北 里 散 歩(1)
ナンジャモンジャの木
北里研究所3号館は平成14年暮れから撤去工事が行われ、その跡地と中の道は一つになった。翌年の4月には薬学部1号館と3号館の空間にすばらしい日溜まりの憩いの場に変身した。

2002年9月11日
北里研究所研究棟の撤去工事が始められた
この中庭には20〜30本のヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃの木)が植えられているから、4月下旬から5月はじめにかけて純白の可憐な花を咲かせる。来年のそのころは是非とも「ナンジャモンジャ」の花見に来て頂きたい。
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解体工事中の研究棟 |
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現在の中庭(2003.5.6) |
ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃの木)は東京では、明治神宮外苑の絵画館まえにあるのが有名で、江戸時代には六道の辻にあって、「六道木」と呼ばれていた。明治18年、政府はこれを買い上げて保存し、明治36年、白井光太郎博士(元帝国大学教授)が陳情して保護願いをだし、大正13年12月、天然記念物の指定を受けたが、樹齢百数十年をへて、昭和8年に枯死した。この木の勇姿は、絵画館の壁画(小林万吾画:凱旋観兵式)に描かれている。現在のものは2代目で、白井博士が根接ぎ法によってえたものである。(明治神宮外苑案内書から)
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東都青山絵図に六道ノ辻の記載がある(右上) |
ナンジャモンジャの木は都内十数カ所に生えているとのことであるが、外苑ではこの樹以外に相当数あって、清楚な白い花を咲かせている。筆者の知る限りでは、御徒町公園のもの(写真)も見事である。
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由緒ただしい明治神宮外苑絵画館前のナンジャモンジャの木 (2003.5.6撮影) |
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御徒町公園のナンジャモンジャの木 (2003.5.6撮影) |
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外苑運動公園のナンジャモンジャの花 (2003.5.6撮影:扉が開いていたので入って写真を撮っていたら扉を閉められてしまって出られなくなった) |
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北里白金キャンパスのナンジャモンジャ (2003.4.30撮影) |
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白金キャンパス中庭のナンジャモンジャ (2004.4.20撮影) |
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「なんじゃもんじゃの木」は「ヒトツバタゴ」だけに限らず、人が不思議と思った樹に名付けたもののようで、千葉県香取郡神崎町にある神崎神社本殿脇の樹齢1300年の大楠が、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれている。国指定の天然記念物で樹高20m、幹周り8.5mあるという。一度、参拝したいものである。
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国指定の天然記念物・神崎(こうざき)大楠(マイガーデニング;2003,7月号から) |
2003.7.5記(小倉治夫)
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北 里 散 歩(2)
北里柴三郎生誕150年記念

2003年11月15日から12月14日にかけて、「北里柴三郎生誕150年記念展」が上野の国立科学博物館で開催された。国立科学博物館新館の屋上には大きな電光掲示板に、「感染症制圧への挑戦・北里柴三郎生誕150年記念展」とあって、駅前から望見できた。国立科学博物館の入り口を入ると、巨大な恐竜の化石があって、青少年の胸をあつくする。その化石を抜けると、北里柴三郎の大きなポスターがあり、期間中に3万人をこえる多くの人々が訪れた。

