HOMEMENUわっくわく脚本制作室






「行って帰ってくる」物語・その4


行って帰ってきたそのときに



マックスは、行って帰ってくる

絵本のモーリス・センダック
「かいじゅうたちのいるところ」(神宮輝夫訳、冨山房)には、異界としてのファンタジーの典型的な構造がわかりやすく、また、いきいきと描かれていると思います。
この物語の主人公マックスもまた、悪さをして母親から叱られます。
彼は、「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」とは言われませんでしたが、夕食ぬきを宣告され、寝室へ追いやられます。
もちろん寝室は彼の“ホーム”ですが、そのいつもと同じ日常的な場所が、だんだん変わっていきます。
森が生い茂り、育ち、たちまち異界となる。
それは、日頃、子どもたちが行っている想像の世界の再現ともいえるでしょうか。こうして身近に作られた異界は、子どもたちにとっては親しみのあるところに違いありません。

その時点で彼はもう冒険に「行って」いるのかもしれませんが、さらに船に乗って
「1年と1日」をかけて航海しなければなりません。そうして、「かいじゅうたちのいるところ」へ出かける。
(映画の
「かいじゅうたちのいるところ」では、日常的な家の周りの近所と、冒険の航海へと旅立つ海岸が、すぐ近くの地続きに描かれていましたね。)

そこへ着いたマックスは、かいじゅうの仲間たち(ワイルド・シングズ)の王様になって、まさにワイルドネス(野性性)を解き放つように暴れ回って遊びます。
その数ページにわたって描かれる「かいじゅう踊り」は、痛快な、なんとも楽しげな場面にも見えるのですが、絵の中にはどこか「不安」なニュアンスが忍びこんでいるようです。

「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」

と、これは、作者のセンダックの言葉です(N・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」〜イーゴフ/スタブス/アシュレイ編「オンリー・コネクト」猪熊葉子/清水真砂子/渡辺茂男訳、岩波書店・所収)。

ここでのマックスの現実は、彼がやった
「悪さであり、受けたお仕置きであり、そのお仕置きに対する彼の怒り」なんですね。
マックスは、母親に対する怒りをかいじゅうたちにぶつける。
そこには、カタルシスがあります。またそれは、
「成長しようともがいて」の怒りでもある。
マックスは、かいじゅうたちを退治はしませんが、「母親殺し」である昔ながらのドラゴン退治の、正統的な継承者であるでしょう。

母親に叱られ、一体感から切り離された佐伯一麦さんが、浜田広介の「かなしみ」の世界へ向かったのに対し、このマックスは、「怒り」をぶつけるようにして遊びまわる。
ここには、西洋と日本の違いもあるでしょうか。
しかし、佐伯さんの気持ちも、マックスの気持ちも、日本人である筆者には両方わかるような気がします。

センダックは言います。

「もしもマックスがいつまでもかいじゅうたちのいる島にい続けたら、この本を読む子どもはこわくなってしまったことでしょう」(前出・「かいじゅうたちにかこまれて」)

筆者は、ずっとい続けるのも楽しいような気が、半分します。かいじゅうたちはどれも獰猛な顔をしていますが、どことなくいいヤツそうで、いっしょに暮らしていくのも悪くないと思わせます。
映画では、そうして
「い続け」て暮らす“現実”(ファンタジーの中の現実)の光と影が描かれていました。

マックスがかいじゅうたちを征服したとき、「怒り」はおさまります。
しかし、彼らの王様に就任して、彼らに夕食ぬきを宣告できる身分になったとしても、彼の「不安」は消えない。
どころか、「不安」は大きくなる。
というのは、つまり「かいじゅうたちのいるところ」は、マックスの現実に十フィートも根をおろしている場所にあるということであるでしょう。
彼は、母親との一体感から旅立った孤独な冒険者です。
かいじゅうを支配して自由感を味わう。
しかし、自由とは、誰の指図も受けず――ということは誰の保護も受けず、自分の行動や存在の責任を自分自身で負うということです。
自由は、半面、不安を伴う。

