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姿位の整体ノート《姿位、手技研、半覚醒、錐体外路系》

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このノートは今から15年ほど前に書き始め、その当初は手を加えていたのですが、今はまったくありません。

オステオパイシーの間接法と神経反射を主軸としたものです。半覚醒状態にもち込んでいくことだけがミソの論旨です。あとは身体がかってに治してくれるという乱暴なものです。手技研を身につける前にやっていたものです。今でもこの主張は変わりません。私の手技研はこのベースがあったからこそ身につけられたと思っています。

最近はこの延長線上に感情の発露をともなわないS.E.Rを使っています。矯正と組織の弛緩に役立てています。しかし今となれば言い回しもチョッと大仰で気恥ずかしく、解剖的内容も杜撰というよりほとんどフイクションに近く、親父ギャグふんぷんの代物です。しかし定型となった手技を身につける以前に、思いつきであれこれやっていたことが、くしくも定型化につながっていった、つまり定型とは自然発生的なものであるということを知っていただきたいために、物笑いを覚悟で掲載しました。当分、改稿はありません。スミマセン。手技療法に全く無関心だった人が、興味をもたれる一助にでもなれば幸いです。m(><;)m

 

 

手技療法家をめざすための心得と基本テクニック

ノート目次                                            

第一章 これまでの手技療法との違い

■オステオパシー間接法が闢(ひら)くもの ■頭蓋仙骨治療が闢(ひら)くもの 身体が自ずと整体される光景  ■この整体の優れた点 ■手技療法は、慢性疾患を原則として施療する ■どんな手技療法も骨格修復をメインとする  ■体表に刺激を与える手技療法は、習慣性を生む 身体に良い手技療法は、自然治癒力の誘い水  ■改めて手技療法の原点を問う

 

第二章 テクニックとは何か

―テクニックとそれを生み出すテクニック以前―

居眠り中の骨格修復の誘発、実験前半 いよいよ実験開始である 実験後半 実験の型は、症状の軽い人におこなう 居眠りを誘発させるための基本 実際の臨床は、猫背修復から始めよう 胸椎〜後頭を支えて骨格修復を誘発しょう 実際の臨床は教科書通りに行かないことが多い 後頭骨を支えて硬膜管を開放させよう  補足操作、頚椎一番の回旋偏向修復の必要性 頚椎二番の位置を知ろう 頚椎二番の回旋偏向の判別法 頚椎一番の回旋偏向の修復法1 『間接法』

 

第三章  テクニックに必要な概念

―身体をイメージ化する―

頚椎一番の回旋偏向の修復法2 『頚椎全体の偏向を深めることによるバリエーション』 『操体法』と『体性感情解放』 と『活元運動』 腰痛を考える イメージとしての硬膜管 気か気功か 呼吸に合わせた手の触れ方 居眠り誘発のための、幾つかの心得 どうしても居眠りに入らない場合 再度、居眠りのために 居眠りを誘うために、体のゆがみを検査しよう 居眠りに入らない最大の原因 半覚醒状態を見分ける方法 半覚醒時における操作の心得 深い半覚醒状態に入っている時の操作法 脳脊髄液流出のリズムとは こんな人には、お酒を飲んでもらって居眠りしてもらおう。 姿位の整体適応症状 身体の捻れと痛み 居眠りの復権 脊柱が捩れると、身体は歪む 仙腸関節の捻挫 身体の重心移行と仙腸関節の捻挫 硬膜管の捩れと環椎後頭関節

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         第一章  これまでの手技療法との違い          

 

           オステオパシー間接法が闢(ひら)くもの

空前の癒しブームである。しかし、私たちの本音は癒されたいのではない。この身体を治してほしいのだ。しかし治せる者がいない。よって、やむなく癒しに甘んじているだけなのだ。基本的におかしくなった身体を疲労回復のテクニックでお茶を濁されているのが昨今の癒しブームである。場違いの技術を施された身体はますますおかしくなってくる。それはますます癒しを求めることになる。いわゆる『癖、中毒』と称せられるものである。そういう状態に陥った身体は三日と空けず、身体を揉んでもらいたくなる。三日と空けずそんなことをやっておれば、皮膚は、揉みで肥厚し、揉みの圧痛を緩衝するために皮下脂肪が付き、精彩のない身体になってしまう。

身体が基本的におかしくなるとは、骨格がゆがむということである。このゆがみを取るテクニックを持たない技術にかかると、身体は新たなゆがみを上乗せされることになる。先述の『癖、中毒』の要因でもある。

整体とは、本来、このゆがみを取る技術をさす。(ボキボキと骨を鳴らすことだけが整体ではない、それは整体の一派(カイロプラクティック等)であって、骨を鳴らさないで身体の歪みをとる整体術は、古くから多く存在する)。しかし、昨今の整体に、この本来のものをさすのは少ない。現在、整体という用語は、無免許マッサージの総称として使われているのがほとんどである。『マッサージ』という語は医事用語であるため、国家資格を有する者しか、この用語を使っての開業、施療行為をしてはいけないと法に定められてある。無資格で、この用語を使って開業、施療すれば医事法違反である。

国家資格を取得するには、高等学校卒業後、三年間、専門学校に通わなければならない。この三年間の学業、時間、費用を省いて、一足飛びにマッサージの開業、施療をしたい者が、この整体という語を使うのである。マッサージではない、整体だと言い逃れができるため、違法とはならない。この言い逃れができるのは、整体とマッサージのテクニック上の違いが法的に整備されていないからである。それをいいことにして、『マッサージ』という医事用語を使わずに整体だと言って、『マッサージ』ができるのである。この法的整備の問題については、後で述べる。

マッサージテクニック向けの整体の専門学校がある。期間は長くて半年から一年である。三ヶ月のところもあれば、一ヶ月のところもある。整体は医事用語でないため、整体と称してマッサージテクニックを業としても、文句の言われる筋合いはない。しかもテクニックは、3年間みっちり学業とテクニックを学んだ正規のマッサージ師らと何ら遜色はないときている。マッサージというテクニックは本来素人でもできるものであるため、現場で鍛え上げることによってしか高度な技術は身につかない。学校で学んだことは、三年間も三ヶ月もたいした違いはない。よって整体の専門学校は大繁盛し、無資格のマッサージテクニックを持った整体師が粗製乱造されるのである。昨今の癒しブームは、これら無資格の整体師らによって支えられているといってよい。

私が、ここで問題にしたいのはマッサージテクニックの資格、無資格のことではない。マッサージテクニックしか持たない無資格者が、整体師と名乗ることにより、本来の整体が貶められていることである。

『整体』という呼び名には、マッサージとかの揉み療治とは一線を画する意味合いがあった。マッサージよりワンランク上のものとして扱われてきた経緯がある。日本には、古くから整体術と称せられる骨格矯正術があったのであり、その技術分野は今も、素人には近寄りがたいものとして一目置かれてあり、その諸氏方は、伝統の灯を消すこと無く、技術の研鑽にいそしみ、活躍されているのである。にもかかわらずその分野が、骨格矯正術も知らない無資格マッサージ師の跋扈する分野として凋落しつつある。

『整体』と標榜されれば、それを享受する者は、襟を正すものを感じた。ところが現実は何と、稚拙な無資格マッサージだったとは。噴飯ものとはこのことである。

しかし、いかに噴飯ものといわれようと、羊頭狗肉呼ばわりされようと、無資格マッサージ師が整体師として跋扈するかぎり、整体ないし整体師は、本来の治療系からはずされ、癒し系とみなされ軽んぜられてゆく。手技療法に有資格制度を持ち込んだとき、整体は蚊帳の外に置かれたといってよい。整体を有資格制度から除外したのは、結果的に西洋医療の牙城を守るためだったのである。往年、整体は西洋医療と互角に渡り合える治療技術だったのである。無資格マッサージ師は、虎の衣を借る狐のごとく、整体師の呼び名を利用して跋扈している。

このノートは、本来の整体は何を目指しているものなのかを、一つの整体術をとおして知ってもらい、手技療法に携わる方々の技術向上に寄与しようと思うものである。特に無資格マッサージ師でありながら整体師という肩書きで、マッサージを行っている方々にそれを強く望む。何の免許も要らない整体師という肩書きで、免許が必要なマッサージをやることは違法である。しかし、これは本人が悪いのではない。質の高い整体を教えてくれるところがないことに問題があるのである。整体の専門学校とはいえ、実技内容はマッサージだと聞く。また、整体そのものを教えるところであっても法外な費用がかかると聞く。

しかしやがて、無資格整体師が、これまでのようには、マッサージができない日が必ず来る。それは、整体師がこれまで、そういうことができたのは、マッサージテクニックと整体テクニックとの違いが法的に整備されていなかったからである。がしかし、昨今は自治体ごとにその違いを法的に整備し、整体師がマッサージ行為を行ったとして検挙し始めている。そのうち国レベルでの法の整備が行われ、整体師を名乗るものが、マッサージを全くできなくする日が来る。では、整体とマッサージは何が違うのか、そのことも、このノートから汲み取ってもらいたいと思っている。

 

すぐれた手技療法家が身につけているテクニックは、ただ一つの原理に基づいている。それは、オステオパシーの間接法に基づく原理である。この原理だけが身体を弛緩させ毀損することがない。

関節の矯正法には、直接法と間接法とがある。直接法とは、関節の一端が、右から左に変位しておれば、矯正は、その一端に左から右への衝撃(アジャスト、スラスト)ないし持続圧を加えることによって元通りに修復させる。これは、誰でも思いつく発想である。カイロプラクティックは、その系列に位置する。

間接法とは、その逆であり、関節の一端が右から左に変位しておれば、その変位がさらに深まる方向、つまり、さらに右から左にその一端を緩やかに推し進める方法である。推し進められた一端は、正常位に向かってぶり返してくる。つまり、変位が限界まで推し進められたとき、その一端は逆モーションを起こすのである。これは、素人には発想できない。身体の生理的動きを熟知したものでないと及ばない考えである。

すぐれた手技療法家のみが、この原理とこの原理を敷衍したものを使っている。橋本敬三博士の『操体法』しかり、ジョン・E・アプレジャーの『頭蓋仙骨治療』『』しかり、Dr. L.H. Jonesの『スレーン&カウンターストレーン』しかりである。

今ここで、敷衍云々と言ったのは、オステオパシーでいう間接法は、一関節のみに照準をあて、なされる矯正法である、が、上記三氏のテクニックは、一関節のみにねらいを定めるのではなく、それに隣接した関節、及び連続した関節を一括して照準領域に入れ、行うからである。

間接法の名人は、一関節の矯正のみで、症状を取り除くことができる。たとえば、腕の挙上がままならなくなった時、肩鎖関節の矯正のみで、肩の正常な動きを回復しうる。また肩の挙上がままならなくなった原因に、肩鎖関節の変位、頚椎一番の変位、頚椎五番の変位等が関与していた場合 、それらの関節を、一つ一つ逐一、矯正することによって肩の動きを正常に復せしめる。

オステオパシーの間接法は、あくまでも一つ一つの関節にねらいをさだめると言っても過言ではない。それは症状の原因を明白化することでもあり、治療時間の短縮化でもある。三つの関節を逐一矯正したところで、ものの十分とかからない。

しかし、この名人芸は、一朝一夕で獲得できるものではない。

目的とする関節のみをシビアにねらうのではなく、その関節を、隣接した関節及び連続した関節として一括して照準をあわせ、行う方法はアバウトなやり方だと言える。アバウトなぶん、治療時間は長くかかるが、それほど力量のない者でも、遜色のない治療効果を上げることができる。この手技療法は、そういうところに成り立っている。

 

オステオパシーの間接法を敷衍したところにジョン・E・アプレジャーの『頭蓋仙骨治療』『体性感情解放』、Dr. L.H. Jonesの『ストレーン&カウンターストレーン』等のテクニックがあると先述したが、そのアプレジャーのテクニックを、敷衍というか脇道にそれたところに以下、このノートに記したテクニックがある。ベースはあくまでオステオパシーの間接法であるが、そのベースに半覚醒意識と身体のパルス的動きがキーワードとして加わる。

半覚醒意識とは、読んで字のとおり、眠気の混じった意識状態というか、瞑想に入っているような意識状態である。居眠りに近い意識状態といっていい。最近流行のスピリチュアルで言う、変性意識に近い。この意識状態のとき、全身の筋肉の基本的緊張(筋トーヌス)は解けている。ここで述べる手技が効を奏するには、必須な意識状態であり、この意識状態をつくりだすのが一つのテクニックでもある。

パルス的動きとは、ピクピク、カクカクとした身体の自動的動きである。それは、あたかも自己自身で一つ一つの関節をアジャストメントしているかのような動きである。半覚醒意識のとき、何もしなくても、ほとんどの者に僅少ではあるが、現れる。この誰でも、持っている動きを、より振幅の大きいものに出現させるのがこのテクニックのねらいである。これがこの手技の特記すべき2点である。

この半覚醒意識とパルス的動きの出現によって、アバウトな間接法も効を奏する。アバウトな間接法もこの半覚醒意識とパルス的動きによって確実な骨格矯正が行われる。この2点の出現ということは、このテクニック独自のものか否か、何ともいえない。あまりにも明白な事実のため、誰も何も言わないだけなのかもしれない。が、あえて白日のもとにさらしてみた。これまで、オステオパシーのセミナーには十数回受講したが、半覚醒意識とパルス的動きについては、ついぞ聞いたことがない。しかし、『操体法』を新しくバリエーション化したものを紹介している書物に、私がここで述べているのと同種の意識、動きが出現することが述べられてあった。すぐれた手技療法の極まりは、同一次元に達するということであろう。しかし、そこにもこの意識と動きの因果関係について明確なことは記されてはいなかった。あまりにも自明なことなのであえて記さなかったのかもしれない。

また、整体の草分け的存在である野口晴哉(のぐちはるちか)は、弟子の、『治療中、体が動くのはなぜですか』という質問に、彼は、それは悪いところが動くのだと答えている。悪いところとは、関節の変位しているところであろう。いずれの例も、自動的骨格矯正(セルフコントロール)という因果関係がそこに展開していると言えよう。そしてこの2例からも、私のこの療法が、ごくありふれた生理現象を手がかりに組み立てられていると認識できよう。

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頭蓋仙骨治療が闢(ひら)くもの

 

曲がりなりにも、20年間、頭蓋骨と仙骨をメインとした手技療法をやってきた。頭蓋仙骨治療をやってきたとは、おこがましくて言えない。それは、頭蓋骨と仙骨を治療すれば『頭蓋仙骨治療』だ、というわけにはいかないからだ。

アプレジャーの提唱する頭蓋仙骨治療には、二方向ある。一つはCST(CrenioSacralTherapy)いわゆる、頭蓋仙骨治療、もう一つはCSF(CerebroSpinalFluid )すなわち脳脊髄液の流出リズムを感知しながら行う療法である。CSTは従来の頭蓋仙骨治療をアプレジャー的にアレンジして行うテクニックであり、彼独自のものではない。それに比し、CSFを感知しながら行うテクニックこそ、彼の独創といえよう。

20年間やってきたものは、形こそ頭蓋仙骨治療に似ているが、内実は、似て非なるものである。つまり、CSTでもなければ、CSFでもないというわけである。頭蓋仙骨治療もどきとでも言うべきかもしれない。

しかし、この似て非なるものには自負がある。正真正銘の頭蓋仙骨治療には、勝るとは言わないまでも劣るとは思わない。それは、治験例もさることながら、形こそ異なるとはいえ、奇しくも同一方向に向かっているであろうという自負である。同一方向とは、CSFリズムの正常化である。

ジョン・E・アプレジャー博士がどういう方かも知らず、ジョン・E・アプレジャー著、目崎勝一訳の『頭蓋仙骨治療』を読み、感銘した。未知との遭遇…という思いであった。幸運にもアプレジャー来日のセミナーに参加することができ、実際に博士から治療の手ほどきまで受けさせていただいた。それは、本を読んだ感銘どおりのものであった。爾来、頭蓋仙骨治療を手さぐりで追いかけてきた。生来の狷介ゆえ、考究の徒も作らず、独断と偏見のなかで掴んだものは、CSFのリズムならぬ、半覚醒意識と姿位との連携ということであった。そしてこの連携がもっとも効を奏するのは、仰臥で後頭骨を支えた姿位を設定するときであった。手技療法が対象とするほとんどの症状は、ただこれだけで緩解できるという自信がある。ただ、この設定にいたるまでには幾ばくかの時間を要し、その時間の中で、半覚醒意識に導く何がしかの余分な手技を施す必要があるということである。必要とする最少の治療時間に比し、時間的ロスは否めない。それが、このテクニックの唯一のウイークポイントといえる。

なお、その余分な手技にはなんら目新しいものはない。ただ、可能なかぎり無刺激なものであるほど、効を奏する。(無刺激なものとは、押す、揉む、伸ばす、アジャストメント等以外の軽微な外的刺激をさす)。

したがって(この余分な手技は無刺激であるがゆえ)、この余分な手技が本当に必要かと問われれば、否と答える。なぜなら、患者がこの療法を一二度受けた後、次回、余分な手技を加えず、いきなり後頭骨の姿位設定から始めても、治療効果は成り立ち、しかも前回以上のものになるからである。余分な手技は、可能な限り使用しないほうが、本来のものが際立つ。

この療法には、このような、いま少しの峡雑物があるといわねばならない。この峡雑物が取除かれるのは、CSFを直ちに実行することにおいてしかないであろう。

つまり、CSFの正常化にいたる手順には、CSFの感知を筆頭にいくつかの方法があり、この手技でいう姿位の設定もそのひとつに挙げられるということである。 

この手技において、この余分な手技を削ぎ落としてゆくことが、CSFの感知をより直近なものにするであろう。しかし、CSFの感知でもって臨床を終始することは、人口に膾炙されているほど容易ではない。その証拠にCSFの感知を自認する者の多くが、癒し系の域を出ないか、または、カイロプラクティク、鍼、指圧、整体等の手技の付け足しに使っているのがほとんどであることからもうかがえる。つまり、多くの者は、それを治療の『技』として使えないのである。教科書と臨床の間には大きな隔たりがある。

