北アイルランドの紛争の歴史
(History of Northern Ireland Conflict)


アイルランドの国旗は、
プロテスタントがオレンジ色カトリックが緑色、真中の白は平和を主張する色から成り立っています。
文面で、それぞれ
プロテスタントカトリックの色分けをしました。

8世紀〜
11世紀初頭
平和だったアイルランドにバイキングが侵略。
11世紀 アイルランドは100−200の「王国」に分裂しており、そのうちの7つがお互いに勢力争いをしていた。イギリスのヘンリー2世の当時のアイルランドはイギリスを追われた犯罪人や粗暴な武人、脱落した支配層があり、キリスト教の福音とは無縁の状態だった。そんな中、ローマ教皇(当時は諸国の王以上の権力を維持)がヘンリー2世に、「アイルランドにキリスト教の信仰を戻すための出兵許可」を与えた。その際、アイルランドの王を追放されたダーモットがヘンリー2世に、臣下になるから復権に協力するよう懇願し、これをきっかけに大軍を引き連れ各地を平定、ダブリンは植民地初めての市政がひかれた。しかしこれも臣下の大司教の暗殺のため、イギリスはローマとの修復関係を築く為アイルランド討伐は終わる。
12-14世紀 ノルマン人(今のフランス、ノルマンディ地方)からの侵入にあう。アイルランドの王達から領地を奪うが規模が小さく、結局制覇できず。イギリスはリチャード2世の時代になり、徹底したアイルランド討伐をする。そして13世紀には黒死病が流行し、アイルランドの人口が極端に減少する。
15世紀 宗教改革が起こり、新旧対立両派の権力争いはヨーロッパ中に広まる。イギリスのチューダー王朝は、ヨーロッパの宗教戦争に巻き込まれることを懸念し、当時イギリスの敵だったスペインとアイルランドが手を組みイギリス占領がなされないよう、アイルランドを完全にイギリスの支配下におくことにした。こうしてヘンリー8世がアイルランドのイギリス化につとめはじめ、イギリスの駐留は1922年の独立まで、400年も続くことになる。ヘンリー8世は宗教改革を行うが失敗、時はエリザベス1世の時代、彼女は外交的軍事的強硬を巧みに使いわけて、イギリスの支配地域をアイルランドに徹底的に広げていった。
1600年初頭 アルスター(現在の北アイルランド)は、イギリス通で軍事戦略にたけているヒュー・オニールのもとに置かれる。彼の軍勢はアイルランド各地方のイギリス駐屯地を破り攻撃を繰り返した。当時のイギリスの恐れは、ヒュー達とスペインが手を組めば、侵略される恐れがある。エリザベス1世の指揮により、イギリスは非情な政策にでた。彼らは敵対する地域の作物を刈り、畑や農家を焼き払い、恐ろしい飢餓が始まり、厳しい冬が待っていた。その後イギリス軍の巧みな軍事力と、逆に軍事戦略とはおぼつかない程のアイルランド軍の動きの鈍さに加え、結果はイギリスがアイルランドの殆どの地域を統治することに成功。エリザベス1世は息をひきとり、チューダー王朝は終わった。

