北 里 回 顧      

 

          

     
              現在の北里研究所病院(白金)

   

北 里 回 顧 (1)     小 倉 治 夫

  昭和37年(1962)、北里研究所は創立50周年記念事業として大学を設立した。ちょうど、その年の10月、慶応義塾大学薬化学研究所に在籍していた筆者が、留学先の米国のコーネル大学から戻ったときである。ここで、北里大学薬学部の源泉となった慶応義塾大学の薬化学研究所について少々述べておきたい。この研究所は昭和12年(1937)、慶応義塾大学医学部に設立された特殊薬化学研究所(建坪110坪)の鉄筋コンクリートの3階建ての建物(当時、20万円の寄付をあつめて造られた)に始まる。初代所長は阿部勝馬教授(薬理学教室)で、化学療法の創始者P.工一ルリッヒが秦佐八郎と協力して成し遂げた"サルバルサン"の発見に至る−実験治療研究−を目標にした。この年の7月7日、日華事変が勃発するという時期であった。その性か建物は大変粗雑で、聞くところによると、不足した鉄筋を竹で補ったとのことである。実験の失敗などで床に水をこぼすと、下の階の天井に水が落ちてくるという代物であった。肝心の秦佐八郎教授(細菌学教室)も翌・昭和13年(1938)11月に死去して体制が整わないまま、第二次世界大戦へと突入してしまった。

 

          

             特殊薬化学研究所の表階段壁面にあった

          鈴木三郎助氏寄贈のプレート

 

  昭和19年(1944)10月、初期の目的を達成するため薬化学研究所に拡大改組して、義塾直属の研究所とし、所長には当時の医学部長・病院長の西野忠次郎教授が就任した。副所長として阿部勝馬教授(薬理学教室)が、続いて上田武雄教授が翌・昭和20年(1945)2月、主任教授として着任して体裁を整えた。その頃から、薬化学研究所を発展させて、慶応義塾に薬学部を設置したいとの意向があったものである。しかし、5月23日には米軍の空襲で病院と基礎医学教室の殆どが入る"東・西校舎"のすべてを失ってしまった。残ったのは、薬化学研究所、予防衛生教室、寄生虫学教室、北里記念図書館、別館だけであった。

  戦後、医学部と病院の復興が最優先課題となり、薬化学研究所も基礎医学教室とともに武蔵野市の中島飛行機株式会社の青年学校あとに移転した。その後、薬化学研究所は小児科と産婦人科病棟として用いられるようになった。昭和23年12月、朝比奈泰彦教授の推薦で、上海自然科学研究所から柳田昌一教授が着任して、三教室体制が整った。しかし、研究所としての体裁は整わず、研究費もまた限られたもので細々と研究が続けられた。はじめの頃、上田教授も柳田教授もこの青年学校の寮に入居していたから、出勤は廊下つたいで雨の日でも傘もいらず、スリッパで研究室へ行けたから便利であったようだ。

  昭和30年になって、ようやく信濃町キャンパスヘ戻ることが出来たが、戦後の劣悪な研究環境は医学部と病院の再建を優先したから、薬化学研究所は1階が医化学教室、2階が薬理学教室で、3階を上田、柳田両教授で分かち合って使用するという状態であった。そのような状態の中で、上田教授は"抗ウイルス性化学療法剤の研究"というテーマで日本薬学会賞をもらうなどの活躍をした。柳田教授もサントニンを中心として、我が国では最先端の立体化学の研究を進めた。

  筆者は昭和27年(1952)3月、大学卒業後、2年半を厚生省の国立衛生試験所ですごしてからこちらへ移ったのであるが、給料の安いのには泣かされた。勿論、衛生試験所も始め3ヶ月は無給で、その後も安月給であったが、ようやく1万円になったときに、慶応義塾薬化学研究所へ移って、その月給は6千円になった。下宿代がちょうど6千円(朝夕2食つき)であったので、昼食はがまんしても交通費がなくて苦しんだ。退職金を使って国家試験の模擬テストの販売などをおこなったが、お客さんは一向に現れず、投資した紙代を回収できずに終わった苦い思い出がある。そんなことから「理事長」という大変なあだ名がついた。学生時代に借りていた奨学金も返せずに、給与伝票を送って延期を願い出たら、「3年間の猶予を認める」なんていう返事がきた。