そこへ、
「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、夕食の匂いが漂ってくる。
そうして彼が、また航海に
「1年と1日」という物語の時間を費やして帰ったとき、寝室に置かれた夕食はほかほかと湯気を立てています。
こうした矛盾を、子どもたちは実によく理解し、納得し、満足すると思います。

「さて、ここが肝腎なところなんですが、」

と、センダックは続けます。

「彼は『もう二度とあんなところへなんかいかない』とは言いません。マックスは、きっとまた空想にふけりますよ。しかし、他の子どもたちと同じように、いつもきまって、母親のもとに帰ってくるというのがいいところなんです。ですからこの本は、人生は不安の連続だなどとは言っていません。ただ、人生には不安な時もあると言っているのです。」(前出・「かいじゅうたちにかこまれて」)

マックスのこの段階では、「行って帰ってくる」空想をくりかえす。
このくりかえしが大切なのでしょう。
2〜4歳の子どもたちは、まるで練習をするかのように「行って帰ってくる」ごっこをくりかえしていました。
そうして、どんなに孤独で、不安の連続である異界へ迷い込んだとしても、彼は最後に
「自分を最も愛してくれるだれかさん」のもとへ帰ってくる。
あの子うさぎが、必ず母うさぎにつかまえられて家の中へ帰ったように。

が、しかし。
もしもこのとき、行ったきりで戻れなくなってしまったら……。
神隠しのように向こうの世界へ連れていかれたまんま、つまり、マックスがかいじゅうたちのいるところから帰れなくなってしまったとしたら……。
ヘンゼルとグレーテルが魔女の森から抜け出せなくなったとしたら……。
小僧さんが、やまんばの棲む山から戻ってくることができなくなったとしたら……。
もちろん「行って」しまうことは、たえずそういうリスクを抱えているものなのですが、「行って」しまったきり「帰ってくる」ことができないというのは、大変なことです。
不安というのは時として“スリル”や“サスペンス”という言葉に言い換えることのできる、冒険を彩る薬味です。
しかし、ここにはそれらを超える、存在的な不安があるような気がします。

そんな不安が、
ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」(上田真而子・佐藤真理子訳、岩波書店)に描かれています。

バスチアン・バルタザール・ブックスは、行って……帰ってくる! 

「はてしない物語」は、主人公バスチアンが古本屋で「はてしない物語」という本を盗むところから始まります。
彼は、その不思議な本を読みはじめます。
そして主人公アトレーユという少年の活躍に胸を躍らせ、彼とともに冒険の旅をすることになります。
アトレーユは、本の中のその異界──
「ファンタージエン国」というファンタジーの世界の住人なのですが、その世界は、国の王女様的存在である「幼ごころの君」にこんなふうに説明されています。
──人間の子どもたちは、人間界とファンタージエン国の境を越えてやってくる。
彼らは、この国でしかできないような体験をする。
そうして、まるで生まれ変わるようにして、人間界へと帰っていく。
つまり、人間の子どもは、ファンタージエン国という異界へ「行って帰ってくる」わけです。
すると彼らは、それまでとは違ったような目で世界や周りの人々をながめることになる。
平凡でつまらないと思っていた人間界の現実に驚きをみたり、神秘を感じるようになる──というのです。

「指輪物語」の作者J・R・R・トールキンが、ファンタジーの世界(彼のことばでいえば「第二世界」)を説明した文章に、「ムーリーフォック」ということばが出てきます(「妖精物語について」〜「妖精物語の国へ」杉山洋子訳、ちくま文庫・所収)。

「ムーリー・フォック(mooreeffoc)」
だなんて、何の呪文かと思えば、何のことはない、それはつまり
「coffee room(コーヒー・ルーム)」
のこと。
そう書かれた喫茶店のガラス扉を、反対から、店の内側から見たときに、そう読むことが出来ます(ただし鏡文字ですが)。

作家のディケンズが 、 ロンドンの喫茶店にぶらり立ち寄ったときにたまたまそれに気付いて、「はっ」としたんだそうです。
ごく当たり前の見慣れた日常的な看板も、新しい視点、いつもとは違う視点でながめるときに、新鮮な驚きがある。
そうしたはたらきが、文学にもあるのではないか。
「チャールズ・ディケンズ伝」でチェスタトンが取り上げているそうです。

