋山の水霊神は、里(上社本宮)へ降りると大祓神=祓戸大神となるということなのでしょう。
 諏訪上社の「水」の信仰ラインには、少なくとももうひとつの「池」を指摘しておく必要があるのかもしれません。それは、天流水舎と清祓池の間にある小さな池ですが、「五穀の種池」です。この池の「水」も水霊神の信仰ライン上にあります。案内板には、「毎年春の御頭祭には近隣の農家の人々が種もみを浸して、その浮き沈みに依って豊凶を占った池である」とあり、守屋山の水霊神が五穀豊穣に関わる神であることがよく伝わってくる文面です。
 農作の豊凶占いについては、諏訪信仰においては「筒粥神事」のほうが広く知られています。この神事は諏訪下社に現在も伝えられていますが、古くは、上社前宮あるいは上社本宮においても行われていたようです。

■上社前宮の筒粥神事
 他の中世文書によると、「十五日筒粥・参御室御神事」とあって、鎌倉・室町時代には、確実に前宮の御室(みむろ)の中で行なう神事であった。御室での筒粥神事の方法は、十二月晦日深夜寅時、神長はうだつの御左口(みさくち)二十神の前に灯明をささげ、その年の月数だけ御幣(十二または十三本)をささげ、天長地久を祈る。この御幣は葦のくきに、白紙を刺したものとみられ、この御幣の葦の下部分を一束(約十五センチ)に切りそろえ、正月十四日夜からの筒粥の筒に用いる。この葦筒に「五穀をあてあてに名をかき付て筒粥をにる」と、筒粥神事の方法をかいている。この筒粥は十五日の御神事のとき、五穀占いをし大明神に報告し、五官祝・氏人これを拝す、とある。(宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社)

 御左口神に「十二月晦日深夜寅時」(午前三〜五時)にささげられる御幣=白紙は、葦の茎にはさんだものであり、その葦の茎の下部分を「切りそろえ」て筒粥の筒にしたとのことです。この切り取られた葦の残りと御幣が、同じく「十二月晦日深夜寅時」に流される(放り込まれる)場所が、前宮北方1500mほどのところにある葛井[くずい]池です。葛井池の神殿は北面し、神殿背後に葛井池があり、同池はかつての広大な諏訪湖の一部が残ったものとのことですが、この神殿→葛井池の南方延長上に守屋山が視認されます。この池も守屋山の水霊神信仰と関わり深い池といえます。
 葛井池=葛井神社(主祭神:槻井泉神)の葛井神事あるいは前宮の御室神事についてはあらためてふれますが、わたしがここで問うてみたいのは、この神秘的な筒粥神事において、「五穀占い」を真っ先に「報告」される「大明神」とはなにかということです。引用だけを読みますと、それは「諏訪大明神」のことだろうとなりますが、諏訪の古記を読みますと、どうもそう単純な話ではないことがみえてきます。
 諏訪の年中行事・神事の古態を伝える文献に、室町初期の『年内神事次第旧記』(茅野市教育委員会)があります。同文書は、諏訪の先住祭祀族の洩矢=守矢氏(神長官)の家に伝わる上社前宮の年内神事の覚書・日記ですが、諏訪祭祀の核心部分は一子相伝・口伝の秘伝とされ現在は不明とされるも、その周辺の神事の実態を公開したもので、諏訪祭祀を考える上で、貴重な資料価値をもっています。
『年内神事次第旧記』は、筒粥神事および「大明神に報告」の当該部分を「晦日夜の御幣之串の葦を正月十四日夜、筒ニ切て五穀を当て当てに名を書き付て筒粥を煮る。是にて御五穀を占う。此筒粥を同十五日御神事之時、五願・民人是を拝す。大明神ニ向け申時[もうすとき]、申立[もうしたて]」と記しています(武井正弘訓読)。この「申立」は「報告」といったニュアンスとは少し異なり、いわば祝詞形式で語られる大明神への「お願い」といった内容かとおもいますが、この「申立」につづく祝詞を読んでみます。

■大明神ニ向け申時[もうすとき]、申立[もうしたて]
 かけはくもかしこ、つねの跡ニ仍[よつて]仕ゑまつる、春の御祭の正月一日の煮占[にうら]ハ八葉盤[やいら]は参らする。受け喜はせ給て、神嘗[しんしよう]として、罷[まか]り来たる斗[ばかり]の、蕪[しけ]い悪霊・災難・口舌[くぜつ]をハ、また来らさる先の稲の他方ゑ、祓い退[しり]そかせ給へと、かしこミもかしこミもぬか(つかまうす)
 七日七々草粥[くさかゆ]参[まいら]する時も
 十五日筒粥参する時も申可[もうすべし]

 編著者の武井正弘さんは、この祝詞部分については「口語訳」を付していますので、それも写しておきます。

■口語訳「大明神ニ向け申時、申立」
 いつも心懸けてはいますものの、言葉にして申上げるのも畏れ多いことですが、古くからのしきたりに依り仕え奉ります。春の御祭の正月一日の煮占の具を、八葉盤(八葉の柏で作った葉皿)に持って[盛って]献じまする。どうか御受納の上、新年の訪れを共に欣び下さり、大神の厳正な御心をもって、新年に災いをもたらすためやって参ったばかりの、勢の盛んな悪霊・災難・口舌などの悪しきことどもを、稲霊の訪れる前に他の国へと、祓い退かせ下さいますよう、畏み畏み額付けてお願い申し上げます。

 この祝詞を受納する「大神」=「大明神」は、「悪霊・災難・口舌などの悪しきことどもを、稲霊の訪れる前に他の国へと、祓い退かせ下さい」と祈られる神で、「厳正な御心」をもった祓神の性格が付与されていることがわかります。この「春の御祭」の祝詞は、十二月二十七日の「冬の御祭」にも捧げられます。

■冬の御祭の祝詞
 かけまくもかしこ、つねのあとニよつて仕へまつる。冬の御祭十月十五日の御葉鎮めの浄御先の八葉盤ハ四葉盤ハ折柏と申、天伯こそ神嘗として、館[たて]の内に参り来[きた]り(る)はかりの蕪[しけ]い厄霊・災難・口舌[くぜつ]をハ、また来ぬ先の稲の他方へ祓い退[しん]そき給へ、思・請い願い申さん所ハ、命ハ長く身ハ全くして栄へ、幸い弥高[いやたか]・弥広[いやひろ]ニ護らせ給て、此如[このごとく]の千歳[ちとせ]の春秋はや祭ると、障[さわ]り恙[つつが]なき十五日の祝ぬかつか申。
 何事も春如あるへく候。不思議ニ思はれ候はん事をハ、春日記見られ候へく候。

「春の御祭」では「悪霊・災難・口舌などの悪しきことども」を「祓い退[しり]そかせ給へ」と願われていたのは「大明神」という抽象神でしたが、「冬の御祭」では、「厄霊・災難・口舌」を「祓い退[しん]そき給へ」と願われている神、さらに、延命長寿と繁栄の守護が願われている神は「天伯」という神であることが明かされています。神長官・守矢家の内部に伝わる秘蔵の家伝書において、「大明神」は「天伯」(原文は「てんはこ」)、つまり天白大明神であることが伝えられていたことがわかります。
 この家伝書の作者は、冬祭の祝詞につづけて「何事も春如あるへく候。不思議ニ思はれ候はん事をハ、春日記見られ候へく候」と、「不思議」におもう者は「春日記」、つまり「春の御祭」の項をもう一度見るようにと促すことを忘れていません。
「春の御祭」において、では、祝詞を大明神=天白神に述べる者はだれかといいますと、それは神長官ではなく、諏訪祭祀の頂点に君臨する大祝[おおほうり]です。武井さんは「春の御祭」の祝詞の補注で、この祝詞(申立)は、「神を祀る神、つまりは神事によって豊饒を司る自然神の約束を取り付け、威光を以って支配する現世救済の人格神の役割りを物語る申立で、大国主の子であるタケミナカタ、その末裔である大祝の、存在意義を示す内容といってよい」と書いています。
 諏訪の祭祀は二重権力構造になっていて、基層に先住の祭祀族である洩矢=守矢氏が神長官として存在し、その上に、桓武天皇の皇子とされる大祝有員[ありかず]を祖とする大祝=神[じん]氏(のちの諏訪氏)がいます。大祝は、武井さんが指摘するように、「神をまつる神」、しかも諏訪大明神=タケミナカタが憑依した現人神とされます。諏訪の地主神を束ねるのが神長官で、諏訪の地主神をまつる人格神(神をまつる神)が幼童(男児)である大祝=タケミナカタです。
 諏訪祭祀において、中央の祭祀意向を体現したのが大祝家でしたが、地主神に対する実質的な祭祀権をもっていたのは神長官=守矢氏でした。ただし、守矢氏が諏訪において、この祭祀権を持続させることは、たえず中央=ヤマトあるいは大祝家の禁圧下にあった上でのことだろうと想像されます。物部氏の出自を秘しているのもそうですし、守矢氏がヤマト公認のタケミナカタ=諏訪大明神=大祝を受容し、本来自身がまつっていた神をさまざまな異名に置き換えざるをえなかったことも想像すべきでしょう。その異名神の一つが「てんはこ」という神でしたし、ミサク(チ)神でもありました。ミサク(チ)神は、天白神の多様な性格のうち、その水神的性格を核に据えて農作神の性格を特化・突出させたものとみられます。神格(神の性格)の多様性という点からいって、ミサク(チ)神は天白神を包含することは不可能ですが、逆は可能です。ちなみに、天白神という神名は、白鳳時代(天武・持統時代)の神宮創祀の前に遡って考えることはできないことを添えておきます。ミサク(チ)神も、当然、それ以降の時代の神名(作神への尊称が神名化したもの)とおもわれます。
 守矢氏の祖神について、武井正弘さんは『年内神事次第旧記』の解説で、「モリヤ氏の祖神ミサグチ神は御左口と表記され、ミシャグチともよばれる口裂の蝦蟇神で、龍宮伝承とも関わる水分神でもあった」としています。また、この神は「川・湖の王」であるとして、ミサク(チ)神の水霊神的性格を指摘しています。それが、「海部の王」である蛇身・タケミナカタによって征服されるも、「男性神であるタケミナカタは間接手段によってしか土地の恵みを保障できない。地母神としてのミサグチ抜きでは大地は荒野と化してしまうわけである。このため、服属と誓約の儀式が祭事の初頭に据えられる」と、元旦の蛙狩神事を「服属の誓いの式」と指摘しています。
 守矢家の系図では、その祖神は「洩矢神」としていて、同系図には「御左口神」の名は出てきません。諏訪において、洩矢神と御左口神が同神である伝承を拾い出すことはできませんので、御左口神を、守矢氏の「祖神」と断定するには、もう少し媒介事項が必要ではないかという気がしています。武井さんがミサク(チ)神を守矢氏の「祖神」とみなした理由は、『年内神事次第旧記』の、たとえば、「春の御祭に、道の口ニ政所の本ニ祖宗神[そそうしん]天降り給[たまい]たれハ、嬉しミ喜ひて仕へまつりぬ」とある、土地神である「祖宗神[そそうしん]」をミサク(チ)神とみなしたことによるものかとおもいます。原文は「そゝう神」で、「祖宗神」の漢字をあてたのは武井さんです。「そゝう神」は「道の口」「道の口の中」「道の尻」にいる地神かつ衢[ちまた]神で、人々はこの神が「天降る」と、こぞって「嬉しミ喜ひて仕へまつ」ったことが『旧記』にくりかえし出てきます。「そゝう神」がミサク(チ)神と同根神であることはそのとおりでしょうが、この道(祖)神の「そゝう神」は、おそらく、オソソ、オスソの神、つまり、琵琶湖地方では「裾神さん」と親称される禊祓神(マキノ町・唐崎神社ほか)、伊勢においては御裳乃濯川比女[みものすそかわひめ]と呼ばれる五十鈴川の川神かつ濯神=禊神、加賀白山においては泰澄命名の川濯尊大権現とされた白山の地神たちと同神かとおもわれます。つまり、旧記が「道之佐渡[さわたり]」(道の曲がり角、交差点)においてまつるとする天白神と同根の神であり、日本書紀には「道の中に降り居」る神、また、水沼[みぬま]君らがまつる道主貴[ちぬしのむち]とされた宗像女神(水沼君は物部氏同族)、先代旧事本紀には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の妃[みめ]とされていた天道日女命でもあるとみられます。
 守屋山→硯石→天流水舎→五穀の種池→清祓池→諏訪湖→天竜川へとつづく「天水」の信仰の道が、ミサク(チ)神(水分神、川・湖の王、地母神)と天白神(祓神、そゝう神、桜神=水神)、つまり、諏訪の基層神二神(後藤総一郎)によって、ときに神格を重複させながら諏訪信仰の「水脈」として構成されています。天白神とミサク(チ)神の神格(神徳)のすべてを必要かつ充分条件として保有する神は一神しかなく、しかし、この神を「語らない」ことで、諏訪ばかりでなく「日本」の神まつりはあります。
 天白神=瀬織津姫は、外諏訪=外県においては桜神でした。天白神が桜神でもある例は内県にもあります。
 上社前宮の神は、諏訪下社の神でもある八坂刀売神とされます。前宮は諏訪信仰発祥の地といわれますが(『茅野市史』)、同社の重要神事である廻神(湛)神事、つまり大祝の分身である神使[おこう]が春三月、三県を巡回して各地の地神に挨拶にまわり、その年の豊作を「神」として約束するという特殊神事があります。この地神たちは、霊木や霊石などに降り立つ土地の精霊神・自然神と信じられています。
 内県である茅野地方を廻るとき、桜湛[さくらたたえ]という桜神を降臨させてまつる神事があります(桜湛木は「七木湛」の筆頭木)。『茅野市史』は、この「桜湛」(茅野市粟沢)について、「最近まで巨木の根が残っていたものに桜湛木がある。桜湛木は粟沢城址の東の天白社境内にあったが、枯れてその面影をとどめない。現在はそのあとに石碑が立てられている」と記しています。諏訪祭祀の根幹において、天白神は「大明神」、つまり、天白大明神として、秘して願われる守護神でした。しかし、茅野市粟沢の天白神の分身=分神は、すでに一個の石碑と化しているようです。この石碑には「大天白社桜湛木跡地」と刻まれていて、往時の天白神に対する人々の想いが「大天白」という尊号に表れているようにおもいます。現在、諏訪祭祀のなかに天白神の残像を読み取ることはかなり困難ですが、天白神は、内県においても、大いなる桜神であったことは、この石碑が永く語りつづけてくるにちがいありません。

103 天白神の神楽歌 風琳堂主人 2004/12/25 (土) [18050]

 伊勢(外宮)の御師が伝える太々神楽の「八幡天白之段」で歌われる「てんぱくのうた」は、次のような歌詞をもっているとのことです(三渡俊一郎『謎の天白』私家版)。

■月の輪に舞う天白神
 天はく御前のあそひ(遊)をは
 ほし(星)の次第の神なれは
 月のわ(輪)にこそまひ(舞)たまへ

 ここで歌われる「星」は太白=金星(明星)のこととおもいますが、この星神=天白御前は月の輪に舞うとあり、天女の趣がよく伝わってくる神楽歌です。
 この伊勢の天白歌が諏訪に伝わると、歌詞は次のように微妙に変化するようです(諏訪上社の神楽頭、茅野外記大夫家に伝わる茅野文書…三渡俊一郎、前掲書)。

■天白神は社宮神大天白
 天白ワホシ(星)ノクラ(座)位ノ神ナレハ神ナレハ
 月ノワクラ(輪座)ニヤト(宿)ヲメサレル社宮神大天白
 天白ノコ(来)シミストキワ月ノワクラ(輪座)ニ宿ヲメサレル

 諏訪の天白歌においては、社宮神大天白、つまり天白神とミサク(チ)神=社宮神は一体の神であることが歌われています。
 ミサク(チ)神の分布について、今井野菊さんは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、三重県140社、岐阜県116社と、その労作の調書を公開してくれています。では、天白神の分布はどうかといいますと、こちらについては、三渡俊一郎さんによって貴重な調べがあります。「天白社(独立・合祀・地名)の県別の分布」を多い順に並べますと、@長野県(329)、A愛知県(79)、B静岡県(69)、C三重県(62)、D山梨県(34)、E埼玉県(17)、F岐阜県(5)、G神奈川県(4)、H岩手県、山形県、新潟県、兵庫県(各1)となり(計603)、長野県に突出してみられることがわかります。また、ミサク(チ)神の分布上位の七県のうち、岐阜県を除く六県が天白神祭祀の上位県と重なっていることがわかります。天白神祭祀が岐阜県において極端に減少する理由は、同県が白山信仰圏にあることが理由かとおもいます(天白神は白山の地神でもあるため、白山神をまつれば天白神を特別にまつる必要はなかった)。
 天白神にはどういう神が異称神として伝えられているのかについても、三渡さんがまとめてくれています。

■天白神と習合する神
 愛知・静岡・長野三県内の神名数六以上のものを集計すると次のようになる。
 須佐之男・素盞男(十八)、宇迦之御魂・稲倉魂(十五)、瀬織津姫(七)、棚機姫(六)
 右の四神合計は四六社で、神名の分っている社数合計八五社の約半分をしめている。

 月輪に舞う天女のごとき天白神が、スサノヲやお稲荷さんではあまり絵(サマ)にはなりません。残る瀬織津姫と棚機姫については、両神が異神であるわけではありませんから、天白神に伊勢祭祀の秘神である瀬織津姫を習合神とみなすことには無理がないとおもいます。三渡さんは同書で、天白神は「農業神・祓神・水神の性格」をもつ神であり、また「風・雷・病気・出産の安全を祈る神であり、祟る神ともされ、また降雨を乞う神でもあった」と、その性格をまとめています。これらの性格に、太田亮、小口伊乙両氏の指摘である養蚕神という性格(麻栽培の守護神という性格を含む)、および天白神の神楽歌にみられる星神=太白神の性格を付加すれば、天白神のほぼ全部の性格が出揃うことになります。
 諏訪の神楽歌にみられる「社宮神大天白」の社宮神、つまりミサク(チ)神についてですが、こちらは天白神とちがって、瀬織津姫を祭神として伝える神社は多くありません。しかし、多くはないものの皆無というわけではなく、このことは、『尾張志』が「サグジノ社」と記す西宮社(名古屋市中村区長戸井町、現在は金山神社に合祀)の祭神として「天照大神の荒御魂」の名がみられることや(蜂谷季夫『名古屋地方の社宮司信仰』天白川流域研究会)、大渡佐久地神社(静岡市黒俣)の神として瀬織津姫の名が確認できます。また、国府の地にまつられる守公神、守宮神もミサク(チ)神→社宮(司)神とみなす蜂谷説を是としますと、柳田國男が『石神問答』で取り上げていた、大隈国姶良郡国方村大字府中の「守公神」、つまり、明治期に守公神宮守君神宮から祓戸神社に社名変更された守公神=祓神として、瀬織津姫の名も確認できます。
 社宮神大天白という神が伊勢祭祀の秘神でもあることについて補足しておきますと、神宮の別宮とされる志摩市磯部町の伊雑宮のことがあります。伊雑宮の祭神は、中世、大歳神と玉柱屋姫命という男女神二神とされていました(『磯部町史』)。その後、大歳神は境外の第一摂社・佐美長神社へと遷され(外され)、昭和三年の『神宮要綱』は、伊雑宮祭神を天照大神荒御魂一神と記すことになります(現在は「荒」を削除して天照大神御魂)。伊雑宮の御師の西岡家文書は、同社祭神の玉柱屋姫命は瀬織津姫と同神であると記録しています。この伊雑宮の御師の一人である大崎氏が氏神としてまつる(まつっていた)のが天魄社、つまり天白神とのことです(三渡俊一郎『謎の天白』)。江戸期の寛文〜延宝時代に起こる、伊雑宮と神宮との激越な論争(伊雑宮神人[じにん]は自社本宮論および伊勢三宮論を展開)において、神人[じにん]代表の大崎兵大夫が暗殺されるという事件が起こります(天和二年)。幕府の裁定は伊雑宮側の敗訴という結論を下しますが、神人代表の大崎氏の氏神が天白神であったことはあまりに暗示的で、伊雑神の異名が天白神であった可能性はすこぶる高いといえそうです。このことは、諏訪の地で、社宮(司)神として伊雑神が散見される根拠あるいはルーツとも関わることかとおもいます。
『謎の天白』は、わずか一例ですが、諏訪神を「天白さま」と伝えている天白社(愛知県丹羽郡扶桑町伊勢帰字北寺子)も採録しています(祭神は建御名方神、?埜神社に合祀)。
 諏訪下社および諏訪上社(前宮)の神とされる八坂刀売神についても、天白神との関係は濃厚といわざるをえません。山田宗陸さんは「天白紀行」(1977年、中日新聞連載)で、「天白の起源を伊勢土着の麻績氏の祖神天ノ白羽にもとめる」と記していましたが、この麻績氏の祖神について、先代旧事本紀は、伊勢神麻続連等の祖は天八坂彦命と記しています。つまり、天白神=天ノ白羽神は天八坂彦命と同神ということになります。諏訪側の伝承では「八坂刀売命は高知尾豊姫とも申し、伊勢国多気郡麻績[をみ]の豪族天八坂彦命の御子孫」とされます(宮坂喜十『諏訪大神の信仰』下諏訪町博物館)。これらの伝承を総合しますと、現在の諏訪の女神である八坂刀売神は、天白神の「御子孫」ということになります。
 今井野菊さんは『大天白神』で、天白神は縄文時代にまで遡る「原始農業神」という仮説を示し、山田宗睦さんは麻績氏の祖神(天ノ白羽神)が「治水農耕の神」となったと記しています。今井さんの天白神は縄文時代の神とする説にはミサク(チ)神=社宮(司)神を弥生時代の農作神とみる仮説がセットになっていますが、天白神の神楽歌の伝播にみられるように、つまり「社宮神大天白」にみられるように、両神は一神を二神化表示したもので、そのルーツは神宮祭祀の暗部にあるという認識が欠如しているようです。今井説および山田説については、三渡俊一郎さんから、次のような鋭い疑義が提出されています。