長年追い求めてきたCSFの感知は、目睫の間に広がっている感がする。『この感触がCSFなのでは…』と。しかし、いかんせん、その感触から、頭蓋仙骨治療(CSF)を行うことができなかった。その感触を確かなものにしようとしているうちに、手がおのずと姿位設定に引きづり込まれ、パルス運動を惹起するに至ったのが、この療法である。完璧な姿位設定とCSF停止との感触とは、同一硬貨の表と裏である。にもかかわらず、停止どころか、この動きは…。

それはこの療法が、まだまだアバウトで、アプレジャーの言う、頭蓋仙骨治療ほどの深みに至っていないのかもしれない。つまり、超一流の治療法ではないということであろう。それは、考えようによれば、超一流の道に向かっているともいえる。

この療法は、アプローチの仕方が異なるとはいえ、アプレジャーの頭蓋仙骨治療を基幹に据えているものである。アプレジャーの頭蓋仙骨治療のもっとも大きな特色は、筋・骨格系の開放のみならず、脊柱を貫く硬膜管の開放により、脳・脊髄神経の開放にある。頭蓋骨と仙骨に触れるのは、その手段である。しかし、この療法のように、必ずしもそれらに触れなければ硬膜が開放されないというものでもない。

 

このノートの読み方には二通りある。一つは、CSFの感知を臨床的に把握するとはどういうことなのか、そのヒントをえるために。もう一つは私のように姿位設定だけの臨床家になるために。いずれも硬膜を開放する。

この療法の独自性を主張するつもりはないが、論を進める上での煩雑をさけるため、便宜上、この技法に名称をつけることにした。このノートのみに使われる呼称である。『姿位の整体』である。

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            身体が自ずと整体される光景

 

電車の中で、こんな光景を見たことがあるだろうか。

座席にすわり、鞄を膝の上に載せ、両手で押さえたまま居眠りしている乗客。その乗客がどうかしたはずみに、ビクッと肩をゆすったかと思うと、その弾みで、思わず鞄を床に放り投げてしまっているのを。

 なぜ、居眠り中、肩がビクッと揺すれたり、腕がポーンと挙がったりするのであろうか。首をこっくりこっくりと、前後に船をこいでいるのとは、まったく違う。首をこっくりこっくりと船をこぐのは、『姿勢反射』といって、身体が起立姿勢を保とうと、無意識のうちにも錐体外路系運動神経が働いているという、生理現象である。

『姿勢反射』は、どこか反復的である。身体ないし首が倒れ込もうとして、限界まで行ってひょいと起き上がる、その繰り返しである。ところが、私がここで指摘している居眠り中の、素早い小刻みな、そして時折り大振りな動きには、反復性はない。思わず、ビクビクと腕が振動したり、子どもがまるで、嫌々と駄々をこねているかのように肩が激しく揺すれたり、時折、断続的に現れる『パルス運動』なのである。明らかに『姿勢反射』とは違う。

 電車の中では、他の静止した場面での居眠りと違って、電車の揺れがこういった動きを、殊に惹起しているであろうことは否定できない。

 がしかし、それにしてもである。こういった生理現象は、何も電車の中だけとは限らない。授業中や、会議中の居眠りでもこういったことはよく起こる。時、所を選ばず、居眠り中に起こる、この共通した生理現象。これらはいったい何を意味しているのであろうか。

 この手技療法の発見は、これらの生理現象が何を意味しているか、その意味を知ったことから始まった。その意味とは、『身体は、居眠り中に、自己の諸関節、脊椎の偏向(変位)等を自動的に修復させる』ということなのである。特に電車の中では、電車の揺れによる手足の動きが、偶然にも、骨格の偏向を修復させやすくなるような関節の『姿位』を定め、それが他の居眠り条件のときよりも、椎骨や諸関節の修復をより大きく誘発しているのではないかと思われる。居眠りで、疲れが取れるのは、居眠り中、骨格の変位の自動修復が行われるからに他ならない。しかし、それだけでは身体の痛みは取れない。なぜなら、居眠り中の骨格修復は、深度が浅いからだ。身体の痛みを取るためには、居眠り中の骨格修復を人為的により深いものにする必要がある。ここに、『姿位』の設定が必要とされる。これがこの療法のねらいである。

 

 

この光景において、キーワードは、3点である。一つは、深い睡眠中ではなく、浅い眠り、つまり居眠り中であるということ。一つは、手足の動きにより、修復されやすい姿位の設定。最後はパルス運動である。終わりの二点については、今後、順を追って論を進めてゆくことになるが、今はともかく、居眠り中における身体の動きは、骨格修復なのだという大前提の提示である。

 

提示とはおこがましい、と一蹴されそうである。しかしここには身体の、のっぴきならない問題が潜んでいる。

いかに取るに足らない現象であれ、その背景には理論化されてしかるべき体系がある。骨格の歪みは、万病を引き起こすという指摘は、遠の昔から、心ある西洋医学者によって指摘されている。

この提示は、新たなる治癒系を発掘するはずである。

 

 

現在、多くの手技療法がある。技術の進展は、かってのものに比べ、さほど差違があるとは思われない。しかもどこか、小手先だけの枝葉末節に偏している感は否定できない。技術の根幹を糾すようなものが顕れていない。

  居眠り中のこの生理現象は、骨格の修復であると直観して以来、この現象を治療の中で再現することができないものかと考えた。人為的に患者を居眠り(半覚醒意識)状態に誘導してゆき、人為的に身体をピクピク、ガクガクと動かせたらと考えたのである。 この生理現象を手技療法として生かせたら、これまでにない、まったく新しい手技療法が成立するのではないか。これまでの手技療法とは、身体を揉む、押す、骨をボキッと鳴らす。手足を屈伸させる。おおかたこういったところである。これらのものに比し、今ここで述べようとしていることは、全く次元を異にする。その岐路となるキーワードは、半覚醒意識と姿位の設定である

先に、深い睡眠ではなく浅い眠りであることが重要であると述べたが、浅い眠りとは半覚醒意識のことである。居眠りといい、まどろみといい、それらは半覚醒意識というグラウンドに生起する生理現象である。それは、傾眠と言ったほうが生理学的には正しいのであろうが。

このノートでは、半覚醒意識と居眠りとにはさしたる区別はつけていない。文脈の状況に応じ、使い分けてある。

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この整体の優れた点

 

痛み、凝り、しびれを伴う身体のトラブルのほとんどは、骨格変位に由来する。したがって、これまでの手技療法は、患者の体表に外圧を加えることによって、その変位を正そうと試みてきた。しかしその試みには、身体を毀損させるかもしれぬという危惧が常に付きまとっていた。だから、その技術の習得にはかなりの年月を要した。一朝一夕では習得できないのである。また、もし仮に習得したとしても、身体を毀損させるかもしれぬという、万が一の危険はぬぐえない。それは、外から体表に外圧を加えるという療法の宿命でもある。

 

 もし、この生理現象を治療として生かすことができれば、患者の体表に、外から椎骨や諸関節の修復を施すという骨格修復術はいらないことになる。しかもとびっきり、安全で正確無比ときている。

 なぜ安全かといえば、体表に外部から外力を加えない。

 なぜ正確無比かというと、骨格の正位置を寸分の狂いもなく把握しているのは、当の身体だけだからである。本人ではない、身体なのだ。本人と身体、この微妙なニュアンスの違い。本人さえも気づかない身体のトラブル。それは身体だけが知っている。そいつが骨格のアライメントの狂いを正してくれるのだから、こんな凄いことはない。どんな名人がやって来たって、足元にも及ばない。

 

 体表に何らかの刺激、加圧を与えることによって成り立っている手技療法は、身体を毀損させるかもしれぬという、万が一の危険から逃れることはできない。患者もまた、その恐怖を心底に抱いて施療を受けることになる。それは、心を全開にしてリラックスすることがない。リラックスせずして施療を受けることは、施療効果の寡少は免れない。

 その種の手技療法師が、技を磨くということは、相当な努力が必要となってくる。しかも、名人といわれるまでに、一体何人の患者を、人体実験のごとく犠牲にすれば、ことが済むのだろう。整形外科では、その種の手技療法に身体を毀損された患者が多く外来するという。

 もともと基本設計が不完全な療法なのだから、そんな欠陥設計の技を磨いてもあまり得るところがないと思われる。

 

 手前味噌であるが、この療法は、基本設計そのものが、ほぼ完成の域に達していると思っている。極端な話、運転席に座るだけで、勝手に車が目的地まで行ってくれる、そういう近未来の車を想像していただけたらいい。 そういう車は、運転の技術を磨く必要がないわけだ。そのように、この手技療法は、さほど技を磨く必要がない。患者の半覚醒意識を呼び起こし、後は、軽く腕を動かすだけで、身体のほうで勝手に、骨格を自動修復してくれるのである。

 腕を動かすのすら、面倒くさいというのなら、動かさなくたっていい。後頭骨を支えているだけでいい。

 しかし、それすらも面倒くさいというのなら、以下の説明はいかがだろう。

 コンピュータは、使い慣れるに従い、使用者の意思をくみとって、意思に沿うように手順をおのずと設定し、目的を創出しやすくしてくれる。そのように、この療法にあっては、受療者は、施療者の意思を非意識のなかで察知し、汲み取る。そしてその意思に順応しようとする。具体的に言うと、受療者が数回この療法を受けると、施療者が、横たわっている受療者のそばに近づいてくるだけで、受療者は、なぜか眠たくなって来、身体がひとりでにピクン、ピクンと動き出すようになる。断っておくが、何か言葉で暗示をかけているわけでは決してない。

このことを皆さんはどう思うであろう。これは、この療法の優れている点である。しかし、この療法独自のものではない。優れた療法に付きものの現象である。先述した『操体法』の新ヴァリエーションもその類である。実は、私も施療者が近づいてくるだけで、上記のような動きが勝手に出る。しかし、私の場合、施療者は、この姿位の整体をやるものではない。このホームページの最初の項に紹介した『手技研』を施す人である。『手技研』のテクニックにもいくつかあり、顎の下に指を立てるのは、そのうちのひとつでしかない。その施療者は、腰痛を手首の矯正だけで解消させる。私は腰痛の治療と勉強のためにその人の処へ行くことがある。最初はとても不思議であったが、今は不思議でもなんでもない。なぜなら、今はその人が別にいなくても、勝手に自分のからだを無意識的、付随意的にピックン、ピックン動かすことができるからだ。話がどんどんそれて申し訳ないが、これは整体の草分けである野口晴哉(のぐちはるちか)が提唱した『活元運動に相当する(活元運動については後述する)。

話をもとにもどそう。以上述べたように、すべての優れた手技療法に共通する普遍性をこの療法もまた備えているのである。

この身体が勝手に動くということをもう少し説明しよう。

施療者が近づいてくるだけで、こちらが何もしないうちから、勝手に身体の方で、骨格の修復をやりはじめるのは、ものぐさ太郎にとってはもってこいではないか。感受性の強い受療者は、数回この療法を受けるだけで、まるで千載一遇のチャンスを逃すまいとするかのように治癒本能が剥き出しになるからだと思われる。それは、パブロフの犬のような条件反射にも似ていよう。

施療者の接近〜条件反射〜半覚醒状態〜パルス的動きというコード進行が身体の中からアウトプットされるからであろう。トランス状態に入りにくい、かなり感受性の鈍い受療者でも、受療回数を重ねるごとにだんだんそんなふうになってゆく。

 これは施療者が施療のために近づくという場面設定がなされたとき、その施療をより効率のあるものにしようという身体の条件反射が働くのであって、施療者がいないと骨格の自動修復がなされないのではない。こういう条件反射が働くこと自体、骨格修復力は有り余るほど旺盛になっており、施療者がいなくても骨格の自動修復ができるのである。施療者がいるのならなおのこと、このオマケ(チャンス)を逃すまいという貪欲な本能が働くのだと思われる。

体調が良くなろうとする本能がどういう時、それが剥き出されるか。それは、この者となら気の交流が謀られると感じた瞬間である。他者との気の交流が身体の賦活には一番である。生命の賦活は他者との関係の中で最高に発揮される。しょんぼりしていたのに好きな人が目の前に現れたら、とたんに元気になる。恋愛感情と、治癒本能の剥き出しということは、同一物ではないが、同一方向にある。

この条件反射は、あくまでもオマケであって、昨今、問題になっているようなマインドコントロールなんかではない。リラックスすると、錐体外路系の運動神経が活発化し、身体が勝手に動き出すのである。身体が敏感になると誰でもそうなる。身体が敏感になるとは、身体が本来の健康を取り戻したことである。こういう条件反射が生まれるような敏感な身体になる方法は、何もこの療法だけではない、ヨガ、気功、活元運動、その他たくさんある。一度習ったものは、すぐその様態に入れるのと同じことである。一度自転車乗りをおぼえてしまうと、バランスのとり方を意識しなくても乗れる。その感覚に近い。

 

こういったことは、面倒くさがり屋にとっては、うってつけのイージーな療法ということになる。早く言えば、治療がやりやすいということだ。しかしこのことは、この療法のお徳?な一面として特筆されるだけではなく、大きなことを示唆している。つまり、健康な身体とはどういうことかということである。健康とは、身体自身の持っている骨格修復力の旺盛さをいう。施療者が何もしないのに、施療者に頼ることもなく、身体がひとりでに骨格修復をやってのけるとは、身体自身の持っている骨格修復力が、これまで以上に旺盛になったからに他ならない。これまでは、骨格修復を施療者に頼っていたのを、頼らずに自己自身で出来るようになったのである。たまたま施療者が、そばに来るとそうなるのは、有り余っている骨格修復力を試したくてしょうがない。つまり骨格修復をやりたくてたまらなくなってくるからである。そのうち、施療者がいなくても、自分ひとりで不随意運動を起こせるようになる。この動きも、はじめのうちは自分の身体が勝手に動くので、何か超能力者になった気分になって動かしていたが、だんだんあたりまえに思えてきて、以前ほど興味がなくなってくる。しかし、興味がなくなっても健康であることには変わりはない。

 

昨今流行のセラピストとスピリチュアルの関係も同じである。スピリチュアルも人間本来に備わっているものである。それは常に引き出されたがっている。セラピストが現れると猛然と、前世とか守護霊が出てくる。同じことである。そのうち、セラピストがいなくても前世を出したり引っ込めたり、守護霊を呼んだり、消したりできるようになる。そのうちつまらなくなる。

いかにも、したり顔でこんなことを書いているが、私自身は、前世療法も守護霊も信じない。少し本論からずれるが、半覚醒意識(変性意識)を手がかりに手技療法をやっている以上、これについて私の立場を明白にしておかねばなるまい。

前世療法や守護霊の表出と不随意運動の表出は、半覚醒意識(変性意識)という共通の土俵に生起する生理現象である。何が違うかといえば、一方はセラピストの言葉によって暗示され、潜在意識が表層に浮かび上がってくる過程で脚本化されるのである。深層意識は、はたして本当の深層意識かどうかわからない。ほとんどは表層意識の投影でしかない。つまり、現時点での心理状況の投影である。前世の出来事とか、亡くなった父母とか、娘が、自分を許してくれるスタンスを持つのは、恐怖に駆られた心理状態でセラピーを現時点では決して受けられないからである。つまり、恐怖に駆られた心理状態ではセラピーそのものが成り立たないのである。セラピーが成立するとは、クランケが、今、現前のセラピストのもとで、まぁまぁの事なかれ主義の心理状態にあるからである。セラピストもクランケも『甘えの構造』を共有した心理状況のもとでしかセラピーなるものは成立しない。セラピストが心弱いクランケを脅して、恐怖の心理状態に陥らせたのでは、両者のコミュニケーションそのものが成り立たず、セラピーも成立しない。コミュニケーションが成り立つということ事態、そのセラピーは、肯定的な内容とならざるを得ないのである。まぁ、それが幸せというものであろう。

 

一方は、半覚醒意識(変性意識)に浸っているとき、筋トーヌスが最も緩み、筋の緊張によって固く縛られていたような状態にあった椎骨や諸関節が一気に束縛をとかれ、バラバラと投げ出されたような状態になるのである。身体の原初的動きは生命維持のリフレッシュ、ないしリセットといわれるものである。時々、身体を言葉や理性から解き放たなければならない。その動きは、昔から、狐がついたとか、霊がついたとか、ヒステリーとか言われたが、一種のストレス発散でしかなかったのである。私は、この療法を通じて、このようなデモーニッシュな動きも、身体がしている絶え間ない生命維持のための努力の一つなのだと認めてほしいと思っている。この動きをいとおしんでほしいとさえ思っている。病める者は、自分自ら、治る力におびえているところがある。それは無知というものである。

この動きに市民権を与えようと、尽力してきた人がいる。整体の草分けである野口晴哉である。彼はこのような動きを錐体外路系の運動として理論化し、文部省推薦の体育運動として国に認定させたのである。今でもそれは認定されてあり、『整体協会』をとおして、全国のあちこちで推進されている。その体育運動は『活元運動』という。余談だが、ラジオ体操は今でも文部省推薦ではない。私は、この活元運動は、お望みとあらば、いつでも行うことができる。彼に師事したのではない。彼の本を読んで、そのとおりやってみたら、突如、尾てい骨から頭頂にかけて、くねくねと突き上げるような動きが起こったのである。一瞬恐怖を感じたが、馬の手綱を放してしまったような、思わずやばい!と感じたが、その動きに身を任せるしかなく、止まるまで任せてしまった。一時はどうなることやらと、身体がばらばらになるのではないかと思われたが無事止まった。暴走するジェットコースターに乗ってる感じであった。終わって快い疲労感と不思議な感に打たれた。自分の身体の中に潜んでいるものに畏敬の念を持った。それから、気功もチャクラも、小周天もこの半覚醒意識と錐体外路系がセットになっていると思うようになった。

私は、前世療法や守護霊を信じない。それはフィクションだからだ。フィクションでも現実に作用する。小説を読んで感動し、それがまるで人生の一大事件でもあるかのように何日も考えあぐね、それで人生が変わることだってある。それに似ている。が、昨今のそれは、強靭な思考力から見えてくるものとは思われない。憑依現象と祈祷師の延長線上にあるものだと思っている。装いが21世紀的なだけである。他人が似合う服装は、自分に似合うとは限らない。私は自分の幸せの流儀を提供するだけである。言語化しない分、万人共通だと思うのだが。

 

骨格修復力の旺盛な身体は、敏感な身体とも言える。変なものをそれと気づかず食べた場合、骨格修復力の旺盛な者は、身体が勝手に動いて、その変なものを吐き出してしまう。骨格修復力の少ない者は、その変なものに気づかず、吐く作用も起こらず、数時間後腹痛、下痢に苦しみ、食中毒と診断される。それは身体が鈍いからである。もっとも、さらに敏感なものは、それに気づいて、食べることさえしない。