  そんなときに、救いの手を差しのべてくれたのが、黒田辰一郎先生である。先生は上田教授と同級で、その頃は中国から帰って柳田教授の研究室で、筆者と向かいあわせの実験台で研究をしておられた。先生は筆者の窮状を見かねて、文献調査を手伝わせてくれた。当時はまだ、現在のようにコピーが出来る時代ではなかったから、日曜日になると研究所のタイプライターを借り出して、信濃町の慶応義塾医学部の北里図書館へゆき、薄暗い図書館の片隅で、必要な文献をタイプした。

         

 

         前列中央が黒田先生:後列左から三人目筆者
 

  お陰で昼食が食べられるようになり、更に独学でタイプライターが操作できるようになった。アルバイトのお金をもらうと、新宿西口の闇市のなごりのバラックヘ行って、一番廉い干し魚を一山買ってきて、それをガラス管に通して実験台の間に乾しておき、昼飯がわりに一匹か2匹を食べてしのいだ。その結果、今度は「目刺し」というあだ名を頂戴した。思ったより沢山アルバイト代を頂いたときは、バス停前のお菓子屋でコッペパンを買ってきて食べた思い出がある。北里大学へ移ってからもほとんどの論文を自分でタイプすることが出来たのも、考えてみれば黒田先生のおかげである。

  黒田先生は柳田教授と同じく生薬学教室の出身で植物学の専門家であった。先生は昭和14年(1939)、山口誠太郎先生と共に、南京の紫金山に咲く青い花の大根の種を採取して日本に持ち帰り、「紫金草」と名付けて広く種子を配布してから、全国に広まって春の山野をにぎわせている。この花の名前は「ショカツサイ(諸葛菜)」と言って、古くは宝永・正徳年間(1704-1716)に来日したもので、江戸時代にすでに栽培されたものである。

              

              庭に咲いた「シキンソウ」

  「シキンソウ」のほかに「ハナダイコン」「ダイコンバナナ」「オオアラセイトウ」などの名が付けられている。この話は、先生から直接に聞かされた。春、我家の庭にこの花が一斉に咲きだす頃になると、毎年、黒田先生のことを思い出す。

  「シキンソウ」については、朝日新聞2003年4月20日13版34ページに「平和の願い南京に咲かせたい」というテーマで、南京大虐殺記念館の周囲に建設予定の公園に、紫金草の咲き乱れる平和の花園を建設する予定とのことである。その計画の中心人物が、前述の山口誠太郎博士の息子さんの裕氏で、会員の一人−大門高子さんからも連絡を頂いた。黒田先生は当時、山口少将のお付武官であったとのことである。紫金草公園の成功を祈りたい。

  筆者が1994年、南京城を訪問したときの写真がある。城内では盆栽展を行っていて、結構な人出であった。城門の大きさと屋上の広さに圧倒された記憶ある。

      

      1994年10月13日中華門屋上で(筆者)

 

  北里研究所が創立50周年記念事業として、衛生学部だけの単科大学を設立したのが、昭和37年(1962)であるが、その5年前の昭和32年(1957)に北里衛生科学専門学院を設立していた。わが国の近代医学の祖とも言うべき北里柴三郎の研究は世界的に有名であったが、北里研究所の経営は戦後、特に窮迫していた。一つには、この窮状打開のために学校経営に邁進したものと考えられる。