■天白神はなぜ祓神か
 今井野菊氏は原始農業神として、山田宗睦氏は治水農耕の神として民間にひろまったとしつつ天白は長[=天]の白羽神、即ち麻続氏[=麻績氏]の祖神だとしているが、この麻織の神が如何にして農業神に変身していったかを説明していない。麻織の神が祓神となる過程を省略している。語呂合せをしているにすぎない。(三渡俊一郎『謎の天白』)

 皇祖神の創作→神宮祭祀の立ち上げのとき(白鳳時代)、神宮の元神は秘神化され、おそらく、この元神を祖神としていた麻績氏や磯部氏(物部氏同族)、つまり神宮の元神と同神をまつっていた伊雑宮に象徴される神宮周辺の諸社も、その祭祀は変容を強要されたものとおもいます。この伊勢祭祀における秘神は「祓神」とみなされるも、もともと水霊神・滝神(水源神)でしたから「治水農耕の神」ともなりえたのでしょう。
 梓弓春の日永の水の面に月すみわたる天白の橋──これは、四日市市日永の天白橋(天白神)について詠んだ西行作とされる歌です。日永の天白社の伝承を読んでみます。

■日永の天白御前
 ずいぶん大昔のことであるというが、日永の天白社は天白御前といい、天白川の川上から流れて来られた神様で、天白橋の橋げたに引っかかっていたのを拾いあげて祀ったという。元は八王子の森に祀ってあったものである。何度もお返ししたが、日永に縁が深く、何度も流れついたのだと伝えている。女神で極めて荒い神ということである。天白御前は相撲が好きで、明治末期の合祀までは社があったが、境内に土俵があり、祭には若衆が相撲をとった。森には大木があり、合祀後これを買って伐った人は早死した。祭日は十月十日であった。合祀の時の社記を見ると祭神胸形三女神としるされていた。流れて来られた時の姿は蛇体であったともいっていた。天白川は小さい川だが荒れて、水が溢れてた。(堀田吉雄氏調査…『謎の天白』)

 日永の天白神は、八王子=五男三女神、つまりアマテラスとスサノヲの「誓約[うけひ]」の思想になじめずに天白川を流れ下ってきたとも読める伝承です。宗像(胸形)神が天白神となることを考えますと、ここでも、諏訪および伊勢祭祀の秘神としての宗像神が浮上してきます。
 伊雑宮の「伊雑[いぞう/いざわ]」は「伊佐波」「伊射波」からきたものですが、伊雑宮の元社とみられる社に志摩国一ノ宮・伊射波神社があります(鳥羽市安楽島町字加布良古)。同社の主祭神は多紀理比売、配祀神は多岐津姫、狭依姫、つまり宗像三女神とされ、加布良古[かぶらこ]崎に鎮座するこの伊射波神は、志摩大明神、加布良古さんと、地元の海の民に今でも親しく呼ばれています。江戸期に伊雑宮の祭神として伊射波登美命の名がみられますが、伊雑神=伊射波神がもともと宗像神でもあったことをよく伝えているのが伊射波神社です。倭姫命世記は、稲作発祥に関わる大歳神(白真名鶴)伝承とともに、この稲を皇太神に献じた志摩国の御饌津神である伊佐波登美神の宮が伊雑宮と記していました。伊雑宮のこの元神(たち)は、諏訪上社(前宮)においては、筒粥神事を含む「御室神事」という闇の祭祀に継続されることになります。

104 諏訪湖の通底伝承 風琳堂主人 2005/01/01 (土) [18200]

 権現善光寺如来と、深く度生[どしやう]の悲願を契り玉ふ──ここに出てくる「権現」とは伊豆権現のことですが、伊豆権現が衆生済度のために善光寺阿弥陀如来と悲願の契を結んだと伝えるのが「伊豆山略縁起(内題:伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起)」です(『神道体系』所収)。
 略縁起はさらに、伊豆権現の神託(言葉)として、「我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり」とも記していて、伊豆権現は、善光寺阿弥陀如来と八幡大菩薩と深い「契」の関係にあるとのことです。
 伊豆権現という神仏混淆における仮称神は、ときに女神を言ったり、ときに男神を指したりしますが、これは、権現思想の基層に謎の男女神が秘められていることが理由かとおもいます。
 伊豆山=走湯山は日金山(旧名は久地良山)を含む総称名です。「走湯山秘決氏人上首一人外不口伝」の添書きをもつ「走湯山古文書」(『神道体系』所収)を読みますと、久地良山には二つの巌窟があって、一つは「みかつくのとの」といって「御とし五十路あまり」の謎の男神がすみ、もう一つは「みつ葉のとの」といって、そこには「御とし四十路あまり」の「女体すまゐたまへり」とされます。この女体神=女神は「耳・鼻・眼・口より湯の瀧なかる」と、伊豆の湯滝の滝神とされ、巌窟の周辺には、この女神を守護するように、「十五はしらの王子つらなり、住居たまへり」とされます(走湯山略縁起は、この十五王子の筆頭神を火明櫛玉饒速日尊とし、「猶神秘あれど、爰に載せ難し」と、口ごもった記述を残しています)。走湯山古文書は、男神に対しては引用のほかに記すことをしていませんが、この謎の女神については、「世の政治、人のよしあしき法をのへたまふ、またいつくしみ、にくみすへき則をのへ給ふ」と、明らかに尊意をもって書き記しています。
 走湯山縁起(第五)は、「権現女体事」として、日金山の東南には「女体社壇」があって、この女体権現=女神は「其形像天女の如し」と形容され、のちに伊豆山神社摂社の雷電社へ「入御」したとされます。現在の由緒において火牟須比命荒魂と祭神表示される雷電社の神の本姿は、「天女」のごとき女神だということです。
 走湯山古文書は、伊豆山の「みつ葉のとの」にすむ、この謎の女体神=女神の神託(言葉)を、次のように記しています。

■水火和合の神
 みつはもと月の精なり、火はもと日の精なり、わか身をは、月神にて水に[を]つかさとれり、されとも天照大神のたましゐを加へさせたまひて、水を湯とあたゝめ給へり〔中略〕今水火和合のふたつのなかより、われはあらはれいてたり

 伊豆(女体)権現は「天照大神のたましゐを加」えて水を湯に変えた、そして、この「水火和合」の思想によって「われはあらはれいてたり」と自己紹介しています。この伊豆(女体)権現が遠野郷に伝えられると伊豆大権現→早池峰大神となり、「天照大神」ともっとも縁深い瀬織津姫という滝神の名が明かされることになります。
 これら伊豆側の文書群も、諏訪における『年内神事次第旧記』と等価に等しい一級の資料価値をもっています。走湯山縁起(第五)には、さらに「深秘」の巻があり、伊豆山(日金山)の地底には「八穴道」があり、八つの聖地とつながっているとのことで、そのうちの一つは「諏訪の湖水」に通じていると書かれています(あとの七つは、戸蔵第三巌穴、伊勢大神宮、金峯山上、鎮西阿曾湖水、富士山頂、浅間之巓、摂津州住吉)。
 諏訪湖との通底伝承をもつ伊豆山側の証言は何を語るのかということがあります。一般に、 通底伝承が伝えている意味はなにかといいますと、わたしは、そこには、両者(両地)において、その根底において同神(あるいはもっとも関係深い神)の祭祀が行われていることを告げるものというように理解しています。遠州・桜ヶ池が諏訪湖に通じているというのも同じで、つまり、桜ヶ池の桜神=水神である瀬織津姫は、諏訪湖の湖水神でもあるとみられるわけです。
 伊豆山と桜ヶ池における諏訪湖への通底伝承に対して、では、諏訪(湖)の側にはどのような通底伝承があるのかといいますと、ここに、諏訪上社(前宮)の御室神事とセットとなっている葛井池の通底伝承がみえてきます。
 十二月二十七日の「冬の御祭」の祝詞(申立)は、天白神に捧げられたものでしたが、十二月三十一日(晦日)という第二の大祓の日から元旦未明にかけては、諏訪祭祀の根幹部分が露呈してきます。

■御室の秘祭と葛井池
 十二月晦日、御室[みむろ]へ参[まいり]て御年男と小別当と、年神・釜の神の御盃の式退[しきたい]有。後ニ祝之[の]御酒[ごしゅ]三献[さんこん]過て、祝殿ハ御立[おたち]あり。その後寅時まて神長殿待申て、寅時?[うたつ]の御左口[みさぐち]神之御前にて御明[みあか]しを参らせて、天長地久之御祈祷之ために、閏[うるう]之有[ある]時(年)ハ十三度、御幣[ごへい]を着[は]き申て、御幣を申上て、火光[ひかり]を葛井へ見すれハ、葛井神主御手幣[みてぐら]・御酒・御穀を池ニ入申[いれもうす]。此の御幣申時之明しハ藤沢の蟇目在家[ひきめざいけ]の役として出申[だしもうす]なり。(武井正弘訓読『年内神事次第旧記』茅野市教育委員会)

 諏訪上社(前宮)の境内に、冬季に特別につくられる半地下式の祭祀空間が「御室[みむろ]」ですが、武井正弘さんの補注によれば、御室は「御左口神を降ろし、年神・釜神とともに祀る神殿。神の篭り屋であり、重要な神事は御室に参篭し神意を体して始められていた」とされます。諏訪上社の秘祭空間として、この御室はあるといえます。
「年神・釜の神の御盃の式退[しきたい]」、つまり、「年神・釜の神」の神婚式(宮坂光昭さんは「色事神事」と書く…『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社)のあとに「御左口[みさぐち]神」が登場してくるというように、引用文中には三つの神の名が挙げられています。年神については、『年内神事次第旧記』は「正月一日に御室へ年[いね]入申、是ハ大歳神なり、年之神是なり、民人之魂なり」と、伊雑宮の男神、つまり海洋農耕神=男系太陽神(男性の蛇)である大歳神と同神がここに記されています。
 伊雑宮において、大歳神との対関係にあった女神は玉柱屋姫命(=瀬織津姫)でしたが、諏訪上社の御室においては「釜の神」と呼ばれていたのかもしれません。この釜神については、武井さんは補注を書いておらず、想像するしかないのですが、わたしは、この釜神の「釜」は湯釜の釜だろうとみています。つまり、御室において筒粥占いをするときに葦の筒を煮る湯釜を司る神を「釜の神」と呼んだものとおもいます。さらにいえば、釜神は、この湯釜の湯=水を司る神とみてよく、この「水」は「五穀の種池」と等質の「水」(諏訪湖あるいは天竜川の源水)が使用されたものとおもわれます。また、三信遠(三河・信濃・遠江)地域に伝わる花祭や霜月神楽の湯立の湯釜にも通ずるもので、この湯釜の湯=水が霊水=神水であることと等価とみてよいはずです。
「年神・釜の神」の三々九度の神婚式→色事神事が終わると(寅時まで「神長殿待申て」)、「?[うたつ]の御左口[みさぐち]神」が登場し、この神に「天長地久之御祈祷」が捧げられます。これは、「年神・釜の神」の両神が一体化して御左口神となったとも読める時間展開ですが、寅時(午前三時〜五時)という大晦日深夜あるいは元旦未明に、「火光[ひかり]を葛井へ見すれハ、葛井神主御手幣[みてぐら]・御酒・御穀を池ニ入申[いれもうす]」とあり、御室における神婚式→色事神事→御左口神誕生が、葛井池の秘祭神事と連動していることがわかります。
 この葛井について、武井正弘さんは、「楠井・久頭井とも書く。上社の摂社で池があり、ここで御手幣送り(年内の神事に手向けた幣帛・榊・柳の杖・柏葉を池中に投じる)を行なうと、翌朝には遠州サナキの池に浮かび上るという。神変の奇特を語る通底伝説の一つ」と補注しています。また、この葛井池の伝説と神事について、宮坂光昭さんは、次のように書いています。

■「葛井の清池」伝説と葛井神事
 昔から諏訪の七不思議の一つに「葛井の清池」といわれ、落葉も多いのにいつも澄んでいる。底なし池、片目の魚がすむなどの伝説がある。そして十二月晦日深夜、上社の一年間に用いた幣帛・榊・御穀・酒を納め入れ奉ると、翌朝遠州さなぎ池に浮かぶという伝説がある。〔中略〕
 ほかの古文献から総体的に神事をみると、十一月二十七日の葛井(九頭井・楠井・久須井)神事から始まり、葛井神主は精進に入る。十二月晦日、御室内の年神と釜ノ神の色事神事をすませ、神長は寅の刻まで待つ。時間になると、神長はミシャグジ神に灯火を献じ、天長地久の祈りをなす。終わると神前の灯火を葛井神社の方向に見せる。これにより先に上社の神事に用いた御幣・さかき等を取りまとめ、机飯一膳をそえ、下役の者が葛井に向かう。葛井神主は前宮御室の灯火の合図をみると、葛井池に幣帛・さかきを投げ入れる。幣帛は翌朝、遠州サナギ湖に浮かび、村民はその奇跡に感涙するという。(宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』)

 諏訪上社で用済みとなった「御幣・さかき等」を葛井池に投げ入れる行為は、これらを祓い清め流しさるという大祓の思想を基とした神事と読めます。土地の子どもたちまでが不要物をこの池に放り込むとのことですが、このように際限なく不要物を飲み込む(ことを強いられている)葛井池の池神とはなにかという問いを抱くのは、わたしだけではないでしょう。

■葛井池の通底伝説
 葛井池も諏訪湖も、天竜川水源であり、下流のサナギ池に通じるという伝説は、諏訪の古文献によく書かれている。一方下流の静岡県・愛知県側をみると、遠州から諏訪に通じる説話十四例、浜岡町佐倉桜ヶ池に通じる話七例で、遠州では竜蛇伝承をもち、近隣に諏訪神社がある。これは諏訪湖・葛井池の底が、それらの池沼に通じているという伝説で、諏訪神社の雨乞い・洪水予防の信仰から生まれたものとみられる。〔中略〕
 葛井池は、古くは社殿はなく池(井)そのものの信仰であった。天竜川下流の人々には水源として、「通底伝説・流着伝説」を生んだ神聖な池であった。(宮坂光昭、前掲書)

 葛井池が通底しているとされるサナギ湖(池)は、現在の佐鳴湖らしいのですが、同池がさらに「通底」しているのが桜ヶ池とのことです(宮坂さん談)。としますと、桜ヶ池は、佐鳴湖を経由して諏訪湖・葛井池へと通底していることになり、その葛井池には、大祓の思想に基づく葛井神事があるわけです。桜ヶ池の神は大祓神でもある瀬織津姫ですから、葛井池(葛井神社)にも瀬織津姫祭祀が秘められている可能性があります。
 葛井神社は、明治期の初めは九頭井社と書き、祭神は御井命とされていました(『茅野市史』)。九頭竜神は、伊豆と通底伝説をもつ箱根・芦ノ湖の地主神でもあり、また、信州では戸隠の地主神、そして白山の地主神の異称でもあります。さらにいえば、園城寺=三井寺の御井にすむ琵琶湖の湖水神でもあります。
 長野県神社庁監修の『信州の神事』によりますと、葛井神社の現祭神は、槻井泉神と誉田別尊とされます。明治期の御井命は槻井泉神のこととおもわれます。
 槻井泉神と誉田別尊という祭神構成は一見奇異にみえます。『信州の神事』によりますと、長野県内には槻井泉神社という神社が三社あることがわかります。このうち、塩尻市洗馬に鎮座する槻井泉神社は、その祭神を誉田別命、息長帯比売命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津(毘)売命としています。小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』は、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津(毘)売命という宗像三女神を玉依姫命一柱としていますが、いずれにしましても、これは、宇佐八幡宮の祭神構成と一緒ということになります。宇佐八幡宮の比売大神は宗像神でもあり、この比売大神は水神でもありました。
 葛井神社が槻井泉神と誉田別尊を祭神としていることは、槻井泉神が八幡比売大神=宗像神であることを強く示唆しています。同社の神事には大祓の思想がみられますし、さらに桜ヶ池との通底伝承もあります。これらに八幡大菩薩(=誉田別尊)と深い「契」の関係にある伊豆権現の伝承を重ねますと、槻井泉神が瀬織津姫を隠祭する異称神であることはほぼまちがいないとみられます。
 日本の闇の祭祀が構想した大祓の思想が、子どもたちにまで分別なき行為を是認させているとしますと、わたしには槻井泉神の小さな悲鳴が聞えてくる気がします。大祓の思想を体現することを強いられた葛井神=槻井泉神には、次のような「奇怪な記録」があるとのことです。

■葛井神事にまつわる奇怪な記録
 葛井池へ深夜幣帛等を背負って運ぶ際、奇怪な記録がある。嘉禎四年の守矢文書に「一年間の御幣を入れる。このとき、まいり合う人は死人のまねをして、うつぶせに伏すという」。また神長本には「帰りには刀を抜き口にくわえて帰る。この下役の帰るとき、行き合った人は必ず死す」とある。古老の話にも、幣帛持参の役人に出合うことを避けたという。もしこれを犯すと神罰があるというのである。これは大晦日の深夜、幣帛を取りはずしたので、悪霊の来るという俗信から出たのかも知れない。(宮坂光昭、前掲書)