しかし、アイルランド北部のアルスターだけは、チーフテンと呼ばれるこの地方の族長が力を維持していた。そこでイギリスはこの地に、スコットランド人を中心とするプロテスタント移民やイギリス王室に忠実だったプロテスタントのプレスバイテリアン:長老教会派などを送った。 しかしついに、ヒューや他の族長率いるアルスターもついに降伏。当時のイギリス王ジェームズ1世は「王への忠誠と引き換えに土地の保有」の許可を与える。しかしヒューらが海外へ逃亡、人民を守っていた役割をこなしていたリーダー達がいなくなり、イギリスはアルスター人民に「主人に忠誠を誓えば各自の権利は守られる」と申し出て、今まで一番イギリスに屈しなかったアルスター地方に対し、徹底したイギリスの植民地化を行う。彼らは少なくとも郷里に住み続けられるし、領土争いや最低レベルの農民で貧しく暮らすよりかは、イギリスの領主の下で小作人になって安定した収穫を得て年貢を納める方が楽との見方をし、忠誠を誓うことになる。
1649 クロムウェルによるアイルランド制圧により、イギリスによるアイルランド植民地化に拍車がかかる。彼はイギリス議会からアイルランドの討伐の指揮をとるよう命じられ、軍事的勝利がイギリス議会の安定をもたらし、土地の没収は部下への十分な報酬になると計画していた。彼は土地を収奪し、その代わりに不毛の荒地を与え、それを拒んだ地主を西インド諸島に奴隷として売りさばき、絶え間ない大虐殺が繰り広げられた。
1690 名誉革命でアイルランドに亡命していたイギリス王ジェームズ2世(カトリック教)に対抗して、プロテスタント側はジェームズの義理の息子、オレンジ公ウィリアムをまつりあげ、この2派がアイルランドで衝突したのが「ボイン川の戦い」。結果はオレンジ公ウィリアムのプロテスタント側の圧勝。その後アルスターのプロテスタント系住民はイギリスから特権を与えられ、北アイルランドの経済を発展させる。それだけに彼らはイギリスからの独立には強く反発。イギリスに帰属することが、北アイルランドのプロテスタント系住民の生き残る手段だった。17世紀のアイルランドは暴動、混乱、戦争や土地の略奪、殺人等がはこびる忌まわしい時代だった。
1695 このカトリックの敗北後、「カトリック処罰法」という、その後150年間のプロテスタントによる支配が始まる。アイルランド語、文化、慣習の廃止、カトリックは大学にも行けず、医師等にもなれず、土地も所有させられず小作人になるしかなかった。カトリックのミサに参加した者全員が火あぶりの刑に処された。
1700年代
イギリスの傘下にあるアイルランドは経済が発展、スコットランドからは農業にたけているプロテスタントが、宗教的迫害や不作を理由にアルスター地方に渡って行った。人口も増加し、カトリックはイギリスの支配のもとに完全に屈していて、戦火は沈静した。とはいえ、大部分のアイルランド人はイギリス支配下の土地にとどまり極貧の暮らしを強いられていた。彼らのわずかな稼ぎはイギリス在住の“不在地主”を楽に暮らせさせているにすぎなかった。地代が払えないものは土地を追われ、いたる所に乞食があふれていた。1700年代も後半になると、アメリカ独立戦争が勃発。イギリスの危機はアイルランドの好機とみなされ、イギリスへの抵抗が高まる。そんな中“ホワイト・ボーイズ”という白衣を来て馬にのった武勇団が地主の家を襲ったり報復の張り紙をはるなどの活動をした。

フランス革命に影響され、ウルフ・トーンにより「ユナイテッド・アイリッシュメン」(統一アイルランド人協会)発足。トーンは「カトリックもプロテスタントも平等」という概念のもとにアイルランドの統一を図ろうとした。ちなみにアイルランドの国旗はトーンの考案によるものである。フランスに亡命中のトーンはナポレオンに、アイルランドへのフランス軍派遣を頼み、アイルランドのタラの丘で蜂起が勃発した。しかし蜂起は失敗に終わる。殆どの蜂起が失敗に終わったのは、イギリスとアイルランドの武力と武器所持の、天と地との差である。
1800年代
1801年、イギリス首相ピットはアイルランドをイギリス本土と合併する案を発効した。これはアイルランドを対外侵略から守り、イギリスからの投資を増やすことで生活水準を上げるとし、またプロテスタントもアイルランドがイギリス本国と合併することで少数派から一気に多数派に転じるので、カトリックの解放に脅えることはないと計算したものだった。同時にカトリックの解放も約束していた。            