 この療法を数回受けた受療者は、次のようなことを決まって言う。『家でよく眠れるようになった。そして睡眠中、身体が時々、ガクガクツと動くのを、夢の中で体験する。子供の時分、よくこんなことを体験したような記憶がある』と。

 身体自身の骨格修復力が旺盛になり、自然治癒力が盛んになれば、受療者たちは、もう、こういったセラピールームに来る必要はなくなる。

骨格修復力と自然治癒力を旺盛にする。これが、この療法のねらいである。身体を治すのは、実にこの自然治癒力以外の何物でもない。自分の身体は自分で治すものなのである。この療法は、そこに至るまでのチョットの間、お手伝いするだけなのである。

 昨今の指圧、マッサージを始めとしたセラピーブームは、施療者、受療者の供依存関係を生んでいるだけではないのか。受療者は、施療者から卒業することもなく、いつまでもパラサイト化している。それは、何回施療を受けようとも、自然治癒力がいっこうに増大しないからである。むしろ奪われていくであろうと、想像がつく。

 それに比し、この療法は画期的とは思わないだろうか。

 しかし、聞き耳を持たないかも。無刺激な療法なんて、プラトニックラブみたいでつまんないと。

 しかし、今日から、やさしい人の手に触れられながら、居眠りしたまえ。深いリラクゼーションは、一人ではなく二人の関係のなかでしか生まれないということを知るであろう。つまり、深いリラクゼーションとは、他者との気の交流のことなのである。身とは他者があってこそ成り立つ有機体である。身を任せる対象があってこそ命の躍如たるものがある。しかし、依存と任せるとは異なる、念のため。

この療法を学ぶにつれ、やがて解って来るのが『気』というものである。テクニックを行使するにつけ、テクニック以前のものが身についてくる。この療法においては、気が身につくのとテクニックが身につくのとは同時進行である。

 

話が、またまた、横道にそれてしまった。元に戻そう。身体の外から骨格修復を試みるという修復術があり、それは、身体を毀損させるかもしれないという万が一の危険は免れないということであった。それゆえ、その技術をマスターするには数年の年月を要し、並大抵の努力ではものに出来ないということであった。しかも名人になるには、一将、功成りて万骨枯る、くらいの犠牲者が累々と野に積まれたであろうってなところまで話した。話は再びここから進めよう。

 万が一の危険とその恐怖にさらされながらも、この種の名人たちは、己の自負を賭けて、カッコよく、首をボキボキっとやっている。しかし、どんなにカッコ良かろうと、やはり、首の矯正はうまくいったが、以来腕にシビレが来るようになったとかいう話は、後を絶たない。

 しかし、居眠り中のこの生理現象を利用すれば、それらのリスクから開放されるのだ。いや、それどころか、これまでの修復方法以上に、効果があることは間違いない。なぜなら身体は自分で間違ったことをしないからだ。人の身体に、外から人為的に修復を施すということは、その身体のために良かれとしていることが、大きな間違いをやっているかもしれないからである。

 

 身体のことは本人も、他人も知らない。身体だけが知っているのである。俳諧の松尾芭蕉が言ったように、松のことは松に聞くしかない。そのように、身体のことは身体に聞くしかないのである。首が曲がっているからといって、首をまっすぐにする必要はないかもしれないのである。また、必要があったとしても、今!する必要がないかもしれないのである。これらは全て身体だけが知っている。姿位の設定とは、身体に今日あたり、骨格修復はいかがですかとお伺いを立てているだけのことなのだ。人為的ではあるが、強制はしない。お伺いが時期尚早であった場合、身体は何の反応も起こさない。

身体自らが行う骨格修復は、どんな名人が行う骨格修復術よりも、正確無比である。身体に骨格修復を施す時期といい、どの骨を修復するかという骨の選択といい、骨を動かす方向といい、骨を動かす力加減といい、身体の中の指令にかなう者は、誰もいない。

 

 身体は必要としたときのみ、身体自らが、誰の指図を受けることもなく、身体の骨格修復を行っているのである。体内の治癒系が正常に働く健康人はそのつど、必要に応じ、日常生活の、とある瞬間の中で、身体内で骨格修復を行い、健康の回復を図っているのである。

 居眠りのとき、就寝中、夢をみているとき、友人と雑談をかわしているとき、庭の景色をボーっと見ながら一杯やっているとき、雑念を頭に浮かべながら実務に励んでいるとき、ラジオを聞きながらミシンを踏んでいるときなど、健康人の日常意識は、覚醒意識と半覚醒意識とが常に往来している。健康人には、骨格修復をしている瞬間は枚挙に暇はないが、治癒系の衰弱している半健康人は、その瞬間を表出できないのである。その瞬間とは、半覚醒意識の湧出である。健康人は、ある条件がそろった時、覚醒意識の中に半覚醒意識が広がる。そしてまた消えてゆく。無論、同時に不随意的パルス運動も僅少ながら惹起し消えてゆく。

覚醒と半覚醒の間を揺らぎながら生活をしているのが、健康というものだ。

病める者は、覚醒意識が冴え冴えと脳を支配し、身構え、カーと目を見開き、自己保持に余念がない。その崩れることのない頑な覚醒意識は、筋トーヌスを高め、身体をガチガチに堅くさせ、身体に骨格修復の余裕を与えない。安息のない身体は必ず、ボロボロに病む。

半健康人は、居眠りの場を与えられても居眠りできないのである。この療法は、突き詰めれば居眠りできない人を、居眠りに落とす方法だとも言える。居眠りできるようになれば、健康人として一人前である。

 身体の健康のためにどんどん居眠りしよう。くだらない会議、つまらない授業、どんどん居眠りしよう。そして、居眠りしながら、体をカクカク、ピックンピックン、パルス運動させよう。

 

  しかし、会議の議長、授業の先生には心から感謝をせねばならない。なぜならその方々は、皆さんにリラクゼーションの場を主宰したからだ。リラクゼーションの場を主宰するということは、並みの才能ではできない。特異な能力を必要とする。出席者が居眠りしてしまう会議の議長さん、生徒が居眠りしてしまう授業の先生、自分に何かが欠けているなんて自信喪失しないでください。私はあなた方に転職を勧めます。ヒーラーになりませんかと。

 

 リラックスすれば居眠りができるか。ことは簡単そうだが、いざ、その設定となると、けっこう難しい。この療法を発見して以来、約20年間、この療法をやっているが、患者さんをいかにリラックスさせるか、その難しさに出くわす。患者さんをリラックスさせることは、テクニック以前のテクニックである。しかし、それはテクニックの熟練と表裏をなす。腕一本動かすことによって、その者を眠りに導けていけたら、これぞまさしく本当のヒーラーである。アプレジャーの『体性感情解放』はそういうテクニックである。この療法はそれに近い。しかし、残念ながら、近いのであって、同じとはいえない。この療法を学ぶ中から、それをものにしてほしいものである。

ノート

 

  手技療法は、慢性疾患を原則として施療する

 

  ここで、少し、身体に手技療法を施すということと、痛みの消失ということについて話してみよう。

 身体の痛みを全く経験したことの無い人というのは、極めてまれであろう。多くの人は身体の痛みを抱えて人生を送っている。腰痛、首痛、頭痛、膝痛、股関節痛、背痛等、これらは、筋・骨格系の痛みだ。次にあるのは、胃の痛み、心臓の痛み、十二指腸の痛み、胆嚢の痛み、膵臓の痛み、他まだあろうが、これらは内臓系の痛みだ。痛みは大きく分けて、この二系統に分けられる。多くの人は、これら、二系統の痛みに苦しめられながら、人生を送ることになる。

 身体に、最初に痛みが走った時、われ関せずと、悠然としておれる者は、まず、居ないであろう。自殺志願者だって、死に場所を求めての彷徨の途中、腹痛になれば、病院へ駆け込むという。

 最初の痛みは不意にやってくる。人は、恐れと不安に駆られて、病院へ駈け込む。

 ところが、内臓系の痛みは、原因がわかる場合が多いが、筋・骨格系の痛みは、原因不明とされる場合が多い。内臓系の痛みは、胃潰瘍とか、十二指腸潰瘍とか、膵臓炎とか、狭心症とか、胆石症とか、病名が冠せられ、それに応じた薬が処方されて、通院または入院とか言われるのだが、筋・格系の痛みは、医師の方は、自信なさそうである。思うに、内臓系と違って、マニュアルがないからだと思われる。処方される薬も、痛み止めか副腎皮質ホルモン剤、筋肉弛緩剤を打たれるくらいで、対処療法でしかない。薬が体内から排出されると、また痛みがぶり返してくる。そのうち、身体がそれらの薬に対し、習慣性が出来てきて、利かなくなってくる。いきおい、それらの薬の量が増えてくる。気がつくと身体は薬漬けになり、痛みは深く進行する。関節が磨り減ってくる。

磨り減った関節軟骨は恢復しない。痛みを消す最後の砦は人工関節である。人工関節は入れ歯みたいなものである。入れ歯で林檎がかじれないように、人工関節で跳んだり、はねたりできない。すたすたどころかそろそろ歩きしかできないのである。

 なぜこうなってしまうのだろう。それは、現代の医療は、救急医療が主体であって、命に別状の無い疾患に対しては、医療ということが確立していないからである。内臓系の疾患は、筋・骨格系の疾患に較べ、命に別状を来たす場合が多い、だから、筋・骨格系の疾患よりは、ましな事をする。しかし、それも、慢性化すると、やはり命に別状はないということで、救急的医療からはずされ、確立していない医療行為を施される。

内科、外科とも、薬漬け医療の惨状が取り沙汰されているのは、慢性疾患に対する医療行為が十分確立していないからである。それだけ慢性疾患は、手ごわいといえる。

 

 手技療法は、この医療として確立していない領域、つまり、命に別状を来たさない、非救急的疾患に効力を発揮することになる。言ってみれば、慢性疾患が対象ということになる。

 

どこにでもころがっている手技療法、しかしそこには、翡翠の原石だってころがっていることもあるのだ。磨かれた手技療法だけが、人を長年の痛みから開放する。

 手技療法は、筋・骨格系、内臓系、いずれをも問わない。ただ慢性疾患を対象とすることが原則である。

慢性疾患なら何でもいいのかと聞かれそうだが、そうだと応える。腰痛から癌まで、これが手技療法の対象領域である。慢性疾患というのは、どうかした弾みに、人間本来が持っている自然治癒系が衰弱してしまった身体状態なのであるから、それを活性化させてやる必要がある。

癌とて同じである。最近は、こういった手技療法をも含めた民間療法と併用した癌治療の方が、西洋医療一辺倒よりはるかに効果があると報告されている。癌も自律神経の問題だというのが最近の免疫学のようである。

                                                                         ノート目次

                    

 

            どんな手技療法も骨格修復をメインとする                

 

 手技療法師が、筋肉の問題意識しか持ち合わせていない限り、慢性痛に対していい結果は出せない。しかも,悪いことに、薬漬けならぬ、手技療法漬けにしてしまう。中途半端なことは、癖になる。『ここをもう少し強く揉んでくれたら、治るのだが』、そんなことを言っている間に、どんどん落とし穴にはまり込んでしまう。

 どんな種類の手技療法であれ、その本質は、身体の骨格修復にある。骨をボキボキ鳴らして治療するとか言うカイロプラクティックは、その最右翼である。しかし、他の手技療法であるマッサージ、指圧、気功、オステオパシ−、その他わけのわからない(チョット失礼な言い方だが、そう言えば、私のこの療法もそのわけのわからない部類に入る)民間手技療法も、すべからくカイロプラクティックと同じ骨格修復がメインなのである。

 マッサージ、指圧、気功も骨格修復がメインだって?と驚かれるかもしれない。しかし、人間が脊椎動物である限り、身体の治癒と骨格修復の関係は、切っても切れない関係にある。もっと言うならば、風邪薬を飲んで風邪が治ったというなら、それは風邪薬によって身体の骨格が修復されたからなのである。

 マッサージ、指圧は筋肉をほぐすことによって、骨格を修復するのであり、気功は気の流れを整えることによって骨格を修復するのであり、カイロプラクティック、オステオパシ−は、直接骨格を対象にして骨格そのものをいきなり修復するのである。

 言うなれば、身体の治癒系の活性、衰退とは、おのれ自身が持つ骨格の、修復力の活性、衰退と同義である。自己自身の変位した骨格を、どこまで自己自身、修復する力が体内に備わっているか、それが体内の治癒系が健全か否かのバロメーターである。

 骨格の修復力が無くなった時、即ち、それは自然治癒系が衰退した時であり、人は病の床から抜け出れない。健康な居眠り中の子供は、実に良く動く。ピクピク、カクカクと。それは骨格の修復力が盛んな証拠である。それは言うまでもなく自然治癒系が盛んであるということである。加齢とともに動きは少なくなってくる。ましてや、疾患に見舞われるともっと少なくなってくる。シーツの乱れひとつ無く、謹厳実直に眠ることになる。骨格の修復力が、疾患によりダメージを受けているためである。ここに骨格の修復力を回復すべく、助っ人が必要になってくる。磨かれた手技である。磨かれた手技とは、身体に可能なかぎり外的刺激を与えない療法である。

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体表に刺激を与える手技療法は、習慣性を生む

 

 マッサージ゙は、筋肉を揉む。指圧は、筋肉を押す。カイロプラクティックは、骨を鳴らす。いずれの場合も、体表に、外力を伴った感覚的刺激を与えることである。この刺激が、受け手に習慣性を生じさせるのである。体表に加えられる刺激は、快感を生じさせる。快感は一時的に苦痛を取り除く。むろん、その快感と外圧によって、一時的に骨格は修復される。しかしそれは、体内の骨格修復のT,P,Oをわきまえたものではなく、的外れなものである。それは、体内の骨格修復力を旺盛にさせることは無い。先ほど述べたように、身体がその一時凌ぎの修復術に依存してゆくがゆえに、体内の骨格修復力は、むしろ衰えて行く。そしてその療法師のしもべのような身体になってゆく。現代のシンドローム、共依存という生き方。今日のヘンなヒーリングブームは、それと軌を一にしているのかもしれない。 

以下、先述したことのくりかえしになるが。もう少し、詳細化して述べる。

  マッサージ゙、指圧、カイロプラクティック等が、患者をして、いわゆる『癖〜漬け〜中毒』に陥らせるのは、それらの手技が生来的に不完全な設計だからである。療法として完全なものであるならば、中毒に陥らせる前に治癒を実現しているはずである。

 どういう意味で、不完全か。一つには、骨格の修復に関し、それは絶対的に中途半端なことしか出来ないということ。二つには、体表に必要の無い、強い刺激を加えていること、この二点である。

 一つについては、骨格の正位置を完璧に把握しているのは、外部の者ではなく、身体自身である(このことも先述した)。それに比し、いかなる名人であろうとも、中途半端な骨格修復しか出来ない。患者の身体は、その中途半端を埋めようとして、癖に陥って行く。

 二つについては、一つとよく似ているのだが、体表に不必要な外圧をともなう強い刺激は、骨格を新たにゆがめる。このことにより受療者の身体は、骨格の是正を求める気分になる。つまり受療後数日もすると体調不調に陥る。そこでまた施療してもらう。つまり、受療者と施療者の関係は、マッチポンプの関係なのである。これが強い刺激は習い性に陥ってゆくという理由である。

また強い刺激は一時的に爽快でもある。かって私が、マッサージを習いたてのころ。勤め先の院長は私にこんなことを言った。『マッサージで稼ぎたかったら、肩や腰をリズミカルにグリグリ揉む技術(強揉捏)を身につけろ』と。 つまり、リピーターをあてこんだ技術なのである。リピーターの多い治療院は、治療という観点からは考えものである。

凝った肩や腰の筋肉を快い痛さで押したり揉んだり、首や腰の骨を小気味よくボキボキ鳴らしたり、そんなことを、一、二回繰り返しただけで、必ず、もう一回やって欲しいという気持ちになる。一時の快を求めてはまり込んでしまう。これは治療に名を借りたストレス解消法である。ストレス解消もソフトなものならまだしも、こうなると身体は毀されてゆく。毀されても抜け出せないから気の毒である。いかに気持ち良かろうと、そんなことを何百回繰り返そうとも体はちっともよくならない。この手の療法師が一番危険である。目の淵は黒ずみ、身体が腑抜けにされてゆく。しかも、それとも気づかず、感謝の気持ちでいっぱいになっているのだから、まるで、カルト教団の教祖様である。

外圧と強い感覚刺激、この二点に依拠した手技療法は、必ずこのような弊害を生む。

しかし、これらの種別の手技療法家であっても、名人と呼ばれるは、これらの強い刺激に依拠したテクニックを捨てて行く。どうしたら人の身体を治せるかという技術練磨の姿勢が、暗中模索の結果、羽毛で体表を撫でるような手技に行ってしまう。名称こそマッサージ゙、指圧、カイロプラクティックであるが、それは、もはや、それらの範疇を超えてしまっている。指圧の名人は、腹部に手を当て、ときおり指で押す程度だという。最近のカイロプラクティックの一派は、SOT、つまり仙骨(S)、後頭骨(O)テクニック(T)を越え、呼吸を見計らって身体のポイントに手のひらを触れる程度の操作になっている。そして自らカイロプラクティクと呼称されることを忌避している。いずれ技術は気功に近い。

 ノート目次

             身体に良い手技療法は、自然治癒力の誘い水                                      

 無知が生み出す悲惨。手技療法の愛好家は、手技が、麻薬のように、中毒になるということをほとんど知らないであろう。俗に言う、癖になるとはそのことなのである。また施す者も、一生懸命治したいと思ってやっているに違いない。しかし、結果は意に反しているのである。手技療法は、諸刃の剣である。

 手技療法で中毒になり、患者の目のふちを黒ずませたり、黄色っぽくさせたりするような手技療法はすぐに止めねばならない(目のふちが黒ずんだり、黄色っぽくなるのは、東洋医学でいう『於血』、つまり血液循環がおかしくなっている)。

昨今のヒーリングブームとは、薬漬け医療の上に、さらに手技療法漬けを重ねているのではないか。何のための手技療法なのだろう。手技療法の役目は、薬漬け医療からの脱出であるはずだ。