 ここには、葛井神=槻井泉神という水神が「祟り」をなす神として、神事関係者に恐れられている心意が描かれています。「死人のまね」をするというのは、死者に神は祟ることはないということでしょうし、「帰りには刀を抜き口にくわえて帰る」というのは、口外不可の強い禁忌と祟りへの自己防御を表しています。諏訪の湖水神を、中央の意向に沿って、その名を伏して祓神として利用するといった屈折した罪障感が最初にあって、それが恐怖を呼び込み、「神罰」を下す祟り神というように伝承されてきたと考えられます。これらの恐怖の心意は、葛井神事あるいは葛井神=槻井泉神=御井神=水神、つまり諏訪祭祀の基層神にまつわるもので、大晦日の深夜に、諏訪上社の「幣帛を取りはずしたので、悪霊の来るという俗信から出たのかも知れない」といった「俗信」レベルの問題に還元して考えるべきものではないとおもいます。
 葛井神=槻井泉神が、この諏訪上社の秘祭神事を喜んで受容しているとはとてもおもえず、この大祓思想の負荷を肯定していないことを、おそらく、だれよりもよく知っていたのは、この神事を最初にはじめた諏訪の神官当事者たちであったとおもいます。

105 閑話休題──もう一つの硯石 風琳堂主人 2005/01/02 (日) [18250]

 明けましておめでとうございます。
 大晦日の夜からの雪で、遠野は30cmほどの積雪です。元旦は、伊豆神社から早池峰神社へとまわってきました。
 伊豆神社はここでも東面して建てられていて、第一鳥居や拝殿の額、そして境内の石碑には「伊豆大権現」と記してあります。瀬織津姫は、ここでは、伊豆神社の神というよりも伊豆大権現、権現サンの親称が地についているようです。また、神社近くのバス停は来内権現と、字名の上郷町来内[らいない]という地名と伊豆権現を一緒にした命名で、要するに来内の伊豆権現→来内権現の方が、今でも伊豆神社よりも遠野では通りがよいです。元旦ということで本殿まで開放してあったので「ご神体」を確認したところ、立派な鏡が最奥部の御簾の後ろにありました。瀬織津姫祭祀の「ご神体」の多くは、鏡か石です。
 早池峰神社は、伊豆権現から車で約四十分ほどのところにあります。早池峰神社の境内西には駒形神社があり、同社地が早池峰神社の古跡という話を古老から聞いたことがあります。善光寺阿弥陀如来および水内神社の「奥ノ院」(奥社)も駒形神社でしたから、この古老の話は符合するなとあらためておもったりしています。
 瀬織津姫を隠祭・秘祭する各地の神社祭祀とつきあっていますと、このように素直に瀬織津姫をまつる神社と出会うとやはりどこかほっとします。
 諏訪上社(本宮)の神体石である「硯石」とまったく一緒の伝承をもつ霊石を境内にもつ神社が、遠野郷の西隣りの東和町にあります。大澤瀧神社といい、主祭神はいうまでもなく、瀬織津姫です。
 神社境内の案内には、「滝のそばの大石にくぼみがあり、その中の水が干上がることはない。この水で目を洗うと眼病に良いとも言う」とあります。これは、大澤瀧神社の七不思議の一つとされるそうです。大澤瀧神社のこの霊石は、「上部表面が凹形をしていて、いつも水をたたえているので硯石と呼ばれ、諏訪明神が降臨される霊石」(『茅野市史』)とされる諏訪上社(本宮)の神体石=硯石と、その形態においても、霊水を絶やさないことにおいても、同じ伝承をもっていることは興味深いです。大澤瀧神社の由緒を読んでみます。

■大澤瀧神社由来
一、祭神 瀬織津姫命、迦具土命
二、祭典 元旦祭 一月一日  春祭(火防祭) 三月九日  例大祭 九月九日
三、由来
 康平五年(一〇六二年)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が、厨川柵を攻め滅ぼし、俘囚の長兼六郡の郡司安部(安倍とも…引用者、以下同)頼時の長男安部貞任を戦死させた。源氏の基盤を固めた前九年の役である。
 安部貞任が、一族の本拠地奥六郡から北の厨川へ、山峡を忍んで駒を進めたであろう、栄華の後の寂しい最後の逃避行となった。
 安部貞任の娘「真砂姫」が父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。
 後に源頼義の子八幡太郎義家が「真砂姫」を哀れみ、現在の古滝大明神の地に社を建立して「瀬織津姫命」を勧請、姫の霊を弔ったと伝えられており、地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。
 現在の社殿は文政年間(一八一八〜一八二九年)の建立で二度目の改築と伝えられ、「迦具土命」との合祀となっている。特に縁結びの神様として地域社会の心の結び合いの所縁として親しまれており、毎年九月九日賑やかに例大祭を行っている。
 なお、当地「砂子」の地名は「真砂姫」に由来するとの説がある。
附記
 この地は遠く縄文時代の三〇〇〇年前から、清水を求めて人が住み着き、東和町では数少ない弥生時代(天ヶ沢や八日市場)の遺跡も残されており、水と共に暮らす人々の跡を止めているところです。神の依代であった大桧木とともに、水に浮かぶ真砂姫の心を思い浮かべながらお参りください。(平成十五年三月九日記載の日付をもつ境内案内板より)

安倍氏の時代、大澤瀧神社の地は修験の院坊が立ち並ぶ一大道場でしたから、源義家と瀬織津姫祭祀を、安倍氏の悲話とストレートに関係づけて語ってよいものかどうかという一抹の疑念がないではありません。その祭祀経緯はともかく、瀬織津姫が霊水を司る神だということでいえば、どんな霖雨旱魃にも溢れることも涸れることもないとされる早池峰山頂の「不思議之池水」(早池峯神社由緒)を挙げることもできます(早池峰山七不思議の一つ)。
 中央の祭祀意向(の力)が遠地のためゆるやかだったことが大きな理由でしょうが、瀬織津姫の名を色濃く残しているのが東北のなかでも岩手県です。特に岩手の地は、アテルイvs坂上田村麻呂、安倍貞任vs源義家、そして奥州藤原氏vs源頼朝に加えて源義経と、前者=敗者に加担する伝承・伝説・説話が豊富なところです。神々の歴史において、瀬織津姫はまさに敗者の神でもありました。しかし、この神が歴史上消え去ったわけではないことは、アテルイや貞任、奥州藤原氏や義経の「魂」(メッセージ)が消滅したわけではないのと一緒のこととおもいます。
 瀬織津姫の内部に流れる歴史時間を考えますと、その受容性の強度・忍耐度は、そのまま日本の民衆のそれではないかとおもいたくなってきます。敗者(の意・心)に対して鈍感な勝者にばかりなりたがる政治バカや国民性にはクソ食らえです。NHKの今年の大河ドラマは「源義経」だそうで、ドラマがどこまで、この歴史上の大いなる敗者を、民衆の心意とともに描くか楽しみに観てみるつもりです。
 今年も波乱や亀裂が水面下で進行する年になりそうです。キレずに、根気よくまいりましょう。

107 天白神と伊勢系神楽 風琳堂主人 2005/01/13 (木) [18550]

 世も洗ふには何れの神こそ笹で清むとてやな──これは、静岡県水窪[みさくぼ]町の日月神社の霜月神楽における「湯の舞」のうたぐらの一節です。この「世」を洗い清める神として、いったいどんな神が待望されているのか、興味深い歌詞です。
 天竜川流域の奥三河の花祭、南信濃や遠江の霜月祭(冬祭)にみられる神楽のルーツは伊勢神楽ですが、特に花祭には湯釜を中心とした鬼(山見鬼と榊鬼)の舞があり、全国の「鬼」ファンを魅了する独特の闇の祝祭空間を構成しています。ここでの「鬼」は、招かれた神々が「鬼」の面をかぶって舞う姿といってよく、彼らには悪鬼・邪鬼のイメージはまったくありません。
 部外者が眼にするこれらの舞の展開の前には、いわゆる舞台裏の神事があり、ここにこそ花祭・霜月祭の第一の核があるようです。

■天井裏の秘儀
 三信遠地域には、司霊者が祭の諸儀礼に先立ち、守護霊をわが身に勧請しみずからのパワーアップをはかる儀礼がみられる。
 例えば、西浦(水窪町西浦)の田楽では、祭当日、観音堂前での祭儀に先立ち、別当が別当家の天井裏で天狗・天白などを祀り強い通力を得る儀礼がある。祭儀を前に、別当が天狗・天白などのまがまがしい霊格をわが身に勧請するものであり、一切他見を許さない秘儀である。
 これと同様に、花祭でも「天の祭」と呼ばれる、花太夫が天井裏で天狗霊を勧請して通力を得る秘儀が行われていた。〔中略〕
 祭祀者は、こうした守護霊(天狗・天白のほか、きるめの王子、大日大聖不動明王を主尊とする五大尊…引用者)を勧請して、その加護のもとで、さまざまな神霊を祭の庭に招き祭儀を行い、あるいは悪霊を攘却するのである。(井上隆弘『霜月神楽の祝祭学』岩田書院)

 祭を司る者(祭祀者)は、舞台裏(天井裏)で、「天狗・天白などのまがまがしい霊格」を勧請し、それでパワーアップをはかって、「さまざまな神霊を祭の庭に招き祭儀を行い、あるいは悪霊を攘却する」とされます。ここに出てくる「天狗・天白」についてですが、著者の井上さんは、天白神は「天狗ともいわれ、恐ろしい霊威をふるう神と考えられた。これは別格としておこう」とも書いていて、天白神=天狗とはなにかを追究することをしていません。
 民俗学の最新の視点においても、天白神は「別格」とされるも解き明かされることがないようです。また、なるほど民俗学的視点だなとおもえるのは、天白神そのものではなく、この神(たち)を守護霊とする「祭祀者」に重点がおかれて語られていることです。しかし、祭りの主体は、その祭祀者(人間)ではなく「神」とみる神話学の視点もあります。そこでは、これら三信遠の神楽についてどう語られているのか──。戦後の神話学をリードしてきた松前健さんの「伊勢系神楽」についての一考を読んでみます。

■最後の天伯神
 中世の里神楽でも、後世になるとほとんど年中行事化した形で残っているが、伊勢系の神楽である花祭や雪祭、遠山祭などのほかに、獅子神楽、山伏神楽、出雲神楽など、みな古くは病気治療や、家運隆盛を祈る呪術的な目的・機能を持っていた。現在でも、時折、個人が特別な願かけで、これを臨時に依頼するという例がある。
 これらの様式は色々であるが、しかし一定の方式があり、その祭りの次第も決まっていた。
 普通、最初は面をかぶらぬ直面[ひためん]の舞で、神人、太夫、禰宜などと呼ばれる人物が、幣、鈴、剣、笹、扇などの採り物を持って釜のまわりを舞い、湯立を行い、神々の名を呼ぶと、獅子、鬼神、爺婆、火の王、水の王などという、数多くの面形[めんがた]のものの登場と舞があるのが、伊勢系神楽の特色である。湯立と神名の呼び立てによって、多くの神々や精霊たちが登場する形が、面形の舞であろう。
 鬼たちが荒れまわるが、この終りに、湯立の神である火の王と水の王が出現し、これらを鎮め、最後に弓矢を持った天伯神が出て、あらゆる邪霊たちを制圧するのである。
 実際に、こうして登場する面形の神には、信州下伊那郡の遠山祭などで、八社の神といい、殺された一族の怨霊を表わすとされ祭られている場合もある。駿河榛原郡の田代神楽などでも、同様である。こうした怨霊の神の祭りを鎮め、疫病や、凶作を防ごうとして、個人が願かけして、行うことがある。こうした死霊の神を追い祓う役が、最後の天伯神である。(松前健『古代王権の神話学』雄山閣)

 伊勢系神楽への総体的視点から、「火の王と水の王」および「最後の天伯神」が抽出・明示されています。『古代王権の神話学』は松前さん(2002年逝去)の遺稿集ですが、神宮祭祀に対しても、リベラルな視点から論及してきた著者で、『古代伝承と宮廷祭祀』などからは多くのヒントをもらった記憶があります。天伯神=天白神は記紀神話には登場しない神で、著者の神話学的視点からは同神についての論及はなく、おそらく、重要な民間信仰神であるとはみても、神宮祭祀と深く関係する神といった発想は最後までなかったようです。
 ともかく、伊勢系神楽における天白神の重要性について、民俗学と神話学双方からの最新の明示が、ここにあります。
 また、天白神と天狗が同神であるという井上隆弘さんの指摘と、天白神の前に重要な鬼鎮めの役として登場する、火の王・水の王という「湯立の神」という松前健さんの指摘を重ねますと、ここに、神楽前段のいわゆる「天狗祭」という秘儀も抽出されてきます。
 井上さんは、次のような報告を記しています。

■天狗祭という床下祭儀
 愛知県富山村大谷の御神楽(霜月祭)で、祭に先立って行われる天狗祭は、まず最初に神社の内陣の床下の火の王・水の王などの面形の祀ってあったところで行われる。実は坂部(天竜町坂部…引用者)でも、霜月祭の面形を祀る火の王社では、かつては火の王・水の王、翁の三面は社殿中央の小祠に祀り、それ以外の、たいきり面・鬼神面などの面形は、その床下に安置していたという(山崎一司「霜月神楽に残る猿楽芸の一例」『民俗芸能研究』第八号、一九八八年、二六頁参照)。坂部の火の王社における天狗祭で床下に御供が献じられるのは、この面形の神にたいするものではないか。この床下祭儀という祭祀形態、および村人の奉納した新穀がこの床下祭儀に献供される点は注目される。(井上隆弘、前掲書)

 愛知県富山村大谷の天狗祭が行われる神社は熊野神社のことですが、その「内陣の床下」の火の王・水の王という神(面形)をまつることを「天狗祭」というようです。また坂部の火の王社には水の王もまつられ、その床下に鬼神たちがやはり「面形」という神体の姿でまつられていたとのことです。
 天白神と天狗は同神であり、天狗祭の対象神は火の王・水の王としますと、天白神は、火の王・水の王を内在させた総称神あるいは止揚神ということになります。
 愛知県豊根村古真立の花祭(新豊根ダムの建設により、現在は豊橋市御幸神社に転出)では、火の王・水の王はそれぞれ湯の父・湯の母と呼ばれ、まさに「湯立の神」であることをよく表しています。
 伊豆山における最秘の古文書が語っていた、伊豆(女体)権現の神託(言葉)を再読してみます。

■水火和合の神
 みつはもと月の精なり、火はもと日の精なり、わか身をは、月神にて水に[を]つかさとれり、されとも天照大神のたましゐを加へさせたまひて、水を湯とあたゝめ給へり〔中略〕今水火和合のふたつのなかより、われはあらはれいてたり

 火の王は「日の精」あるいは天照大神、水の王は「月の精」あるいは月神と置き換えて読むことができます。むろん、ここでいう「天照大神」は女神・アマテラスではなく男系の太陽神で、月神(わか身)は伊豆(女体)権現とみられます。弁証法(西洋哲学)の「止揚」という概念(相対立する概念を総合し、より高位の世界を得ること)は、ここでは「和合」という言葉で表されているようです。伊勢神楽の「八幡天白之段」で歌われる「てんぱくのうた」には、月の輪に舞う天白神(天白御前)が歌われていましたが、三信遠の神楽のルーツとしての伊勢神楽、あるいは三信遠の神楽の「湯立の神」として、水火和合神=伊豆権現を、伊勢系神楽の中心神である天白神として「読む」ことも可能です。
 松前健さんが伊勢系神楽の一例として挙げていた「雪祭」は、長野県下伊那郡阿南町新野の雪祭のことですが、同祭の主舞台は伊豆神社(江戸期までは伊豆権現)で、副舞台は諏訪神社です。しかし、新野の雪祭を見守る神は伊豆神社の神である天孫=瓊瓊杵尊ではなく、同社背後の山の中腹にまつられる「伽藍様」という神で、この伽藍様が伊豆神社の元神であろうことは無理な想像ではないでしょう。伊豆神社の現在の社殿は伽藍、つまり空洞で、そこにはほんとうの神はいませんというのが「伽藍様」という謎の神のネーミングの真意かとおもいます。
 伊勢系神楽の前段で行われる「天井裏の秘儀」で、特に花祭の「天の祭」についての興味深い事例報告を、HP「闇の日本史」に読むことができます。この愛知県北設楽郡東栄町足込地区の熊野神社の花祭における「天の祭」は、湯釜の真上の二階で行われます。この「天の祭」には、七十五の神々と十六の「脇祭り」の神々(主要ではない神々)のために膳が用意されます。これらの神々は祭の本番に「神道」を通って一階の「神座」(裏に「神部屋」があり、そこに鬼の面が並べられている)に降りていくとされます。
 ところで、祭の舞いに先立つこの「天の祭」にはさらに前段の神事があり、事実上、この神事をもって花祭ははじまります。この神事は、「瀧祓い」あるいは「瀧祭り」とも「お水取り」とも呼ばれるもので、湯釜の神水を神社近くの滝からいただいてくる儀です。この神水は「御瀧水」というのが正式名称で、「花祭りの最中に釜には、この水が半分入れられ、後は神部屋に置く重要な行事である」とされます(HP「闇の日本史」)。湯釜の湯となる前の「水」=御瀧水は、熊野(那智)の滝神が司るものでしょう。湯釜に入れられた残りの半分は神部屋に置かれるとのことですので、これは招かれた神々に供される御饌水とみられます。神々にとって、最高の食事は「聖なる水」ですから、このもてなしはいかにも理にかなっています。
 祭の「湯ばやし」では、神々に湯が供されたあと、笹につけた湯釜の湯が観衆にふりかけられます。湯と変じた御瀧水をかぶった者は、その年、無病息災とされます。榊鬼も、病魔を祓う神が演じるものですが、この御瀧水は神々への最高のもてなしであると同時に病魔を祓う神水でもあります。この御瀧水の神はストレートに語られることはありませんが、邪霊・悪霊の一切を祓う天白神へと一体同神化されているとみられます。
 諏訪上社(前宮)の御室神事(秘祭)において、稲霊の来訪の前に(冬・春の「御祭」で)、悪霊・厄霊を祓うこと、および延命長寿と繁栄の加護を願われていたのは、諏訪社の現祭神(建御名方神・八坂刀売神)ではなく天白神でした。この天白神への願いは、天竜川流域の伊勢系神楽においても同様です。天竜川を自在に行き交う天白神の姿が目に浮かぶようです。天竜川を中心とした諏訪信仰圏に、天白神を至高神・中心神とした伊勢系神楽が散在・分布していることは大きな特徴です。
 病魔を祓う、また、次年の凶作や不幸をもたらす邪霊の一切を祓う(ことを願う)というのが、神楽の真目的かとおもいます。ここには、天孫あるいは国家の安泰のために人々の罪穢れを祓うといった大祓=中臣(の国家)思想はなく、しかし中臣の創作によって大祓神とされた神、あるいは伊勢祭祀の秘神が、天白神を仮称して祭りの中心にいることはまちがいありません。このことを踏まえた上で、花祭の魅力を一言でいえば、それは、「鬼」を演じる神々の演出とともに、大祓=中臣思想から庶民の生活思想へと、換骨奪胎に近い「祓」の位相転換(シフト)がしたたかに演じられていることにあるといえましょうか。
 神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ──これは、岩手県住田町・天の岩戸滝(滝観洞)で詠まれた柳原白蓮の歌、つまり「神代」から隠しおかれてきた「滝つ瀬」=滝神現出の待望歌ですが、舞処の中心に据えられる湯釜の「水」=御瀧水を司る神もまた花祭の語られぬ秘神=滝神です。冒頭に引用した「世も洗ふには何れの神こそ笹で清むとてやな」の「世」を洗い清める神として、天白神を仮称する伊勢および伊勢系神楽の秘神・滝神はあるともいえます。神々のもてなしと祓の両義性をもったこの御瀧水なくしては、そもそも「祭」が成立しないことを見落とすわけにはいかないでしょう。

108 甲斐は桂川(相模川、馬入川)源流の滝姫 バッキー荒 2005/01/15 (土) [18620]