  昭和39年の年があけてから、東京大学の岡本敏彦教授から電話があり、「北里大学へ行かないか」との話である。柳田教授にお話をして、許可をお願いしたが、なかなか返事がもらえない。3月に入ってからようやくお許しが出て、早速、岡本教授に連絡すると、「すぐ来い」とのことで、大学へ伺うと、直ちに北里大学と連絡して、「北里大学の沼田岳二先生が窓口だから、すぐに会うように」とのことである。あわただしく沼田先生の指定された、北里本館階段を上ったすぐの左側の部屋へ行った。実験台が真ん中にある狭い部屋で沼田先生と会ったが、『まず給料は公務員給の2号加算であること。初年度の学生募集はすでに終わっているから、4月からすぐに講義が始まること』などなどが言い渡された。その頃の慶応義塾大学では、ようやく公務員給にスライドするようになって、講師の月給は当時漸く6万円になって、細々と親子5人暮らしが出来るようになっていた。そこで、『講師から教授になるのだから、今より増える』と単純に理解した。(後で触れることになると思うが、これはとんでもない間違いであった)早速、『では、よろしくお願いします』というわけで北里大学への就職が決まった。そこで、研究費を年間100万円欲しいと申し上げたところ、『それは、わたしには決められない。長木先生を呼んでください』と秘書の方にお命じになった。直ちに長木大三先生がこられて、『研究を一日も止めるわけには行かないこと:東大で実験台をかりて仕事を始めること』のためにも100万円の研究費が欲しいことを繰り返すと、先生はただちに『いいでしょう』といとも簡単におっしゃったので、これには一瞬我が耳を疑った。その時の驚きは今も鮮明に覚えている。当時の慶応義塾薬化学研究所における一教室の年間研究費がたった35万円であったので、これにくらべて充分仕事ができると感じたし、はっきりと結論を即決する長木先生のような人材がおられる大学は、今は無名でも将来必ず大成すると感じた。後で聞いたところによると、その時の薬学部長上田教授の年間研究費が、50万円であったとのことである。今、思えば北里大学がここまで強固な地歩を築き得たのは、長木先生の開学の熱意に負うところが多い。

  長木先生は北里研究所が学校経営にのりだす主導者であったし、さらには北里大学の牽引車として、学務担当理事をしておられて青年将校の感があった。北里大学で好きな研究が思うままにできたのは、この出発点に負うところが多い。長木先生は、慶応義塾の学生時代から北里研究所創始者の北里柴三郎に傾倒していたので、北里柴三郎の精神を分かりやすく解読して、次の4項目にまとめて「北里精神」として学生の指針とした。

1 開拓  2 報恩  3 叡智と実践  4 不撓不屈

  このモットーは分かりやすくて、北里全体のベースとなり、今日の北里学園をかたち造ったと言っても過言ではない。いずれにしても長木先生のような万年青年将校のような牽引車がいなかったら、北里大学は出来なかったと思う。

          

           長木先生と筆者 (2002年5月3日撮影)

               (2002.7.18              小倉治夫 記)


 

北 里 回 顧 (2)   小 倉 治 夫

  昭和39年(1964)4月、ちょうど日本で、はじめての東京オリンピックの開催の年と時を同じくして、北里大学薬学部は設置された。設置までには、約1年間の準備期間があった。その間に文部省や大学設置審議会などの意向をふまえて、大学設置基準のクリアと教員組織の充実が計られた。教員人事に関しては「薬学部創設の思い出」や「おりたく薬の記」(上田武雄著)にもあるように、大学設置審議会委員の東大教授伊藤四十二先生の意向に沿う形で行われた。色々と根回しが行われたようであるが、この辺の事情は上田教授の前著に詳しい。薬学部としては専用の教育用講義室すらない状態での出発であった。このような訳で、学部のスタートは薬品分析学教室担当・上田武雄教授〔薬学部長〕、高田純助教授と薬化学教室担当・小倉治夫教授だけのささやかな出発となった。

  当然、教授室・研究室はないから、お願いしてようやく居室を、北里本館(現:明治村;以後、旧北里本館とかく)1階図書室前の角部屋に設置することができた。この部屋を薬学部長室、兼教授室として、机を3台ならべて仕事をした。午前中は上田学部長と背中合わせの椅子を後ろ向きにして、カリキュラム、人事、建築、予算などの打ち合わせを行い、合意事項を午後の理事会に上田学部長が提案するという毎日であった。雑用が多くて、提案事項は一向に進展せずいらいらする毎日であった。梅雨の頃になってからは、狭い風の通らない教授室での住み心地は最低であった。せめて、扇風機を買って欲しいとお願いしたが、贅沢であるという理由で却下された。現在の薬学部校舎のように、全館空調などという施設は、それこそ、もったいないような気がする。そう言えば、部屋の電灯のスイッチも直してもらえずに、危険であるので、筆者が前の店から部品を買ってきて修理をした。

北里研究所本館・医学館(明治村)

一番手前の部屋・1階は図書室:図書室のとなり 窓前の部屋(第二室)が最初の薬学部教授室・兼・学部長室;図書室の2階は所長室

旧北里本館(移転直前;記念誌から)