そういえば、この「はてしない物語」の冒頭にも、不思議な看板が掲げられていました。

古本屋のドアのガラスに書かれていた「古本屋 カール・コンラート・コレアンダー」という主人の名を掲げた看板を店の中から見ると、こう読めるのでした(ただし鏡文字ですが)。
物語は、この古本屋から始まります。
それは、つまり、「ムーリーフォック(mooreeffoc)」の世界の始まりを暗示しているのかもしれません。

さて、バスチアンは、そんな本の中の異界、ファンタージエン国へと踏み入ります。
「幼ごころの君」の名を、自分が名付けることによって、物語が彼の物語となる。
彼が、彼自身の物語を生きていくことになります。
彼が、物語の“読者”から物語の“主人公”へと変わる瞬間は、前半のクライマックスですね。

彼は、虚無に侵食され、消失の危機に瀕していた国を救い、救世主となります。
その彼が最初にしたことは、 ジャングルを暴れ回って獰猛なライオンと遊ぶことでした。
ちょうど、かいじゅうたちのいるところへ行ったマックスが、彼らと森を暴れ回って遊んだように、 ジャングルでワイルドネスを発散させるわけです。

そうしてマックスがかいじゅうたちを征服して王様になったように、バスチアンもまた力を持ち、帝王への道を歩みます。
何しろバスチアンの思いのまま。
この世界では、彼の望み通りのことが実現するのです。
が、それゆえに彼のほんとうの望みがなんであるか、試されることにもなります。
彼は自由。 それゆえに不安です。
かくて物語は
「不安の連続」の始まりとなる。

彼の望みは、たとえば勇気ある名誉。物語詩人になること。善を施すこと。知恵ある賢者となること、などなどでした。
しかし、思いとは裏腹に、彼のつくる世界はきしみ、ちぐはぐになっていきます。
そして権力を手に入れたと思ったとき、甘言を弄する者しか信じられなくなり、彼を諌める友だちアトレーユをさえ疑い、嫉妬し、いよいよ彼の孤独があらわになっていきます。
ちょうど歴史の中で、多くの権力者がたどってきた道すじの戯画のように。
そうして最期には、破滅し、いっさいを失います。
その間、この国に、
「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、夕食の匂いが漂ってくることはありません。
どころか、その
「自分を最も愛してくれる」父親は、
「ぼくがいなくなってよろこんでいるかもしれないくらいだ」
と、バスチアンは言います。
そう。
この国も、やはり
「現実に十フィートも根をおろして」いるのです。
バスチアンの現実は、父親とのディスコミュニケーションであり(母親はすでに亡くなっています)、クラス仲間のいじめであり、容姿や臆病な性格へのコンプレックスです。
色とりどりに彩られたファンタジーの世界に比べれば、なんと味気なく無彩色な世界でしょう。
しかし、わたしたちや子どもたちが住んでいる世界にあるのは、大なり小なり、こうした現実ですよね。

トールキンは、“第二世界”──ファンタジーの世界のはたらきのひとつとして、
「逃避」ということをあげています(前出・「妖精物語について」)。
ここでトールキンが言うところの
「逃避」は、
現実や時代を批判したり、現実を超えた理想や望みを育てるといったはたらきを含んだ積極的な意味でも使われているのですが、
文字通り、過酷な現実から逃げるという意味でもあります。
過酷な現実から避難する。
バスチアンは、自分では意識していませんが、現実からの逃亡者です。
だから、「行っ」たきりで、現実の世界へ「帰ってくる」ことができない。
帰る道すら見失ってしまうんですね。