 明けまして、おめでとうございます。初めてお便り差し上げます。
 昨秋の話なのですが、父親を病院まで送り、診療が終わるまでの間その場を離れ、以前から気になっていた病院近くの弁天様に行ってきました。私は東京在住なのですが、オヤジは元絵描きで東京から勝手に逃げ出し、冨士山、いや、このサイトでは不二山と言うべきか、の麓の忍野村に住んでいて、富士吉田の病院に通っているのです。標高が高く、冨士北麓の湧水を合した桂川の水温は弥生の稲作には適さず、周辺には縄文の痕跡はそこそこ見られるのですが、弥生以降、律令制が布かれるに至っても人煙の残り香を捜すのには苦労させられる土地柄です。また、自明の理ですが浅間神社が圧倒的シェアを誇っているエリアでもあります。在所の名は新倉と言います。桂川も宮川と、下流から眺めれば最後の名に模様替えします。文字通り最源流と言えます。厳密に言えば本流筋は冨士を目指さず、富士吉田からみれば東南の忍野村にその水源を求めるのですが、(多分こんにちで言う”忍野八海”を中心とする湧水郡)やはり霊峰冨士より直下する水流はそれはそれで別物だったのではないのかと想像します。ちなみに富士吉田まではソメイヨシノがなんとか生育可能で、忍野村では小ぶりな花を咲かす冨士桜社に代わります。社は後世の建立ですが、水際であるのが気になっていて、また、滝、と言っても落差はさしてないのですが(2ないし3m程)水量はかなりのパワーで、があるのも気がかりでした。
 予想に違わず宗像三神が祭られていました。背後に瀬織津姫が存在するのはご主人の洞察どおり間違いありません。弁財天との習合もお決まりのパターンです。
 桂川での最大瀑布は都留市域にある”田原の滝”なのですが、ねこやなぎの芽吹きの頃ゆっくり見て回りたいと考えております。たばるの滝を境にウグイは下流にしか生息しておりません。上流は山女魚と岩魚だけとなります。滝は一つの結界と言うべきでしょう。往古の人達は、音や龍にみたてたその容姿にとどまらず、魚止めに象徴される漁労の視点を持ち合わせていたのではないのでしょうか?安曇族の頂く宗像三神は漁労の神でもあった、私はそう思いたい。御言わずとはひょっとして、マツタケの出る場所は子供にさえ明かさない、タブーと言うより、最高の漁場は他言無用として己の利を守る、そう言う実利的側面も考えられるのではと生々しく考えてしまいました。
 ピンクの蜥蜴さんや、クミコさん、他多くの方のメッセージを望んでいるのは私だけでしょうか?あかねさん、さくらさん、皆の話聞きたいなあ。私のような隠れウォッチャーは日本中に沢山いるはずです。皆してこの国のインチキの始まりをあぶり出し、すこしでもマシな方に進めるように努力しましょう。初春に生意気なこと書いてしまいました。お許しください。では。

110 富士山の伏流水 風琳堂主人 2005/01/18 (火) [18720]

 バッキー荒さん、はじめまして。
「滝は一つの結界」「宗像三神は漁労の神」というのはそのとおりだとおもいます。前者については、祖霊の山としての早池峰山への入口にあたるのが遠野の又一ノ滝ということが浮かびますし、後者については、わたしがたまに息抜きで魚釣りに行く釜石北の隠れ里のような漁港の守護神として宗像神(市杵島姫)があることも浮かびます。
 相模川は源流に遡ると桂川と名を変えるということで、なぜ「桂」川なのかなとおもいますね。桂川という川名で著名なのは、やはり京都の桂川かとおもいますが、同川は古代にはただ「大井」と歌に詠まれていて、いつから桂川になったのかはわかりません。
 桜は水神が宿る木というのはこれまでにもよくふれてきましたが、宮崎県の椎葉村では、水神が宿る木は「桂」とされ、そういえば、空海が桂の杖を植えたら水が湧き出したといった伝承も各地にあり(伊豆・修善寺、新潟県三川村)、桂と水もどうも縁深い関係にあるようです。瀬織津姫と桂もまた無縁ではない話もあります。大迫の早池峰神社の境内でのことですが、そこに生えていた桂の葉(葉は「お香」の素材)をとろうとした小坊主が難儀しているのを瀬織津姫(早池峰神)がみかねて、葉をとりやすいように枝垂桂にした、あるいは、枝垂桂の苗を与えて帰らせたなどという伝説もあります。
 相模川─桂川の源流山を川筋だけでたどりますと、たしかに忍野八海の湧水群を経て杓子山あたりへとたどれるようですが、この忍野八海の「湧水」の地下水脈は、あるいはやはり富士山につづいているのかもしれません。
 富士山の伏流水が湧き出す姿がよくみえるのが白糸滝(富士宮市)ですが、同滝神をまつるのが熊野神社で、ここの主祭神が瀬織津姫です。河口湖の中島には弁天堂がありますが、三嶋大社の西の楽寿園の池の中島には同じロケーションで広瀬神社が(本社から遷されて)まつられています。この広瀬神もかつては瀬織津姫でしたが、楽寿園の池水は富士山の湧水とのことで、富士山の地下水脈はどこへ通じているものか想像を超えます。

 文面を察するに、荒さんは、囲炉裏夜話からお読みいただいているようで、末筆になりましたがお礼申し上げます。お名前を出された人たちは、たぶん、自分のテーマ・関心に沿って、いろいろと調べたり、考えたりしていることとおもいます。わたしも、そのうち、秘蔵の話が読めるだろうと楽しみにしています。
 忍野村の桂川・宮川の命名を調べるだけでも、おそらく忍野村の歴史の一端はみえてくるはずで(この村名も調べるとおもしろそうです)、わたしたちは、今、自分がいるところから歴史(の闇)を明かすことができるといえます。わたしは、神社・寺というのは、そういった歴史の秘密の部屋を開ける第一の扉かなとおもっています。

111 水神の放逐? バッキー荒 2005/01/19 (水) [18790]

 ご主人の丁寧なご返事を掲載下さいまして、ありがとうございます。御礼申し上げます。
さて、お尋ねの地名考証ですが、忍野という村の名前は村内の忍草(読みはしぼくさ)地区と内野地区の頭の漢字を各々一字提供するという、戦後民主主義の悪しき一面というべきか、そっけない合理主義の産物です。野は米作可能地、原を不適地とする慣わしに従うならば、また品種改良と山中湖からの疎水開通が忍野での米作を可能ならしめている最近の事象も考え合わせて、内野という地名は新しく、忍草という地名に人々の生活の始まりを求めるべきだと考えます。山梨県内で甲府盆地に次ぐ平坦地としての規模を誇っているのですが、標高は千mに近く、米作のみならず農業そのものが困難な土地です。江戸時代盛んになった富士講の人々が富士吉田の御師に導かれ、浅間神社から登頂を目指す際の馬子の集落として発達した、と聞いております。”草”という一字に馬子との脈絡を求めるのは強引に過ぎますが、農耕だけでは生活が困窮する人達が耐え忍んでいたのでは?と私は勝手読みをしています。平坦地である理由は尾瀬ヶ原と同様で、山中湖さながらの湖がかつて存在していたそうで、その水が干上がって出来た平地が今日の忍野村で、湖水の供給源の痕跡が現在の忍野八海だそうです。当然ご指摘のように富士山の伏流水です。足して二で割る式とはいえ、現在では米も作られる忍野、隠者の住まうような命名は、結果としてなかなかのものではないかと、そう思います。
 想像を更に逞しくしましょう。村内には浅間神社が忍草地区に、天狗社が内野地区にそれぞれあるのですが、辺境の最前線なのか、へんてこな社名の天狗社の祭神は武甕槌命とあります。天孫族の征服神が祭られているいわれは、征服するべき相手を想像する以外、常陸や鹿島の人達が移り住んだのではないのか、ということぐらいです。その傍証は求めようもありません。産業らしきものは皆無で、命を繋いでいくのがやっとの場所には権力も食指は伸ばしません。抵抗勢力足るバックボーンが脆弱なのですから。集落らしきものが形成され、語らいが集会に進化し、統合の中心が必要になり、誰彼となく言い出したのではないのでしょうか?
 「オラ達も神様を祭るべえ。」
 「社がいるぞえ。」
博識な長老が村の起こりを喋々と語ります。
 「ここはなあ、その昔湖だったそうな。人はおらんかったぞえ。」
 「水がのうなったから、オラ達のご先祖様が住み着いたのじゃ。」
もうお解りでしょう、水を取り除くことによって存在しうる土地がこの忍野です。水を放逐すると同時に水神もホッポリ出す。水の神を、瀬織津姫という認識が長老にあったかどうか判りませんが、香香背男と同様に悪神と認識する風潮に惑わされていたのでしょうか?長いものには巻かれろ式で食うことを優先せざるをえなかったのか、結果、武甕槌命を頂くことに、まあ、私の妄想ですが。
 桂川の桂は証拠はありませんが、葛城の葛だと思います。もっと言えば”くず”ではないのでしょうか?大月の町外れに奇橋”猿橋”が架かっています。そのすぐ下手で小金沢連峰(大菩薩連峰)より南流してきた県下最大支流(合流地点において)の葛野川を合わせます。かずのがわ、と読みます。当初はかづらの川だと思います。つまり両河川ともかづらの川、山峡狭まり、猿でも蔦などを伝って一跳び、両岸の樹相激しく、蔦がからまりという景観からのものでは?と思われます。ややこしいので葛と桂に分けたのではないのでしょうか。これもあくまで私見です。
 地名がらみで付け加えるのですが、富士吉田市域で縄文時代の遺跡は散見されると前回書きましたが、その最大級の遺跡の所在地は明日見(あすみと読む)といいます。安曇との連想を禁じえません。鴨族や安曇族、他多くのヤマトと一線を画せざるをえなかった人々、彼らが、ライフスタイルの多様性が求められている現在、どれほど多くの考える示唆を与えてくれているのか、また我々が自由に自分の頭で考えることがどれだけできるのか、感謝と同時に身を引き締めていきたいと思っております。
 前回の書き込みで冨士桜に言及する際、単に冨士桜とすべきところを冨士桜社としてしまいました。社の字の消去し忘れです。訂正させて下さい。では、失礼します。

112 浅間大神は水徳の神 風琳堂主人 2005/01/23 (日) [18920]

 山峡狭まり、猿でも蔦などを伝って一跳び、両岸の樹相激しく、蔦がからまり──荒さん、これは葛[かつら/かずら](ノ)川の景観を述べるになかなか格調高い文学的表現です。琵琶湖の安曇[あど]川の上流部も葛[かつら]川ですが、桂は葛の転とする荒説は傾聴に値します。辞書によりますと、葛を「かずら」と読むと「蔓草[つるくさ]の総称」となり、「くず」と読むと単独の「マメ科のつる性多年草」となるらしく、しかし語源的にいえば、その音には国主・国栖の意も込められてくるようです。諏訪の葛井神=槻井泉神も想起されるところですが、総じて、葛という字(パソコンでは略字しか表示できませんけど)は、ずいぶんとヌエ的な字のようです。
 桂については、中国の伝説では月に生えている木という解釈もあるそうで、そういえば、延喜式神名帳の山城国葛野[かどの]郡の桂川(上流は大堰[おおい]川)沿いには、壱岐から遷された月読神社があったことなども思い出しました。ちなみに、福島県いわき市遠野町の「遠野」は、山城国の葛野[かどの]→上遠野の「上」が脱落したものという地名譚があり、岩手の遠野の地名ルーツは、この福島の遠野にあるのかもしれません。両遠野の滝神として瀬織津姫の名が共通して伝えられているというのが、そう考える傍証的根拠です。
 相模川→桂川に瀬織津姫を「読む」ならば、やはり同川河口部にある寒川神社(相模国一ノ宮)の存在は抜かせないかとおもいます。箱根・芦ノ湖の湖水神は九頭竜神(これもクズです)で、芦ノ湖は伊豆山の地底と通じているというのは伊豆山側の史料がいうところですが、芦ノ湖から唯一流出する川は「早川」で、伊勢においては、外城田川の古名は寒川、速川、布留川などといい、この川の水神は瀬織津姫だという報告もあります(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』新人物往来社)。
 忍草[しぼくさ]+内野→忍野村とのことで、この内野地区にある天狗社はたしかに「へんてこな社名」です。しかも、祭神を武甕槌命としているというのはいっそう「へんてこ」です。この祭神が「常陸や鹿島の人達が移り住んだ」ゆえのものとしますと、おそらく社名は鹿島神社とするはずで、天狗社とは命名しなかったことが考えられます。
 天白社は伊勢から遠隔になればなるほど、社名も祭神名も多様・曖昧化します。天竜川流域の伊勢系神楽にみられるように、天白神は天狗神ともされますので、あるいは天狗社はもともと天白社だったのかもしれません。天狗神を記紀に登場する神で祭神表記するならば、おそらく猿田彦、つまり佐太=狭田彦という男系太陽神かつ農作神があてはめられるケースが多いのですが、天狗神を鹿島神(武甕槌命)と表記したとしますと、少し複雑な事情が隠れているようです。天狗社祭神を武甕槌命としたのは、おそらく明治期にそのように表示することを誘導(あるいは強制)された結果というのがもっとも可能性が高いとわたしはおもいます。明治以前の文献がみつけられればはっきりすることですが、「命を繋いでいくのがやっとの場所」にも容赦なく国家(祭祀の)思想を強制したのが明治国家権力でした。
 さて、忍野村の草分け的な忍草地区には浅間神社があるとのことで、この忍野村の一帯は「山中湖さながらの湖がかつて存在していた」というのは興味深い話です。しかも、この幻の湖の湖水の供給源の痕跡が、富士山の湧水群である「忍野八海」とのことで、これも想像をかきたてられる話です。日本国語大辞典は、意外でしたが、相模川→桂川は山中湖を源流湖としていると記していて、としますと、富士五湖すべて、その湖底に「忍野八海」のような湧水群を秘めているのかもしれません。
 かつて湖であった──こういった伝承があるのは忍野村ばかりでなく、現在の遠野盆地もまたそうです。遠野では、湖水の水が干上がって人が住めるようになったことと水神の放逐は無縁のことです。あるいは、安曇野の日光泉小太郎の伝説にしても然りで、巨大な湖の水を流しさって人が住めるようにしたのは諏訪の湖水神=女神(とその子・小太郎)とのことです。
 忍野村から水神は「放逐」されたのかどうかということで、ちょっとおもうところを書いておきます。忍野村の草分けの忍草地区には浅間神社があるそうで、では浅間神=富士山神とはどういう性格の神かということがあります。かつて(奈良時代)、高橋連虫麻呂は、富士山(「不盡の高嶺」)の霊神(「霊[くす]しくもいます神」)は、日本・ヤマトの総鎮守の神(「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」)と歌っていましたが(『万葉集』歌番319)、この虫麻呂の富士山神に対する認識は、現在、ほとんど忘却に近い「過去」のものとなっているようです。
 全国に多くの分社をもつ浅間神社ですが、それらの「総本宮」を自称するのが富士宮市の浅間大社です。同社の境内には神泉=神池として湧玉[わくたま]池があり、富士山の湧水がみられます。この湧水の場所には水屋神社がまつられ、その祭神は御井神と鳴雷神とされますが、浅間大社境内のこの湧玉池の霊水についての案内板の言葉を書き写してみます。

■浅間大社の「御霊水」
 この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んだ天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。

 わたしたちが少なからず混乱するとすれば、この湧玉池の霊水を司る神は「御井神と鳴雷神」と表示されていたにもかかわらず、一方で、この霊水は「水徳の神、浅間大神のお恵み」だとされていることにあるのかもしれません。わたしの理解では、「御井神と鳴雷神」は浅間大神の分神で異神とはみなさないとなります(御井神は諏訪祭祀の葛井神=槻井泉神でもあり、鳴雷神は伊豆山祭祀の雷電神=伊豆[女体]権現と同神とみます)。
 走湯山縁起(第五)「深秘巻」は、伊豆山の地底は諏訪ノ湖水ほかに富士山頂にも通じていると記していましたが、これは、富士山頂部にある神池とも関係することでしょうが、ともかく、富士山神=浅間大神は「水徳の神」というのが浅間大社の認識です。
 富士山の天水・神水ということでいいますと、白糸滝(富士宮市)の背後の崖上にある「帯の真奈井」という神池も浮かびます。この神池は、建久四年(1193)に源頼朝が巻狩を行った際に「水面に顔をうつしてびんのほつれをなでつけた」ため「おびん水(鬢なで水)」ともいわれているようです(案内板)。ここは富士講の霊場の一つですが、同池の「由緒」表示板によりますと、「此の神泉は帯の真奈井と云い千古汚れを知らぬ富士の真清水である。今を去る四百年前、富士講の開祖角行霊人は戦国の世を平安ならしむるべく人穴で千日の行を修したが、その時一里八丁(約五粁)の道を通って日に六度、此の真奈井で禊したと伝えられる」とあります。富士の「人穴」には人穴浅間神社がまつられていますが、この人穴と通底伝承をもっているのが江ノ島(弁才天→宗像神をまつる)です。この「帯の真奈井」の神は、案内板によりますと、「真之御柱竜神」を真ん中に、向かって右に「木之花竜神」、左に「磐長竜神」の三神と表示されています。現代にもつづく富士講の認識は、浅間大神は「真之御柱竜神」が中心の神らしく、このことは、同由緒に記載される「六千歳のいのりを込めてここに立つ真のみ柱世の救ひなり」という神歌に表れています。
 富士山の霊神=浅間大神の神徳は「水徳」に代表され、少なくとも富士講にとっては「世の救ひ」を願う神としてあるようです。
 白山は三方に登山口を擁していましたが、富士山においてもいくつか登山口があり、山の北東方に設けられたのが吉田口で、そこに富士浅間神社があります(富士吉田市)。忍野村の浅間神社は、この富士浅間神社の分社かとおもいますが、浅間大神=富士山神は「水徳の神」としてありますから、その祭祀が本社ですでに変容されているとはいえ、「水神の放逐」はないとみたほうがバランス感覚がいいのではとわたしはおもいます。浅間大社が自社境内に富士の神水を抱えていることの例にならえば、各登山口の要の遥拝社である富士浅間神社にも、富士山の神水が湧き出しているのではないかと想像しています。
 富士山には富士桜という桜があり、その桜の名所(?)が富士浅間神社=吉田口の登拝道沿いにあるようです。富士の霊神=水神が桜神ともなることは、現在の富士山神であるコノハナサクヤヒメが桜神として一般に流布されてきていることからもみることができます。
 諏訪上社の神体山である守屋山の南中腹には「浅間ノ滝」があり、同滝神は木花開耶姫とされます(『藤沢村史』昭和十七年)。木花開耶姫という富士山神が「滝神」として表示される初見ですが、守屋山のもともとの水霊神は、大祓神とされた瀬織津姫とみられますので、この滝神表示もやはり「へんてこ」です。
 天狗社祭神を武甕槌命とするという類の「へんてこ」祭祀の最たるものは、いうまでもなく神宮祭祀です。富士山神=浅間大神は「水徳の神」つまり水神であり、「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」とみなされていました。記紀神話によれば、木花開耶姫(現在の富士山神)と対関係にあるのは天孫=瓊瓊杵尊です。このニニギの「荒神魂[あらみたま]」をまつるのが伊豆山だというのが伊豆国風土記(逸文)の記述です。「荒魂」と異称される神が水神である例を挙げますと、伊豆はむろんのことですが、まず諏訪信仰における湯福神社がタケミナカタの荒魂として下諏訪神(諏訪の湖水神)をまつっていますし、三輪山においては大物主の荒魂として狭井神という水神をまつっています。また、なによりも神宮祭祀における天照大神の荒魂として荒祭神=瀬織津姫という水神・滝神があります。このように列挙しますと、記紀神話に準じてまつる要所要所の神の「荒魂」はすべて水神であるという共通項が抽出されてきます。しかし、これらの多くは記紀以降のことで、例外は伊勢神宮のみです
 日本書紀において、唯一「荒魂」の規定を受けているのが天照大神荒魂(=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)で、しかも、祟り神の筆頭に置かれています。記紀神話の創作当時、並行して、神宮(皇祖神)祭祀の立ち上げをどういうカタチにするか、いいかえれば、神宮地域の地母神=水神をどう処遇するかということが最大の難関(アポリア)としてあったことが想像されます。これが、「荒魂」という表示の原由かとおもいます。まさに「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]」として、水神は封じられたともいえます。
 この古代祭祀と天皇を中心とした国家構想の露骨な「復古」を、富国強兵策(近代化)とともに「国策」としたのが明治国家です。具体的には、皇祖神をまつる神宮を頂きとする神社祭祀の全土的な徹底化を図る(神宮祭祀を脅かす神の洗い出しと消去、あるいは記紀に準じた神々への置き換えと新由緒の創作)、および、天照大神荒魂=瀬織津姫を神宮祭祀とは無縁の神とし、大祓神=祓戸大神として再規定→徹底化していくといった神祇策が断行されます。
 この国の「へんてこ」祭祀の裏事情を明かせば、おそらくこういうことかとおもいます。
 各地の神社祭祀を考える、あるいは祭神考を冷静に進めるには、まず「明治」を疑えというところでしょうか。