以前は、睡眠薬など、ほとんどの者が飲まなかったのに、今は風邪薬並みにいとも簡単に飲んでいる。最近の睡眠薬は、以前のものに比べ、副作用がなくなったと言われている。はたしてそうか、以前に比べ副作用が分かりにくくなっただけなのではないか。

 

不眠症で悩んでいる人がいる。睡眠薬を毎晩飲まないと眠れない。しかし、いくら毎晩睡眠薬を飲んでも、眠れるのはその夜限りで、不眠症そのものが治ることはない。それは、睡眠薬によって、不眠症に関連した骨格のモードが、一時的に修復されても、また元に戻ってしまうからである。毎晩、このような繰り返し― 、その繰り返しによって、睡眠薬の量が減ってゆくのなら、毎晩、その服用によって行われるその、或る種の骨格修復術は、身体自らの骨格修復力を増してきたことになるのだが、現実はその逆である。

 日増しに、睡眠薬の量が増える。それは、日増しに、骨格修復力が衰えて行くことを意味する。身体内部にある自然治癒系が、衰えて行くことを意味する。

 これと同じことは、睡眠薬のみに限らない。痛み止めと称される薬を飲むことも、降圧剤を飲むことも、およそ薬と称される物を長年服用せねばならないということは、身体内部の自然治癒系(骨格修復力)を剥奪させてゆくことである。

 同じことは、昨今の手技療法にも言える。その場しのぎの手技療法を施すことが、患者の骨格修復力(自然治癒力)を奪ってはいないだろうか。例えば、ムチウチの後遺症に苦しみ、三日と空けずマッサージを受けている人がいるとしよう。その者は、最初からそうではなかったはずである。最初は三ヶ月に2回ぐらいだったのが、一ヶ月に一回になり、一週間に一回になり、とうとう三日に一回という具合になってしまったのである。やがて一日に一回になり、それでも我慢できず、半日に一回ということになって行く。  

 骨格修復力を誘い出し得ない手技療法は、身体に強烈な物理的力を加えることとあいまって、極めて危険である。

 その場しのぎの手技療法は、自然治癒力を奪ってゆく麻薬に似ている。今、例えとして、マッサージの例を挙げたのであるが、もっとも一般的な手技療法として、挙げたまでのことであって、マッサージという手技そのものが特別に悪いと言っているのではない。このようなことは他の手技、カイロプラクティック、指圧等にも起こる。ただ気功とオステオパシ−に限って(他にもあるのだが、煩雑を避けるため、人口に膾炙されていることを考えて取り上げる)そういうことは、起こらない。この違いは非常に重要である。世に多くの種類の手技があるが、気功とオステオパシ−の両者には、他とは一線を画すものがある。それが、この手技をその場しのぎのものに堕さないのである。それは両者とも『無刺激』ということに由来する。

 マッサージ、指圧、カイロプラクティック等に共通することは、揉む、押す、矯正等、体表に何らかの強い刺激を与えることによって成り立っている手技である。それに比し、オステオパシ−、気功等は、体表に刺激を与えないで成り立っている手技といえる(ただし、オステオパシーは、直接法ではなく、間接法に限る)。

                                                                         

  昨今、水道が敷かれてから、とんと見かけなくなったが、かって、井戸水をポンプで汲み上げていた。夏の渇水期が続くと、井戸水の水位が下がって、ポンプで水を汲み上げることができないことがよく起きた。そんな時は、ポンプの上口に、ヤカン一杯の水を注いでやる。そうすると、普段どおりにポンプが働いて水を汲み上げることができた。このヤカン一杯の水のことを、誘い水と呼んでいた。骨格修復力と骨格修復術との関係は、このような誘い水のような関係である。

                                               ノート目次

 

          

改めて手技療法の原点を問う     

どんな手技も突き詰め、錬磨してゆくと、同一領域に達する。その領域とは、気に触れ、気を動かす領域である。羽毛のように感触されるもの、それは気である。

 すべての手技療法は、その本来の成り立ちにおいて、生理学的、医学的体系を持っているわけではない。したがって、それらの手技療法が、なぜ有効であるのか、医学的な証明ができるわけではない。ただ有効という事実がある。それは、医学体系を超えた、別の体系があるという証左でもある。この目にみえない体系は、時折、医学体系をほころびさせる。原因不明の背中の痛みが、例えば、後頭骨に手を当てているだけで治ったなどというのは、それである。なぜ治ったのか、理論的に説明はできない。しかし治ったという事実は否定のしようがない。

 

 手技療法の出発点は、手当てという感覚から発している。腰が痛い時、思わず『痛い!』と手を当てる。その所作の感覚が、いくつかのヴァリエーションとしての所作を産む。それが技法と呼ばれるものである。例えば、掌圧、指圧、揉捏、叩打、軽擦。しかしこれらの技法は、手当てという感覚からはあまりにも直線的、直接的である。つまり、手当てのヴァリエーションとしての技法は、その根っこにある感覚は何も変わっていないということである。

手を当てる、または手を当てたいという所作、感覚をいったん押し殺したところから見えてくる所作、感覚がある。文字通り、手を翳して看るという所作、感覚である。『看』という語の造りは、手を翳して見るという意味である。普通に言う直接的な手当てからはいったん遊離し、離切した所作、感覚である。

手技療法の出発点となる手当ての所作、感覚には、直接的なものと、いったんそれを遊離したものとの二方向があったのである。直接性から遊離性への架け橋となったのは、おそらく、按摩でいうところの、軽擦というテクニックであろう。体表を擦(さす)るという所作の繰り返しは、やがて体表を覆っているオーラをさすることになり、いやがうえにも気を感触せざるを得ない。 

現在、手技療法の専門学校では、軽擦というテクニックはないがしろにされている。上手な軽擦にかかると心身ともに陶然としてくる。ここから身体に迫る切り口に思いが至らないためだ。いきおい、卒業生は、指圧、揉捏等の強刺激に依拠したテクニックで生活の糧を得ざるをえなくなる。

 

この気に触れ、気を動かすという感覚を訓練なしで解る、それが現代人には理解できない。なぜだろう。

なぜそれがわからなくなって、訓練によって解る、という本末転倒を演じているのか。それは、この感覚は、一人で解る感覚ではなく、二人という関係性において解る感覚だからである。手をかざして見るという『看』の所作は、一人では成立できない。相手がいて(相手のハートがあって)初めて出来る所作である。二人となってはじめて成り立つ出来事である。

 現代人が見失ったものは、実は、二人という関係性なのではないか。かっては、二人で一つ。または、他者と一体になって、始めて成立する自己。二と一は、切っても切れない関係の中に一はあった。手当ての『看』、すなわち、手をかざして見るとは、そういう関係における、巧まざる優しい所作だったのである。現代人の失ったものとは、優しさである。それは、他者との生命の交流ということである。それが原始感覚の喪失につながっているのである。ジコチュウという語ももはや死語か。それすらも感じないほど、われわれは、他人から遠くへ来てしまっている。バーチャル化して行く現実。

他人との優しさの中に気は醸され、高揚してくるのである。

 

そしてこの二種の感覚は、それぞれに手技療法として、別々の方向に進むことになる。前者は、体表に刺激を与る方向、後者は、体表に刺激を与えない方向である。前者は部分的快を与える方向に行き、後者は全体の気を感じる方向に行く。そして前者の方が、お上の方から擁護され、専門学校までもでき、国家資格制度として認定されるのである。

 かっては、盛んであったであろう『看』の治療、それが今は、暗在系として葬られ、一部のものにしか省みられない。その最大の原因は、他者性を失って自己中心にしがみついているいびつな自己存在にある。相手に素直に身をゆだね、信頼することができない。短兵急に手っ取り早いことのみを求める、共依存関係の由来でもあろう。

 

 そういった時代状況の中にあっても、今日なお、『看』の立脚点に立ち、他者との気の交流を図った治療法に、野口晴哉の提唱した『愉気』がある。これは、『看』から得られる原始感覚を徹頭徹尾、素直に行使した、生命賦活の療法である。これほど素直に原始感覚に浸れる人間関係を私は知らない。ここには渾然一体となった自他があり、そして、その自他を超えた自己がある。そういう意味で、この『愉気』は、『看』としての原始感覚の極北に位置するものと思われる。

 

体表に、指圧、揉捏、矯正等の何らかの刺激を与えることによって成り立っている手技療法は、技術の低劣化を免れない。それは、刺激そのものが、疾患の治療効果とは関係なく、身体に快感と欲求不満を呼び起こすからである。この快感と欲求不満は、世間では需要となる。この快のみを求めての手技療法を受ける者もいる。また、疾患の治療を求めたにもかかわらず、その欲求は満たされずとも、強い刺激による快感が与えられれば、不満が満足に変わる。そうすれば、むげに、この手の手技をけなす気にもならない。そうやこうやで、このての手技療法は、世間の需要を満たすことになる。これが低劣化の理由である。低劣化すれば、この種の手技療法の技術は、玉石混交、ピンからキリまであることになる。ピンに遭遇すれば、もっけの幸いだが、キリに当たれば、悲惨である。快感どころか、ただの痛打感しか得られない。しかし、それでも、その痛打感が俺にはいいんだという御仁もおられるのだ。てなわけで、キリであっても需要はあるのだ。それが、身体に刺激を与えるということのお得な一面である。てなわけで、このての手技療法は、悪貨が良貨を駆逐するように、蔓延し低劣化してゆく。

 しかし、それでもまだ需要があるだけましだ。お金を払って粗悪品を与えられるならまだましである。

ところが、『看』に基づく手技療法は、お金を払っても、粗悪品どころか何もくれないという面がある。いきおい、客は怒鳴り散らすことになる。『テメエ何やってんだ。背中に手を当てているだけで、何か身体にいいことあんのか。気持ちいいってこともなければ、ただ、いらいらしてくるだけじゃねーか。悪いけど金なんか払わねーよ。当たり前だろう、背中に手を当てているだけで、ウンともスンともしねーエんだもの。お前さんみたいなのをやらずぼったくりと言うんだよ』、てなわけで、このての手技療法は、キリ(最低)であるかぎり、需要がない。それがもう一つの手技療法と違うところである。

 キリにも需要があるということが、刺激に依拠する手技療法の低劣化を招いているのだが、刺激に依拠しないこの手の手技にはそれがない。それは、無刺激な療法のキリは即、受療者から罵倒され、世間に広がる余地がないからである。ということは、世間に有る、この手の手技は、ピンしかないということになる。つまり、無刺激に依拠した手技療法は、一定のレベル以上のものしか、世間には存在しないということになる。無刺激に依拠することは、刺激に依拠することに比べ、厳しい一面がある。刺激に依拠した手技療法は、技術が劣悪でも飯は食えるが、無刺激に依拠した手技療法は、劣悪であれば、誰からもお呼びがかからない。

 刺激に依拠する手技と、無刺激に依拠する手技と、この両者の違いは、玉石混交か、オンリー玉かの違いである。前者の手技は、名人だけが、この種の手技の完成された技法を知っている。言うなれば、名人が施すものでない限り、このての手技は受けてはならないということである。下手な者にかかると、麻薬中毒者が麻薬を追い求めるように、歪んだ快感を追い求めるような身体になってしまう。

 旧いカイロプラクティックを初めとした、骨をボキボキ鳴らす療法も同じである。定期的に骨をボキボキ鳴らしてもらいたくなってくる。骨格修復は本来、身体みずからが行うことであるゆえ、それを他人に代行してもらっているかぎり、依存的習慣は生まれる。

他人に代行された骨格矯正は、どんな名人でも的を得ていない。それで、思いっきり首か腰かをガッツンと鳴らしてくれると骨がピタッと入るかのように思われてくる。いきおい矯正力は強くなり、それにより骨どうしを結び付けている靱帯の脆弱を招き、いともた易く、骨格がヘンな方向にズレ易くなる。よってまた矯正してもらいたくなる。

強い刺激を与えれば与えるほど、それは本人の骨格修復力を阻害する。治癒という標的から、ますます遠ざかる。

 本来、刺激と治癒とは、相容れないものである。それは、神経生理学者、アルント・シュルツの刺激の法則を待つまでもない。アルント・シュルツの刺激の法則には、こうある。『ごく軽い刺激は、神経機能を奮い立たせ、中程度の刺激は、これを亢進せしめ、強度の刺激は、これを抑制させ、最強度の刺激はこれを停止させる』。ごく軽い刺激とは、きわめて軽微、ソフトな触れ方をさす。それが仮死状態の神経を目覚めさせるのである。ちなみに、最強度の刺激は、痛みを無感覚のものにしてしまう。つまり神経機能を麻痺させるのである。それは、痛い箇所を、竹刀の先端などで徹底的に押し込んで行くことで生起する。

これは、手技療法の専門学校で第一に教える生理学なのであるが、この軽く触れるということが、治療の最短距離を開いているということに思いを馳せる者は少ない。

 

 本当に快い刺激とは、ほとんど無刺激に近い刺激である。犬や猫は、軽く体表を撫でられて喜ぶことはあっても、指でグイグイ揉まれて喜ぶことは無い。しかし、最初それを嫌がっていても、それに馴らされると、むしろその強い刺激を求めるようになる。身体が、本来の原始感覚を忘れて、中毒化するのだ。そして、治癒系の阻害が始まる。

                                                                         ノート目次              

 

 

第二章   テクニックとは何か

―テクニックとそれを生み出すテクニック以前―

 

               居眠り中の骨格修復の誘発、実験前半                

 

 ご託宣はそのくらいにして、果たして本当にそうなるのかやってみよう。居眠り中にゆっくり、静かに腕を動かすと、身体が大きく動いて、身体の骨格が大きく修復されるということを。

 

 この療法でもっとも難しいことは、患者さんをリラックスさせるということである。短時間で居眠り状態にまで持っていけるほどリラックスさせるということは、やはり一種の鍛錬された技術といえよう。これのみが、この療法における唯一のハードルである。

 だからここでは、誰でもが、技術的努力をせずとも、環境そのものが、居眠りに落ちやすいという状況の中で、試してみるのが手っ取り早い。居眠りに落ちやすい環境とは、一日を終え、寝床に就いた時である。居眠りというよりも、ただ眠たくてしょうがない時間帯である。この頃合いを見計らって実験するのがよかろう。居眠りと就寝寸前とは、ちと違うが、生理現象としてはさほど変わらない。居眠りとは、仮眠状態がかなり長く続くことであり、就寝寸前とは、仮眠状態が短く、いきなり睡眠に入ってしまう頃合いである。仮眠の長短の違いがあるだけである。この短い頃合いを逃さずにやろう。ぐっすり眠ってしまうと、この療法の効果が明白ではなくなる。

 

 居眠りに落ちやすい環境は設定された。次に実験台には、誰がなってもらうかが問題だ。まさか見ず知らずの人になってもらうわけにはゆくまい。なぜ見ず知らずの人ではだめなのか、それは両者間に安心感、信頼感が生まれていないため、リラックスしてもらえないからだ。しかし、実際の臨床では、見ず知らずの人を相手にする。人をリラックスさせるということは、やはり技術によるのだ。

 

 実験台には、友人、恋人、伴侶等、一定の信頼関係のある人を選んだほうが良い。まあ、そういった関係の人達でないと、こういった変な実験の実験台になってくれそうもないのだが。選ぶというより、選ばざるをえないのだ、がんばろう。

 

 さあー、実験の環境と、実験台になる人はそろった。実験台になる人は、あなたの恋人と仮定しょう。

 

 あなたの恋人の服装は、パジャマに着替えてもらう。ブラジャーはつけていても良いが、ガードルは、取ったほうがいい。これらの指示は、恋人にリラックスしてもらうためである。恋人同士だから気持ちはいつでもリラックス状態だと言うであろうが、こと気持ちと身体とは違うのである。気持ちはいくらリラックスしていても、体が緊張状態ということはいくらでもあるのである。Gパンよりも、パジャマのほうが身体はリラックスする。ガードルとておなじことである。また、後顧のために言っておくが、ストッキングも体に緊張を強いる。なぜこんなやわらかい素材が…と思われるであろうが、体にフイットするものは、体を締め付けるもの以上に体に緊張(つまりこの場合、神経を興奮させる:アルント・シュルツの刺激の法則に則っていると思われる)を強いる。これも長年の臨床経験から得たものだ。

 あと、実験に入る前に、入浴することは控えてもらう。実験直前はもちろん、その日一日は入浴しないほうが良い。これは今回の実験のみならず、実際の臨床においても同じである。入浴すると、身体の骨格修復がそれなりに行われて、椎骨のズレや関節の骨の位置が、正常の位置に一定程度近づくためだと思われる。そしていったん、一定程度、正常位置に近づくと、その日は、もうそれっきり椎骨や関節は、その位置を動かないように思われる。関節や椎骨には、自説を曲げぬ偏屈者のハートが宿っている。これも、長年の臨床経験から知ったことである。

                                                                               ノート目次      

 

いよいよ実験開始である

 

 あなたの恋人は、パジャマに着替えて、布団の上で仰向けになっている。毛布か薄での掛け布団は、恋人の胸から足元にかけて掛けたほうが良い。なぜかというと、リラックスしてくると、皮膚の毛穴が開いて体が冷えてくるからである。冷えてくると寒気を感じ、体が緊張してきてリラックス状態が解かれるからである。すると居眠り状態に入っても、まもなく目を覚ます。部屋の温度は、平常よりも少し暖かめのほうが良い。

 

 恋人の両手は、胸の上に置く。それを恋人自身にさせよう。それをあなたが少し手直しする。どのように手直しするかというと、左右の肘の位置をそれぞれ外側に少し持ってゆき、手の指先は伸ばして、左右の中指、もしくは人差し指はお互い接するようにしよう。そうすると、左右の肘から指先にかけてのラインが、頭を頂点とした三角形の底辺となるであろう。 なぜこんなことをするかというと、操作がしやすいということと、体に少し不自然な姿勢を強いたほうが、覚醒している意識が、半覚醒状態に入りやすいからである。リラックス〜半覚醒〜居眠りというふうに意識は変化しやすくなるからである。

 

 姿勢は整った。恋人に目をつむってもらおう。そのほうが、やはり居眠りに入りやすいからだ。目をつむったら、恋人に何か話しかけよう。話の内容は、出来るだけたわいのないものだ。話の内容に恋人が真剣に答えてくるようなものはいけない。例えば、次のような例はいかがだろう。

 『今、目の前に羊が何匹いる?』 『いるわけないんっジャン、ばーか』 『想像力がたりねんだよ。その気になると相手もその気になる。つまり、見えるってこと。ほらほらもう来たじゃない。少し遅いね、道草食っているんじゃない。向こうの山の麓から。』 『うーん、来た来た。三匹、思ったよりでかいな…』 『ふーん、また来たんじゃない、羊の顔を想像して数えてよ』 『う〜んこの顔あなたに似て憎たらしいな、次のは純白でけっこう可愛いな、四…、五…、六…、七…』 『ふうーん、けっこう来るね、餌場に向かう途中なんかな?ところで、明日の朝食は、パンとコーヒだけだっけ?』 『そうよ、毎朝そうよ。うちら貧乏だもん。もっとおいしいもの食べたかったら、もっと稼いでよ。こんな変なことやらないで。もうー、寝るウ…、明日の朝早いんだもん.