そんなバスチアンのようにファンタージエン国へ行ったきりで、人間界へと帰らない、あるいは帰ることのできない者たちが暮らす
「元帝王たちの都」は、象徴的です。
マックスがかいじゅうたちの王様になったように、誰もがその空想(ファンタジー)の中で、思うがまま、わがまま放題の王様、帝王になることができる。
しかし、幻想の中で望みをかなえることは、現実の記憶をなくすこと。
記憶をなくして、まったく現実から離れてしまえば、生きること自体がストップして、自分自身が変わることができなくなるというんですね。
だから、都に住む元帝王たちは、年も取らず、成長もできずに、そこに留まっている。
無気力で、
「狂気そのもの」
つまり、病気です。

その病気の危険性は、本にもあるものだし、また絵本や紙芝居にもあるものだと思います。
そしてTVやゲームや、いろいろなメディアによるヴァーチャルが氾濫し、増殖している現代では、病人である現役の帝王や元帝王たちが続々と増えているといえるかもしれません。
現実に生きることをストップしてしまう。

「ナルニア国物語」の作者、C・S・ルイスは、ファンタジーの望みには二種類あると言います(
「子どもの本書き方三つ」〜前出・イーゴフ/スタブス/アシュレイ編「オンリー・コネクト」猪熊葉子/清水真砂子/渡辺茂男訳、岩波書店・所収)。

ひとつは、
「病気」
病的な現実逃避。
今ある自分の現実から逃げて、ファンタジーの中で自分の望み、欲望を代償的にとげようとするもの。
ファンタジーの中で望み通りの王となった「元帝王たち」の症状は、まさしくこの病気と診断出来るかもしれません。
この種のフィクションの物語は、装いがリアルになる傾向があるといいます。
それは、
「現実に起こりうる話、起こってしかるべき話、運さえよければ自分にも起こったであろう話」
であるわけです。
しかし、
「こうした願望が想像の次元で達せられる場合、それはじつは、まったく代償的なものであって、私たちは、この世での失望や屈辱から逃れるため、そこに走るのです。そしてそのあと、私たちは、またまた、いかんともしがたい不満足な状態のまま現実の世界にもどります。それというのも、こうしたことはすべて、エゴへのへつらいにすぎなかったのですから。なぜ楽しかったか、ほかの人たちの称賛の的になっている自分を心に描くことができたからです」(前出「子どもの本書き方三つ」
ということになります。

この種類のファンタジーでは、お菓子の家をまるごと食べ尽くし、味わったとしても、いざ現実に戻れば、何の腹の足しにもなっていない。
どころか、空腹感と飢餓感はますます増すばかりということになるでしょう。
ファンタジーの中で欲望を満足させるけれど、魔女との対決は避けられ、葛藤も避けられる。
すると、家に戻っても意地悪な母親は意地悪な顔をしたまま、ご健在ということになります。

一方、C・S・ルイスがあげるもうひとつが、
「アスケシス」
これは、“精神訓練”と訳されたりする言葉だそうで、
「一種の精神活動」であるといいます。
C・S・ルイスの
「ナルニア国」シリーズ(岩波書店)に親しんだ読者には、このアスケシス(精神訓練)という言葉の意味するところがよくわかるのではないでしょうか。
いつ陸地にたどり着くともわからない航海。
果てしのない砂漠の道行き。
地下の迷路。
そんな苦難の連続である冒険を、飢えや渇きに悩まされながら、物語の子どもたちは体験します。
そうして、へそまがりの皮肉屋の子も、
偏った進歩主義の意気地なしの子も、
他人に責任を負わせるだけのいじめられっ子も、
その冒険を通じて人格を成長させていきます。
冒険自体が、アスケシスであるわけです。

ここに、キリスト教の信仰篤い宗教学者でもあったC・S・ルイスの教訓めいた隠喩を読み取ることは簡単でしょう。
しかし、そんな理屈が気にならないほどに、苦難も含めて冒険はおもしろい。
読者である子どもたち(おとなも含めた)は、そのおもしろさを楽しみます。
が、主人公たちが挑戦し立ち向かうそのファンタジーを楽しむことは、つまり、いっしょに体験を共有すること、読者自身もアスケシスを体験するということなんですね。