入り口の恐竜化石

2階講堂階段登り口のポスター
11月4日には、日本郵政公社から北里先生の文化人切手が発行され、研究所・大学をふくめたオール北里の名声はますます高くなった。北里関係者一同、おおいによろこぶべきであろう。
展覧会が開始された最初の日曜日(11月16日)には、北里柴三郎の孫にあたる明治製菓株式会社会長・北里一郎氏の「祖父 北里柴三郎」。さらに、北里研究所所長・大村智氏の「北里柴三郎の求めたもの」の二つの講演があり、会場の狭さもあって、隣室から廊下まで聴衆があふれた。あまりの盛況に講演会は12月7日にもおこなわれた。
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北里柴三郎文化人切手 |
入場券 |
北里柴三郎記念展会場の一角に、古ぼけた机があったのに気がつれた方々もあったかと思うが、この机は名古屋の明治村から運ばれたものである。北里回顧(2)で書いたように、明治村の北里研究所本館・医学館では、2階を一般公開していない。1階図書室の2階部分にある【所長室】へは入れないのである。ここにある机が今回、展示されたもので、北里柴三郎以来の北里研究所歴代所長が使用した由緒ある机で、筆者にとっては大変思い出深いものである。
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北里柴三郎以来歴代所長が使った机 【筆者が辞令をもらったとき、この机に秦藤樹先生が座っていた】 |
昭和39年4月、おそるおそる所長室へ靴を脱いで入り、スリッパに履き替えて、部屋の一番奥にあるこの机の前に進み、最敬礼をして、当時の学長・研究所長の秦藤樹先生から頂いた“謄写版ずり”の辞令を今でも大切に保管している。
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“謄写版ずり”の辞令(刷りの所々がかすれている) |
2004.1.29 (小倉治夫 記)
北 里 散 歩(3)
北里研究所メモ
天現寺橋は広重の絵でも、古川に架かっているように見えるが、当時の絵図からもわかるように、ここで合流する笄川(こうがいがわ)に架かっていたものである。笄川(こうがいがわ)が暗渠になってますますわからなくなった。
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笄川(こうがいがわ)に架かる天現寺橋(嘉永4年) |
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当時、玉川上水は四谷大木戸で分水して、江戸城内、番町方面、平河町・永田町方面の3方面に分水して、余った水は内藤駿河守の屋敷(現新宿御苑)うちを通って流れて、下流が渋谷川(渋谷あたりを流れるとき)、続いて、古川、赤羽川、新堀川、金杉川と名をかえて江戸湾に入っていた。

名所江戸百景 廣尾ふる川
(かつての廣尾ガ原はこのようなものと考えてよい)
古川の光林寺橋の上流にタヌキ橋がある。ここには狸蕎麦があって、タヌキが化けて蕎麦を食べに来たと言われている。現に、蕎麦屋の名前が狸蕎麦であった。嘉永7年(1854)の目黒白金図に記載されている。
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むかし、橋の南西にそば屋があって 子どもを背負い手拭をかぶったおかみさ んにそばを売ると、そのお金が、翌朝は 木の葉になったといいます。 麻布七ふしぎの一つで、狸そばと呼ん だのが、地名から橋の名になりました。 ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が あったからともいっています。 昭和五十三年 港 区 |
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狸橋と狸蕎麦(安政4年目黒白金絵図から)狸蕎麦・広尾原・土筆ヶ原は福沢諭吉別邸となる(右は狸橋際にある碑文) |
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天現寺橋が笄(こうがい)川に架かっていたのがよくわかる |
明治になってから、この地は東南の土地とともに、福沢諭吉が別宅にしたところで、狸蕎麦の前にある橋が、狸橋である。狸橋は五之橋よりむかしに出来た由緒あるもので、現在は鉄製の橋に変わったが、十数年前までは木製の土橋であった。この狸橋の前が福沢諭吉の別邸で、現在は慶應義塾幼稚舎となっている。丁度、別邸の庭に当たる部分を高速道路が切り裂いたから、庭の一部が入り口のないままで残っている。

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渋谷区と港区が笄(こうがい)川で境界となっている |
広尾原と筑紫ヶ原の今昔を比べてみると、渋谷区と港区の境界が笄(こうがい)川となっていることがわかる。また、慶応幼稚舎の中心に境界線があるのは、江戸時代の下渋谷村と白金村の境界線であるからで、こんなところにも「江戸」が残っている。
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笄(こうがい)川(暗渠)出口【上に架かる橋が天現寺橋】 |
福沢諭吉は北里柴三郎を大いに応援したが、明治26年、この別邸に地続きの芝区廣尾の土筆ヶ丘(つくしがおか)[嘉永7年近吾堂板では土筆ヶ原]の土地を提供して、結核治療の病院を建てることを勧めた。これが、養生園で、福沢諭吉の命名による。金策は福沢諭吉のお声掛かりで、森村市左衛門らが資金を提供した。ツベルクリンの臨床研究の場となった養生園は、各地から蝟集する患者に支えられて、拡張につぐ拡張で思わぬ収入となったが、福沢諭吉は田端重晟を派遣して事務万端を処理させた。この財源は後に、北里研究所を設立する資金となり、北里柴三郎はこの恩返しに、慶應義塾大学に医学科を設立することになる。(北里柴三郎伝;北里研究所発行、昭和39年)