しかしこの合併体制は最初に公約をしたカトリックの解放はじめ、何ひとつ好ましい成果はなかった。結局アイルランドはイギリスの繁栄のために無理やり服従を強いられたにすぎなかった。しかしそれから、ダニエル・オコンネルが1823年に自らカトリック協会を設立して、カトリックの解放に向けて活動を始めた。当時のカトリックは法の改定により色々な権利は復活したものの、政治体制は制約があった。彼らは国会議員、判事、将官、上級公務員にもなれなかった。彼はカトリック協会から毎月小額の金を集め、その運動資金でカトリックの小作人達に、カトリックの解放に熱心な地主に投票するよう指示する。カトリックは国会に入れなくても、立候補を禁ずる法律はなかった。その結果、議会でもカトリック解放派が多数になり、オコンネルは当選し、カトリック解放令を翌年議会に提出、議会を通過成立した。これはアイルランド国民が結束すれば暴力や争いなしでも変革がかなうことを実証した、オコンネルの勝利だった。しかし1840年保守党で反カトリック解放をしてきたピールが首相になり、事態はかんばしくない方向へ。オコンネルのやることなすことに必ず邪魔が入り、民衆も士気を失いオコンネルは死亡。この時期はアイルランドで至上最悪の大飢饉が起こった。

アイルランド人の主食であったジャガイモ飢饉は1727年から1839年ぐらいまで、頻繁に続いた。当時は原因が不明で、打つ手はなにもなかった。各地で餓死する物が増え、家には骨だけの人が数体の死体とともに生活をしているという状態だった。芋が全滅状態なので、地主に地代を払うためには自分たちの食糧のオート麦をも売らなくてはならず、家族は食わずじまいだった。というのも、地代を払わないと土地を追い立てられることをアイルランドの農民は一番恐れているので、結局地代を払ってしまう。当時小麦は豊作だったが、これはイギリス人のみの食糧なので、アイルランド人が食べることは許されなかった。また、アイルランドは海に囲まれた島なので、何故海の幸を食べなかったのかというと、漁師は生活の苦しさから一切の漁具を売り払っており、もちろん舟というものはなかった。飢餓を目の前にし、海を見ると沢山の魚が波の上を飛び跳ねているのを、ただ指をくわえて黙って見るしかなかった。

アイルランドに工業が発達しなかったのは、イギリスがその発達を阻止する植民地政策をとっていて、アイルランドの農業の遅れをもたらしたのは、16世紀以来のイギリスの地主によるアイルランド農民の組織的な収奪だった。オコンネルの呼びかけた大集会とはもう無縁になり、人々の関心はどうすれば飢えずに生き延びられることかだった。その飢饉がきっかけで、祖国を捨ててアメリカ、ヨーロッパ、イギリスへ移民した人は150万人以上になる。そして19世紀後半に餓死したものも100万人。アイルランドは人口の4分の1を失った。

この時代、小作人である農民の考えた非暴力の抵抗があった。小作料の値上げ通告に来た“不在地主”の代理人に対して、住民全員が徹底した無視を行った。ちなみにこの地主の代理人の名前が“チャールズ・カニンガム・ボイコット”と言い、ボイコットという固有名詞はここから生まれた。
1905 アーサー・グリフィス率いる「シン・フェイン(アイルランド語で“我ら自身”)党」が結成。グリフィスは武力闘争ではイギリスに勝ち目はないと思い、政治的独立には経済的独立が必要だという持論があった。
1912 ダブリンでアイルランド独立を目指した「イースター蜂起」が勃発。これはIRB(アイルランド共和主義者同盟:後のIRAの母体)による、ダブリン中央郵便局を占領し、アイルランド独立を宣言。ちなみにこの蜂起にはシン・フェイン党は参加しなかったが、イギリスから「シン・フェイン党の蜂起」と呼ばれ、シン・フェイン党はこの後一挙に有名になる。しかし反乱軍は制圧、逮捕された首謀者は残虐な処刑にあう(映画:マイケル・コリンズで詳しく描かれている)。それまで一般市民は特に独立は意識してなかったが、この残虐な処刑を目のあたりにし、独立派に賛同する声が高まる。
1919〜22 アイルランド独立戦争〜アイルランド独立の条約が調印。しかし、北アイルランドのアルスターに属するカウンティ(県のようなもの)のうち、シックス・カウンティ(6県)は除外。この条約をめぐって、シン・フェイン党と義勇軍(のちのIRA)が分裂。1922年まで内戦が起こる。この後シン・フェイン党は軍事組織・IRAの責任を一気に背負う形となる。プロテスタント系住民のイギリスへの政治的帰属意識が強かったこの地域はイギリス内におさまった。アイルランドでは、このシックス・カウンティをめぐり内戦が起きる。このせいでマイケル・コリンズは凶弾に倒れる。
1922 内戦はなんとか収まり、アイルランドは26カウンティの独立国「アイルランド共和国」として独立。歩みを始めたが、北のシックス・カウンティ問題は未解決のまま。
ちょっと
ブレイク。。。
北アイルランド社会の複雑な構造