さて、バスチアンの望みは、
「病気」だったのでしょうか? 「アスケシス」だったのでしょうか?
もちろん、彼の望んだ物語は、彼をいじめるクラスの仲間をやっつけるといったリアルなものではありませんでした。
勇士たちと競技をしたり、涙の湖の由来を語ったりと、それは昔話の伝統的なかたちにのっとったものです。
しかし、彼の望んだものは、勇気ある名誉。であっても、それを得て人々から称賛を得ること。
物語詩人になること。ではなく、その才能を評価され、名声を勝ち得ること。
善を施すこと。よりも、「いい人」として尊敬されること。
知恵を身につけること。よりも、知恵ある賢者として敬われることだったんですね。
すべて自分の
「エゴへのへつらい」だった。

しかしながら、
「エゴへのへつらい」から逃れ得る人というのは少ないかもしれません。
昔話でも、宝物を持ち帰ったり、大金持ちや長者や王様になったり、絶世の美女のお姫様と結婚したりという成功が語られます。
それは人々の望みの反映であり、
「エゴイズムへのへつらい」の大いなる成就であるといえるでしょう。
昔話は、エゴイズムや欲望を全否定するわけではありません。
筆者などは、おとなになった今でも、もしかしたら宝物や美女を手に入れられるのではないだろうかなどと、秘かに欲望している人間です。
まあ、筆者ほどに阿呆な聞き手ではないとしても、昔話は聞き手にそうした夢を見せてくれるものだと思います。

が、しかし、宝物を得るまでの過程や試練を見落とすとしたら、片手落ちでしょう。
たまたま偶然に宝物を得たとしても、得た者の人間性やその過程が語られています。
何もせずに宝物を得る物語も数多くありますが、そこには宝物をもたらす援助者の存在や、援助者をいかに信じるかなどの関係が語られています。
また、愚か者が宝物を得る物語であっても、彼の世界観や愚かさのほんとうの価値などが語られているはずです。
ヘンゼルとグレーテルが持ち帰った宝物だけしか目に入らず、彼らの冒険に心動かされない読者(聞き手や観客)はいませんよね。
おもしろさはそこにある。
その試練や過程に焦点を合わせると(それが物語というものなのですが)、金銀やエメラルドといった物質的な宝物の輝きが、何かちがうものに見えてくる。
エゴや欲望を満足させるだけではないものが見えてくる。
そこに
「アスケシス」といわれる精神活動があるのだと思います。
試練や冒険に立ち向かうことで、発見したり気づいたり、味わったり、感じたり、考えたり、する。
つまり遊ぶ。
つまり体験する。

先に見た藤田省三さんの
「或る喪失の経験」(前出)では、昔話が飽きることなく語るテーマ──「孤独な森の旅」「迷い子」「追放された彷徨」といった試練や冒険について触れていました。
これは、かくれんぼ遊びの中の原初的な死と再生の体験に通じるものであり、藤田省三さんは、ここに、古来からの成年式──社会の中で一人前の成人となるための通過儀礼としての「骨格」を見ていました。
社会から切り離され、母なるものから旅立ち、さすらうという冒険──その“死”を体験する試練は、再生し、生まれ変わっておとなに成長するために必要な訓練。
まさしく「アスケシス」です。
川に捨てられ流された桃から生まれた男の子。
森に捨てられた兄妹。
彼らが鬼や魔女を倒して宝物を得るのも、これは「アスケシス」の結果であると言えるでしょう。

バスチアンは、ファンタージエン国に来てから、望みをかなえる度ごとに、現実世界の記憶をなくしていきました。
空想世界で「病気」の望みをかなえること──エゴイスティックな欲望を満足させることは、現実の生をストップさせ、現実へのつながりを失うこと。
それは、現実世界にはっていた彼の根っこをひとつひとつ失っていくかのようでした。
しかし、地面の表層2〜3フィートくらいの深さの根っこは失われても、その10フィート先の根は、なおバスチアンの現実──心の奥の現実と通いあっていたんですね。
彼がいっさいを失い、元帝王たちが陥る「病気」に気づいたとき、そこから、正真正銘ホントの、自分の“ほんとうの望み”は何か、を探す旅が始まります。
それは、「アスケシス」という試練の旅。
またそれは、彼が自分の心の奥底を掘り起こし、なお深く掘り起こして自分の根っこを探す旅でした。