 こんな会話を交わしている時、彼女の胸の上に置いた手に注目していてほしい。会話を進めているうち、指先が、まるでピアノ鍵でも軽く叩くかのように、かすかに動きを反復していることに気づくであろう。こういうかすかな動きが現れたらしめたものである。本人は快い居眠り状態に向かっているのである。本人はその快さを楽しむのに没頭しようとしている。そう簡単にこの居眠りモードから脱出しない。よっぽど不快な刺激、例えば、大声をあげたり、体をつねったり、叩いたりする、などの普通以上の刺激を与えなければ、この居眠りモードは解除されることがない。

 

 突然の沈黙も、普通以上の刺激である。居眠りモードは即、解除される。次の操作に移るにあたって、突然、言葉をとぎらせるのは良くない。会話を徐々に少なめにしながら、次第に沈黙に持っていこう。居眠りモードはさらに深まって行く。『今晩、一緒に寝たらよくないのかなー、ちょっと手を貸して』とか何とか言いつつ、相手の手首を、そおっと静かにつかもう。 この時点で、あなたの恋人は、居眠りの快感にどっぷり浸って、返事をする気力も失せている。もう沈黙していい。

 

 彼女の左腕から操作するのであれば、あなたは今、彼女の左側に座っていることになる。座っているとは、あぐらや、体育座りではなく。日本人の座り方、正座である。

 ならば、彼女の左側の、どのあたりか、彼女の腰か、脇腹あたりか。そしてどの方向に向かって座っているのか。彼女の脚のほうに向いてか、頭上に向かってか、真横に向かってか、斜め頭上に向かってか。

 この場合、斜め頭上に向かって、彼女の横に正座する。彼女の曲げた肘が、あなたの両膝頭の合わせ目、前方5〜10センチメートルくらいの所に来るように座る。背をかがめて左手を伸ばすと、彼女の肘に届くぐらいの位置になる。この位置に座っていて、先に述べたようなたわいない話をし、彼女の胸に乗せてある手の指が動き出したら、徐々に会話を減らし、少しずつ沈黙の時間を長くする。そして、どうでもいいことを話しつつ、彼女の左手首を、あなたの右手の親指と中指、人差し指で挟むようにしてつかもう。

 

 左手首をそおっとつかんだら、彼女の呼吸に合わせて、静かに静かに、手首を手前に引いて来よう。静かに静かにとは、どんな感覚か。それは例えば、一分間に0.1ミリメートル動かすような感覚である。ほとんど動かさず、ただ、じーっとしているのとほとんど変わらないような感覚で手首を動かすということである。実際は、5分間に30センチメートル程動かすことになるだろうか。

 

 また、彼女の呼吸に合わせて動かすとは、彼女が息を吐いている時に、手首を動かすということである。息を吸っているときは、手首を手前に引く動作を止めているのである。息を吐いている時に、一分間に0.1ミリメートル動かすような感覚で手首を手前に引いて来、息を吸っている間は、動きを止めている。そんな繰り返しでいつのまにか手首は、胸を離れ、肘から垂直に立っている。その間、肩が揺すれたり、脚がすばやく屈伸したり、持っている手首が引き戻されそうになったり、大魚が一瞬、尾びれを振るように、腰が大きく揺すれたり、様々な体の動きが現れる。普通の居眠り時に現れるのとは、違う、普通の居眠り時以上の骨格修復が誘発されたのだ。その間、まったく会話をせず、沈黙の中で行う。

 

 しかしその間、手首の重さが感ぜられず、スーと動くようだと、相手は、居眠りモードには入っていない。意識は覚醒状態にあり、あなたの操作に沿うように、あなたの操作を助けるように、意識して手を動かしているのである。実験は失敗である。今日の実験はこれで止めよう。

なぜなら、成功するまで、その日に何べんも実験を繰り返すのは、徒労である。実験を繰り返せば、彼女は実験を成功させようと思って、ますます意識が冴えて来、眠気もどこかへ飛んでいってしまう。実験の繰り返しは悪循環に陥るだけだ。条件が100パーセントそろっていれば、必ず成功する。次の日、再度実験を試みるにあたり、前回、どの段階でつまずいたのか、点検しよう。リラックスしていたかどうか。リラックスしているということは、胸に置いた手指が、かすかに動いていることと同時のことなのである。リラックスしているが、手指がかすかに動いてはいないということは、リラックスしていないということなのである(リラックスしていてもその度合いは浅い、浅いリラックスはリラックスではない)。手指が動いていないのに、手首をつかみ、手前に引き寄せるという、次の段階に進むのは意味がない。

  

 なぜ、リラックスしないのか考えよう。リラックスするということは、頭の中がボ゙ーとして、頭の中が空っぽの状態になることである。彼女がリラックスできないとは、彼女には、何か気になることがあって頭の中が空っぽにならないのである。気になることとは何か、外的要因と内的要因とに分けよう。そして、外的要因から取り除いて行こう。外的要因は単純な要因だ。

 

 リラックスできない外的要因。例えば、室内の温度、照明、窓外の騒音、部屋に鍵をかけたかどうか、ベランダに洗濯物を干したままになっていないかどうか、あすは、生ゴミの日だったか、不燃物の日だったか。こんなことが気になる人もいれば、ならない人もいる。人、千差万別だ。彼女と協力しあって、気になる要因を取り除いてやろう。

 

 リラックスできない内的要因。例えば不眠症。睡眠薬を飲まないと眠れない。こういう人に今の実験をやってみても無理である。実験が進行しない。しかしだからと言って、睡眠薬を飲ませて、実験をやったんでは意味がない。相手が不眠症であった場合、このやり方での実験は無理である。別のやり方で行うしかない。別のやり方とは、プロが臨床で実際に行うやり方である。不眠症の者でも、強引に居眠りに落とすやり方がある。その場合は、後述の章を参照されて試していただきたい。

  

 他にも、リラックスできない内的要因がある。例えば体が常時、発痛している場合。頭痛、胃痛、腰痛,背痛、首痛etc…。これらの痛みが極度にまで達していると、この実験だけで居眠りに持ってゆくのは少し無理である。そういう方は、常時、睡眠薬のお世話になっている方であろう。しかし、痛みがそれほどでもなく、睡眠薬の世話にならず、毎日眠りについているのであれば、少々寝つきが悪くても、この実験だけで、骨格修復を起こさせることが出来る。

 

 まだ他にも、リラックスできない内的要因がある。例えば、相手があなたに対し、信頼が希薄であるとか。もしかして、希薄を通り越して不信、憎しみ。こういう関係でよく、実験を承諾してくれたと思うのだが。こういう内的要因も結果として、居眠りを誘発できない。

 

リラックスできない外的要因を取り除いて行った後に、リラックスできない内的要因が残る。実際の臨床に遭遇するのは、ほとんどこのケースである。

しかし腕一本動かすだけで、居眠りに導いて行けば、体の痛みはもちろん、心身症の分野にまで治療を効かすことが出来る。

                                                                          ノート目次           

                実験後半

 

相手の胸の上に置いた手を、軽く手首をつかんで、静かに静かに手前に引き寄せ、垂直になった所で、ここまでを説明の都合上、実験の前半と仮定しょう。

これから述べることは実験後半にあたる。

 先ほど述べたことは、ここに至るまでに想起される、基本的な問題なのであるが、これらの問題を克服できれば、この療法の本質を会得したも同然である。実際の治療には前半も後半も無い。これから述べることは、垂直になった、肘から手首の部分を肩のほうへ、先ほどと同じくゆっくりと、静かに静かに倒しつつ持って行く操作を述べる。その過程で起きる留意事項は、前半と重複するものもあるかと思うが、後半の説明を読むことによって、逆に、前半で言わんとしたことが、より深く理解できるであろう。

 

 彼女の胸に置かれた左手は、あなたの右手によって、その手首をつかまれ、あなたの手元のほうへ引き寄せられ、肘から手首の部分が、垂直に立てられた。次にすることは、彼女の手首をつかんでいるあなたの右手はそのままにして、あなたの左手の指先の腹で、彼女の肘を布団から浮かせ、そのまま支えよう。その時、肘を支えている左手の指先の背は、最初から布団に密着させているのがいい。つまり、肘を布団から浮かせるというよりも、肘と布団の間(間なんかないのだが説明の都合上)に、指を捻じり込ませると言ったほうが良い。必要に応じ、徐々に浮かせて行くことになるが、最初から、布団、施術者の左手の指、受療者の左肘、の三者はピッタリ密着している。そのほうが、居眠りしている彼女の非意識に動揺を与えない。

 

 垂直に立てられた彼女の前腕部(肘から手首の部分)のうち、肘はあなたの左手の指の腹で支えられ、手首はあなたの右手の親指、人差し指、中指でつかまれている。肘を支えている部分は動かさずに、手首をつかんでいる右手でもって、ゆっくり、静かに静かに肩の方へ倒して行こう。倒れるがまま、倒れる方向に逆らわずに倒して行こう。

 多くは、彼女の身体に対し、少し斜め外方、肩先方向へ倒れることになるが、彼女の身体に対し、平行に倒れて行くこともあり、また顔の方向に倒れて行くこともある。

 

 倒して行くスピードは、前半と同じ感覚で良いが、前半を、10分間0.1ミリメートルなみ(実際ありえないことであるが、感覚として)の可能な限り遅いスピードで操作したのなら、後半は少し速めでも良い。

 逆もまたしかりである。

 

 肘を手指の腹で支えたまま、それは動かさず、手首をつかんだまま、肘から手首の部分を肩方向に倒して行こう。その時、若干抵抗を感じる方向に倒してゆこう。少し抵抗を感じると同時に、体がガクッと動いたり、胸に乗せてある反対側の腕が上下に揺すれたり、他、身体内の骨格が修復されるときの様々な動きが誘発されてくる。悪いところが断続的によく動く。そうなったら(いや、そうならなくても抵抗を感じたら)、その少しの抵抗をさらに大きく感じるために、肘を手指の腹で少し浮かそう。

 

 これも、そぉ―っと静かに静かに浮かそう。そうすると、手首のほうに、ますます抵抗を感じてくるであろう。そして、肩から肘、肘から手首の、屈曲したラインが、一本の曲がった鉄骨のように、固く感ぜられるはずである。その時、身体に、さらなる骨格修復が誘発される。

        

 

 骨格修復が誘発されたとき、それまでの操作を即、そのまま止めよう。それは、一旦、誘発された修復の動きをそのまま持続させるためである。修復の動きが連続しているとき、腕をさらに動かすと修復を誘発したポイントが移行するので、効果が半減する。

 

 しかし、操作の動きを止めても、動かそうという意志…抵抗を感じる方向に動かそうと言う意志…は、止めてはいけない。その意志は、あなたの手指を経由して相手の身体の中に伝わる。相手の腕を動かすのと同等な物理作用、ないしは生理作用として相手の身体内に伝わる。

 

 意志は常に抵抗を感じる方向を捜し感知している。それは肘を支えている手指、手首をつかんでいる手指を微妙に動かし、相手の腕を、抵抗を感ずる方向に移動させようと、かすかに、そして正確な方向に加圧しているのである。この、動きとは言えないかすかな圧が、連続した修復の動きを誘発させるのである。

 

 また、修復が誘発された時、つかまれている手首を、すばやく振りほどこうとするかのような動きが一瞬、 出るときがある(それも修復による付属した動きのひとつであって、手首を振りほどこうと本人が思っているわけではないのだが)。そんな時は、その動きを阻害してはいけない。なすがまま、なされるがまま、その動きをさせよう。そのためにも、手首をつかんでいるあなたの親指と中指人差し指は、軽く軽くニュートラルに、彼女の手首にフイットさせ、着かず離れず自由自在に、まるで添えてあるだけかのような感覚でつかんでおこう。

 

 こうして、これらの動きを繰り返しながら、一本の腕はどこへ行くのか。行きたい方向へ行かせれば良い。行きたい方向が感知されるのなら、その方向に沿って、腕を伸展して行けば良い。意図的に行き先を誘導してはいけない。しかし、こちらのなすがままの状態になっていて、行きたい方向が無さそうな状態になっている場合、その行き先方向を、軽く誘導して行こう。

 

 最終的には、腕をまっすぐ、伸ばすことになるのだが、行きたい方向、つまり伸ばしたい方向が無さそうな場合、どの方向に、伸びを誘導するかと言えば、頭上斜め外方である。肩先45度方向である。そのあたりに、抵抗なく伸びが落ち着くところがある。伸びが落ち着くとは、体がリラックスするところであり。その腕による骨格修復が完了するところである。

 

その方向に、腕が伸びたら、二、三呼吸そのまま、じっとしていて、それから元の胸の位置に、軽く静かに戻そう。戻すスピードは、目を覚まさない程度である。これまでの間、ずっと居眠り状態であったのなら、できるだけゆっくり…という必要はない。

 

これで、左手の操作は終わった。次に、まったく同じように右手を操作するのである。左手に十分、時間をかけて操作をおこなったのなら、右手の場合、左の時ほど多く、修復の動きが誘発されない。したがって、右手の操作は、短時間で済む。左腕の操作時間は、人によりけりであるが、一般的にいって約10〜15分ってところか。そうすれば、右腕の操作時間は7、8分ぐらいで、済むであろう。

                                                                          ノート目           

 

                  実験の型は、症状の軽い人におこなう

 

第二章に述べた操作の型は、実験のために、特にあつらえたものではない。実際の臨床においても、これは使う。しかし、現在、この型はあまり使わない。最初の頃は良く使ったが、今は、肩関節の症状解消と、首周辺を触れられると意識が冴え緊張してくる人ら以外あまり使わない。ほとんどの場合、後頭骨の姿位設定で十分、パルス的動きを出させ全身を整えることができるからである。

しかし、この型は、私の発見した療法…腕を動かすことによって居眠りを誘い、自己矯正を誘発させる…のもっとも初歩的な型であり、エッセンスである。まずこれから覚えることが、この療法を会得する近道である。パルス的動きが生じる設定の手ごたえというものが、後頭骨の設定に比しはるかにわかりやすい。

腕の動かし方や、方向、肘の浮かす時のタイミングなどは、あくまでも、基本的な一つの形であって、この通りでなければならないということはない。腕に抵抗を感じるにつれ、臨機応変に行うべきものである。手に取った相手の腕に抵抗を感ずるか否かが、この操作の決め手になる。

 

 これまで、どういうケース時に、あの実験の型のみで臨床を終始させていたか。それは、すぐ半覚醒状態に入りやすい人である。例えば、施術者と最も親しい関係にある人、高校生以下の年齢、とても素直で疑うことを知らない人、暗示にかかりやすくトランス状態にすぐ入る人等、であろうか。こういった人達も、ケースバイケースであって、必ずしもこの型のみで終わらせることはない。比較的症状が急性の場合は、この型のみで症状は取れる。

 例えば、高校生がバレーの練習中、足首を捻挫したという場合、この型の操作のみで、その日のうちに捻挫は治る。湿布することも、固定する必要もない。足首の関節が修復されれば、靭帯や腱の炎症は速やかに消える。もちろん、捻挫による腫れも引く。

足首の関節は複雑な骨の集まりであるから、外から、関節の修復を加えても、これほど速く治すことはできない。外からの修復術は、必ず正確さを欠くからである。足首のどの骨を、どう修復すれば良いのか、知っているのは、その身体だけである。その身体内の指令に基づいて、その身体自身が足首の捻挫を自己修復するのである。この型を施すと、捻挫のある側の脚は、幾度となく、屈伸を繰り返したり、足の指がピクピク動いたりする。時折、ガクッと腰が動いたりもする。肩も動く。足首の捻挫は、全身の骨格の変位ももたらしていることが十分納得できる。

 

 実際の臨床に際しては、この型プラス、別の部位の操作をおこなう。その主たるねらいは、相手をいかに素早く、居眠り状態に陥らせるかにある。実験のようにすぐ居眠りに入るような人が、患者として目の前に現れることは、まれである。長年疾患を抱え、体に痛みを持っている人は、居眠りすべき時に、居眠りできない。言うまでもなく、そういった人達は不眠症ないし、不眠症予備軍になっているのがほとんどである。あらゆる症状の突破口は、居眠りの誘導にある。

                                                                          ノート目次       

               居眠りを誘発させるための基本

実際の臨床は、猫背修復から始めよう

 

 仰向けに寝てもらおう。両腕は、バンザーイのように頭上に挙げることになるが、すっかり伸ばしきったバンザーイではない。土俵入りの横綱のように肘を90度近く曲げよう。そういう態勢が整ったら、そこで、いきなり息を吐いてもらう。そうすれば大きく息を吸うことになるから。

 そうやって大きく息を吸ったら、ゆっくり息を吐きながら、両足の踵を両脚を伸ばしたまま、これもゆっくりと布団から約10センチメートルほど浮かそう。そしてそのまま宙に止めてこらえよう。こらえるのが苦しいからといって、そのまま天井の方に挙げていったり、すぐ下に下ろしたりしてはいけない。我慢できなくなるまで、できるだけ長くこらえよう。

 その間、普通に呼吸していなければならない、息をこらえてはならない。そして、宙に浮かせた脚がついに持ちこたえられなくなったら、一気にドスンと、音がするくらいに力を抜いて落とそう。静かにやんわり落としたのでは効果はない。

 脚を落としたら、呼吸を普通に整えるために2,3回深呼吸をしてもらおう。

 