 左手の2階建て1階が大学事務室となった

  学園発足20周年を記念して昭和54年(1979)、旧北里本館は明治村へ移築して北里研究所本館・医学館として保存された。その一室(上述)に筆者が修理したスイッチが残されていることを期待していたが、先日、見学に行ったところ、どの部屋も改装されて、同じスイッチに整備されていてがっかりした。部屋はかなり狭かった記憶があるが、こんなに狭かったかと驚くほどである。前の図書室跡の入り口には、北里柴三郎の写真が立てられている。多くの展示品を見ていると、我が国の医学の発達に、北里研究所が果たした功績がいかに偉大であったかがわかる。いずれにしても、北里薬学の発祥の部屋が、明治村博物館に保存されていることは喜ぶべきことである。

 

兼・学部長室(現明治村)

問題のスイッチ
 (現明治村)

  北里へはじめて来たときに沼田・長木両先生に面会した2階の部屋(北里回顧1)には入れず、また、2階の所長室へも入れなかった。靴を脱いで、おそるおそる所長室に入った40年近くも前のことが、いろいろと思い出された。昭和39年秋には、次年度の予算を計上して理事会へ提出したが、そのとき、1億円の予算をたてたところ、秦先生に「こんな予算をたておって・・・」と大変な勢いで叱られた。「そのころの、北里研究所全体の予算に比べてあまりにも膨大である」との理由であった。

  昭和39年の4月には、京都で第3回国際天然物化学会議が開催され、「シス−サンタン酸の立体配座について」報告したが、慶応義塾時代の研究発表であったから,所属が慶応から北里大学へ変更になったことを座長が説明してくれた。前編でも述べたが、慶応義塾薬化学研究所では、柳田教授を中心に、当時の我が国ではもっとも優れた立体化学の研究をおこなっていた。筆者は、主にサントニンを基本とした立体化学の研究を行っていたが、その還元生成物のうち、核間シス−配置の化合物の立体配座について、ダブリン大学のクッカ−教授との間で論争になっていた。すなわち、ステロイド型かノン−ステロイド型かという論文で、クッカ−教授らはステロイド型を主張し、我々はノン−ステロイド型と決定して報告したものである。

        

 

    IUPAC SYMPOJIUM KYOTO APRIL 12-18 1964 のプログラムから

 

  発表を終わって降壇すると、クッカ−教授と共同研究者であるマクマリ−教授が握手をもとめて、’Congratulations’ と言ってくれた。プログラムに二人の名前が並んでいる。この研究は当時、まだあまり使われていなかったORD 曲線の測定をアメリカのジェラシ−教授にお願いして得られたデ−タをもとにして結論づけたものである。この結論が正しかったことは、後にX線解析によって確かめた。


  この会議は、我が国で初めて開催された国際天然物化学会議で、しかも、古都−京都−での開催であったから、国内外から多くの参加者があった。アメリカ留学時、コーネル大学で師事したマインワルド教授も来日して、昆虫フェロモンを中心とした、分泌物についての講演をした。この国際会議では、マインワルド教授の我が国における一番弟子であった野崎一教授(京都大学;現学士院会員)が、事務担当の中心であったので、多忙を極めていた。そのため、野崎教授のかわりにマインワルド教授の案内役をつとめた。

  

 

野依教授はその当時、まだ大学院学生で、野崎教授から

「うちの学生で、俺より偉いやつや」と紹介された人

2001.12.26の記念式典で撮影:左は育ての親−野崎教授−

  そのとき知りあった多くの人々のなかに、先年、ノーベル化学賞をもらった野依良治教授もいた。当時、野依教授は大学院学生で、野崎教授から「うちの学生で、俺より偉いやつや」と紹介された人で、その後、学会で顔を会わせるたびに、いろいろと情報を知らせてくれた。ノーベル賞をもらおうと心がけるほどの人は、記憶力のよいことのほかに、まめで親切であることを大切にすべきであろう。

  ようやく、薬学部の基本構想が出来上がったが、肝心の建物がなかなか出来ない。薬学部の中心建築物となるべきE号館の基本設計は紆余曲折をへて、予定から1年も遅れたのである。昭和39年当時は北里研究所の新研究棟(現在の薬学部1号館と3号館の間にあって、取り壊し作業中)が建設中で、当初は、この建物と平行して同型のビルを建てる予定であった。しかし、秦藤樹先生から【駄目】がでて白紙に戻ってしまった。当時、秦先生は北里研究所所長、兼北里大学学長・理事長として全権を握っていたから、この先生が「ノ−」と言われると、全てがひっくり返ってしまう。これにもまた、大変驚いた。