113 宇津湖とせの海 バッキー荒 2005/01/24 (月) [18955]

「明治期」がまず怪しいとのご指摘、とりあえず村の古老にたずねてみます。

 それはさておき、この周辺の古代からの人文の蓄積を考える上で、やはり富士山の噴火を外す訳にはいかないので調べてみました。信頼するに足る記録として最古のものは続日本書紀に見える781年の噴火の記録です。7月6日のこととあります。北口浅間神社が現在地にできたのもこの時とする説もあります。以下静岡大学の研究者が確認しているものを列記します。

 1 781年
 2 800−802年 大噴火。 古東海道の足柄経由が一時的に不通になり間道であった
            ろう箱根路が使用される。走湯縁起にも記載あり。
 3 826年もしくは827年
 4 864年     大噴火。 せの海が青木が原溶岩流により分断され西湖と精進湖と
            本栖湖になる。言い伝えとして三つの湖ができたということだが、
            もとから三つあったという話もあり、また御船湖なる湖に溶岩流が
            流れ込んだ、あるいは埋めたという記録もあり仔細は不明。しかし
            山中湖を除く、他の今日の富士五湖は、この時現在の形になったと
            いえそうだ。山梨浅間神社(あさまじんじゃ)が現在地に移動。
            もしそうだとすると吉田の北口浅間神社も古くはあさまとよんで
            いたのか?
 5 870年
 6 937年     忍野と山中湖がかつて一つの湖で宇津湖とよばれていて、この時の
            溶岩流で分断され、やがて忍野湖が干上がったということらしい。
            陸地化した時期は不明。あくまで噴火の時期。
 7 952年
 8 993年
 9 999年
 10 1017年
 11 1033年
 12 1083年
 13 1435年もしくは1436年
 14 1511年
 15 1707年   大噴火。 宝永の大噴火として有名。横浜で5cmの降灰。
            関東一円農業被害甚大。噴火の一ヵ月半前の10月4日遠州灘と紀 
伊半島で巨大地震が同時に発生。噴火の要因とみられている。
 16 1854年から1855年

 以上になるのですが富士山三大噴火には大噴火と書き添えました。三大噴火には及ばないものの中規模噴火を拾いますと、番号順に1、6、9、11、12、13、14、となり、更に規模の小さいものが同様に、3、5、7、8、10、16、だそうです。
 この年譜に周辺の浅間神社の創建を重ねてみますと、本宮浅間神社(静岡県富士宮市)は噴火
とは一見関係無さそうです。807年創建をどう見るかですが、800年から802年にかけての大噴火から5年後なのですが、溶岩流は常に以降も北流していて、そのことによる被害はあったでしょうが北斜面に限られていたはずです。足柄越えも降灰が主たる理由で使用不可になったようで、翌年には修復されています。偏西風を考慮に入れれば妥当な被害報告で、富士宮市周辺でもそれなりの被害はあったでしょうが、動機付けとしては微妙ではないのでしょうか? べつの祭祀理由も考える必要がありそうです。
 それに対し北側の浅間神社は、今回は勝山村にある御室浅間神社、富士吉田市内の二つの浅間神社、火祭りと登拝口で有名な北口浅間神社と下吉田にあって宮下古文書のある小室浅間神社、それと甲斐の国一ノ宮、甲府盆地の八代郡の浅間神社に限りますが、多少複雑です。伝承になりますが、御室浅間神社は創建699年と伝えられていて(藤原義忠による)、本宮より古くまた奥の宮を有しています。小室浅間神社は本宮と同じ807年で”後乗り”の感が否めません。北口浅間神社は781年の噴火の時に造られたとする説があると噴火年譜で触れましたが、これまた本宮以前にさかのぼってしまい手に負えません。唯一八代郡の浅間神社のみが、864年の大噴火で甲府盆地に移されたらしいことは信頼に足るようです。とすると北口浅間神社はそれ以前からあったのでしょう。またこの噴火で溶岩流が吉田方面にも流れ降っているので疎開したのかもしれません。一般的、何を根拠に一般的というのか判らないのですが、翌865年創建といわれています。いずれにしても、北麓の浅間神社は本宮よりも噴火、溶岩流の影響が濃厚であることは確かであると思えます。
 また、”あさま”の読みは伊勢の朝熊からの転という話をどこかで聞いた覚えがあります。思い出せないのが残念ですが、典拠がはっきりしましたら掲載したく思います。国府の近くに持ってくるために”こじつけ”をやらかしたのか? それとも神様の系譜として脈絡があるのか、まさかさすがの冨士の地下水脈もそこまではと思われるのですが、いにしえ人をあなどるとエライ目に合わされます。慎重に進みましょう。
 もう一つ、おまけがあります。常陸の国風土記に富士山の記載があるそうです。孫引きですがあらすじを記します。常陸の国の祖神様がお子神様を各地に訪ねた際、冨士の神も訪ねて一宿一飯を乞うたのですが、あっけなく断られてしまったそうで、そのしかえしに常時雪を降らせるようにしたとか。しかたなく夜っぴでかけて筑波の神のところまで行ったところ、暖かく迎えられ、だから筑波のお山は多くの人が集まると、まあざっとこんな話なのですが、武甕命が富士山の麓で難儀したとも読めておもわず笑ってしまいました。明治期にこのことを知っていた小役人がいたのかもしれません。では。

114 眠たかったので、勘弁してください。 バッキー荒 2005/01/26 (水) [19050]

また、チョンボをやらかしてしまいました。以下2点修正致します。
 その1 走湯山縁起とすべきところ、走湯縁起としてしまいました。訂正致します。
 その2 武甕槌命を、槌の字を抜かして表記してしまいました。
 失礼しました。

115 浅間大神は諏訪神か 風琳堂主人 2005/01/27 (木) [19100]

 荒さん、おばんです。
 富士山の噴火年表の紹介をありがとうございました。
 864年=貞観六年の富士山大噴火で、「せの海が青木が原溶岩流により分断され西湖と精進湖と本栖湖になる」という「せの海」というのは、万葉集の高橋連虫麻呂の不盡山讃歌に出てくる「石花海[せのうみ]」のことですね。

■高橋連虫麻呂の不盡讃歌
 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上らず もゆる火を 雪もち消ち ふる雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊[くす]しくも います神かも 石花[せ]の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも(『万葉集』巻第三 319)

 万葉集を読んだだけですと、この「石花海[せのうみ]」がどこのことをいうのかさっぱり見当もつきませんでしたが、年表のおかげで、富士山や富士五湖のイメージがぐっと身近になってきました。
 富士山の噴火記録の最初が781年=天応元年というのは桓武が天皇に即位した年で、その前年には伊治公呰麻呂[あざまろ]が按察使紀広純を殺害し、陸奥国が騒然とするという事件が起こります。この事件は、桓武─坂上田村麻呂によるその後の陸奥国侵攻の伏線となる事件です。この朝廷軍の猛攻は、延暦二十一年(802)の胆沢城の構築をもって一応の区切りとなるのですが、しかし、この802年にも800年から継続しているのか富士山大噴火が記録されています。
 朝廷にとって外患外憂があることと富士山噴火が奇妙にリンクしているのは、たとえば870年の噴火の年には「新羅船の侵入等のため、八幡大菩薩宮に奉幣」(三代実録)といった記録がありますし、937年の噴火時は、935年からはじまる平将門の乱の真っ最中というように、奇妙な符合があるようです。
 桓武が天皇に即位して、それを祝うように富士山が噴火したということはだれも考えなかったはずで、これら富士山の噴火は神の怒りを表したものでした。これは推測の話ではなく、たとえば999年の噴火時に「富士山の噴火により、何の祟りかを占う」(本朝世紀)といった記録があることからも明らかかとおもいます。
 富士山神の怒りを鎮めるには丁重にまつるしかなく、それが浅間神社のいくつかの創建と関わっていることが考えられます。
 浅間をセンゲンと読む前はアサマと呼称していました。伊勢の朝熊[あさま]山というのは、内宮の奥ノ院・金剛証寺と浅熊神社が同居していたところで、金剛証寺の本尊秘仏は福威智満虚空蔵菩薩とされます。芭蕉門下・松倉嵐蘭の「富士賦」は、富士山は「遠くは朝熊[あさま]山をかぎり、近くは原よし原のあたりなるべし。諏訪の湖には倒の影を浸し、甲州の府には三つの岸に見えて、扇の絵こゝなるべし」と記しています(深田久弥編『富士山』所収 昭和十七年)。富士山は伊勢の朝熊[あさま]山から視認できるということなのかもしれません。
 富士山の神がなぜ浅間大神といわれるのか、これをうまく解いた人はまだいません。
 浅間ということでまず想起されるのは、信濃の浅間山との関係です。『富士山』収録の藤沢衛彦「富士の伝説」は、「抑も此富士の権現は、信濃国浅間大神と一体両座の垂迹にておはしますとかや、両山共に浅間大菩薩と申す故也」という「詞林釆葉集」なる書物の一節を紹介しています。では、信濃の浅間山にはどういった伝承があるのかといいますと、「信濃国上諏訪を勧請したる旧地あり、諏訪の社を建浅間大明神と崇奉る」という文言がみられ(萩原進「火山としての浅間山の宗教性」串田孫一他編『浅間山』所収)、富士山ではなく諏訪(上社)との関連が伝えられています。浅間大明神は諏訪神であるというこの言葉は「浅間嶽虚空蔵菩薩略縁起」によるものですが、伊勢の朝熊山の本地仏もまた虚空蔵菩薩で、浅間大明神は諏訪と伊勢につながってくるようです。ここに富士山側の伝承を重ねますと、富士山→浅間山→諏訪→伊勢(朝熊山)という連環祭祀の可能性がみえてきます。
 富士吉田の富士浅間神社の近くには諏訪ノ森があることが地図に記されていますが、「富士の伝説」は、次のような一項を立てています。

■諏訪大明神即ち建南方刀美命の伝説
 今、富士嶽神社の本社の左手に小社を存し、諏訪大明神と崇敬せるは、即ち建南方刀美命を祀れるもので、祭祀について一つの伝説がある。
 昔、命、追はれさせたまうて、此地に入らせられた時、土民に議つて、無数の炬火を燃さしめられた。追手は之を見て、援兵多く列ると思うて去つたので、命は無事なるを得た。それが七月二十一日の夜であつたといふので、今もなほ旧暦の其夜に至れば、吉田の各戸、軒毎に槙を高く富士形に積んで、頂上から火を附けるといふが、炬火といひ、円錐形に曲線を描いた如き火山の富士山が、なほ活動を歇めざる姿を、歇めたる後に儀式として其模形を神事に祝うたことであつたかもわからぬ。

 建南方刀美命をいわゆるタケミナカタ(伊勢においては伊勢津彦)とみるか、あるいは小口伊乙さんのように諏訪の女神=宗像神とみるかで、この伝承の印象はずいぶんと変わってきます。諏訪において、地主神・洩矢神との争いの勝者はタケミナカタで、この神の祭祀は健在ですから、謎の「追手」をさらなる中央の祭祀権力とみるなら、わたしは後者のほうに加担してみたくなってきます。

118 寒川神社について 米子の金太郎 2005/02/13 (日) [19760]

ご無沙汰しています。去年寒川神社と富士浅間神社に行きました。9月の事です。夢で見たので、何処にあるのかも知らなかったのですが、何とか行ってきました。富士浅間神社も寒川神社も「水」に関係する神様かなと思いました。寒川神社の由緒を見たのですが、なんだか神名も良くわからないような感じで、去年からずっと気になっていました。富士浅間神社は、期待とは裏腹にひどく御神霊の気がないところに感じ、富士の御冷泉の水も、おいしくもなく私の感じ方が可笑しいのかもしれませんが、およそ霊験新たかな神社とは思えませんでした。寒川神社に参拝した折は、一点にわかに曇り、たたきつけるような雨が一瞬降り、その後一瞬にして晴れ渡ったりしたので、これはダダごとでない神様が居られるのだろうかと驚きました。いつもの事ですが、訳も解らず動かせていただいているので、少し不安になります。昨年と一昨年は、アボリジニの聖地に行かせていただきました。アボリジニの神話の中に「ドリームタイム」がありますが、彼らの崇める「虹蛇」という神様の概念が瀬織津姫様のイメージと重なりました。ある部族のシャーマンと逢ったのですが、日本との関わりを強く感じているそうです。私の考察は、まったく現実的でなく申し訳ないのですが、瀬織津姫様的な作用が強まってきているように感じました。久しぶりに書き込みさせて頂いた内容が、いつもながら根拠のないもので申し訳ありません。12月に小豆島にも行きましたが、まだ検証が出来ていません。又何か教えていただけたらと思います。富士の白糸の滝に行ったとき、珍しく写真を撮ったのですが、無数の珠が写っていました。不思議な事です、もののけ姫の映画に出てきた「こだま」みたいに感じました。あの滝も瀬織津姫様に関係あったのでしょうか?とにかく相変わらず訳の解らないまま動いております。

119 出雲一宮 安来久米 2005/02/14 (月) [19800]

 島根出雲の一宮は出雲大社と思っておられる方が多いのですが、実は出雲でも東部になる八雲町にある熊野大社が一宮です。出雲大社は別格なのです。
 この熊野大社の祭神はスサノオ、イザナミ等がありますが、隣接する安来市には伊邪那美の御神陵があります。古事記に「出雲と伯耆の境、比婆山に葬った。」とありますがその地に相当します。安産、祈願成就などで江戸期にはかなりの信仰を集めていたとのことですが、今は眺望の良い山頂にひっそりとたたずんで日本海を見つめております。

120 寒川神と富士文書 風琳堂主人 2005/02/20 (日) [19975]

 金太郎さん、お久しぶりです。
 寒川神については、囲炉裏夜話707「水主神とはなにか」でふれた以上のことはなにも調べたことがなくわかりません。ただ、遠藤秀男さんの『富士山の謎』を読んでいましたら、古絵図を基にした地図なのか(宮下文書に収録のものか)、そこに、現在の相模川の源流部は桂川ですが、その地図には「寒川」と書かれています。寒川は、宇津湖(承平七年[937]の富士山噴火で南北に分断され、その南に残った湖が現在の山中湖)から流れだしているように描かれています。寒川(→相模川)の河口部にあるのが、宮下文書=富士文書ともゆかり深い寒川神社で、同社は、やはり寒川の川神をまつるものとみてよさそうです。
 富士文書の作者は、徐福の末裔とされます。富士文書は、この徐福渡来の一節を、「富士山の北麓にやってきた徐福とその一行は、阿祖山大神宮に詣で、大室というところに住居を定めて、一族繁栄することになった」と記しているそうで、としますと、徐福が列島にやってきた紀元前三百年ころ、富士山北麓には、すでに「阿祖山大神宮」が存在していたということになります。その真偽はおくとしても、この阿祖山大神宮が寒川神社の起源とされます。では、富士山北麓から相模川河口の相模国高座郡へ阿祖山大神宮(→寒川神社)がなぜ遷っていったかといえば、それは、延暦十九年二月五日の富士山噴火の大量の溶岩によって一帯が埋まってしまったために移動を余儀なくされたからだとのことです(以上、遠藤秀男『富士山の謎』を要約)。
 これだけを読めばふうーんという話ですが、「延暦十九年二月五日」の富士山噴火の記述については、古地震、津波の研究者であるつじよしのぶさんから、次のような問題点があることが指摘されています。

■宮下文書=富士文書が抱えている問題点の一例
 溶岩が富士吉田から猿橋まで達したという記載である。放射性炭素による年代測定から、ここの溶岩流出は「新富士火山」の活動の初期にあたる、いまから一万年前から八〇〇〇年前のあいだのできごとであることが判明している。「宮下文書」のいうように、いまから約一二〇〇年前にすぎない延暦の噴火によるものではない。(つじよしのぶ『富士山の噴火』築地書館)

 放射性炭素による年代測定という現代の科学武器によって、宮下文書の記述の一節が「創作」であることが明かされています。この創作性、あるいはデタラメ性を抱えるものの、寒川神=阿祖大神が富士山神でもあるとしますと、この祭神伝承は、おそらく「正しい」ものとみる可能性は、宮下文書から抽出できるのかもしれません。
 白糸の滝の北、百メートルくらいの北ですが、そこに、朽ちかけた熊野神社が芝川沿いにあります。これが、白糸の滝神をまつる社で、そこに瀬織津姫がまつられています。今、富士山神とはなにかをあらためて考えているのですが、富士山神と柿本人麻呂はとても強い関係で結ばれていることがみえてきて、人麻呂と富士山のこの話は近いうちにここに載せるつもりです。

 安来久米さんの投稿については、なにか唐突な感もあってなんとコメントしてよいやらというところです。出雲の熊野大社の話については、囲炉裏夜話458「厳神之宮と出雲大社」をお読みいただければありがたいです。

123 富士山神と柿本人麻呂(1) 風琳堂主人 2005/02/26 (土) [20200]