 なぜこんなことをするのか、といえば、筋肉を弛緩させるためである。筋肉は、限界まで緊張させ、一気に脱力すると、弛緩する性質がある。今の場合、肩から首にかけての筋肉、腹筋、脚の筋肉等が弛緩する。筋肉が弛緩すると、一瞬、頭がボーとして、半覚醒状態になる。そのためにこんなことをするのである。

 

 半覚醒状態が覚めないうちに、実験の型を施そう。もう半覚醒状態に入っており、今にも居眠りモードに移行する寸前になっているのであるから、このままゆっくり腕を動かせば、すっかり居眠りモードに入り、体がビクビクガクガク動き出す。

 実験の型を施すにあたり、実験の最初にあったような、居眠りに入ってもらうためのたわいない話を、相手方にする必要がない。これまで、沈黙が続いていたのであるから、話しかけることは、沈黙を破ることになり、むしろ、居眠りモードが解除される。

 

 仰向けに寝て、脚を伸ばしたまま踵を挙げ、こらえきれなくなったら一気にドスンと落とす、その後すぐ、実験の型に入る。これで、臨床を終始できれば、毎日が楽しくてしょうがない。しかし、楽しい毎日は、そうざらにはない。多くの患者は、こんな簡単なことで、そうやすやすと、居眠りには入らないのである。お金を払って治療を受けに来る人というのは、重症患者が多いのである。藁にもすがる思いで、セラピールームへ来るのである。この操作の取り合わせは、やはり軽症の人、ないしは、2,3回通院するようになった人に適しているといえよう。

 

 仰向けに寝て、踵を挙げ、ドスンと落とす、その後実験の型に入る。しかし、実際、実験の型を行使しても居眠りには入ってくれなかった場合、どうするか。この療法は、居眠りに入らないと、まったくナンセンスな療法である。靴の上から足の裏を掻くようなものである。イライラこの上ない。居眠りにも入っていないのに、10分間に0,1ミリメートルの速度で手を動かすのだと意気込んでやったとしても、ただの変態にしか思われない。

 

 相手の手を、胸から手前の方に引く途中で、手に重たさが感ぜられず、スーと手前に来るようだったら即、その型を続けることを止めよう。本人は居眠りモードに移行していない。頭の中は、ボーとしているどころか、冴えわたっている。長居は無用。即、別の操作に移ろう。

 

 手前に引き寄せた相手の手を元の位置にもどし、相手の頭上真上に正座しよう。そして、右手を首の付け根に差し入れて、指先で、その付け根を軽く押してみよう。すると相手は、何を思ってか、たちまち起きあがろうとするであろう。多分起きあがってくださいと、指示を受けたと思って起きあがるのである。

 なぜそう思うのか、それは、そう思うことが、今の仰向けの姿勢を変えるのに都合がいいからである。今の姿勢をなぜ変えたいのか、それは仰向いていることが潜在的に苦痛だからである。首に当てられた指の圧を、苦痛から逃れるのに、もっけの幸いとばかり、都合のいいように、その指のを解釈したのである。

 

 仰向けに寝ていることが、なぜ潜在的に苦痛なのであろうか。それは、その者は猫背だからである。背骨が前方に丸く曲がっているため、仰向けに寝ると、それが無理やり平坦にさせられるため苦痛なのである。その苦痛は、本人が意識して感じていることは少ない。だから潜在的苦痛といったのである。後で、その者に夜、どんな姿勢で寝るのか聞くと、どういうわけか、最初は仰向けで床に就いても、すぐ、横になって、丸くなって寝るか、うつ伏せになって寝るか、どちらかだと言う。やはり仰向けに寝ることを苦痛、とまでは感じていないようである。苦痛を感じて来る前に、横になるか、うつ伏せになるからであろう。そして眠りに落ちるからである。

 

猫背がある限り、仰向けでは居眠りに入れない。猫背には顕在的と潜在的がある。顕在的猫背とは一見して猫背と分かる姿勢である。

 潜在的猫背は、一見して分からない。猫背であるのに、無理して真っ直ぐな姿勢を保とうと努力して立ち居振舞いをしている人に多い。また、そっくり返って歩いている人も潜在的猫背である。猫背が極端になると額が地面に着いてしまう。そうならないように、そっくり返って歩いているのである。お年寄りに多い。

 

猫背は、背筋を真っ直ぐに伸ばすよう、努力して立ち居振舞いをしておれば治るというものではない。猫背は背中の筋肉だけの問題ではないからである。猫背は、脊椎のS字上のカーブの崩れがそうさせているのである。このカーブの崩れは、下向く、上向くの頚椎の角度、骨盤の前傾、後傾の角度が決めると思われる。

 

頚椎、骨盤の角度が変化した時、それに伴って固定された脊椎の猫背カーブは、容易に元に戻らない。頚椎、骨盤の骨格修復が必要になる。頚椎、骨盤の角度はどうして変化するのか。それは、猫背による生活習慣であろう。

痛みをこらえる。痛みをかばう、後ろ向きな思考、視線恐怖症。これらは皆、背をこごめておこなう。背中を丸くすることが、やがて脊柱の両端である、頚椎と骨盤(仙骨)の角度を変え、背中の丸さが戻らないようにロックしてしまうのではないか。

 

                                                 

 猫背について少し項を割いたのには訳がある。

 それは、治癒系の衰弱は猫背となって顕れるからである。背筋をしゃんと伸ばした病人はいない。老いることにも上手と下手があろう。下手に老いるということは、猫背になって老いてゆくことである。背骨は、その者の生命力、疾患の軽重を物語るのである。

 

 施療するにあたり、その者が猫背であるか否かを診ることは基本中の基本である。そのことに比べ、左右の脚の長さが違うなどということは枝葉末節である。この猫背を解消してやらない限り、次の治療に進めない。猫背はこの療法の突破口である。

 

 仰向けで操作して、居眠りに入らなかったら、頭上の真上に正座し、右手を、相手の首の付け根に差し入れ、指先でその付け根の部分を軽く斜め前方に押してみよう。受療者が起きあがりだしたら、左手を後頭骨に当てて支え、そのままどこまでも、どこまでも、受療者の起きあがりに従い、ついて行こう 。むろん、右手は首の付け根にあてたまま、左手は後頭骨に当てたままである。

 

(途中で止まった場合)

 途中で止まったら、左手はそのまま後頭骨にフイットさせ、右手の指先は、首の付け根から、背中のほうに移動させ、指先ではなく、手のひらで背骨の適当なあたりをフイットさせておこう。そして、しばらくじっとしていよう。

 両手はあくまでも軽く、添えているだけであって、決して、圧を加えて支えようとしてはいけない。時間にして1,2分ってところか。起きあがっている角度によっては4,5分ぐらいかかることもある。ちょっと予測がつかない。そのうち、腹筋の力で姿勢を保とうとするために体がブルブル震えてくる。

 

そうこうしているうちに、相手はゆっくりと後ろに倒れてくる。そうなったら、両方の手のひらで、頭の重さ、体の重さを感じながら、倒れるにまかせよう。この場合の両手は、先ほどと違って、ただ添えるのではなく、布団のほうに倒れてくるのを支えるようにし、そして、倒れてくるスピ−ドに合わせて手を布団のほうに下ろしてくる。表現を変えれば、倒れてくる体に抵抗を与えつつ、倒れるに任せるということになろう。

 

 倒れてくるスピードよりも早く手を降ろそうとすると、倒れかけていた体はそこで止まる。つまり、脊柱は、当てている両手を支点にして曲がったラインを伸ばそうとしているのである。手のひらに重み(抵抗)があるということは、そこが支点になっているということである。

 

 ここまで話したことは、すっかり起きあがらないで、途中で止まったケースの場合である。

 

(すっかり起き上がった場合)

 すっかり起きあがってしまった場合は、ちと違う。

 すっかり起きあがってしまった場合、起きあがった姿勢に対して、両手をフイットしていても、先ほどの例のように、倒れてくることはない。この場合、フイットしている両手で、そのまま前方に軽く圧してみよう。すると、その圧に対して、抵抗するかのように、後ろに倒れこんでくるか、そのまま前方に、前のめりになって行くかどちらかである。前者の場合、その後は、先ほどと同じである。倒れてくる体に抵抗を与えつつ、倒れるに任せて行こう。

 

 (そのまま、前方に前のめりになった場合)

そのまま、前方に前のめりになった場合、どこまでもどこまでも止まるまで、前のめりになるに任せよう。その場合、両手の前方に加える圧は、最初だけで、それがきっかけとなって、体がひとりでに前方に倒れようであったら、両手に圧は入れないで、ただ体に軽く触れているだけにしょう。しかし、体に軽く触れているだけでは、すぐとまってしまうようだったら、最初の手の圧を継続して体に加えて行こう。体がその圧に抵抗して後ろに倒れてくるまでその圧を継続して前のめりになるのを進行させよう。

 

体に加える圧は、最初だけで、あとは、ひとりでに体が前のめりになって行く場合、止まるまで、両手を体にフイットさせるだけにして、前のめりになってゆく体の動きに沿ってゆこう。そして体の動きが止まったら、両手で軽く圧を加えて、そのままじっと待っていよう。そうするとやがて後ろのほうに倒れかかって来る。その後は、先ほどと同じく、倒れてくる体に抵抗を与えつつ、倒れに任せて行こう。

 

 もうひとつ、極端な例がある。それは、布団から一旦起き上がり出したら、すっかり起きあがってもそのまま背中を直立させる(止まる)こともなく、前のめりになってうずくまってしまう場合である。無論、圧も加えないのにそうなってしまうのである。この場合、うずくまった姿勢に対して、やはり、後頭骨と、背中に軽い圧を加えてそのままじっとしていよう。やがて、後ろに倒れかかって来る。その後は、これまでとまったく同じである。

猫背は、骨格の前方偏向である。人の動きは、偏向している方向に動きやすい。例えば骨格が左回転に捻じれていれば、その者は、体をすぐ、左に回転したがり、その回転方向には特に機敏に応ずるであろう。首の付け根に指を当てただけで、抵抗なく起きあがったのは、骨格の前方偏向のためである。

     

 その者が、すぐ動きたがる動きを誘発することによって、その者の筋骨格系の偏向(ねじれ、ひずみ、ゆがみ)を瞬時に察知し、直ちにそれを修復することができる。 

 また、そのような動きを誘発することができなくても、その者の動きの前後差、左右差、上下差等を検査し、どちらが動きやすいか、その最も差異の著しい動きを他動的に行わせることによって、やはり修復がなし得る。

或る方向に『動きやすい』からこそ、その方向に『動きたがる』のである。両者の修復の原理はまったく同じである。機能的な『動きやすさ』に視点を置いた修復法に橋本啓三博士の『操体法』があり、無意識的に『動きたがる』に視点を置いているのが、現代の最も優れたオステオパス(オステオパシー医師)、ジョン・E・アプレジャーの提唱する『体性感情解放』である。前者と後者の違いは、他動的か自動的かのニュアンスの違いである。

 

 猫背解消のための幾つかのバリエーションを列挙したが、どの例にも共通した操作法があることに気づくであろう。それは、それほど大きな外力を加えることもないのに、おのずと始まった動きに対し、その動きが止まった時、軽く抵抗を与えるということである。そうすると、これまで動いてきた軌跡を、逆戻りし始めるということである。(操体法は逆戻りが始まったときを見計らって患者にポッと脱力させる。体性感情解放は、その始まった逆戻りに対してどこまでも抵抗し、阻止する。抵抗を瞬時加えて離すか、暫時加えているかの違いであるが原理は同一である)

 この原理の同一性は、偏向をさらに深めることによって、偏向を消去するということである。逆戻りに抵抗を加えるとは、偏向をさらに深めていることなのである。例えば、曲がった針金をさらに曲げることによって、もとの真っ直ぐな針金に戻すというのである。身体にとってそれは、奇異な感じがする。逆ではないかと。 そこが、物体と生身の身体との違いといえよう。 

 

 ここに、アルファベットのCの字型に曲がった、やや太目の針金があるとしよう。内から上下に伸ばそうとすると反発する。しかし、曲げを深めようと、上下に抵抗を加えると、素直に曲がってゆく。ここまでは身体も同じである。力は、偏向している方向に吸収されるのである。よって偏向は促進される。

 また、別の例をあげると、土の上に垂直に立てられた、棒の真上から、垂直の力を加えても棒は倒れない。しかし、斜めに立てられた棒の上から、垂直の力を加えれば、棒は容易に倒れる。垂直に加えられた力は動きたがる力として吸収され、動きたがる動きを促進するのである。この場合、棒の動きたがる動きとは、倒れたがっていることなのである。身体の一見、不思議に思える『動きたがる』動きも、こう考えると不思議でも何でもない。

 

 しかし、倒れた棒は、ひとりでに起きあがることはない。曲がった針金は、ひとりでに伸びることはない。ところが生身の体は、曲げられ、倒されても、そのまま抵抗を加えられていると、ひとりでに伸びて来たり、立ち上がって来たりするのである。この原理の説明は、幾つかあると思われるが、私は、橋本啓三博士の論、『抵抗を支点にして逆モーションが始まる』に与したい。そのためにも、動きの最後の停止姿勢に対し、どうしても抵抗が加えられることが必要なのだと思われる。

 

 

猫背解消のための三者三様のバリエーション、その動きの行き着くつくところは、極度の前方偏向の姿勢である。その姿勢に対し軽く抵抗を加え、その前方偏向の姿勢を、さらに一歩進めるようにじっと待っていると、これまで辿ってきた動きの軌跡を逆戻りしようとする。それに対し、抵抗を与えつつその逆戻りの動きに従う。そうすることによって骨格の前方偏向は解消し、その動きたがる動きは、とりあえず、お仕舞いになる。そして、次の操作に移行できる。

 

しかし、ここでもし、同じく抵抗を与えつつも、逆戻りに従わず、かえって逆戻りを阻止し続けていると、身体の中の、まだ他にもある、或る別の偏向(例えば、左右の捩れ等)を修復しょうという、新たな動きが現れてくる。そして、それにともない、半覚醒意識はさらに深まって来る。しかし、居眠りに移行することはない。

 深まった半覚醒意識は、潜在意識を呼び起こし、その身体の偏向の原因ともなっている心の傷を追体験させる。身体の開放が心の開放を促すのだ。その心の傷は本人も気づかないことが多い。これが、ジョン・E・アプレジャーの提唱する『体性感情解放』のテクニックである。しかし、ここではそこまで追求しない。なぜならこのノートは、初心者のために、手軽に、しかも専門家には引けを取らない、自動骨格修復術を身につけてもらうために書いたものだからである。

 

私の提唱する、居眠り時に骨格の修復を誘発させる、この療法と併用する療法のひとつに、今述べているアプレジャーの『体性感情解放』がある。しかし、それは最初の取っ掛かりだけを拝借するのであって、アプレジャーの本道に入ることは、今回は無い。今回は、入り口に入ったら、すぐ、わき道にそれる。それは、身体の偏向の動きを追いかけて行って、逆戻りし始めたら、それを阻止せず、その逆戻りに抵抗を加えつつ、その逆戻りに従うということである。それは、『体性感情開放』と橋本敬三博士の『操体法』の中間を行くやり方だともいえる。

 半覚醒意識の深まりを避けて、さっさと居眠りに入ろう。すると、まったく新しい分野が開けてくる。

 

 

仰臥で踵を上げさせドスンと落とし、全身の筋肉を弛緩させても、居眠りに移行しなかった場合、その者が猫背になっているだろうと予測しよう。この場合の猫背という意味は、かなり広い意味に使っている。腹痛をこらえると、背中を丸めてこらえる。そういう状況も、ここでは、猫背として扱う。体にストレスが加わると皆、猫背になる。ハードなデスクワーク、恐怖の対人関係、身構え、はりつめた生活をしている人、慢性痛を抱えている人、皆、猫背になる。へたに老いると猫背になる。

 猫背は、疾患を持っている者の、やむを得ない骨格偏向だと思って間違いない。これをまず解消するのが、施療の第一歩である。不眠症の人は、肩が、こんもり盛り上がって、ほとんど猫背である。そして肩こりを抱えている。猫背は体の偏向の、基本中の基本なのである。

                                                                         ノート目次 

      

                   胸椎〜後頭骨を支えて骨格修復を誘発しょう。

 相手は、再び床に就いた。猫背による体の緊張は取れているはずである。快い居眠りに誘われているはずだ。先ほど、やってみてうまくゆかなかった、実験の型をやってみよう。今度はうまく行くであろう。

 

両手首を胸の上に置きなおし、一方の手の手首をつかむと、相手の体全体がグタ―ッと弛緩しているのが分かるであろう。ゆっくり静かに静かに手首を手前に引いてくれば良い。面白いほど体が動くであろう。

 腰が左右に大きく揺すれたり、ビンビンと脚を蹴ったり、左右の肩が前後交互に揺すれたり、首がブルブル震えるように動いたり、何か食べ物を咀嚼しているかのように、顎が動いたりするであろう。これらは皆、身体の骨格修復が始まった生理現象なのである。

 

その実験の型が終わったら、次は後頭骨を支えて、新たな修復を誘発してみよう。 後頭骨とは、頭蓋を構成している七枚の頭蓋骨の一枚である。この後頭骨を支えることによって、全身の骨格を修復させようということなのである。

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実際の臨床は教科書通りに行かないことが多い

 

 猫背の修復が終わったら、実験の型に移らず、すぐ、後頭骨を支えた修復操作に入ったほうが、順序としては良い。なぜなら猫背の修復の途中、後頭骨を支えることがたびたびある。そうすると、相手の意識は後頭骨のほうに行きやすいからだ。操作の流れを変えることなく、スムーズに事が運べる。

 

 猫背修復を終え、相手が再び床に就いたら、そのまま、どちらか一方の手、例えば左手で、後頭骨を支え、右手の手のひらは、首の付け根のもう少し、腰方向に当てる。左右の肩甲骨の間ということになろう。

 後頭骨を、左手で枕の高さぐらいに浮かせると、右手をその辺りに滑り込ませることが出来る。右手の手の甲は床に密着することになる。この動作は相手の頭上に正座しておこなう。

 

 後頭骨を支えている左手を、軽く上下させると、右手の当てられている脊椎から後頭骨にかけて、一本の棒のように感じられる後頭骨の位置がある。あまり深く考える必要はない。そういう位置があるというよりも、軽く上下させながら、そういう位置を探していると、一本の棒のように感じられてくると考えたほうがいい。そう考えたほうが、操作が素直にできて、会得しやすい。

 