  薬学部校舎の建築が一向に進まないので、東京大学の岡本教授にお願いして、薬化学教室の実験台を1台借り受け、助手一名を採用して細々と研究を始めた。研究はなかなか進まなかったが、薬学部設置に関与した伊藤四十二教授から、筆者に北里との連絡を密にするよう指示された。そんなことから、伊藤教授とは薬学部の進捗状況から人事に至るまでの相談をした。「北海道大学の小林君を是非採ってもらいたい。彼は家が東京だから、帰りたがっている」との話があったのは5月頃だったかと思う。「小林先生は四高の先輩で、学生時代にはマウスのつかみ方を習いましたから」というような話をした記憶がある。伊藤教授はその後、東京大学を定年退官して静岡県立大学の学長となり、やさしい顔に似合わない辣腕を振るっておられたが、若くしてなくなられた。

  その小林凡郎教授は昭和39年10月に着任され、以後、伊藤教授との連絡係を辞退したが、時には呼び出されて質問された。小林教授はのちに薬学部長として、ついで、北里大学の学長として活躍されたことは諸君のよく知るところである。残念ながら早世されたが、先生のおかげで白金再開発事業は進展して、大学は見違えるように近代化した。

  当時は、薬学部の平教授は筆者一人であったから、全ての学部委員を全部引き受けなければならなかった。当然、新校舎の建築委員も引き受けた。薬学部代表の建築委員として、随分頑張ったと思う。この委員会の委員には筆者のほかに化学畑の人がいなかったから、どうしても建築屋の言に引きずられる。「化学実験室には直射日光が入らないこと;避難しやすいこと」を最後まで主張していたが、あまり取り入れてもらえなかった。北里大学発足の牽引車の一人であった黒川正治教授に「小倉君、そんなこと言ってると、何時までたっても建物が出来ないよ」と忠告された。それから、あんまり文句を言うのを止めた。とにかく、薬学部の建物が必要だ。

  最終的には、学生実習室の出入り口を2ヶ所に増やしてもらえたし、避難用の外階段を広く正面にとってもらえた。この建物がE号館(現3号館)で、H型の見栄えのする建物になった。その前が、ちょっとした広場となり、学生のたまり場となったが、H号館(現2号館)ができて、この特徴ある筆者苦労の外階段が見えなくなってしまったのは残念である。その上、建物の中央にごみ処理施設を設けたから、冬でも蚊がいるなど、外見に較べて実質は北里の名に恥じる建物になった。また、研究室がせまく、講義室もまた、化学向きのものが用意されなかった。教壇に実験の設備がなく、黒板とスクリーンの双方を用意するキメの細かさがなく、教壇と机の間隔がせまくて、教えにくく、学びにくい教室になった。このあたりが、今度新築された薬学部1号館で改善されるかと期待していたが、一向によくなっていない。設計業者や建築業者の洗脳は大変難しい。

 

                   (2003.1.22             小倉治夫 記)


北 里 回 顧 (3)     小 倉 治 夫


  E号館(現3号館)は予定より1年ほど遅れて、昭和39年末に大きな穴が掘られて基礎工事が始まり、突貫工事がすすめられた。基礎工事の際、岩盤に行き当たり難工事になった。今では考えられないことだが、補強用の杭が入らず、途中で何本も切断した。大量の地下水が湧いて、コッホ神社の池の水が涸れてしまい、この地下水を池へ逆に補給した。この地は、古くは古川の河川敷で、白金台から地下水が流れてくる。この地下水脈を断ち切ったのではないか。

 

   


E号館は平面図がH型の見栄えのする建物になった。その前が、ちょっとした広場となり、学生のたまり場となったが、H号館(現2号館)ができて、この特徴ある筆者苦労の外階段が見えなくなったのは残念 (写真は完成当時:北里大学十年史から)
 

  E号館の建設場所は北里研究所・新研究棟の南側で、そこは、旧北里本館の裏側にあたり、それまで北里研究所の主な研究室が並んでいたところである。当時の写真はなかなか入手出来なかったが、水産学部の野村節三教授が取り壊し直前に撮影したものを借り受けることが出来た。その一部をここに残しておきたい。今では貴重なもので、E号館(現3号館)の前身がこのような北里研究所の木造研究室であったことを知る人も少なくなった。