作者ミヒャエル・エンデによると、執筆中、バスチアンがなぜファンタージエン国から帰って来なければいけないか、どこに出口があるのか、作者自身にもわからなかったといいます。
そうして苦悶のうちに1年が過ぎ、出版社から催促の電話がかかってきます。
しかし彼は、こう答える他はなかった。
「バスチアンが、ファンタージエンから戻るのが嫌だと言ってきかないんだ。ぼくも帰らせることはできない」ミヒャエル・エンデ「ものがたりの余白」田村都志夫[聞き手・編訳]、岩波現代文庫
作者も主人公とともに「アスケシス」の旅を旅して苦しんでいたんですね。
バスチアンが「帰ってくる」その道筋には、作者エンデのアスケシスの軌跡がたどれるような気もします。

ところで、この物語は、多くの昔話やよくできた作品と同じように、“通りいっぺんの寓意を読み取ろうとするような解釈”を拒むところがあります。
“解釈のための解釈 ”ではとらえきれない豊饒さがある。
たとえば、物語には、二匹のへび──相手の尾をそれぞれかみながら輪になってつながるへびが登場します。
それはこの「はてしない物語」という本の表紙にも描かれ、「はてしない」ということの象徴ともなっています。
これは、昔から錬金術などに伝えられる“ウロボロス”。
ユング派の精神分析では、未分化なカオス状態という象徴の意味が与えられているものです。
が、そうした解釈を無理にあてはめようとしても、あまり意味はないでしょう。
しかし、“アイゥオーラおばさま”という登場人物に出会うとき、わたしたちは、あの母なるもの──グレートマザーのひとつの姿を見ることになります。

彼女の体からは、果物がつきることなく実り、バスチアンが望むままに彼の飢えと渇きを癒してくれます。
いわば「いい母親」としてのお菓子の家。
とびきりの理想的なお菓子の家ですね。
母親の体の血液が実は母乳であり、赤ん坊の糧(かて)となるように、
バスチアンは、アイゥオーラおばさまの体──つまりお菓子の家を食べる。
そして、食べることで養われ、癒される。
すべての価値観を見失い、傷ついたバスチアンには、その存在をあるがままに受けいれてくれる「絶対的信頼感」を得ること、その母なるものの抱擁を確かめることが必要だったんですね。
彼は、幼児の頃に退行するようにして、アイゥオーラおばさまのもとで過ごします。
それは、バスチアンの今は亡き母親の面影をたどり、その愛情を、そして彼の中にある母性を今一度確かめることでもあったでしょう。

その家は
「変わる家」
家自体も形を変えるのですが、そこで過ごす人間も
「変わる」──変容させるというのがおもしろいと思います。
ヘンゼルとグレーテルが訪ねた魔女のお菓子の家は、彼らをその甘さの中に閉じ込めようとするものです。
つまり、成長や変容を拒む。
いわば「変わらせない家」。
もっとも、そうして魔女が彼らに与えた攻撃と試練が、実は彼らを結果的に「変えて」いくことになるのですが。
一方、アイウォーラおばさまの「変わる家」(=変わらせる家)は、倉橋惣三が説いた通りの甘み──子を思う母親のこころそのものをバスチアンに与えます。
そうして彼が愛に満たされたとき、自ら進んでお菓子の家──母なるものの元から旅立っていく。

実際、子どもたちは愛情の欠けた不安定な状態ではなかなか自立に踏み切れません。
けれど、じゅうぶんな愛情に満たされたとき、ごく自然に自立へのステップへと足を踏み出していくものなのでしょう。
安全な港が築かれた時、外海を目指して船が出航出来るように。
成長する果実が、時が熟した時、自然に木の枝から離れ落ちていくように。