  後頭骨を支えている手と、もう一方の手との間の、脊椎のラインが、一本の棒のように感じられたら、そのままじっと待っていよう。やがて胸の上に置いた手の指がかすかに動いてきたかと思うと、やがて体の幾つかの部分がカクカク、ビクビク、ガクンガクンと動き始めるであろう。

 骨格修復が始まったら、後頭骨の位置を変えないよう、じっとしていよう。後頭骨を動かすと修復のポイントを移動させることになり、修復を中途半端なものにしてしまう。

 その位置での修復が終わったら(動きが止まったら)、再び後頭骨を軽く上下に移動させ、また、脊椎が一本の棒と感じられる処を探そう。その時、脊椎に当てている手を少し、頭方に移動させよう。つまり、後頭骨と、もう一方の手を当てている脊椎とのラインが、先ほどより短くなるライン上で、一本の棒となる後頭骨の位置を探そう。そして、その位置での修復が終わる毎に、順次、一本の棒となるラインを短くして行こう。そして、脊椎に当てている手が首の付け根まできたら、この、胸椎〜後頭骨を手のひらで支えることによる骨格修復を終えよう。

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                 後頭骨を支えて硬膜管を解放させよう

 

  左手で後頭骨を支え、肩甲骨間の椎骨に右手を当てて、椎骨の修復が終わったら、今度は、別の部位から、椎骨と硬膜管、特に硬膜管の修復をしてみよう。操作を施す入り口となる部位が変わると、先ほどとは違った部位の修復、及び違った動きが出てくる。

 ここで、硬膜管という耳慣れぬ組織用語(解剖学では、硬膜という)が出てきたが、端的に説明すると、自転車のタイヤの中にチューブがあるように、脊柱の中にもチューブのようなものがあるということである。もちろん、脊柱は自転車のタイヤのように輪ではない。むしろチューブごとタイヤを切断した一本の棒のようなものである。

硬膜管とは、そのタイヤの中を走っているチューブの様なものである。脊柱はトンネルのような空洞になっており、その空洞の直径にフイットするような形で、硬膜管という管が走っており、その硬膜管の中には、脊髄神経の束が走っている。硬膜管の下端は仙骨に付着し、上端は管が、ラッパのように広がり、膜となって後頭骨を始め頭蓋骨の内側を覆っている。頭蓋骨と硬膜管は、鶏卵とその内側に張り付いている薄膜のように切っても切れない関係にある。

硬膜管が蛇行すると脊柱も蛇行する。逆もしかりである。脊柱の修復と言っても、治療のイメージをその内側にある硬膜に置くことによって、治療の深さは格段に違ってくる。この項の操作法は、硬膜管の修復ということになる。

このノートの第三章に『イメージとしての硬膜菅』という項が設けられてあるから、硬膜管の概念がつかめなかったら、先にその項を読んでから、再びここに戻って来たら良いかもしれない。

 

 新たに操作を開始する部位とは、頭蓋の一部を形成している後頭骨である。先ほどは後頭骨と、肩甲骨の間(胸椎)であったが、今度は、後頭骨のみに限る。操作方法も微妙に異なる。だから、新たな部位と考える。操作方法は、両手の指先で後頭骨を支えることである。先ほどと少し似ているのであるが、ちょっと操作方法を変えるだけで、同じ硬膜管や、椎骨をメインにした操作方法であっても、全く違った動きが出てくる。

 両手の指先を鼎のように立てて後頭骨を支える(姿位の整体の案内で一番最初に述べたこと、支える指の写真を思いおこしてほしい)。先ほどは手の平で支えたのであるが、今度は指先である。このわずかな違いが、硬膜管と椎骨に新たな照準を与えることになる。

 

 

 後頭骨を指先で支える手順なのであるが、まず、両手を後頭骨の両サイドから後頭骨の下に滑り込ませ、手の甲は床に密着したまま、指先を鼎のように立てる(右写真参照)。その時、肘と手首(もしくは手の甲)のどちらかが、床に着いていることが必須条件である。

 

 

 

 要するに、後頭骨の重さを受ける支点が手首になるか、肘になるか、ともかく、後頭骨を指先だけで浮かすようにしてはいけない。支点が必要なのである。手首を床に密着させて手首を支点にするか、肘を立てて肘を支点にするか、どちらかになる。

 両方の指先を鼎のように立てて後頭骨支えていると、硬膜管が蛇行し始めるのが、指先に伝わってくる。その伝わってくる感覚というのは、譬えて言えばこうである。

 うなぎが水槽の中で、鼻を水槽の壁に押しつけて、身をくねらせている光景である。いかにも楽しそうであるが、水槽から逃げたがっているだけなのかもしれない。どちらかというと、子供のウナギがよくそういうことをやっているのをウナギ屋で見かけるが、その光景に似ている。水槽の壁を手の平と仮定し(実際は指先なのだが、比喩的に考えて)、手の平にウナギが鼻を押し付けて、ゆらゆらと身をくねらせて泳いでいると仮定しよう。手の平には蛇行のベクトルが、左へ、右へと伝わってくるはずである。そのように後頭骨を支えている指先に硬膜管が蛇行するベクトルが伝わってくる。

 

 なぜ硬膜管が蛇行するのだろう。それは、硬膜管が蛇行しているからである。蛇行しているから、その蛇行をさらに深めることによって、蛇行を解消しようとしているのである。前述した、偏向を深めることによって偏向を取り除くという身体の生理現象を思い起こしてほしい。

譬えは的確ではないかもしれないが、もつれた紐を束ねて、川の流れの中で、左右に揺すり、なんべんも蛇行させると、紐のもつれが取れて、紐が一本一本まっすぐになってくる。そんなことにも似ていようか。

 

 硬膜管の蛇行が、後頭骨を支えている指先に伝ってきたら、指先をそのベクトルが伝わってくる方向に対して、カウンター(抵抗)を与えてみよう。蛇行のベクトルが左の方へ向かってきたら、右の方へカウンターを与え、右の方へ向かってきたら、左の方へカウンターを与えてみよう。そうすればそのつど、ガクッ、ガクッと椎骨が動き、脊椎関節の修復が行われる。そして、椎骨が硬膜管をロックしているところが、はずれる。

 

 硬膜管が蛇行し始めると、後頭骨(この場合、頭部全体ということになる)はどうしても左右に揺すれることになる。それに対して、指先で軽く抵抗を加えて、後頭骨の揺すれを止めてみる。すると硬膜管が逆モーションの蛇行をし始め、それにより、椎骨や、関節が修復されることになる。

 後頭骨の揺すれを止めないで、動きにしたがって指を追従させると、頭部全体が左右に振り子のように動くことになる。これも硬膜管の一種の修復であるが、修復というよりも、硬膜管を弛緩させるという要素が強い。

 

両者をミックスさせた方がよいであろう。最初は。硬膜管を弛緩させるために、硬膜管の蛇行のベクトルに合わせて、指を追従させ、その動きが大きくなってきて、リズムに乗ってきたと感じられたら、ベクトルにカウンターを与えて、椎骨、関節の修復を誘発させてやる。この手順が最も効果的であろう。慣れてくると、そんなことを意識せずともおのずとそんなことをやっている。

 

 これで、居眠りしながらの、骨格修復を誘発する操作は終わった。操作により、体がどう改善したか、調べてみよう。何を物指しとして、施療前、施療後の違いを知るか。いろいろあろう。例えば、両脚の長さが揃ったとか、肩の高さが水平になったとか、脊柱の蛇行が無くなったとか、外見からその違いを検査するのも一つの方法である。しかし、ここでは、体幹の中枢がどう変化したかで、施療後の改善を知ろう。

 体幹の中枢とは、脊柱である。しかし、脊柱を外見からだけ見たって、その中がどうなっているか分からない。脊柱の中には、硬膜管が走っている。この硬膜管がどうなったかを検査することが、体幹の中枢を検分することである。

以下に述べる検査方法は、脊柱の中がどうなっているかを知るのに、最もシンプルで、正確な方法である。

 

 後頭骨を両方の手のひらで支え(手の甲は床に密着している)、頭頂から尾骨にかけて一本の、自転車のチューブが一直線に伸びていると仮想しよう。それを両の手のひらで、頭頂の方にきわめて軽く、まるで噛んだチュウインガムを、切れないように延ばすつもりで引いてみよう。

 引いてみて、頭頂から尾骨の間がまるで噛んだチュウインガムのように延びてくるような感覚を感じたら、今日の治療で、為すべき事は為した!と思って良い。患者さんがなんと言おうと、体は改善されたと胸を張って言える。硬膜管に、噛んだチュウインガムが延びるようなものを感じたということは、硬膜管のロックしていたところがはずれたということであり、今日という日の範囲内での修復は達成されたからである。

しかし、頭頂から尾骨にかけて、ところどころ、引っ掛かりを感じて伸びて来ず、手に綱引きのような抵抗感を感じたら、そこが今日の骨格修復で、すっかり修復し切れなかった脊柱の箇所だと考えよう。そして、そこを次回、修復することにねらいを定めて、やはり今日はこれで終えよう。症状の重いものは、一度に100%改善することは出来ないのである。

最初は全く、硬膜管が伸びて来なかったはずだ。その感覚の違いを施療後に知るためにも、施療に入る前に、後頭骨の下に両手を入れ、軽く、頚椎を支えて、その伸び、突っ張りの感覚を頭の中にインプットしておこう。

この検査法は、一番短時間で済み、なにより、体幹の一番深い部分の変化を知ることができる。

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補足操作、頚椎一番の回旋偏向修復の必要性

 

胸椎〜後頭骨間の操作を終え、後頭骨を支点とした硬膜管の修復に移る直前に、頚椎一番の回旋偏向を修復した方がよい場合がある。それは、胸椎〜後頭骨間の操作段階で、十分に居眠り状態に入っておれば、次の後頭骨を支点とした硬膜管の修復操作の途上で、頚椎一番の偏向は自動的に修復され、それによる硬膜管のロックが解除される場合がほとんどなのであるが、半覚醒状態が十分でなく、覚醒と半覚醒の間を行ったり来たりしているような場合、そのことを期待するには少し無理がある。つまり、この方法でもなお、半覚醒状態に入りきれないのは、頚椎一番の偏向がかなりひどいからである。そうなると、次の段階である後頭骨を支点とした、硬膜管の蛇行を修復するということも十分果たせなくなってくる。

椎骨の回旋偏向とは、簡単に言えば、捻転のことである。頚椎一番が右に回旋偏向している場合、『頚椎一番は、右に捻転している』と一般的に言う。以下、回旋偏向という七面倒くさい字面は捻転のイメージで読んでいただきたい。

  ただ、ここでなぜ、頚椎一番に限るのかという疑問が生じてくる。それは、重要である。このノートのクライマックスといってよい。この疑問が解けなかったら、焦点にすべきものがないということになり、『手技研』も『姿位の整体』も何の意味もない。

頚椎一番の偏向については、『第三章 テクニックに必要な概念』の最後の項に『硬膜管の捩れと環椎後頭関節』を設け、そこに詳細してある。そこを先に読んで、頚椎一番の修復の必要性を理解したうえで、テクニックを練習すべきであろう。

  頚椎一番は、体幹の捩じれの是正を、誰にもしられず、こっそりと実行している無表情な頚椎である。時効になっても、かっての密使を未だに遂行しているといういやな奴である。頑なに昔日の体幹の捩れの是正に固執している。その是正が身体を蝕んでいるということが彼にはわからない。やむをえまい。彼の働きで、それ以上に体幹が捩れるのを防いでいるともいえるからだ。しかし、それは、オーバリミットになったまま関節が錆び付いていることにも等しい。時々オーバホールしてやらねばならない。それが、四足歩行から二本足歩行に進化した人類に必要なメンテナンスである。おかげで、『手技研』、『姿位の整体』の存在理由ができる。車に定期点検が必要なように、頚椎一番のメンテナンスが必要なのである。

 

                                                                          ノート目次           

                         頚椎二番の位置を知ろう

 

 これから、頚椎一番の回旋偏向を修復する操作に入ってゆくのだが、その先にまず、頚椎二番がどこに位置しているか知らねばならない。というのは、頚椎の回旋偏向の概念とは、その直下の椎骨に対して言える概念だからである。頚椎一番は、頚椎二番に対して回旋偏向していることになる。というわけで、頚椎一番の位置と其の回旋方向を知るために、まず、頚椎二番の位置とその回旋方向を知らねばならない。しかし、位置はともかく、回旋方向は知る必要がないのではと言われるかもしれない。頚椎一番の回旋方向が、何か頚椎二番の回旋方向と関係あるのか?と。しかり、関係あるのである。頚椎一番は、一般的に頚椎二番に対して逆回旋しているのである(これは、頚椎一番、二番に限ったことではなく、関節というものの原理であると認識しておかねばならない。原理であるからすべてのどんな関節にも通用する。つまり関節は捻り合うようにして偏向するということである蝶番の開閉の原理である。一方が閉じれば、もう一方も閉じ、一方が開けばもう一方も開くという関係である)。

したがって、頚椎二番の回旋方向が掴めたら、頚椎一番の回旋方向が掴めたも同然なのである。(しかし、時には例外があるということはいつの場合でも忘れてはならない)

 

この二つの事柄は、いずれも触手で知らねばならない。

 受療者は仰向けになっている。操作しやすいように、受療者の背中の部分に図のようにクッションを敷いた方が良い。後頭骨を床から浮かせて操作するのに都合がいいからである。

 施療者は、頭上に正座し、頭蓋下部を両手の手根部で支える。両手の指は伸ばす。すると、両手の指先が、首と肩の付け根あたりに触れることになる。その付け根で、ゴツッと指先に感じるのが、頚椎七番の棘突起である。頚椎七番の棘突起は、他の椎骨のそれに比べてかなり大きいため、指先にすぐそのように感ぜられるのである。棘突起に触れることにより、頚椎七番であることを知ることになる。

 そのように感じたら、今度は、そのまま指先をこごめて行こう。すると指先は自ずと、首の正中線(身体を縦に真っ二つに割って、身体の真ん中を上下に走っていると仮想できる線、解剖用語)上をなぞることになる。そのままずーっと、頭蓋方向になぞってゆくと、再びゴツッと指先に感ぜられるのがある。それが頚椎二番の棘突起である。頚椎二番も、頚椎七番と同じく棘突起が他の椎骨と比べて大きいため、指先にそのように感ぜられるのである。頚椎二番も七番と同じく、突出した棘突起に触れることにより、頚椎二番であることを知る。

 

  ここまでの手順は、頚椎二番の位置を確認してゆくまでのものである。頚椎七番とセットにして頚椎二番の位置を確認することには、それなりの意義がある。いずれも棘突起が、他の頚椎に比べて大きいということは、他の頚椎に比べて稼動域のジャンルに相関関係があるからであり、この両者を触れることにより、頚椎全体の歪みの動向を瞬時に判別することになる。

  ちなみに、頚椎は、合計七個あり、後頭骨下から数えて、順番に一番、二番…そして最後は、七番というように名称がつけられてある。

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 頚椎二番の回旋偏向の判別法

  

こごめた指先に頚椎二番の棘突起が感ぜられたら、左右の中指だけで棘突起を触れ直し、棘突起に触れている左右の中指の先端を起点にして、中指と手掌を伸ばそう。すると頭蓋下部を支えていた手根部は自ずと、尺取虫が伸びるように、頭蓋の上部の方に移動することになる。そうなると、頭蓋上部から頚椎二番辺りまで、手根、手掌、中指で安定よく支えることになる。これにより、これからの修復操作がしやすくなる。しかし、手掌部で首の皮膚を圧着しないよう、気をつけねばならない。不用意に頭蓋直下から耳の下部辺りを圧迫すると、吐き気を起こしたり、目眩を起こしたりする場合があるからである。ここは、人によっては過敏なところであるので、扱いに気を付けよう。

 伸ばした左右の中指だけで、その棘突起を支えるようにして、頭蓋を左右いずれかに回転させてみよう。しかし、その時点であっても、手根部がこれまでと同じく頭蓋を支えていることに変わりはない。

 左右の中指だけでその棘突起を支えるようにして、頭蓋を回転させるとは、顔が少しのけぞることになる。別の言い方をすれば、その棘突起を基点にして、そこから少し首を折ることになる。つまり、頚椎二番は頚椎三番を境にして後方に少し折れることになるのである。そのようにして頭蓋を回転させると、頚椎二番の左右の回転量の差が判別できる。もし仮に、右回転させると、どこまでも回転してゆくように感ぜられる場合、その逆の左回転は、あまり回転しない。この場合、頚椎二番は右方向に回旋偏向(過回旋)していると判断出来る。簡単に言えば、頚椎二番は、右方向に捻転しているのである。

 

 慣れてくるとそうでもないのだが、最初のうちは、左右の回転量の差がつかめにくい。左右とも同程度に回転しているとしか感じられない。それは、純粋に頚椎二番だけの回転領域を、技として設定できないからである。他の頚椎、例えば三番、四番も、頚椎二番の回転領域に参加させて、それを頚椎二番の回転領域と感じてしまうためである(これは、左右の中指で頚椎二番の棘突起を支えるということが、頚椎二番の固定、及び頚椎二番を基点とした頭蓋の回旋につながっていないためである)。

 この錯覚から逃れるには、頚椎二番の回旋偏向を、中指で直に触れて確かめるしかない。その判別法をこれから述べる。

 

 左右の中指だけで、頚椎二番の棘突起を支えるようにして、頭蓋を回転させるとする。まず右方向に回転させてみよう。すると左の中指の先端から側腹部にかけて、筋肉の柔らかさではなく、骨に当たるような感触を感じて来るはずである。反対に左方向に回転させてみると、同じように右中指の先端から側腹にかけて、同じような感触を感じて来る。これは、頚椎二番の横突起と呼ばれるものである。左中指に感じるものは、左横突起であり、右中指に感じるものは右横突起である。

 頚椎二番が回旋偏向しておれば、両中指に触れた左右の横突起の触感に硬軟の差が必ず生じる。一方は石ころのようなゴツッとした抵抗感(衝撃感)を示す固さ、一方は消しゴムにでも触れるようなクニャッとした抵抗感のない柔らかさ。回旋偏向しておれば、左右差がこのように感ぜられる。そして、消しゴムにでも触れるような、クニャッとした柔らかさを感じる横突起の回旋方向に、頚椎二番は回旋偏向しているのである。例えば頚椎二番を右回旋させて、左中指の先端から側腹部にかけて左横突起の感触が、消しゴムにでも触れるようなクニャッとしたものであった場合、その頚椎二番は、右方向に回旋偏向していると判断出来る。