(1) 左手に旧本館:長木室、
培養室、春日室、右手は右の写真に続く
(2) 新研究棟完成直後の秦室
E号館は左右の建物すべてを
撤去して建てられた

 
  上の写真でわかるように、旧本館と新研究棟との間に二階建ての木造建築物がならんでいて、裏から旧北里本館へ続く渡り廊下があった(写真(1):左奥)。何しろ床も根太が落ちてがたがたしていたが、その狭い通路のような部屋で、長木先生が白衣を着て、研究をしておられたのを覚えている。
  E号館はこのようにして、曲折を経ながら、昭和40年11月の完成となったが、曲がりなりにも薬学部はようやく地に足のついた教育・研究が出来るようになった。

(3) 旧秦室と新棟との間:中の道
この跡と当時の新研究棟跡がグリーンベルトになった(下の写真)
(4) 旧研究棟の後ろに新研究棟と右手に製造棟が見える




  
       薬学部1号館(左)と北里研究所病院
(この前景が研究所3号館と中の道跡地;上の写真(1,2,3,4)からは想像もつかない)


  薬学の教育には欠かせないもののひとつに、生薬学がある。生薬学の基礎は植物学と動物学と鉱物学であろう。特に薬用植物学は重要である。当時の薬学教育設置基準に最小限度必要な施設の一つとして指定されていたからでもあるが、どの薬学部も薬用植物園をもっていた。北里では、講義用の建物でさえ出来ていないのだから、薬用植物園なんてとんでもないことであった。そこで、北里研究所の敷地にある薬用植物(薬用でない物も含めて)に名札をつけて、どのような効能があるかを付け加えた。東病棟の前の花壇には許可をえて薬用植物(出来るだけきれいな花を咲かせる物という希望だった)を植えたりした。少しでも、学生の参考になればと思ったからである。

  そのとき、コッホ神社(その頃は現在の北里ホールあたりにあった)の境内に植えられた数本の小木に「イチイ」という名札をつけた。ところが、数日後に庭師の親方がきて、
 「先生は、あの木に「イチイ」という名札をつけたが、わしは「メタセコイア」を買ってきて植えた。植木屋が間違ったものをくれたのだろうか。」
 と言うのを聞いて唖然とした。
 「そりゃ、植木屋のほうが正しいに決まっている。私は素人ですから・・・」
 と言って、難を逃れた恥ずかしい思い出がある。数日後に、この木はなくなった。やはり、そんな大きくなる木を狭いところに植えるのは無理だと思ったのかも知れない。いやはや、汗顔の至りである。
 「メタセコイア」は中国の原産で、1949年に我が国に輸入され、今では全国至る所に植えられている。挿し木でもよく活着し、成長も早い。これと同じスギ科で、名前も姿形もよく似た「セコイア」は「イチイモドキ」とも呼ばれ、アメリカ北西部に自生する、世界最大の常緑針葉樹である。このほうは江戸時代末期から明治にかけて、我が国に渡来した。

セコイア・ヨセミテ国立公園
周辺地図
ヨセミテ国立公園地図


  「セコイア」の原生林はセコイア国立公園として保護されている。1962年、留学先のコーネル大学(ニューヨーク州)から帰国の際、たった一人で、ぼろ車を運転してアメリカ大陸を縦断・横断旅行をした。そのとき、ロサンゼルスからサンフランシスコへ向かう途中、【フルブライト留学生であったので、委員会から「出来るだけ、往復は片便に船を使って、見聞を広めるように」とのことで、帰路はサンフランシスコからプレシデント・ウイルソン号を利用することにした】セコイア国立公園をへて、ヨセミテ国立公園に一泊した。
    
  セコイア国立公園では、巨木にトンネルをあけて車が通れるようになっていて、いかに巨大なセコイアであるかを知らされる。記憶では、このトンネルの入り口に、当時、愛用していたカウボーイハット(今でも大事に残してある)をひっかけて撮った写真があるはずで、家中引っかき回して探したが見あたらない。この大木は、1881年に駅馬車を通すようにくりぬかれ、女王の名で親しまれたものであるが、1969年、倒れてしまったとのことである。