 この上にいかなる姫のおはすらん おだまき流す白糸の滝──これは富士の巻狩の際の源頼朝の歌とされます(遠藤秀男『富士山の謎』大陸書房)。白糸の滝は富士山の伏流水が簾[すだれ]のように落下する景観ですが、この滝の「上」にはいかなる姫(神)がいらっしゃるのだろうかという頼朝の歌は、鎌倉時代の初期、富士山神がどんな神であるのかすでにはっきり認知されていなかったことを告げているようです。
 富士山神として木花開耶姫[このはなさくやひめ]の名が公的に語られるのはいつからかといいますと、そう古いことではありません。浅間大社の神官にわたしがたずねたときの返事は江戸期くらいからでしょうとのことでしたが、このことは、「この神(木花開耶姫)を浅間社の祭神と記した文献の初見が『集雲和尚遺稿』の慶長十九年(一六一四)の記事」という岩科小一郎さんの証言とも符合しています(別冊太陽『富士』)。岩科さんは、江戸期から遡っても「室町時代のことであろう」と推測しています。
 万葉集の時代、富士山神は「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」でした(巻三 319)。しかし、これほど重要な神が鎌倉期には不明、室町期〜江戸期においてようやく木花開耶姫とされる経緯の不思議さに、わたしたちはもっと注意をはらってよいのかもしれません。
 鎌倉期の前、つまり平安期においてはどうかといいますと、ここに伊豆山(日金山)の末代上人の存在が浮かんできます。この末代については、「駿河国に一上人あり、富士上人と号し、その名末代という。富士山登攀すでに数百度に及ぶ。山頂仏閣を構え、これを大日寺と号す」と『本朝世紀』久安五年(1149)四月十六日条に記される人物です(岩科小一郎「江戸庶民の富士信仰」、別冊太陽『富士』所収)。遠藤秀男『富士山の謎』は、「この山(富士山)を霊山として内外に認めさせたものは、噴火でもなく、浅間神社でもなく、一人の偉大な宗教家、末代上人そのひとであった」と書いています。久安五年(1149)という平安末期において、富士山の本地を大日如来と定めたのは、伊豆の末代上人のようです。
 この末代の事跡については、『本朝世紀』や『地藏菩薩霊験記』に書かれているとのことですが、遠藤秀男さんは、『地藏菩薩霊験記』にみられる末代の逸話として、信者から、富士山の祭神は、男神であるか女神であるか、富士山と琵琶湖の関係伝承でいえば、山は陽(男)、湖は陰(女)で、そのあたりの解釈がはっきりしない、ほんとうのところはどうなのかという問いを受けて窮します。末代は、神の啓示をうけるため、「御岳の半に座して、樹下石上にして、百日断食して、正しく神体を拝み奉るとぞ祈りぬ」と書かれ、この断食行の満願の朝に、ついに神=富士山神の言葉を聞いたとされます。曰く、「汝に私の姿を見せようと思うが、その前に、汝の場所から東南に百八歩あるいて地を掘って見よ」と──、末代はいわれるままに「地を掘って」みると、そこには「一尺八寸ほどの水晶」があったとのことです。この水晶は、形は富士山に似て燦然と輝いていて、これをみつめているとき、末代は「神仏に男女の差なし。人間をこえて尊し」と悟ったとされます。
 遠藤さんは、この末代の逸話に対して、「富士山中から水晶が発見されるわけがないから、この所伝は信じがたいものがあり、御神体の有無に窮した末代の演技だったと考えられるふしもある」と、ある種、常識的なコメント(評)を添えています。地質学的にみて、富士山から水晶が採れるのかどうかは知りませんけど、富士山神の「御神体」が水晶であるというこの神託伝承で興味深いことがあるとすれば、水晶=水精を神体としていたもう一つの伝承として、「熊野権現の事」があることです。

■熊野権現の事
 熊野権現についてお話しよう。役の行者・婆羅門僧正、この二人はいずれも熊野権現の本地を信仰された。まず熊野権現の縁起によると、この神は昔甲[きのえ]寅の年、唐の霊山(天台山か)から王子の旧跡を慕って、日本の西国豊前[ぶぜん]の国彦根の大嶽(英彦山)に天下られた。その形は八角形の水精[すいしょう]の石で、高さは三尺六寸であった。その後あちこちに居所を求めて長い年月を送った末、はっきりと熊野権現として出現された。(貴志正造訳『神道集』)

 文中の「熊野権現の縁起」は「長寛勘文」(長寛二年)に引用されている「熊野権現御垂迹縁起」のことですが、熊野神は「八角形の水精の石で、高さは三尺六寸」を神体石としているとのことです。熊野神は英彦山に降り立つも「その後あちこちに居所を求めて長い年月を送った」とあり、その「居所」の一つとして富士山もあったかと想像するのは楽しいです。頼朝によって歌われた「白糸の滝」の滝神もまた熊野神であり、この末代の逸話は、富士山神と熊野神の類縁をかすかに暗示している神託伝承といってよいかもしれません。
 ともかく、平安時代末期(末代の時代)においても、富士山神がはっきりしないことを証言していたのが末代伝承です。
 時代をもう少し遡ってみます。平安時代中期(927年)に成書化される延喜式神名帳によれば、「駿河国富士郡浅間神社(明神大)」とあります。しかし、この社の地にはかつて冨士神社がまつられ、それを追放するかたちで現在の浅間大社ができます。元地を譲るかたちとなった冨士神社は現存していて(現鎮座地:富士宮市朝日町)、その祭神は大山祇命とされます。大山祇命が当初からの祭神であったかどうかはともかく、富士山神をまつる元神の社として、この冨士神社はあるようです。
 平安時代初期、漢詩人であり、国史『文徳実録』の編集者の一人でもある都良香[みやこのよしか](834─879)によって、「富士山記」が書かれます。同文書は、富士山頂の状況を記した日本最古の文献といわれます。これはとても貴重な史料といってよく、以下に全文(訓読文)を記します。

■都良香「富士山記」
 富士山は駿河の国に在り、峯削り成せるが如し、直く聳えて天に届けり、其の高さ測る可からず。歴く史籍の記する所を覧るに未だ此の山より高き者は有らざるなり。其の聳えたる峯鬱[サカリ]に起りて、見るに天際に在つて、海中を臨み瞰る、其の霊基の盤り連る所を観るに、数千里の間に亙れり。行旅の人、数日を経歴して乃ち其の下を過ぐ、之を去つて顧み望めば、猶山の下に在り、蓋し神仙の遊萃する所なり。承和年中に山峯より落ち来れる珠玉あり、玉に小なる孔あり、蓋し是れ仙簾の貫珠なり。又貞観十七年十一月五日に、吏民旧きに仍つて祭りを致す、日午に加つて天甚美く晴る。仰いて山峯を観るに、白衣の美女二人有つて、山の巓の上に双ひ舞ふ、巓を去れること一尺余、土人共に見る。古老伝へて云く、山を富士と名くることは、郡の名に取れるなり。山に神有り、浅間の大神と名く。此の山の高きこと雲表を極めて幾丈と云ふことを知らず、頂の上に平地有り、広さ一許里、其の頂の中央窪み下りて、体炊甑の如し。甑の底に神池有り、池の中に大いなる石有り、石の体驚奇にして、宛も蹲まる虎の如し。亦其甑の中に気有て蒸し出す、其の色純青なり、其の甑の底を窺へば、湯の沸騰するが如し。其の遠きに在つて望む者、常に煙火を見る。亦其の頂の上に匝れる池ありて竹を生ぜり。青紺柔軟にして宿雪春夏消えず、山の腰より以下小松生ひたり、腹より以上は復生ひたる木無く、白沙山を成せり。其の攀じ登る者、腹の下に止つて、上に達することを得ず、白沙流れ下るを以てなり。相伝ふ昔役[エン]の居士と云ふもの有りて、其の頂き[ママ]に登ることを得たり、後攀じ登る者、皆額を腹の下に点[ツ]く。大いなる泉有つて腹の下より出づ、遂に大河を成せり、其の流れ寒暑水旱にも、盈縮有ること無し。山の東の脚の下に小山有り、土俗之を新[ニヰ]山と謂ふ、本は平地なり。延暦廿一年三月、雲霧晦冥にして、十日にして後に山を成せり、蓋し神の造れる也。(深田久弥編『富士山』昭和十七年、旧字は一部新字に改めた)

「承和年中に山峯より落ち来れる珠玉あり、玉に小なる孔あり、蓋し是れ仙簾の貫珠なり」といった富士山の不思議を含め、平安期(九世紀)において、富士山頂部がこれだけ活写されているのは驚きといえます。
「山に神有り、浅間の大神と名く」、山頂部には「甑[こしき]」のようなすり鉢状の窪地があり、そこには「神池」があって、純青の蒸気(煙火)を噴き出している、あるいは、山頂部を巡るようにして「池」があり、そこには「竹」が生えているとのことで、ここに、貞観十七年十一月五日の祭祀時に現れた、山頂に舞う「白衣の美女二人」といった目撃談を重ねますと、月神・かぐや姫の存在へと類想も広がります。また、「大いなる泉有つて腹の下より出づ、遂に大河を成せり、其の流れ寒暑水旱にも、盈縮有ること無し」といった描写を読みますと、山頂部の神池のことといい、後世の末代の神託伝承のこともありますが、「水」の思想に強く彩られた富士山神がイメージされてきます。
 富士山記には、文武三年(699)に伊豆大島に流された役小角の富士山登攀伝承も収録されていて、この小角伝承に象徴されますが、都良香の前に、富士山頂の神池を垣間見た者がいたようです。しかし、都良香は富士山には浅間大神と名づけられた「神有り」と記すも、それ以上語ることをしておらず、九世紀の平安時代に遡っても富士山神は謎のベールに包まれたままです。
 おもえば、末代ゆかりの伊豆山においても、風土記の時代に、すでに「瓊瓊杵尊荒神魂」を伊豆山(日金嶽)にまつると記されていたわけで、富士山神もかなり古い時期に祭神の曖昧化を余儀なくされていた可能性があります。
 万葉集において、たとえば「吾妹子にあふよしをなみ駿河なるふじの高嶺のもえつゝあらむ」(よみ人しらず)といった恋歌とは異質な位相で富士山を歌っていたのが山部赤人でした。

■山部赤人の不盡讃歌
  山部宿禰赤人、不盡山を望める歌一首並に短歌
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布土[ふじ]の高嶺を 天の原 ふり放[さ]け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡の高嶺は
  反歌
田児の浦ゆうち出[い]でて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪はふりける(『万葉集』巻三、317、318)

 万葉集の編者は、この赤人の歌のあとに、あの「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」というフレーズをもつ富士山讃歌をつづけています。
 万葉集には収録されませんでしたが、富士山を歌っていた歌人がもう一人いました。それは、持統との齟齬のあと、藤原不比等と元明によって「死」をもたらされたとみられる柿本人麻呂です。人麻呂の貴重な富士山歌を紹介します(つじよしのぶ『富士山の噴火』築地書館)。

■柿本人麻呂の富士山歌T
ふじのねのたえぬ思ひをするからに 常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる(『柿本集』)
ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ(『拾遺和歌集』)

 人麻呂がいつ富士山を実見したのかということについては、石見国風土記(逸文)の次の記述が参考になるかとおもいます。

■柿本人麻呂の「左遷」
 石見風土記に曰はく、天武の三年八月、人丸、石見の守に任ぜられ、同九月三日、左京の大夫[かみ]正四位上行に任ぜられ、次の年三月九日、正三位兼播磨の守に任ぜられき。爾来[それより]、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙の御宇に至るまで、七代の朝[みかど]に仕へ奉りし者か。こゝに持統の御宇に、四国の地に配流せられ、文武の御宇に、東海の畔[さかひ]に左遷せられき。子息の躬都良[みつら]は隠岐の嶋に流されて、配所に死去[し]にき。(武田祐吉編『風土記』岩波文庫)

 人麻呂は、文武の死の翌年の和銅元年(708)四月二十日、不比等と元明によって「死」が与えられた可能性が高く(梅原猛『水底の歌』)、としますと、風土記の天武〜孝謙という「七代の朝[みかど]に仕へ奉りし者か」というのはあくまで推測の域を出ないものと考えられます(天武〜孝謙の「七代の朝」を西暦に換算すると673〜758年の85年間となり、時間的にみても無理があります)。
 風土記はその配流の理由を述べていませんが、人麻呂の子息・躬都良[みつら]は、大津皇子の「謀反」に連座して隠岐島へ流され二年後に亡くなったというのが隠岐島側の伝承です(野津龍『隠岐島の伝説』鳥取大学教育学部)。
 風土記は人麻呂について、持統の時代に「四国に配流せられ」たあと、「文武の御宇に、東海の畔[さかひ]に左遷せられき」と述べています。配流→左遷という二度の受難に人麻呂の悲劇は暗示されているというべきですが、人麻呂にとって、「宮廷歌人」の座はもうないとしても、朝廷は、彼から歌人[うたびと]の心までは剥奪できなかったものとおもいます。
 人麻呂が「左遷」(配流とほとんど同義)された「東海の畔[さかひ]」を具体的にどこと特定できませんけど、人麻呂歌に「大船の香取の海に錨[いかり]おろしいかなる人か物おもはざらむ」(万葉集巻十一 2436)と、自身を「いかなる人か物おもはざらむ」と客体視した歌があり、下総・常陸国あたりが「東海の畔[さかひ]」になるのかもしれません。また、この「香取の海」への航行の前とみられる歌に、「足柄の御坂につかん玉くしげ 箱根の山のあけんあしたに」があり(川崎敏『富士箱根』木耳社)、こういった東下りのときの歌からその旅程を想像しますと、人麻呂の眼は富士山を確実にとらえていたものとおもわれます。なお、「玉くしげ」は箱あるいは箱根にかかる枕詞で、「あけ」は箱根の縁語とされます。
「ふじのねのたえぬ思ひをするからに常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる」には、人麻呂自身の無念と富士山(ふじのね)の「たえぬ思ひ」がだぶって歌われているとみられますし、「ちはやふる神もおもひのあればこそとしへてふじの山ももゆらめ」には、富士山神にも「おもひ」がある、それゆえに年を経ようが「ふじの山ももゆらめ」と、富士山神の燃え立つ姿に、これも自身の「おもひ」を重ねるように、歌の想像力を働かせています。
 ちなみに「ちはやふる」という枕詞は、まず「宇治」という地名にかかるというのが辞書の解説で、さらに地名でいえば、「伊豆」にもかかるとされます(『日本国語大辞典』小学館)。地名にこだわらなければ「荒ぶる神」にかかる枕詞として、この「ちはやふる」はあります。
「ちはやふる」が「宇治」にかかる枕詞ということでいえば、養老六年(722)、天皇(あるいは藤原房前)批判をしたとのことで斬刑に処されるところを首皇子(聖武)の助言によって死を免れた穂積朝臣老が佐渡へ配流されるときの万葉歌、つまり「穂積朝臣老の佐渡に配[なが]さえし時作れる歌」の詞書をもつ「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬を見つつ渡りて云々」も想起されるところです(巻十三 3240)。あるいは、作者不詳とされるも、「ちはやぶる宇治の渡[わたり]の瀧つ屋の云々」(巻十三 3236)の歌を挙げることもできますし、類歌としては、人麻呂自身の歌で「ちはや人宇治の渡[わたり]のはやき瀬にあはずありとも後はわが妻」(巻十一 2428)もあります。では、この「宇治の渡」の「たぎつ瀬」「瀧つ屋」「はやき瀬」の神はなにかといいますと、山城国風土記(逸文)が「宇治の瀧津屋は祓戸[はらひど]なり」と伝えているように、祓戸神、つまり、宇治川上流の桜谷で大祓神とされた桜谷明神=瀬織津姫[せおりつひめ]という滝神の存在がみえてきます。あるいは、伊勢の五十鈴川の異名もまた宇治川で、宇治川=五十鈴川の「荒ぶる神」(=荒魂神)とは伊勢神宮の元社・荒祭宮の神のことで、この神も祓戸神とされ、しかも「八十禍津[やそまがつ]日神」「天照大神荒魂」などと貶称された瀬織津姫という神です。さらにいえば、「ちはやふる」がかかる「伊豆」の秘神にしても、遠野郷の伊豆神社は、これも伊豆大権現=瀬織津姫と伝えています。
「ちはやふる」という枕詞をもつ歌は万葉集に多くあるわけではありません。この枕詞が宇治などの地名ではなく「荒ぶる神」にかかる例とみられる歌に、「ちはやぶる金[かね]の岬を過ぎぬとも吾[われ]は忘れじ志珂[しか]の皇神[すめがみ]」(巻七 1230)があります。この歌は作歌者の名が記されていませんけど、わたしは穂積朝臣老の歌とみています。老は、先に引用した「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬を見つつ渡りて云々」という配流時の長歌に対する反歌に「天地[あめつち]を嘆き乞ひ[ふ]のみ幸[さき]くあらばまた還[かへ]り見む志賀の辛崎[からさき]」(3241)を残しています。運がよければ配流先(佐渡)から還ってきてまた「志賀の辛崎」を見るだろうという歌意です(老は十八年間という長い配流の時間を経て、天平十二年に無事に還ってきます)。琵琶湖畔の志賀(志珂)の地の辛崎(金[かね]の岬)は唐崎とも表記されますが、この辛崎=唐崎の神が(荒ぶる)「皇神[すめがみ]」と歌われていることは重視しないわけにいきません。琵琶湖の湖畔には、ここにも、禊祓いの神として辛崎=唐崎の神がまつられています。歌に出てくる志賀(志珂)の辛崎にも唐崎神社がありますが、湖北のマキノ町にある唐崎神社には祓戸神として瀬織津姫がまつられています。あるいは、下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内には同社摂社の御手洗社=井上社がありますが、ここは平安期に七瀬祓の一つとされた社で、同社の古名は唐崎社でした。この唐崎神=御手洗神もまた瀬織津姫です。
 このようにみてきますと、「ちはやふる」という枕詞は、宇治・伊豆や荒ぶる神にかかることはそのとおりでしょうが、しかしさらなる本意としては、瀬織津姫という神にこそかかる枕詞であったようです。古代、その神が畏敬の対象であればあるほど、神名は露わに言葉に載せることはありませんでしたから、万葉集に「瀬織津姫」という神名が一つも出てこないことはむしろ当然であったとおもいます。
「ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ」──この人麻呂歌は、伊勢(神宮祭祀)の絶対秘神でもある神(荒ぶる「皇神[すめがみ]」)が富士山神でもあると述べていることになり、この人麻呂歌一首は、富士山の初源の神とはなにかを考える上で、これ以上の証言歌はないというように存在しています。

125 サイト開設 PONTA 2005/03/03 (木) [20400]

古代史研究サークルPONTAでは、「三遠南信応援団」を開設しました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
『エミシの国の女神』「持統女帝伊勢行幸の謎」(pp.131-14)拝見させていただきました。『万葉集』の柿本人麻呂の歌(42)「潮騒に伊良湖の島へ漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島みを」は持統天皇伊勢行幸の時の歌です。なぜ伊勢に行くのに舟で伊良湖へ行くのでしょうか? 通り道ではないと思いますが。(伊勢神宮に参拝したあと、阿胡行宮に足をのばし、志摩の海で遊んだのを歌ったらしい。)

126 ちはやぶる PONTA 2005/03/05 (土) [20450]

PONTAのサイトの「日本武尊」というページに、草薙剣の話を載せました。
そこに「甚道速振神也」(いとちはやぶる神なり)とういう表現が出てきます。
『古事記』の解説書には、「荒ぶる神」は、強い悪の力を持つので警戒するが、「ちはやぶる神」は強い力を持つが、悪というわけではないので、どんな神かみてやろうと思って軽い気持ちで野に入って行ったので、火をつけられたと書かれていました。
『古事記』が書かれた時代はそういう使い分けをしていたということでしょうね。

127 持統伊勢行幸と柿本人麻呂 風琳堂主人 2005/03/05 (土) [20480]