変容したバスチアンはそれから、“ほんとうの望み”とは、自分が誰かから愛されることではなく、誰かを愛することであるということに気づきます。
そして、採掘場の穴を深く深く掘って、1枚の絵を探し求める。
その孤独な作業は、自分の心の深層を掘り起こしていくことであるわけです。
辛抱強い作業の年月を経て発掘したのは、
「自分を最も愛してくれるだれかさん」──父親の絵でした。
ちょうどマックスが、
「自分を最も愛してくれるだれかさん」──母親の作った夕食の匂いに導かれ、現実へと帰ってきたように、
バスチアンにとっては、その絵が、現実の世界へ「帰ってくる」ための道しるべになるわけです。

さらに決定的なピンチのところで、アトレーユの友情に救われ、彼は
「生命(いのち)の水」を飲むことができます。
生命の水を全身に浴び、浸かる。
その描写は、「流」という漢字そのままに、橋のたもとから流された川の水の中で、あるいは羊水の中で、「あの世」に行った魂が、死と再生を経験するさまに似ています。
生命の水に洗われて魂は「この世」によみがえる。
生まれ変わる。
そうしてバスチアンは「帰って」きます。

さて、そうすると、現実の世界が一変する。
具体的には何も変わってないのですが、生まれ変わったバスチアンの目からは、すべてがいきいきとしているように見えてくる。
それは「ムーリーフォック(mooreeffoc)」効果でもあるでしょう。
何がいちばん大切なのかを知り、現実に立ち向かう勇気を知った彼にとっては、この世界が奥深く豊かに、意味に満ちて見えるようになる。
「アスケシス」をやりとげた彼は、無彩色に見えていた現実が、実は豊かな彩りを持っていたことを知るわけです。

バスチアンは「生命の水」を浴びたとき、父親にも飲ませてあげようと両手にすくいました。
が、途中でこぼしてしまいます。
そういえば
「命の水」は、グリム童話の中の一編でもありました(「完訳グリム童話集・3」高橋健二訳、小学館・所収)。
この物語では、瀕死の病気に苦しむ王様である父親に飲ませるために、末っ子の王子が苦労を重ねて「命の水」を持ち帰ります。
もっとも、それを妬んだ一番目と二番目の王子に騙され、末っ子の王子はさらに苦労を重ねることになるのですが……、それはまた別のはなし。

さて、その生命の水をこぼしてしまったバスチアンですが、
父親と再会し、その涙を目にしたとき、実は「生命の水」を持ち帰り、飲ませることが出来たんだということを確信します。
グリム童話の父親王は、結局、息子が持ち帰った「命の水」を飲んで元気になりました。
バスチアンの父親もまた、生きる元気を取り戻すんですね。

そう。
異界へ「行って帰ってくる」こと。
「死」と「再生」を体験することは、おとなに成長するための試練であり、 それは時に、自分の中にある「生命の水」に気づくこと。
その日常の現実では見えにくい生命の“いきいきしさ”を、こちら側の世界へ持ち帰ることであるのかもしれません。
それが、この世界をいきいきとさせる。
それは、現実に硬直した父親や、自分自身や、あるいはこの世界を解きほぐし、救うことでもあるのだと思います。


紙芝居の世界へ、行って帰ってきたそのときに



さて「行って帰ってくる」物語を追ってきたこの稿も、初めの物語に「帰って」筆を置くことにしましょう。
「指輪物語」です。

主人公フロド・バギンズは、旅に「行って」、世界を救うという大仕事をやりとげ、そうして仲間とともに故郷のホビット庄(村)に「帰って」きます。
しかし、彼らを待っていたのは、故郷の変わり果てた姿でした。
木は切り倒され、田園はつぶされ、煙突の煙が空気を汚し、工場の排水が川を汚す。
温和で人のいい住人たちが、ローカルな、功利的な権力と暴力で支配されている。
結末を言ってしまえば(スイマセン、ネタバレです)、彼ら自身の力で、その一派を黒幕ごと一掃して平和を取り戻すことになります。

世界を救った旅に比べれば、スケールも、ドキドキ感も小さい、いわば付随的なエピソードです。
しかし、なぜ、冒険の旅から「帰って」きてからも、わざわざ、この一挿話が付け加えられたのでしょうか?
作者トールキンは、これは、20世紀執筆当時のイギリスの状況を風刺した寓話ではない。
途中で付け加えたのではなく、物語の構想の当初から考えていたということをわざわざ「ことわりがき」しています。