 それはなぜかというと、例えばその頚椎二番が、右回旋偏向しているとすれば、それは普通以上に、どこまでもどこまでも右回旋したがっているのである。したがって、その頚椎二番を右回旋させて、その横突起に中指が触れたということは、その回旋偏向をさらに推し進める形で触れたことであるから、言い換えれば、行きたがっている方向に、追い風という指の当たり具合なのであるから、その横突起さんは、その中指君に抵抗することはないのである。『どこまでも追いかけて来ていいのよ、私もどんどん行きたいのだから…』ってな調子なのである。

 逆の場合を考えて見よう。

 逆の場合とは、回旋偏向している方向と反対の方向に頚椎二番を回旋させた場合である。当然その頚椎は、回旋したくない方向に、回旋させられるのであるから、『こん畜生!なんてことをしてくれるんだ、俺はもうこれ以上、回旋したくないんだ!テメエぶっ殺すぞ!』ってなわけで、その激憤が、横突起にゴツッとした石ころのような抵抗感として感ぜられるのである。偏向方向のベクトルと、中指が回旋させようとしている方向のベクトルとが正面衝突するからである。

 例えば、棘突起の両側面を左右の中指で支え、左方向に頭蓋を回転させたとき、右の中指に右の横突起が石ころのようにゴツッと感ぜられたら、その頚椎は、今、左回旋させたのとは逆の、右回旋方向に回旋偏向していると判断出来る。つまり、左回旋方向には、回旋量が少なく、右回旋方向に回旋量が多すぎるのである。

 

 回旋の偏向が指に伝わる感触は、金太郎飴の金太郎のようにワンパターンである。迷うことはない。安心だ。偏向方向に逆らう方向で指を当ててゆくと、ゴツッとした石ころに触れるように感じ、偏向方向に追従する方向で指を当てると、消しゴムにでも触れるようなクニャッとした抵抗感のない感触。

  この判別法は、頚椎二番だけでなく、全ての椎骨、すべての骨格関節(骨盤であれ、足関節であれ)に言えることである。回旋する椎骨であるなら、左右回旋させながら指で触れ、回旋しない椎骨なら、左右対称的に指で触れ、この硬軟の差を見定めることである。             

 石ころのようなゴツッとした固さ、消しゴムのようなクニャッとした柔らかさ、これらも、全ての椎骨、及び全ての関節の偏向を判別するための、一貫した感触である。この感触は、手技療法をする者にとっては、必須のアイテムである。

                                                                        ノート目次              

 

                    頚椎一番の回旋偏向の判別法

 

頚椎二番の回旋偏向が判別できたら、次に頚椎一番の回旋方向を判別せねばならない。

 しかし、頚椎一番は触手で確認するには、どこにあるのかほとんど分からない。 分からないのは当たり前である。なぜなら、骨格構造上、頚椎一番そのものが、頭蓋骨の縁に覆いかぶせられていて、その片鱗すら体表から触手できないからである。それは、骨格形状致し方のないことである。しかし、どういうわけか、頚椎一番が変位している者に限って、頚椎一番の横突起を仰臥姿勢のとき、その者の両耳の直下に指で触れることができる。棘突起はどうかとなるが、頚椎一番には棘突起そのものがない。つまり、頚椎二番や七番のように、ゴツッとした手応えを感じさせるものが頚椎一番にはないのである。しかし幸いにして、頚椎一番の横突起が他の頚椎に比べかなり長いため、仰臥姿勢のとき、横突起が両耳の直下、つまり乳様突起と下顎骨の間に顔を覗かせる。しかし、これも程度問題で、頚椎一番の変位の大きいものは分かりやすく、指で直接触れることができるが、そうでないものは、頭蓋骨を支える筋肉の下に隠れて、その筋肉の硬軟を通してしか感触されない。それでも、まったく触れられないよりましである。

いずれにしても頚椎一番の横突起を触手できたら、その偏向方向の判別方法は、頚椎二番のそれとほぼ同じである。ただ、二番と違うところはクニャッとゴツッとの感触を得るための両中指の位置が、二番の横突起ではなく、後頭骨下縁であるということである。つまり、後頭骨下縁に両中指の腹を当て、後頭骨をテコにして、頚椎一番を左右に回旋させ、クニャッとゴツッとの感触を得るということなのである。

こうなってくると、先ほど述べた一番の横突起が乳様突起と下顎骨の間に顔を覗かせているという情報はあまり意味をなさなくなってくる。その通りだが、それはそれで付随的情報として、ないがしろにできないものである。左右のいずれの側に頚椎一番の横突起が顔を覗かせているかということは、頚椎一番の変位の状態を知る上で大変な情報になる。

 メインは、後頭骨をテコとして、クニャッとゴツッの感触を得ることである。頚椎二番と違って、直接頚椎一番の横突起に触れることができない、ましてや、横突起の先端が耳の直下に顔をのぞかせていない場合、どこに頚椎一番の横突起があるのか皆目見当がつかない。それは、イメージでやるしかない。乳様突起のこの辺りに頚椎一番の横突起があるはずだと想像して操作を行うのだ。頚椎二番の偏向方向の感覚、クニャッと、ゴツッ。この感覚がものにできておれば、どうってことはない。少しアベレージが上がっただけだと思えばよい。

クニャッとゴツッ。この感覚は、二番のそれに比べ非常にかすかにしか感じられない。頚椎一番の横突起は、直接ではなく、頭蓋骨を通てでしか、指に感触できないからである。この時、触手感覚がものをいう。

 

 ここまで読まれて、『俺にはどだい無理だ。俺は昔から鈍感で不器用ときている』と、このノートを投げ出したくなったかも知れない。

 ところがである。頚椎一番の回旋偏向方向は、頚椎二番のそれが分れば、誰にでも分かるのである。前述したように、これは頚椎一番に限ったことではなくすべての関節にいえることであるが、すべての椎骨は、直下の椎骨に対して、逆回旋偏向するという関節の一般法則があるのである。それは前述したように、関節とは、構造上、そうならざるを得ないからである。

というわけで、もし仮に頚椎二番が右回旋偏向しておれば、頚椎一番は、左回旋偏向しているということになる。頚椎二番の回旋偏向を知れば、いちいち頚椎一番の回旋偏向を調べる必要はないわけだ。しかし、指先の感覚を磨くためにも、また、例外のない法則はないという鉄則を知るためにも、その都度、頚椎一番の位置と回旋偏向を指先で確かめる癖を身につけておいたほうがいい。そういう微妙なところを手探りすることによって、頚椎二番、頚椎一番、そして後頭骨の、この三者の捩じれの度合い、その連結状況が、目に見えるように掴めてくるからだ。

操作が終わったら、この三者の関係はどう変化したか見定める必要がある。操作がうまくいったか行かなかったかのバロメータになる。この三者は、体幹の捩じれを是正する上で非常に重要である。詳細は『第三章』を参照されたい。

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                 頚椎一番の回旋偏向の修復法1 『間接法』

 

 頚椎一番の回旋偏向が分かったら、その修復方法の手順を説明する。

 骨格修復の基本は、猫背修復の項で述べたように、偏向をさらに推し進めることにある。偏向を限界まで推し進めると、逆モーションが起こって偏向が消失するということを説明した。今の場合、頚椎一番と二番は、互いにタオルを絞るように偏向し合っているのであるから、ますますタオルを絞るように操作してゆけばよいのである。

 

 タオルを絞る時、左右の手のうち、どちら側が、手前に来るであろうか。右利き、左利きによっても違うし、右ひねり、左ひねりによっても違うはずである。そういった事を勘案し、タオルを絞る時、前方に行く手の親指と中指とで、頚椎二番の左右の横突起(頚椎二番の棘突起の1横指頭蓋骨寄り辺りになる)を包み込み、手前に来る方の手で頭蓋骨を支えることをするのである。頭蓋骨を支えながら頭蓋骨を回旋させることによって頚椎一番を回旋させるのである。直接頚椎一番に触手して回旋させるのではない(それは骨格形状の上でできない)。頭蓋骨をテコとして使うのである。そうすることによって、頚椎一番の回旋偏向をいっそう進めることを図るのである。右ひねり、左ひねりによっても、得て不得手が生じるから、やりやすい手の使い方で行った方がいい。

 前方に行く手の親指と中指とで包み込んだ頚椎二番の左右の横突起は、動かさない。つまり、実際のタオルを絞る時は、左右の手が同時に正反対の回旋を行うが、この場合は、前方に行く手が動かずに、手前に来る手だけが回旋の動きをすることになる。頚椎一番は、頚椎二番の上で、回旋偏向を深めることになる。頚椎二番はあくまでも頚椎一番の支点なのである。

 

頚椎二番の左右の横突起を包み込む親指と中指は、軽く皮膚にフィットするようなかたちで包み込む。ぎゅうっと首を掴むようにはしない。軽く皮膚に指をフィットさせるだけで、頚椎二番は固定される。つまり動かなくなる。

 

 頭蓋骨を支え回旋させる時、まず最初、頚椎二番の左右の横突起が分岐点となるように首を後方に少し折らねばならない。つまり、首は、頚椎二番の左右の横突起を境にして少しのけぞることになる。少しのけぞらせながら、頭蓋骨を回旋させるのである。そうしないと、頚椎一番だけを回旋させようと思っているのに、頚椎二番をも回旋させることになり、頚椎一番の回旋偏向は修復されない。これと同じ要領は、頚椎二番の回旋偏向を判別する時の操作法で述べてある。先の項に戻って参照されたい。

 

頭蓋骨を通して頚椎一番はどの程度まで、回旋させるのかが問題になる。軽く回旋させて首の回旋が止まるところまでである。限界まで一度にぎゅうと回旋させるのだと思ってはいけない。実際は限界まで回旋させるのであるが、最初からいきなりそうするのではなく、筋肉が緩むのに応じて徐々に限界まで回旋してゆくことになる(最初から筋肉のゆるんでいる者は、二段構えの必要はない。ここはケースバイケースということになる)。具合のいい水道の蛇口は、軽く捻るだけで水が止まる。最初、回旋した首が止まる位置もそういう感覚である。

 

 回旋した首が止まる位置まで来たら、そのまましばらくじっとしていよう。しかしただじっとしているのではない。首の回旋方向にほんのわずかな回旋力を、頭蓋骨を支えている手で加えておかなければならない。わずかな回旋力とはどのくらいの力かというと、約1グラム、つまり一円玉ぐらいの重さの力である。しかし、これでは何も力を加えないのに等しい。そうだ、そのとおりなのである。たてまえは、ほんの少し力をくわえることになるのだが、実際は加えようという意思だけで十分なのである。下手に1グラムの力を加えようと思ったら、大変なことになる。名人以外1グラムの力を加えることはできない。たいていは20〜40グラムぐらい加えてしまう。頚椎に痛みを起こす。私もこんなことは書かなければ良かったと思っている。しかし、間接法の原理は伝えねばならない。問題は意思だけなのである。加えようという意思だけで十分1グラムの力は加わるのである。これがオステオパシーの間接法の極意である。

回旋した首が止まる位置まで来たら、そのまましばらくじっとしていなければならない。これは鉄則である。ゆめゆめ、ここで1グラムの力を加えて修復を成功させようと思ってはいけない。

確かに、動きが止まったところで、さらに1グラムの圧をくわえ、つまりそのことによって回旋偏向をさらに深めることによって逆モーションを起こさせ、それにより偏向の修復を成させるのであるが、これはあくまでも理論である。特に頚椎の場合は気をつけなければならない。1グラムの力は加えようと思うだけで実際に加えなくても加わるのである。

猫背修復の項でも、1グラムの力を加えると述べてあるが、それも1グラムの力を加えるという意思だけなのである。ただ、その場面では特にそれにこだわらなかったのは、猫背修復の場合、少々力が余計に加わっても痛みが来ないからであり、少々力が加わったほうが、猫背修復の場合、逆モーションが起きやすいからである。しかし、動きが止まったところから1グラムの加圧は間接法の基本概念として頭に入れておいてほしい。ケースバイケースで、意思だけの場合もあれば、実際に1グラムを目論むこともある。くどいかも知れぬが、意思だけでその意思が手のひらと指先に伝わり、そこに約1グラムの圧が生じるのである。

 

 首の回旋が止まったところで、さらに回旋させようという意思を起こしたまま、じっとしていると、筋肉が緩んでくるに従い、首が新たに回旋をし始める。それに追従するようなかたちで、頭蓋骨を回旋させてゆこう。すると限界にたどり着き、首の回旋は止まる。ここをもって頚椎一番の姿位設定は完了することになる。

 そのまま頭蓋を回旋させようという意思を持ちこたえたままじっとしていると、その間、約90秒。頚椎二番の左右の横突起の少し後頭骨寄り辺りに、ドドドドドド…という血流の拍動が感じられるはずだ。頚椎一番に限らず、関節が正しい位置に収まった時、毛細血管に多量の血液が運ばれ、それが拍動となって現れるのだと思われる。これは、目的の関節が、正しい位置に収まったぞというシグナルなのである。このシグナルをもって、頚椎一番の修復操作は成功したことになる。

 ドドドドド…という拍動が始まったら、その拍動を静かに感じていよう。そしてその拍動が終わったら、頭蓋の回旋を元に戻し、顔を真正面の位置にし、後頭骨に左右の指先を鼎のようにして当て、肘か手の甲を床に着けて、頭蓋骨を支えよう。そして次の操作に移ろう。

 

 この頚椎一番の修復法こそ、オステオパシーでいう『間接法』のテクニックである。しかし、このテクニックは穏やかな方法だからと言って侮れない。手指感覚の鋭さが要求されるのであって、設定の照準をピタッと合わせられるまでになるには、それなりの訓練が必要である。ピタッと合った時のみ、拍動がやってくる。それは短兵急にやってくる。拍動が来なかったからと言って、やり直すのは無駄である。チャレンジ精神は買うが、熱意だけでは、相手は振り向いてくれない。やはり切れのいい技が物を言うのだ。

 なぜやり直すのが無駄かというと、一旦動いた骨は、当分の間動かないという頑固親父のハートが頭をもたげ、その椎骨は不機嫌になる。そして、自ら修復の動きを止めるからである。

                                                                ノート目次  

 

第三章  テクニックに必要な概念

            ―身体のメージ化―

 

 

                 頚椎一番の回旋偏向の修復法2

『頚椎全体の偏向を深めることによるバリエーション』

 

オステオパシーの間接法は凄いが、初心者向きではない。そうやすやすとこの神秘にも似た拍動を呼び寄せることはできない。神秘の拍動がなかった時、あなたのバツの悪さを救ってくれるのがこの手技における独自の姿位設定である。これは、この神秘を会得するまでの臨床的つなぎとも言える。

 

  頚椎一番が正しい位置に入ったぞというシグナル、つまり、頚椎一番の偏向が消失したぞというシグナルが感ぜられるのは、頚椎一番の姿位設定を終えてから、最低約90秒経過後である。これは、頚椎一番の姿位設定が非常にうまくいった場合である。この約90秒は、関節が正しい位置に入るための最低必要な時間といわれている。骨がA点からB点に移行するのに約90秒の生理時間を必要とするというわけである。

 しかし、これは姿位設定がドンピシャリと、うまくいった場合のことであって、マイナーな姿位設定の場合、こんなドラマチックなことは起こらない。この後、何分待とうと、ドドドドド…という拍動はやってこない。ウンともスンとも言わないのである。しかし、ここで早まってはいけない。あなたはまだ見捨てられていないのである。

 

 拍動がやってこなくても、受療者が苦痛を催さない限り、頚椎一番の回旋偏向は、修復の経過中にあると考えてよい。しかし、その修復の経過とは、オステオパシーの『間接法』とは違う要素に移行している最中のものであると理解して欲しい。拍動がやって来なかったかぎりにおいて、間接法は水泡として消えたのである。無念かも知れぬ。しかし、これまでの操作は無駄骨ではないのだ。平泉に消えた義経は、蒙古で、ジンギス汗となって蘇る?

  マイナーな設定により、受療者が苦痛を催しているか否かを見定めることは、これからのこの操作において非常に重要である。

 もし仮に、顔をしかめているような場合、腕にしびれが来ると言うような場合、頭蓋が意図する方向に回旋してくれないような場合等、何か違和を感じたら、即、操作を中断し、頭蓋を仰向け状態にもどそう。そのまま操作を続けるのは絶対にいけない。症状をより悪化せることにもなりかねない。

 頚椎一番の姿位設定を、全く逆の設定にしているか、ぞんざいな扱いのため、重要なポイントを外しているか、力を入れすぎていないか、それらのことが考えられる。頚椎二番の回旋偏向をもう一度確認し直してから、再度、頚椎一番の姿位設定をやろう。

 

 しかし、90秒経過して、拍動がやって来ずとも、受療者が心地よさそうであったら、頚椎一番の回旋偏向を更に深める意思をもったまま頭蓋を支えていよう。姿位設定はピタッと照準が合っていなくとも、大筋の方向としては、身体に良い作用をもたらしている。そのまま2、3分経過してもよい。その間、頚椎一番は、どんどん修復されてゆくはずだからである。もちろん『間接法』とは違う別の要素によってである。

 修復されているのになぜ、拍動がやって来ないのかと疑問が生じるが、それは、頚椎一番と二番との姿位設定がドンピシャリといかず、別の要素によって修復が行われているため、修復が緩慢にしか行われないからである。そのため、毛細血管にやってくる血流も緩慢なため、拍動をおびないのだと考えられる。逆に考えれば、オステオパシーの『間接法』はそれだけ凄いのだといえる。

 

  拍動がやって来ずとも、頭蓋を回旋させたまま、本当に2、3分経過してもよいのか、身体に変調を来たすことはないのかと心配されるかもしれない。その心配はいらない。なぜなら受療者が心地良く感じている限り、その設定は、身体に良い作用を及ぼしていることに間違いないからである。

 

 身体の動きやすい方向、身体の動きたがる方向、それは身体の偏向している方向であり、その偏向を更に深めることによって、その偏向は消失する。その時、身体は『快』の感覚を伴う。言い換えれば、身体は、快の感覚を求めるがゆえに、動きやすい方向、動きたがる方向に動くのだと言える。