ぶれいく
たいむでーす

現在、北アイルランドに住む人々は、「カトリック系」(ナショナリスト、過激派と呼ばれる人は「レパブリカン」)と「プロテスタント系」(ユニオニスト、過激派と呼ばれる人は「ロイヤリスト」)に分かれている。「カトリック系」「プロテスタント系」といっても、宗教上の区分だけでなく、学校や地域コミュニティーなどの日常生活でも、セクタリアン(分離主義)政策がとられてきた。

ナショナリストとは、北アイルランドの、アイルランド共和国への統合を望む人々。だからと言って全ての人が、IRA(アイルランド共和軍)や、INLA(IRAから派生したレパブリカン・グループ)の過激行動に賛同してるわけではない。例えば、北のカトリック系住民の多くを代表するナショナリスト政党SDLP(社会民主労働党)は、和平の進展の鍵をにぎり、テロ行為批判と武装破棄を主張。一方、IRAやINLAを支援したりしているのが、「レパブリカン」と呼ばれる。

北アイルランドのイギリスによる統治継続を望むのが、「ユニオニスト」で、プロテスタント系住民の大多数。カトリック系への無差別テロを続ける過激派と呼ばれる人を、特に「ロイヤリスト」と呼ぶ。

IRAにとっての敵は、「イギリスによる植民地化を継続させる組織」だから、プロテスタント系住民は彼らの直接の敵ではない。カトリック系住民居住区では、RUC」(ロイヤル・アルスター警察隊。プロテスタント系の警官が多く、カトリック系住民への無差別な対応が昔から問題になっている)を、警察として認めていないIRAが自衛警察的な役割も果たしている。