筆者は、ここにトールキンのファンタジーに対する想いが見えるような気がしてなりません。
フロドが故郷から旅へ「行って帰ってくる」ことは、ちょうど読者が彼とともに、現実世界からファンタジーの世界へ「行って帰ってくる」ことと重ねられているのではないでしょうか。
読者とともに冒険から「帰って」きたフロドたちにとっての日常世界は、ホビット庄(村)です。
彼らは、そのホビット庄の直面する現実問題を目の当たりにする。
そして目の前に今あるそこの現実の問題に立ち向かい、現実世界をよりよいものに変えようとする。
旅に行く前の彼らだったら、もしかしたら、立ち向かうことさえ、あきらめていたかもしれません。
しかし、「アスケシス」の旅をやりとげた今の彼らは現実に立ち向かうことが出来るんですね。

仲間のサムが、旅の途中でエルフ(妖精)の奥方からプレゼントにもらった土(粉末)は象徴的です。
中には、種子(たね)がひとつ入っていました。
木を切り倒され、荒れ果てたホビット庄の地に、サムはその土をまき、種子をまきます。
するとやがて、緑は豊かに育ち、
「マルローン樹」といわれるファンタジーの森にしか生えない樹が、美しく神秘的な枝を茂らせることになったというのです。

もしかしたらトールキンは、
「マルローン樹」の種子が、読者の現実世界にもまかれ、葉を繁らせることをひそかに願ったのではないでしょうか。
その実は食べられるものではないらしく、腹の足しになったわけではないらしい。
しかつめらしい教訓や知識や情報や何かの役に立つものでもないらしい。
ましてや、経済や産業の利益につながるわけでもないらしい。
しかし、その美しさを愛でるために、近隣の村や、遠くの方からも人々がやってきたといいます。
その木陰は時に、畑の耕作に疲れた人々が腰を下ろして安らぐ憩いの場所となったかもしれません。
村にそびえ立つその姿は、道に迷う旅人にとっての目印しとなったかもしれません。
ひょっとしたら、宮沢賢治が遺した
「虔十公園林」のように、その木陰で子どもたちが夢中で遊んだかもしれません。
そしてたぶん、……いえ、きっと、その木陰は緑の風を運び、バスチアンがファンタージエン国から持ち帰った「生命の水」のように、この世界をいきいきとさせた。
「人生って悪くないかもしれない」と思わせてくれるような、そんなふうな木陰だったのではないかと思うのです。

紙芝居の扉を開けて絵が見えたとき。
演じ手が口を開いて物語が始まるとき。
そこに現出する世界も、ここではない世界──異界です。
それは、
「ファンタージエン国」、「ナルニア国」、「第二世界」と、呼び名はさまざまですが、魔女ややまんばやかいじゅうたちがすんでいる世界。
つまりは、わたしたちや子どもたちの心の現実のずっと奥底、10フィート以上も深く根っこをもつ世界。
時に恐ろしく不安に満ちていて、時には死の世界にさえ通じていたりする。
楽しいだけでなく、怒りやかなしみにも満ちている。
そして、だからこそおもしろく魅力的な世界です。

物語の主人公の多くは、成長する子どもたちが母のもとから旅立ち「行って帰ってくる」ように、
母なるものから切り離され、旅立ち、その異世界へ「行って帰ってくる」。
紙芝居を作るとき、わたしたちもまた、その世界へ「行って帰ってくる」のでしょう。
そして、紙芝居を演じたり、みたりするとき、演じ手や観客の子どもたちは、主人公といっしょに、そこへ「行って」、そうして「帰ってくる」。
それは、ただ、そうやって遊ぶだけです。
が、しかし、そうしてただ遊び興じて帰ってきたとき、子どもたちの手には、サムが持ち帰ったような樹の種子が──どんなにつまらない小さなものでも、何かの種子が、握られているのだと思います。
また、そうであればいいなあと思います。