  ヨセミテ国立公園に着いた頃はもう夜も更けていて、ヨセミテ・ロッジのフロントへ行くと、「ホテルの部屋は空いていない」とのことで、キャビンに泊まることになった。ヨセミテの谷底の林の中に点々と造られたロッジで、小屋には、たいした施設もなく、旧式の垂れ流し方式石油ストーブと、暗いはだか電灯、そして木製の粗末なベッドがあるだけで、床は土のままだ。10月初旬であったが、3000mから4000m級の高山がそびえるシェラネバダ山脈の一角である。1日前までは、南国のロサンゼルスをさまよっていたのだから、とにかく、寒くて仕方がない。室内の1世紀前の石油ストーブ(このタイプの石油ストーブは見たことがない)は使用法に従って使うと、4〜5分で、火が消えてしまって部屋は一向に暖まらない。そこで、妙案を考えて、元栓を開けたまま、石油が滴々と落ちるようにしたら、まもなく部屋があたたまった。「もう少し、暖まったら火を消して寝よう」と、よい気持ちでベッドに横になったのだが、一日の疲れがどっと出てきたものか、そのまま、不覚にも眠ってしまった。
  熱風で息も出来ずに苦悶する夢の中、ようやく現実に戻って驚いた。ストーブが真っ赤で、煙突が屋根まで赤い柱になっている。なによりも呼吸ができない。転げ落ちるようにしてベッドからおりて、ストーブの石油の元栓をきり、ドアと窓を開けて外へ出た。ストーブの煙突からは赤い火の粉が飛び散り、心臓が高鳴っていた。その恐怖は今でも忘れられない。一人旅は怖いことが多い。
  朝、4時、もう寝るわけにも行かず、ようやく薄明るくなってきた夜空の星を見上げながら、公園のなかを散歩した。みんな、まだ寝ているのか、人っ子ひとりいない公園を歩く気持ちは大変よい。案内所でもらった地図を片手に、ヨセミテ滝へ向かった。彼方に滝が見えるところまで来たとき、前方の岩の上に、なんと「コヨ−テ」がこちらを見ているではないか。「熊におそわれたときは死んだふりをすると助かる」と聞いたことはあるが、オオカミに出あったときはどうすればよいのか。一瞬、コヨ−テと見合ったまま、体が動かない。ようやく、コヨ−テは向きを変えて歩き去った。こいつは痩せていて、不味そうだと思ったに違いない。もう、滝へ行くのは止めた。そうそうにして、ヨセミテからおさらばだ。40年以上も前の話である。


  セコイア・メタセコイアを見ると、怖かったヨセミテの夜を思い出す。メタセコイアは現在、相模原キャンパスの薬用植物園、学生食堂横に2本育っている。この樹が問題の樹かどうかは知らない。相模原キャンパスで過ごしたことのある人は、誰もがこの樹の下を通ったはずである。

      
            メタセコイア
       (相模原キャンパス:学生食堂横)

  昭和39年9月、北里研究所新研究棟ができあがって、秦藤樹教授の研究室を間借りして、抗生物質の構造研究を行うことになった。研究棟2階の3つ目の実験室と、付随する居室である。居室には、秦研究室の大番頭・佐野敬元教授と同じ実験室で、机を並べて研究することになった。

昭和39年11月北里研究所創立
50周年記念式典での一こま
(秦先生を中心に研究室の人々:
秦先生右となりが松前教授:
左端が野村教授)

(右端:秦研究室の大番頭:
佐野教授)

(秦先生も若かった:
右は秦先生が昭和11年4月北里研究所・生化学部入所時の
生化学部長;藤田秋治先生[秦先生の育ての親])

(筆者も若かった:
左は後に浜松医科大学教授になった吉田孝人博士)


  秦研究室が昭和28年(筆者大学卒業の1年後)に発見した「ロイコマイシン」(白い粉末であったのでこの名称が付けられた)は、前述の旧秦研究室(写真 (2))前の池の辺り(現在の薬学部3号館玄関付近)の土を培養してえられた放線菌(Streptomyces kitasatoensis Hata)から抽出された「マクロライド」(後に、ウッドワード教授が命名したもの)抗生物質である。秦教授は、松前昭廣教授という有能な細菌学者を共同研究者にもっていたから、その他、マイトマイシン、メデルマイシンなど、多くの抗生物質を発見した。毎日のように、秦教授と松前教授のやり合いがあったし、上の写真にある吉田教授もさかんに討論していた。多くの抗生物質とその有用性の発見によって、後年、秦藤樹先生は、後述する大村智教授と共に、学士院賞を受けた。北里大学の誇れるものが付け加えられた。