IRAとINLAがテロの標的にするのは、イギリス軍や北アイルランドの警察組織RUC。IRAは80-93年の間に約250人のRUC関係者を殺害。多くの犠牲者は自宅で、それも家族の目の前で殺害。同時期に約300人のプロテスタント系一般市民も殺害。一方、テロ組織はイギリス帰属派のプロテスタント側にもある。IRAという名称が強すぎているようだが、一般市民を巻き込んだテロは実はロイヤリスト準軍事組織(パラミリタリー)によるものの方が多い。98年に入ってからニュースでよく取り沙汰されるのが、LVF(Loyalist Volunteer Fighters:94年の停戦に合意したロイヤリスト・テロ組織UDA/UVF(Ulster Volunteer Fighters)から独立した超過激派。88年-92年にロイヤリストのテロで殺された人は138人。その大半が、IRAやINLAと無関係のカトリック系一般市民だった。
1949 北を除く「南の」アイルランドは「共和国」を宣言し、イギリス連邦から脱退する。
1967 北アイルランドに「公民権協会(NICRA)」が設立される。リーダーはアイヴァン・クーパーで、当時のアメリカのマーティン・ルーサー・キングJr牧師の黒人公民権運動に影響されてできたもの。目的は北アイルランドのプロテスタントによるカトリックへの差別停止を訴えるもの。
1968 北アイルランドで「公民権運動」が始まる。
1972 北アイルランドのデリーで、公民権協会による平和的なデモに英国軍が発砲した「血の日曜日事件(Bloody Sunday)が起こり、14名のカトリックがイギリス兵士に射殺される。イギリスによる北アイルランドの直接統治が始まる。(Bloody Sundayはどうして起こったかで、詳しく記述)この事件にはアイルランド共和国も激怒、ダブリンのイギリス大使館が焼きうちにあい、各地で抗議デモや報復、大混乱が多発する。
1974-78 レパブリカンロイヤリストによるテロ行為が悪化。毎年200-300人の一般市民を巻き込んだ死者がでる。
1979 イギリスでは保守党によるサッチャー政権が発足。エリザベス女王の伯父にあたるマウントバッテン卿がIRAの時限爆弾にて死亡。サッチャー首相はRUC警官を1000名増員しIRAの撲滅を宣言。
1980年代 IRA服役因によるハンガー・ストライキが始まる。ボビー・サンズは獄中にて国会議員に当選するが出獄できずハンスト死。「サッチャー首相が見殺しにした」と批判される。84年にはブライトンでの保守党大会でサッチャー首相暗殺が計画されたが、彼女は無事で代わりに5名死亡、30人重軽傷。この後双方の数え切れない暗殺、報復、爆弾テロが80年代いっぱい相次ぎ、毎年100-200名以上が死亡。
1994 レパブリカンロイヤリストの中心テロ組織が停戦を宣言。
1995 しかし、IRAによるロンドン波止場爆破で停戦が中断。
1996 2回停戦宣言。イギリス労働党のブレア首相の下、シン・フェイン党のアダムズ党首やマクギネス議員がはじめて和平協議の席についた。
1997 また事態悪化。ロイヤリストの殺し屋、ビリー・ライト(UVFから追放され、LVFを設立した人物)が獄中で暗殺されたのをきっかけに、LVFのカトリック系一般市民への無差別テロが起こる。
1998 1972年に起き未だに未解決のままだった「血の日曜日事件」の再調査が、イギリス首相トニー・ブレアの発表により行われることに。「イースター合意」とよばれる合意が各党間でなされる。ナショナリスト、ユニオニスト双方が妥協する形の合意案は、99年の国民投票により承認された。8月にはIRAの分派「真のIRA」によるオマーでの爆弾テロが起こり、28人が死亡。10月にはユニオニスト(UUP=Ulster Unionist Party)の党首であり、和平協議の立役者であるデビッド・トリンブルと、ナショナリスト(SDLP=Social Democratic and Labor Party)の党首で、和平協議のナショナリストのまとめ役であるジョン・ヒュームがノーベル平和賞を受賞する。今後は北アイルランドの住民が自分たちの未来を決めることになる。
1999 3月のタイム・リミットに、北アイルランド行政府が形成されず。IRAの武装解除をめぐる対立によるもので、6月の期限にも不成立。イギリスとアイルランド政府はミッチェル前和平協議議長に「和平合意」の再検討を要し、9月に再検討が始まる。


北アイルランド問題には、宗教、歴史、政治などの複雑な要素がかみ合っている。
たとえ北アイルランドがアイルランドに統合されるとしても、
長い間その土地に住んできたプロテスタント系住民への配慮は
欠かせないし、優劣を競うのではなく、共同体意識が生まれない限り、
本当の解決への道は遠いと言わねばならないだろう。対立の根は依然として深い。




この紛争の記述にあたり:
○トラベル・ジャーナル社発行 ヨーロッパ・カルチャーガイドI「アイルランド」より参考および引用をさせて頂き、
○明石書店発行、著者・小野修氏の「アイルランド紛争・民族対立の血と精神」より参考および引用をさせて頂き、
○丸善株式会社発行、著者・鈴木良平氏の「アイルランド問題とは何か・イギリスとの闘争、そして和平へ」
より参考および引用をさせて頂きました。

色々と御協力を心から感謝します。どうもありがとうございました。