 此の野の中に大沼有り。是の沼に住める神、甚[いと]道速振[ちはやぶる]神なり──これは、相武[さがむ]国(相模国)の国造がヤマトタケル(小碓命)に告げた言葉とされます(古事記)。タケルは、この言葉を聞いて「野」に入っていって、国造による焼き討ちに遇います。
 古事記の編者(作者)が、「沼に住める神」を「道速振[ちはやぶる]神」と記していたこと──、これもまた貴重な証言とみることができます。柿本人麻呂の「ちはやふる神」の富士山歌からみえてきたのは滝神という性格でしたが、ここでは沼神とされ、いずれにしても水神の諸態の一つということになります。
 古事記が記す相武[さがむ]国(相模国)の「大沼」とはどこのことかと想像を巡らせますと、わたしにまず浮かぶのは、箱根・芦ノ湖です。ここの湖水神(地主神)は九頭竜神あるいは駒形神とみられ、九頭竜神ならば白山の地神、駒形神ならば善光寺の地神=ミノチ神と同一神ということになります。いずれにしても、瀬織津姫という神をさして「ちはやふる神」と呼んでいた可能性はより強くなってきます。
 古事記は、「小碓命は、東西[ひむがしにし]の荒ぶる神、及[また]伏[まつろ]はぬ人等[ひとども]を平[ことむ]けたまひき」と、征討の対象は「伏[まつろ]はぬ人等[ひとども]」ばかりでなく「荒ぶる神」も含まれていると書いています。同じことですが、タケルは「東の方十二道の荒夫琉[あらぶる]神、及[また]摩都樓波奴[まつろはぬ]人等[ひとども]を言向け和平[やは]せ」と景行の勅命を受けたとも書いています。
 タケルにとって、こういった勅命によって東征していることを考えますと、「道速振[ちはやぶる]神」も「荒ぶる神(荒夫琉[あらぶる]神)」も同じことだったはずで、それゆえに「国造」の言に乗せられて「野」に入っていったのでしょう。古事記を読むかぎり、タケルは「ちはやふる神」がいる「大沼」にたどりつく前に野焼きに遇っていますから、どうやら、この神は「平[ことむ]け」されずにすんだことがうかがえます。
 ところで、古事記における、この相武[さがむ]国(相模国)の国造の言葉は日本書紀ではまったく消去されます。消されたのは相模国の沼神「ちはやふる神」の記述だけでなく、舞台も駿河国の焼津へと変わり(焼津の地名譚となる)、国造もただの「賊」とされます。
 ヤマトタケルが相武[さがむ]国(相模国)まで行くということは、その道行きからしますと、人麻呂によって歌われた「ちはやふる神」=富士山神も「平[ことむ]け」の対象神とせざるをえなくなるということになり、もしこの征討が「勅命」どおりに実施された(書かれた)としますと、タケルは、おそらく伊吹山まで命がもたなかっただろうと想像されます。古事記の文脈からいえば、ヤマトタケルが富士山の「ちはやふる神」を「平[ことむ]け」しなかったことは、これは「勅命」に反していたことになり、日本書紀の編者もこういったことに気づいたのかもしれません。
 古事記が書かれた時代というのは七世紀後半の天武・持統の時代で、同書は元明の時代(712)に成書化されます。この時代は、柿本人麻呂が生きた時代でもあります。

 人麻呂が宮廷歌人として、持統女帝との関係にまだ決定的な亀裂を生じる前の時代の作として、持統の伊勢行幸(持統六年[692]三月)を都で遠望するように歌った短歌三首があります(『万葉集』巻一 40〜42)。人麻呂の研究世界では、これを「留京三首」と呼んでいるようです。

■人麻呂の「留京三首」
 伊勢国に幸しし時、京に留まりて柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 嗚呼見[あみ]の浦に船乗[ふなのり]すらむをとめらが玉裳[たまも]の裾に潮満つらむか
 くしろ著[つ]く手節[たふし]の崎に今日[けふ]もかも大宮人の玉藻[たまも]刈るらむ
 潮騒[しおさゐ]に伊良虞[いらご]の島辺[しまべ]こぐ船に妹乗るらむか荒き島廻[しまみ]を

 歌意は、第一歌「嗚呼見の浦で船に乗ろうとしているおとめたちの美しい裳の裾に潮が満ちているだろうか」、第二歌「(釧つく)答志の崎で今日あたり、大宮人が玉藻を刈っているだろう」、第三歌「潮がざわめく伊良虞の島の辺りを漕ぐ船に妹は乗っているだろうか。あの荒い島の辺りを」とされます(寺田英代、『柿本人麻呂《全》』笠間書院)。
 持統女帝の伊勢行幸については、中納言三輪朝臣高市麻呂による身を賭しての中止要請を振り切って実行されたことが、日本書紀にも万葉集にも書かれています。しかし、この持統の行幸の目的がなんであったかはどこにも書かれておらず、十年後の彼女の三河行幸も同じく謎めいていますが、いまだ定説がありません。
 しかし、神話学・歴史学からではなく、人麻呂(万葉集)研究者の間から、次のような鋭い考察がなされています。

■持統の伊勢行幸の目的
 もともと伊勢は、「神風[かむかぜ]の伊勢の国、常世[とこよ]の浪寄する国」といわれる聖地であるが、持統にとっては何よりも天武天皇との繋がりを確認できる場所であった。それは、行幸の翌年、持統七年(八年の誤記…引用者)に持統天皇が天武天皇の法会の夜、夢裏に詠んだ巻2・一六二番歌にうかがうことができよう。歌には伊勢の国におりたつ天武天皇が描かれているが、湯川久光は、この御歌と伊勢行幸との相関関係を示唆し、これが、前年の行幸時に執り行なわれた神宮皇祖神化の成就した証であり「夢の啓示」であるという。つまり、伊勢が「皇祖神の坐す」国として確定したために、皇祖に連なる天武がそこに示現したのである。遷都の成功祈願はもちろんなされたであろうが、一六二番歌の存在からも、神宮の皇祖神化がこの行幸の重要な目的であったと考えてよいであろう。三輪氏たる高市麻呂の事件はこうした持統天皇の行幸目的に反対してのものであった。(寺田英代「留京三首」、『柿本人麻呂《全》』所収)

 湯川久光、寺田英代二氏の視点は『エミシの国の女神』から千時千一夜への視点と、ほぼ過不足なく重なります。「神宮の皇祖神化」が伊勢行幸の「重要な目的」だとしますと、その普遍化(皇祖神の存在と抵触する神々の排除)の試みが、この行幸の十年後にあたる大宝二年(702)の三河行幸ではないかというのが『エミシの国の女神』の仮説です。
 なお、引用文中にある、持統の「巻2・一六二番歌」もここにみておきます。

■持統による天武斎会の歌
 天皇崩[かむあが]りましし後、八年九月九日、奉為[おほみため]に御斎会[おほみをがみ]せし夜、夢[いめ]の裏[うち]に習ひ賜へる御歌一首
 明日香[あすか]の 清御原[きよみはら]の宮に 天[あめ]の下 知らしめしし やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子[みこ] いかさまに おもほしめせか 神風[かむかぜ]の 伊勢の国は 沖つ藻[も]も なみたる波に 潮気[しほけ]のみ かをれる国に うまごり あやにともしき 高照らす 日の皇子

 持統八年(694)九月九日の歌作日付をもつこの歌には、亡き天武が「高照らす 日の皇子」と二度歌い込まれています。「神宮の皇祖神化」は天武の悲願であり、彼は中途で挫折するも、その遺志を継承し実現したのが持統でした。彼女は、この実現の報告を、「夢[いめ]の裏[うち]」で、亡き天武へ「歌」によってしているようです。「神宮の皇祖神化」をわたしは果たした、「高照らす 日の皇子」はこれを「いかさまに おもほしめせか」(どのようにお思いでしょうか)というわけです。この歌の真意を、人麻呂が理解していなかったとは考えにくいです。
 持統の伊勢行幸、これは持統の決行といってもよい果断な行幸でしたが、都で、それを歌に詠んだのが引用の人麻呂歌三首です。特に第三首めの「潮騒[しおさゐ]に伊良虞[いらご]の島辺[しまべ]こぐ船に妹乗るらむか荒き島廻[しまみ]を」(歌意「潮がざわめく伊良虞の島の辺りを漕ぐ船に妹は乗っているだろうか。あの荒い島の辺りを」)には「妹」という女性対象の言葉が出てきますが、これを「妹背」の妹、つまり女性の恋人という意でとらえることはできません。また、「荒き島廻[しまみ]」とはなにかという問いもあります。
 まず、ここに歌われている「妹」ですが、寺田英代さんは「荒ぶる神(海神)に対峙する『妹』」というとらえかたをしていて、「『妹』を乗せた船が荒ぶる海に向かっていく姿は、海神(国つ神)に対する天皇の立場・姿勢そのものを示している」(前掲書)と鋭い指摘をしています。つまり、人麻呂は「伊良虞の島の辺り」をゆく船に乗っている「妹」を、天皇=持統その人と想像して歌ったことになります。
 伊良湖岬から伊勢(鳥羽)にかけては、神島、答志島、菅島、坂手島を中心に小さな島々が点在し、まさに、ここは島=志摩国の名称がふさわしいところです。持統は、これらの「島廻[しまみ]」をしている、しかも、それが「荒き島廻[しまみ]」であると人麻呂は歌っているわけです。第二歌には「手節[たふし]の崎」という地名が出てきます。これは、現在の答志島を指しています。こういった具体的な島名(崎名)を土地勘のない都人が前もって歌えるとはおもえず、これらの歌は、あるいは、持統の行幸帰還後に、その行幸譚を元に歌ったと考えたほうが無理がないのかもしれません。
 持統が「島廻」を行った島々には、では、どんな(島)神がまつられ信奉されていたのかと想像しますと、答志島、菅島の対岸の加布良古[かぶらこ]崎に鎮座する神(宗像神)が象徴していますが、今も志摩の海民の信奉を一身に得ている「かぶらこさん」の親称をもつ志摩大明神、つまり、伊射波神=伊雑神であった可能性が高いだろうとなります。「神宮の皇祖神化」によって、神宮関係社で、もっとも激しい祭祀改竄をこうむったといっても過言ではないのが伊雑宮でしたが、この伊雑神=宗像神が、たとえ本社筋の伊雑宮から消去されたとしても、皇祖神が立ち上げられた時点では、まだ周辺の島々には同神の健在祭祀がなされていたことが考えられます。滝原宮・同並宮、朝熊神社・同御前神社、伊雑宮など、神宮近在の社々が持統の意向にやむなく従ったとしても、周辺の島々ではそんなことには関係なく、神宮の元神まつりが継続されていたとしますと、持統の心中は穏やかではなかったでしょう。持統の伊勢行幸は、「神宮の皇祖神化」の近在周辺(の島々)への徹底化を図ること──、まさに「荒き島廻」をもう一つの「目的」としていたのではないかと、新たな仮説をここに提出しておきます。

(追伸)
「富士山神と柿本人麻呂(2)」を用意中ですが、それとも関わる話ですので、先にこれを載せます。PONTAさん、よいヒントをいただきました。魅力的なサイトに育てていってください。

128 なるほど PONTA 2005/03/07 (月) [20530]

>ここでは沼神とされ、いずれにしても水神の諸態の一つということになります

ですね。
「草薙」「野焼き」と言われると、野原のイメージですが、野原の神ではなく、そこにある沼の神ですよね。

>箱根・芦ノ湖です。

なるほど。
『古事記』では相模、『日本書紀』では駿河となっていて、どちらが正しいかと問題にされます。当時の地図はないのでよく分かりませんが、芦ノ湖だと、相模と言っても、駿河と言っても、伊豆と言ってもいいかもしれませんね。

>持統の伊勢行幸は、「神宮の皇祖神化」の近在周辺(の島々)への徹底化を図ること

神島からは宝物館を作るほど多くの物が出土していますね。皇族が訪れたのかもしれません。麻続王かな?
神島と言えば、奇祭・ゲータ祭。「天に二陽なし」の意味は、「太陽神はアマテラスだけで、アマテルは違う」と持統天皇に言わされてるのか、逆に「太陽神はアマテルだけで、アマテラスは持統天皇と藤原不比等が作った」という意味なのか?
最近「持統天皇と藤原不比等はともに天智天皇の子」という説があることを知って、「ああ、それで気が合うのか」と妙に納得しちゃいました。

>魅力的なサイトに育てていってください。

ありがとうございます。
AYA先輩渾身のページ「村積山」レベルのページが私も書けるようになりたいです。

130 ゲータ祭 PONTA 2005/03/09 (水) [20620]

ゲータ祭の「天に二陽なし」の出典は上宮大娘姫王の「天に2つの日無く、国に2つの王無し」ですかね。

131 三河国の語源 PONTA 2005/03/09 (水) [20620]

『エミシの国の女神』の記載内容について。
p.181〜182に「三河の国号については・・・天竜川・豊川とこの矢作川・・・はまちがいである。・・・「賀茂の御河」・・・まったくそのとおりだとおもう。」とありますね。

私も、天竜川・豊川・矢作川で三河は間違いだと思います。『三河国風土記』(逸文)では矢作川・男川・豊川で三河とありますので、PONTAではこれを正解としています。
最近、「豊川は穂国であるから三河国の川ではない」と主張される方が増え、それに伴って「三河の語源は御河・美河」という主張も増えてきていますね。
ただ、PONTAの調査では、今のところ、穂国が存在したと示す史料は『先代旧事本紀』のみで、他の「穂」が出てくる史料は「三川穂評」「三川之穂」とあり、これは、三河国穂評→穂郡→宝飯郡のことかと思います。また、『先代旧事本紀』を見ると、知波夜命を参河国造に任命したのは成務天皇、菟上足尼を穂国造に任命したのは雄略天皇ですので、成務天皇の時代には三河国があり、知波夜命を国造に任命したが、穂国は無かった。雄略天皇の時に三河国の一部が穂国として独立したので国造を任命したが、大化の改新でまた三河国に吸収されたと考えられます。

いずれにせよ、。『三河国風土記』(逸文)にあるように、三河の語源は矢作川・男川・豊川であり、「三河国」「三川国」「参河国」です。「美河国」「御河国」という表記はまだ見たことがありません。

ちなみに、「三河地名発祥の地」である巴山の石碑でも三河の語源は矢作川・男川・豊川となっています。

132 富士山神と柿本人麻呂(2) 風琳堂主人 2005/03/10 (木) [20630]

 柿本人麻呂は、「ふじのねのたえぬ思ひをするからに 常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる」「ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ」という貴重な富士山歌二首のほかに、実は富士山歌をもう一首歌っていたことが、「諏訪縁起の事」「熊野権現の事」の作者(安居院[あぐい]と仮称される)による「富士浅間大菩薩の事」に書かれています。
 ここで「安居院」について少しふれておきますと、「諏訪縁起の事」等を含む『神道集』のこの作者は、各巻のはじめに安居院と署名していたため、『神道集』の作者の仮称としてみられています。『神道集』(東洋文庫)の解説によりますと、安居院は、「比叡山東塔の竹林院の里坊の名」とのことで、京都市上京区の現在の西法寺がその跡地とされます。安居院は平安末期に天台系から法然の浄土宗系に転向したとされ、このことが、室町期の初期に成る『神道集』が、同じ神仏混淆・本地垂迹譚を語るにしても、国家仏教的な発想とは対極的な内容で書かれている理由かとおもいます。以下、わたしも安居院を仮の作者名として書きますが、「諏訪縁起の事」にみられるように、安居院は、この国の神まつりの真相をかなり理解していた人物です。
 たとえば、安居院は「諏訪縁起の事」において、富士山神=浅間大明神の出現譚を次のように書いていました(貴志正造訳『神道集』)。

■春日姫は諏訪「下の宮」の神、維摩姫は浅間大明神
 夫婦二人(甲賀三郎と春日姫)は車(天の早車)に乗り、兵主大明神の使者とともに信濃の国蓼科の嶽に到着した。梅田、広田、大原、松尾、平野などの大明神たちも集まり、後につき従われた。信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕
 また春日姫は、下の宮として現われた。維摩姫(三郎の異界における妻神)もこの国に渡って来て、神と現われたが、春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょうと宮地をえらんで社を建てた。今の世に浅間大明神というのがこれである。

 大祓祝詞の文言(呪力)をすべて反転させて数々の「徳」を身につけたとされる春日姫(瀬織津姫の比喩)でしたが(千時千一夜78「再録◆諏訪縁起と瀬織津姫」参照)、この神の異界の分身である維摩姫の方は、春日姫と「互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょう」と浅間大明神(=富士山神)となったと書かれています。これは一見荒唐無稽な話にみえますが、日本の神まつりへの鋭い認識が基盤にあってこその寓意的物語と読めます。
 さて、「富士浅間大菩薩の事」における人麻呂の歌です。安居院は、富士山の仙女・赫野[かくや]姫と、彼女と「夫婦約束」をした謎の国司が姫を追って昇天したのち、二人は「神として現われて、富士浅間大菩薩とよばれた。男体・女体がある」と、富士浅間大菩薩には男神と女神の二体が秘められているとしたあと、次のような人麻呂歌を紹介しています。

■柿本人麻呂の富士山歌U
 また富士の根の雪は、六月十五日にだけ消えて、その日の戌[いぬ]の時(午後八時)に必ずまた降るという。だから柿本人麿の歌にも、
  富士の根にふりみつ雪はみな月のもちに消えてはその夜降りけり
とある。

 安居院は、この富士山歌の一行を人麻呂の歌として引用していますが、この人麻呂歌は、実は、これまで高橋虫麻呂の歌であると通説化されてきたものでした。
 これまで、虫麻呂の歌とみてきた富士山讃歌を万葉集の詞書をも含めて再読してみます。

■謎の富士山讃歌(『万葉集』巻三 319〜321)
  不盡山を詠める歌一首並に短歌
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上らず もゆる火を 雪もち消ち ふる雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊[くす]しくも います神かも 石花[せ]の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも
  反歌
不盡の嶺[ね]にふりおける雪は六月[みなつき]の十五日[もち]に消[け]ぬればその夜降りけり
不盡の嶺[ね]を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを
   右の一首は、高橋連虫麻呂の歌の中に出でたり。類を以てここに載す。

 最初の反歌「不盡の嶺[ね]にふりおける雪は六月[みなつき]の十五日[もち]に消[け]ぬればその夜降りけり」は、安居院が人麻呂歌として引用した「富士の根にふりみつ雪はみな月のもちに消えてはその夜降りけり」とくらべたとき、「ふりおける」と「ふりみつ」、「消[け]ぬれば」と「消えては」という二箇所が微妙に異なるものの、これは同一歌とみなせます。
 この反歌が人麻呂の歌としますと、その前の長歌も人麻呂が歌っていることになります。安居院による「富士浅間大菩薩の事」でのさりげない引用はぞっとするほど重要です。
 引用の万葉集歌における末尾の「右の一首」を、長歌を含む「一首」(数でいえば三首)とみる、つまり全体を高橋虫麻呂の歌とみなす解釈が通説化していて(佐々木信綱にはじまる)、わたしもそのように理解してきましたが、安居院はこの通説理解に一石を投じていることになります。そうおもってこの歌を再読しますと、同じく末尾の「類を以てここに載す」という添え書きが、二つの反歌のあとの一首(「不盡の嶺[ね]を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを」)についてのみ言っているものと理解できなくはありません。ただし、そのようにみますと、前の長歌一首と反歌一首の作者名は万葉集に記されていませんから、いきおい、その前の山部赤人の歌かといった説まで出てきそうですが、歌の詩想をみれば明らかで、両歌はまったく異質です。二つの富士山歌(長歌)が異なる作者のものとなりますと、わたしたちが現在手にとることができる万葉集にこだわるかぎり、二つ目の富士山歌は作者不詳とみなしかねないことになります。しかし、南北朝初期、安居院がこれを人麻呂の歌と認識していたことを考えますと、安居院の手元には、万葉集では作者名が脱落するも、当該の歌を含む人麻呂歌集があったものとおもわれます。
 では、この富士山讃歌の長歌と反歌一首を高橋虫麻呂ではなく柿本人麻呂の歌として読みかえしたとき、なにがみえてくるのかということがあります。
 持統─不比等、そして元明─不比等体制において、人麻呂排除の流れはとても厳しいものがあったと想像されます。作歌時期は不明ですが、おそらく晩年に近い時期のものでしょう、人麻呂は、宮廷歌人の面影が微塵もない激情の歌心を一首にしたためていました。

■人麻呂の激情歌(『万葉集』巻十三 3253・3254)
  柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 言挙ぞわがする 言幸[ことさき]く まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙す吾は 言挙す吾は
  反歌
しき島の日本[やまと]の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ

 日本は神代から言葉に出して言い争わない国だ、しかし、言霊が本来のように幸くあるために、「吾」はあえて言葉に出してもの言うぞといった歌意かとおもいます(「言挙[ことあげ]」とは「下位の者から上位に対してかやうにあつて欲しいと希望を申し出す事を云ふ」…武田祐吉『柿本人麻呂』昭和十三年)。古代において、「言挙」は死を覚悟の上での行為だったはずですが、武田祐吉『柿本人麻呂』によりますと、この歌は、「遣唐使として海外に使する人に贈つて、其の功を盛にする歌だと云はれてゐる」とされ、いかにも戦前的解釈がなされていました。武田さん自身は、「これが果して遣唐使の一行を送つた歌とすれば多分大宝二年の遣唐使を送つたのであらう」とも書いていました。これは戦前の解釈ですが、しかし過去のものかといえばそうではなく、たとえば北山茂夫『柿本人麻呂論』(1983年刊)の巻末人麻呂年表にも、「大宝一年」の項に「遣唐使任命、これを機に、人麻呂、餞けの長歌を作る」などと書かれ、戦後においても同日の解釈がなされていて、あるいは、これは今なお通説化・定説化されている解釈なのかもしれません。現在流布している人麻呂論のすべてに眼を通したわけではありませんけど、この歌をどう「解釈」しているかは、その論を読む上で大事なポイントになるだろうとはいえそうです。わたしの歌の理解でいえば、末尾の「言挙す吾は」(原文は「言上為吾」)のリフレインがもっている人麻呂の「おもひ」の激しさは、遣唐使への餞別・激励の歌などとはまったくそぐわないものだとなります。人麻呂が歌どおりに言挙=言上したとしますと、それだけでまさに「ちはや人」(巻十一 2428)で、最悪死罪、軽微にみても官位剥奪か配流刑になったとしても不思議ではありません。
 万葉集の編者は、この人麻呂の「言挙」の宣言歌のすぐ前に、作者不詳とするも、次のような言挙歌も載せています。

■もう一つの言挙歌(巻十三 3250〜3252)
蜻蛉[あきづ]島 日本[やまと](原文は「倭」)の国は 神[かむ]からと 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 吾は言挙す 天地の 神もはなはだ わが思ふ 心知らずや 往く影の 月も経[へ]往けば 玉かきる 日もかさなり 思へかも 胸安からぬ 恋ふれかも 心の痛き 末つひに 君にあはずは 吾が命の 生[い]けらむきはみ 恋ひつつも 吾はわたらむ まそ鏡 正目[ただめ/まさめ]に君を 相見てばこそ わが恋止まめ
  反歌
大舟のおもひたのめる君ゆゑにつくす心は惜しけくもなし
ひさかたの都を置きて草まくら旅ゆく君をいつとか待たむ

 長歌の後半は激情の恋歌を仮装していますが、この歌が通常の恋歌と異なっているのは、最後に「まそ鏡 正目[ただめ/まさめ]に君を 相見てばこそ わが恋止まめ」と歌われていることに表れています。前半の「蜻蛉[あきづ]島 日本[やまと]の国は 神[かむ]からと 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 吾は言挙す 天地の 神もはなはだ わが思ふ 心知らずや」のフレーズを受けてならば、「まそ鏡」(真鏡)には表面上は「言挙す」る「吾」が写っているはずです。しかし、歌は、真鏡に写っているのは謎の「君」であり、それが「わが思ふ心」と二重化され、そのような「君」を相見るならば、この「恋」は止むだろうと歌っています(皇孫への神鏡授与の例にならえば鏡に写るのは「神」)。なお、後半の、この「まそ鏡」のフレーズについては、人麻呂歌「真鏡[まそかがみ]手に取り持ちて朝なさな見れども君は飽くこともなし」(巻十一 2502)を、とても近い縁歌として指摘することができます。万葉集編者が、作歌者不明としつつも、この言挙歌をここに置いたのは、次の人麻呂の「言挙」の宣言歌を、万葉集歌群のなかで一人孤立した歌とはさせないといった編集意図があったということなのでしょう。
 また、人麻呂の言挙歌と、この作歌者不明の言挙歌の間に置かれた短歌(反歌)二首については、前者の歌にある「大舟のおもひたのめる君」からは、これも、人麻呂の「大船の香取の海に錨[いかり]おろしいかなる人か物おもはざらむ」(巻十一 2436)という左遷時の歌が連想されます。後者の「ひさかたの都を置きて草まくら旅ゆく君をいつとか待たむ」については、「都」からわびしくも旅立っていく「君」をいつまでも待っているという意で、では、この謎の「君」とはだれのことかということがあります。人麻呂歌の直前に意味深げに置かれたこれらの長歌と短歌が、人麻呂の言挙歌との連動を意識した配列となっていることはまちがいなく、としますと、「草まくら旅ゆく君」は、あるいは「東海の畔[さかひ]に左遷せられ」るときの「君」、つまり人麻呂とも読めるような編集(歌の配列)となっています。
 こういった万葉集編者の編集意識(おもひ)がここには秘められているとしますと、その後の富士山を歌った人麻呂短歌二首、および、安居院が指摘するところの富士山歌が一段と重い光を発してくることになります。
 人麻呂の「言挙」の宣言歌が含む激情をそのまま投影したものとして、「ふじのねのたえぬ思ひをするからに常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる」と「ちはやふる神もおもひのあればこそとしへてふじの山ももゆらめ」の二首があります。この二首がもっている(ちはやふる)「おもひ」の強さに比較しますと、安居院が指摘した富士山歌(の長歌と反歌)の方は、どちらかといえば静かな抑制された感情によって歌われているようです。この違いはどこからくるかと考えますと、おそらく、短歌二首は配流(左遷)先でか、想念のなかで富士山(神)と対面しつつ自身の「おもひ」を重ねて詠んだものであり、長歌と反歌の方は、配流(左遷)先から都へ連れ戻されるときか、富士山を振り返るようにして歌い遺したもの(「駿河なる不盡の高嶺は見れど飽かぬかも」)というのが大きな理由ではないかとおもわれます。短歌二首が「燃える富士」のイメージをもっていたのにくらべ、長歌と短歌は、その「火」を消す「雪の富士」のイメージに転換しています。人麻呂にとって、都へふたたび向かうということ──、それは「死」への召還を意味していました。
 人麻呂の子息・躬都良[みつら]は、持統(あるいは不比等)による大津皇子の謀殺によって、その事件に近い大津側の関係者として、すでに隠岐島で殺されたも同然の死を迎えていたわけで、この躬都良の「死」は人麻呂自身のそれでもあったとおもわれます。人麻呂は、「ちはやぶる神の持たせる命をも[ば]誰[た]がためにかは[かも]長くほ[欲]りせむ」(巻十一 2416)と、「ちはやぶる神」からもらった「命」だが、長らえさせたいとおもう誰もいないといった意に読める反語的な歌を残しています。
 その生涯において、二度の追放刑と、ついには「死」に処せらるという運命の極みにある人麻呂にとって、同じく「流刑」「死刑」にも等しい処遇を受けつつある宇治(伊勢)と伊豆の神に自身の「おもひ」が重なったとしても不思議ではありません。人麻呂には、「言霊のさきはふ国」の象徴神として、富士山の神は「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」である、富士山はこの国の「宝」ともなる山だと歌い残す動機(反藤原思想)はじゅうぶんにあったものとおもいます。「国のみ中ゆ出で立てる不盡の高嶺は天雲もい行きはばかり飛ぶ鳥もとびも上らず」といったフレーズについても、国の真ん中に立っている富士山をたんに高い山だと歌いほめているのではなく、「天雲」(天朝の思想)も「行きはばか」る(そんな富士の高嶺だ)、「飛ぶ鳥」(飛鳥[あすか]=都の鳥たち)もここ富士の頂きまでは飛んではこれない(飛んではこれまい)といった解釈が可能なように歌われています。
 ここに出てくる「天雲」については、人麻呂はかつて、「大君は神にしませば天雲[あまぐも]の雷[いかづち]の上にいおほらせるかも」と歌っていました(巻三 235)。歌意は「わが大君は神でいらっしゃるので、天雲にいる雷神の、その又上に、庵をしていらっしゃる」です(西原能夫、橋本達雄編『柿本人麻呂《全》』笠間書院)。この歌は「天皇、雷丘に御遊[いでま]しし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首」と題詞があり、ここでいう大君=天皇は持統女帝をさしています。大君=持統は「天雲にいる雷神の、その又上に」いるという天皇讃歌をかつて歌っていた人麻呂でしたが、晩年の人麻呂は、「天雲」の上に「大君」ではなく「不盡の高嶺」をみる(歌う)というように変貌していることは注意しておいてよいでしょう。
 また、「飛ぶ鳥」についても、人麻呂の明日香皇女への挽歌(巻二 196)に「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上[かみ]つ瀬に」といったフレーズがあるように、これは明日香=飛鳥にかかります。あるいは、草壁(日並皇子)挽歌(巻二 167)では、「高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄[きよみ]の宮に 神[かむ]ながら 太しきまして 天皇[すめろき]の 敷きます国と」とあるように、「飛ぶ鳥」は、天皇が「神」として統治する国の中心、飛鳥浄御原宮(浄[きよみ]の宮)に象徴される王都にかかる言葉です(佐々木信綱編『万葉集』[岩波文庫]は「飛ぶ鳥の」の意を汲みすぎて、これをいきなり「飛鳥[あすか]の」と訓じていますが、これは五音「飛ぶ鳥の」を、四音「飛鳥[あすか]の」へと変更解釈したもので明らかに誤訓)。
「天雲」も行くことをはばかる「不盡の高嶺」、また、明日香=飛鳥の都を象徴する「飛ぶ鳥」も「不盡の高嶺」までは「とびも上らず」と歌われているのが、人麻呂の富士山歌です。つまるところ、藤原の王権思想がついに及ばない「不盡の高嶺」には、「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」がいる、「日の本のやまとの国」の新たな神祇思想も「行きはばか」る霊神(霊[くす]しくもいます神…原文は「霊母座神」)がいるというわけです。万葉集の編者が採用した高橋虫麻呂の反歌「不盡の嶺[ね]を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを」にも、「かしこみ(畏み)」(畏敬)の対象として「不盡の嶺」はあり、「天雲」も頂きまではこれずに下にたなびいているだけだと詠まれています。まさに「類を以てここに載す」でした。
 その後、日本国家の美的象徴の山として富士山が中央思想に取り込まれてゆくにしても、当初、日本の「正史」とされる日本書紀が(古事記はいうにおよばず)、富士山の存在(あるいは富士山の噴火やその神)についての記述を一切していないという不思議──、この不思議な事実は、書紀の編纂思想が富士山(あるいは富士山神)の記述を忌避していることによるものではないかと想像してみるべきでしょう。不比等の子である藤原宇合[うまかい]の主導で成る常陸国風土記にみられるように(富士山神は「祖神尊[みおやのかみのみこと]」に従わない神として描かれる)、常陸国風土記編纂の思想にとって、富士山は決して肯定的に語られる山ではありませんでした。風土記の否定的記述、そして日本書紀の不都合を白紙に描いたようなだんまりとは対極的に、しかし孤立するように、富士山(神)への尊意と自尊の心を歌にしたためていたのが柿本人麻呂でした。
 富士山の神の歴史舞台からの匿名化は、おそらく伊豆神のそれと同じ理由だったはずです。かつて、人麻呂は天武・持統の皇子である草壁の挽歌を歌っていたように、あるいは、持統時代のはじまりの吉野行幸の随伴時において、「逝[ゆ]き副[そ]ふ川の神も大御食[おほみけ]に仕へまつる」「山川も依りて奉[まつ]れる神の代」(巻一 38)と、吉野の川神・山神も持統という新しい「神の代」に奉仕すると歌っていたように、彼は朝廷儀礼の重要場面に、「歌」によって仕えていました。しかし、人麻呂の歌には単純な宮廷=御用歌人ではない視線が秘められていて、たとえば、引用の三十八番歌の反歌では「山川もよりて奉[まつ]れる神ながらたぎつ河内[かふち]に船出するかも」(39)と、持統(=藤原)王権の「船出」は、ありきたりの「大海」ではなく「たぎつ河内」になされる、つまり、水激[たぎ]つ河中に船出するんだなあと歌い残すことを忘れていません。そんな人麻呂が、朝廷内部の新たな神まつりの意向(皇祖神の創祀)とその継続意志を知らなかったはずがなく、いいかえれば、天武・持統から持統・不比等へ、そして元明・不比等によって、歴史から排除されようとしている宇治(伊勢)=伊豆の(川・滝)神をまったく知らなかったということはありえないとおもいます。
 時代は、持統─不比等による大宝律令の制定(701年)とともに、律令国家体制の中枢に藤原思想が強固に構築され、それが本格的に稼動するという新たな局面を迎えていました。この藤原の王権思想によって、歴史から排除されんとした神と歌人[うたびと]が、富士山で「おもひ」あるいは「言霊」を共有したというのが、人麻呂のこれらの富士山歌ではなかったかとおもいます。人麻呂は持統の吉野行幸時、「水激[たぎ]つ瀧の宮処[みやこ]は見れど飽かぬかも」(巻一 36)、作歌時期は不明ですが「古[いにしへ]の賢[さか]しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(巻九 1725)と、吉野の川・滝はいつ(何度)見ても飽きないと歌っていました。しかし晩年の富士山歌においては、「不盡河」という「水のたぎち」を生成する「駿河なる不盡の高嶺は見れど飽かぬかも」でした。この「見れど飽かぬかも」の対象の変化と秘められた等質性に、人麻呂の生涯、あるいは歌の変貌の様を読むことができます。
 わたしたちは、現在につづく日本国家の「型」が神と歴史の創作とともに立ち上がるとき、そこに、無冠=裸となった一人の歌人の「死」が秘められていると想像することができます。万葉集は、「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死[みまか]らむとせし時、自らを傷みて作れる歌一首」として「鴨山の岩根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」を載せています(巻二 222)。この歌が人麻呂の遺稿歌ですが、しかしもう一つの遺稿歌にも等しいこれらの富士山歌によって、わたしたちは、「ちはやふる」富士山神の原像を、人麻呂の「おもひ」とともにたしかに受け取ったとはいえそうです。
 後年、明治期のことですが、自由民権運動の挫折を経て文学の道に進んだ北村透谷は、「富嶽の詩神を思ふ」で、富士山には「尽きず朽ちざる詩神」がいると喝破していました。透谷は日清戦争が始まる直前に二十五歳という若さで自ら世を去りますが、明治という復古王権の時代の闇と正面から対峙した詩人でした。彼は「富嶽の詩神を思ふ」の最後を、「人麿赤人より降つて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遥するが為に、富嶽の周辺を往返して、形[けい]なく像なき紀念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味[あじはひ]あり」と結んでいます(『現代日本文学大系』筑摩書房)。「この国」は「富嶽の詩神」がいるから「なほ愛すべし」という「おもひ」は痛切です。文学はすべからく「空中に構設」された「形[けい]なく像なき紀念碑」ですが、人麻呂が歌(言霊)の回路によって、富士山の神と「逍遥」していたことは、そのとおりであったとおもいます。

(追伸)
「『三河国風土記』(逸文)では矢作川・男川・豊川で三河とありますので、PONTAではこれを正解としています」──わたしの手元の『風土記』(岩波文庫)では、三河国風土記(逸文)の「矢作河」の項には、「参河風土記に作矢河[やはぎがは]あり」と一行が記されているのみで、他の二川の記述はありませんが、PONTAさんがみている『風土記』を紹介してください。

136 はじめまして りんご 2005/03/12 (土) [20780]

はじめまして。
兵庫県在住の者で、“素盞鳴尊と檀君神話”に関心を持っています。
宜しくお願い致します。

「弥彦神社」の祭神「大屋毘古神」をたどって、「HP神奈備にようこそ!」内の下記、『大綾津日神、大禍津日神、大屋毘古神
http://www.kamnavi.net/it/ooayatuhi.htm』の項を拝見し“瀬織津比メ神”というお名前に出会いました。
ー・−・−・−・−・−・
平田篤胤の『鬼神新論』から
 大禍津日神と称すは、亦名は八十枉津日神とも、大屋毘古神とも称して、此は汚穢
き事を悪ひ給ふ御霊の神なる因にて、世に穢らしき事ある時は、甚く怒り給ひ、荒び
給ふ時は、直毘神の御力にも及ばざる事有りて、世に太じき枉事をも為し給ふ、甚建
き大神に坐せり。然れども又常には、大き御功徳を為し給ひ、又の名を瀬織津比メ神
とも申して、祓戸神におはし坐て、世の禍事罪穢を祓い幸へ給ふ、よき神に坐せり。
穴かしこ。悪き神には坐まさず。
ー・−・−・−・−・−・−・ 

大屋毘古神 = 五十猛命 ということは、神奈備様HPで何度も読んでいたのですが、
この『鬼神新論』のような内容には、初めて出会い、驚いています。他にも、こういう
文献は、ありますでしょうか。

138 倭姫命世記という秘伝書 風琳堂主人 2005/03/13 (日) [20830]

りんごさん、はじめまして。
 平田篤胤が、瀬織津姫という神を大禍津日神、八十枉津日神と同神とみている根拠文献(の一つ)は、おそらく、鎌倉時代に成ったとされる『倭姫命世記』かとおもいます(神道五部書のうちの一書)。
『倭姫命世記』における瀬織津姫=瀬織津比唐フ記述は以下のとおりです。

■倭姫命世記に記される瀬織津比唐ニいう神
 荒祭宮一座〔皇太神宮ノ荒魂。伊邪那伎大神所生[アレマス]神。八十枉津日神と名づくる也〕
  一名は瀬織津比盗_是れ也。御形は鏡に座します。(『中世神道論』、『日本思想体系』所収)

『倭姫命世記』が成書化されるのは鎌倉時代としても、この書は一般に広く普及したものではなかったようです。このことは、同書が「古来宇治ノ薗田家ニ蔵シタリト雖モ、秘シテ人ニ許借セズ」という御巫清直の写本時の跋文の言葉からうかがえます。しかし、江戸時代、いくつか写本が出回ったらしいのですが、では倭姫命世記の原本はもともとどこに秘蔵されていたのかといいますと、「山城国賀茂社権禰宜岡本宮内少輔保可県主ノ家蔵ノ本ナル由」と御巫は書いていて、「山城国賀茂社」の神官が所蔵していたようです。としますと、これは、やはり因縁めいたものを感じるのはわたしだけでしょうか。下鴨神社(賀茂御祖神社)の「摂社」御手洗社(井上社)の神として瀬織津姫は現在もまつられていますからね。
 摂社は、本社主神と縁深い神をまつるところとされますが、瀬織津姫は、もともと賀茂=鴨氏がまつる「主神」でもあっただろうとわたしはみています。
 ここのところ、人麻呂と富士山神の関係を調べてきて、その中で「ちはやふる」という枕詞はもともと瀬織津姫という宇治(伊勢)の秘神にかかるものではないかということにふれました。「ちはやふる」が地名として「宇治」にかかる言葉だというのは、万葉集に諸例がありますが、この言葉が「賀茂」にもかかるという別歌集の例もあり、ふうんというところです。

■ちはやふる「賀茂」の歌
 ちはやぶる賀茂の社の木綿[ゆふ]だすき一[ひと]日も君をかけぬ日はなし
 ちはやぶる賀茂の河辺の藤浪はかけて忘るゝ時のなき哉[かな]

 前歌は「読人しらず」とされるも『古今和歌集』、後歌は「兵衛」の歌で、花山院の私撰和歌集といってもよい『拾遺和歌集』に収められています。両歌の表記は『新日本古典文学体系』本に拠ったものですが、わたしは、「ちはやぶる」の「ぶる」は、もともと(人麻呂の時代は)「ちはやふる」と清音がはじまりではなかったかと考えています(理由は、「ちはやふる」の「ふる」が布留(川)、つまり石上神宮とも関係しているからです)。
「ちはやふる」賀茂や布留の神についても、いずれふれる機会があるかもしれません。