  ロイコマイシンは、当時、構造未知でえたいの知れない物質であったが、ブドウ球菌、マイコプラズマ、連鎖球菌、肺炎球菌、ジフテリア菌、髄膜炎菌、淋菌、百日咳菌、梅毒菌など広域に有効な抗生物質として有望視され、昭和29年10月には日本抗菌性物質製剤基準に収載されるに至った。このロイコマイシンの構造決定が最初のテーマとなり、2人の助手を採用してもらった。そのときの一人が現在、北里研究所所長として活躍中の大村智先生である。
  ロイコマイシンは後に、抗生物質の「クロラムフェニコール」の商品名である(スペルが1字ことなる)ことから、WHO は北里の名をとって「キタサマイシン」という国際一般名をつけた。また、この名称で、「日本薬局方」に収載されている。このことは北里大学薬学部にとって、世界に誇るべき金字塔の一つである。キタサマイシンの構造式は大村らの活躍によって、昭和41年にはほぼ決定することが出来て、翌年のテトラへドロンレタースに発表した。同時に、秦研究室で発見されていた抗生物質の構造決定の一環として、アマロマイシン(ピクロマイシン)の構造を決定した。面白いことに、アマロマイシンは14員環のマクロライドで、キタサマイシンは16員環のマクロライドであった。しかも、少なくとも6種類の誘導体の混合物であることも明らかになった。これらの研究で、大村先生は薬化学教室で第1号の薬学博士(東京大学)となった。

  薬学部の体制はようやく整ってきたが、薬学科単学科の出発であったので、昭和39年、ただちに、製薬学科の申請準備にはいり、連日、大変な忙しさであった。昭和39年11月には恩田政行教授(薬品製造化学教室)が、昭和40年1月には古谷力教授(生薬学教室)が着任した。つづいて、
昭和40年4月には膳昭之助教授(薬品製造工学)、岡林英雄教授(薬品物理化学教室)昭和40年10月には、関口慶二教授(薬剤学教室)が、昭和41年3月には長沢金蔵教授(衛生化学教室)が、昭和41年4月には富沢摂夫教授(薬理学教室)が着任して、先の3教室薬品分析学教室(上田武雄教授)、薬化学教室(筆者)、生理化学教室(小林凡郎教授)とあわせて、薬学教育の中心部が完成した。

  北里薬学の特記すべき点は、北里研究所から受け継いだ、寄付講座であろう。北里研究所はその中枢とも言うべき、微生物研究の4講座を薬学部発足と同時に、薬学部内につくった。生物薬品製造学(笠原四郎教授)、微生物学教室(井口昌雄教授)、微生物薬品製造学教室(秦藤樹教授)、薬品治験学教室(福住定吉教授)で、これらの講座名は他大学にはないユニークなものであつた。北里研究所がいかに立派な大学を設立するかの希望に燃えていたかを示す一端といえよう。そして、その結果、北里薬学は北里研究所本流の多くを汲むことになったのである。

  昭和40年10月、沼田岳二教授は北里大学の将来像を構築する糧にするため、ヨーロッパからアメリカの大学や研究所を見学して構想をねっておられたが、旅の途中から絵はがきを頂いた。関口教授赴任の直前のことであるが、立派な大学をつくりあげる希望と喜びに満ちあふれていた。また、筆者に託された重責をひしひしと感じた。沼田教授は、秦学長のあとをうけて北里大学学長となり、大学の育成に尽力された。

     

         沼田岳二教授からのえはがき
     (ヨーロッパからアメリカへの船中で書かれた)


  なにしろ、薬学部の教育体制が整わない中での、学科増設であるので、てんやわんやの1年であった。曲がりなりにも、薬学科から1年遅れ(昭和40年)の製薬学科誕生となったが、E号館(現3号館)が出来るまでは衛生学部や、北里衛生科学専門学院の教室(A,B,C,D 号館)を借用した。予定より60人も多い単学科180名の学生が、長細いB号館の教室などで授業を受けた。よい教室がなくて苦労したことを今もはっきりと憶えている。しかも、感度の悪いマイクでの授業であった。さぞ、講義も聴きにくかったであろうが、思へば、個性のあるよい卒業生が輩出した。教育効果と校舎の設備は関係がないのかも知れない。  

 2003.5.27記[11.11一部訂正](小倉治夫)

トップに戻る